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(著者抄録)
労働関係一つとってみても,国が関与しなければ解決困難な(あるいはより良く解決できる)諸問題(政策課題)が日常的に生起している。これらに対しては,一般には,既存の法令に基づく通常の行政施策および予算措置で対応されているが,ときにはそれらによっては対応しきれないこともある。そのような場合に,政策実現の一つの方法として法律の制定,改正が行われることがある。労働安全衛生法の制定・施行と前後して労働災害死亡者数が半減したように,法律は一旦制定されると社会を変革する大きな力を有している。そのようなものであるがゆえに,法律の制定に当たっては,内外にわかる各方面との調整が不可欠であり,それによってそれは社会的に妥当なところに落ち着き,所期の力を発揮していく。このような法律の制定過程が具体的にどのようなものか,労働安全衛生法のほとんど全立法過程を通じて労働者安全衛生部長としてその衝に当たった行政官の証言を基礎にして,その過程を通して検証してみたのが本稿である。

(論文目次)
I はじめに
II 労働安全衛生法制定の効果
III 政策課題への対応の一般的側面
IV 労働安全衛生法の制定
V あとがき

I はじめに

 法律は,(それが社会の基本にかかわるものであればあるほど),一度生み出されれば,この社会を変革する力を有し,国民生活に大きな力を及ぼす。一般に法律案が国会へ提出されるまでには長い過程がある。この過程は,部分的にしか表面に表れないが,国会における過程と同様に,その法律の内容や外延を決定するうえで極めて重要な意味を有している。
 本稿では,労働安全衛生法(昭和47年法律第57号)について,その過程を含め,その形成過程がどのようなものであったかを振り返ることとする。


II 労働安全衛生法制定の効果

 戦後における労働災害の発生状況の推移を死亡者数の推移で見てみると,図1のとおりであり,前半と後半との間に大きな断層があることに気づかされる(注1)。断層の前半部は,戦後の経済の復興と著しい経済発展に伴い死亡災害が毎年増加し,1961(昭和36)年には6712人とピークに達し,その後も毎年6000人台で推移していっている時期である。

図1 労働災害による死亡者数の推移

 ところが,1972(昭和47)年を前後して断層が見られる。すなわち,同年から1975(昭和50)年までの3年間だけでも約2000人もの減少が見られ,建設業でも1年遅れで同様に顕著な断層が見てとれる。この断層のあとの時期が後半部となる。この後半部も最初の時期は緩やかな減少が見られ,1983(昭和58)年には2500人台にまで減少し,その後は現在までほぼ横ばいで推移してきている(注2)。
 このように,1972(昭和47)年の労働安全衛生法(以下,「安衛法」ともいう)の制定と前後して明確な断層が見られ,その後も緩やかに減少し,ついには横ばいとなるという10年程度の間に見られるこのトラスティックな変化の要因は何であったのであろうか。安衛法の制定以外に何が考えられるであろうか。
 安衛法の制定当時,労働省の安全衛生部長として同法制定の先頭に立ち,同法の制定とその内容に決定的な役割を果たした元労働事務次官の北川俊夫氏は,この背景を,「もちろん,これは安衛法の制定のみによることではないだろうが,多大な影響を与えているのは間違いないだろう。人間尊重の経営理念が浸透してきたこと,機械化や自動化の進展とともに本質安全化(著者注:作業者の作業ミス,機械設備の故障等が直接災害に結びつくことのないシステムとすること)が図られてきたこと,事業場内の安全衛生管理体制が整備されてきたこと,一般的に,これらが労働災害の減少の大きな要因となったといわれるが,安衛法の精神がこれらの事業場の取り組みの促進剤となったことは確かである」と話している(注3)。
 たしかに,安衛法の制定によって企業は変革を迫られた。安衛法の制定・施行10周年を記念して中央労働災害防止協会で行われた座談会の席上,ある大企業(製造業)の安全衛生担当者は,次のように述懐している。
 「安全衛生法の求めるものを正しく理解することから始めました。そのためスタッフが集まって勉強会を開いたり,講習会に進んで出たり,場合によっては監督官に出席して頂き説明会を聞くなど,まずその内容を理解することに懸命であったという記憶があります。
 安全管理体制の形を整えるにしても,その責任者は総括安全衛生管理者ということで,会社のトップでなければならないことになった。したがって,安全への取り組みは,人道上の問題だけでなく,法制上から明確となったので,社内の責任体制ももう一度見直さなければならないという,大きな転換期になったと思います」(注4)。
 また,同じ座談会の席で,建設業の安全衛生担当者は,高度成長期を振り返って「その中で,安全はどうかというと,率直に言って施工第一,安全第二という部分が多々あったと言えましょう」と述べたあと,「建設業界では,安衛法の概要を拝見して,『うむ,これはいよいよ国も本腰を入れて厳しくやってくるな』という印象を受けていました」と述べている(注5)。
 これらのいくつかの証言によっても,安衛法の制定によって安全衛生への取り組みは企業としての義務であり企業トップがその責任者であるということが明らかにされ,それが,各企業に本気の安全衛生対策を迫り,結果としてそれが,日本の労働災害死亡統計に断層をもたらすほどの大きな効果を生み出したと言って間違いないのではなかろうか。


III 政策課題への対応の一般的側面

 そこで,次に,具体的な労働安全衛生法の形成過程の分析に入るが,その前に政策課題への対応の一般的側面を眺めることとする。

1 政策課題への通常の対応パターン

 この世の中には様々な出来事が日常的に生起している。たとえば,深刻な経済不況による企業倒産やそれに伴う失業者の増加,解決困難な賃金不払いの増大,ずさんな安全管理による原子力臨界事故の発生等々,労働関係だけをとってみても枚挙にいとまがない。
 これらはその衝に当たる行政庁にとっては政策課題ということになるが,それらがすべて法律の制定・改正につながっていくということは決してない。図2で「内閣(政府)提出に係る労働立法の通常の流れ」を示したが,ほとんどの場合は,既存の法律の枠組みのもとに,必要があれば予算措置を講じつつ,それらを活用した(行政指導等の)行政施策で対応される(注6)(この「流れ図」の最初の部分(審議会の前までの部分)は,実線だけではなく点線でも結んであるが,これはそのような趣旨を表そうとしたものである)。

図2 内閣(政府)提出に係る労働立法の通常の流れ

 このように,法律の制定・改正というのは政策の選択肢の一つであるのみならず,一定の政策課題に対処する必要性が発生しても,それへの対応はまず通常の行政施策により行い,どうしても法律でなければならない,あるいは法律でなければできない事項(たとえば罰則付きの強行規定の設定など)がある場合に法律の制定あるいは改正が行われるのが原則とされているようである(注7)。

2 通常の労働立法のなされ方

 そこで次に,ある行政課題への対応として,法律の制定・改正で対応するという政策が選択される場合,それがどのような流れとなるかについてみてみたい。
 わが国の場合,制定される法律の多くは内閣(政府)提出であり,労働立法もそのほとんどは内閣提出である。ちなみに,1999(平成11)年1月19日から8月13日まで開かれた第145回通常国会についてみると,提出され成立した全法案128件のうち110件(85.9%)が内閣提出となっている(注8)。
 内閣提出による場合,労働立法の今までの通常の流れの概略は一般に図2のとおりであるが,同志社大学の安枝教授がその著書の中で,「内閣提出法案は,閣議決定された後国会に提出され,衆・参両院の委員会および本会議での審議を経た後成立し,公布され,発効する。しかし,実際の法律の形成過程は,閣議にいたるよりはるか以前に行政内部で開始される」として,図2の「研究会」と「審議会」の部分について,次のとおり,過不足なく説明しているので,それをそのまま引用することとする(注9)。
 「労働関係法令は,労働者側と使用者側の間の意見調整なくして意義ある立法は不可能であり,そのための機関として,労働大臣の諮問機関としての法律上の根拠をもつ公労使3者構成の審議会が存在する。労働省の法令の制定・改廃および主要な労働政策の立案に際しては,これらの審議会の審議を経るのが通例である」
 「さらに,審議会における審議に入る以前にも,学識経験者による研究会などで今後作られるべき法案の内容の基礎となる議論が行われていることが多い」
 「こうした研究会等の報告が審議会に提出され,これを軸に審議会から労働大臣に対する意見の提出である『建議』が行われる。事務局である労働省は,この建議の内容を尊重した案を作成し,審議会に大臣が意見を求める『諮問』を行い,審議会はこれに対して『答申』する」
 この審議会は,一面では,制度化された労使の擬似的な全国的団体交渉システム的な機能を果たしていると見ることもでき(注10),ここでの徹底した議論と合意の形成の程度如何は,その後の国会における論議にも大きな影響を及ぼす。
 このように審議会の答申を受けるかたわら,関係労・使その他各方面や,関係各省庁との調整,財政当局との折衝,内閣法制局による法案審査等が行われて,法案がとりまとめられ,政府与党の了承を得て閣議決定され,国会に提出される。
 この部分については,上智大学の花見名誉教授が,次のとおり説明している(注11)。
 「現行法のほとんど全てが,労働省の各部局によって立案されたものである。もっとも,労働省は法案作成過程において,実際上与野党との調整を行ない,とくに与党の関係議員との了解なしに法案が立案されることはない。また国会における審議の過程で与野党間の妥協がはかられ,野党の提案が一部取り入れられることもあるが,基本的には法案の実質は労働官僚のイニシアティブで決定されるのが通例である」
 このようにして法律が可決・成立,公布されたあとは,それを施行するために,施行令(政令),施行規則(省令),指針(告示)等の行政立法がなされ,また,施行通達が発出される。

3 立法過程の時期区分

 このような,政策課題への対応として法律の制定・改正で対応するという政策の発想から,成立した法律の施行に至る全過程を,本稿では「立法過程」と呼ぶこととしたい。この過程は,内閣提出法案の場合には,両教授の指摘のように,一般には行政官庁の強い関与,すなわち,根回し(説明と吸収)に次ぐ根回しによって進められ,そして,その時々で,無数の,かつ,様々な資料が作成され,その時々の目的のために用いられていく過程でもある。
 内閣提出法案については,この立法過程は,一般的には,次に述べる五つの時期に区分できるであろう。もちろんこれらの時期は,その接点においては一部重なり合うことも多い。
第1期 発想→部内での意思決定過程 ある人あるいはある組織の発想が,(課→部→局→省という形で)省としての意思決定に結果していくまでの過程。ここには,「政策の発想とその成形過程」が前段として,「組織としての意思決定過程」が後段として存在している。
第2期 洗練過程(第1期と一部重なり合うことも多い) 部外の知恵,力を得て洗練されていく過程であり,一般には,学識経験者による研究会が設置され,そこでの主として理論的な論議の結果が報告書としてとりまとめられる。そのほかに,事務的には,人事(適任者を持ってくる。増員),準備室の設置等が行われる場合もある。
第3期 調整過程 審議会から閣議決定までの過程であり,関係労・使,関係省庁等各分野との調整や財政当局との折衝の中で大筋において妥当なものとして整えられ,内閣法制局の審査,政府与党の了承を経て閣議決定されていく過程。
第4期 法律制定過程 法律案の提出→国会での審議→可決・成立,公布の過程(立法過程の中でも特にこの部分を「法律制定過程」と名付けた)。
第5期 法律施行準備過程 政令,省令,告示,施行通達の立案と公布,発出の過程。この過程でも第3期と同様に審議会での審議や関係労・使,関係省庁等との調整作業はあるが,一般的には,第3期の調整結果および第4期の国会審議結果を踏まえた作業が主体となる。

4 政策形成過程における人的要素

 立法過程においては,一定の内容をもった法律の制定・改正ということの発想,意思決定から始まって各条文の中身等々無数の政策発想,意思決定が行われていく。ここでは,内閣提出法案について,それも「法律」の制定・改正ということの発想と意思決定というものに絞って,その人的要素にからむ一側面を見てみたい。
 いろいろな法律の解説書などを読んでいると,「~法を作ろうとする動きが出てきた」とか「~法を制定することとなり」というような表現が出てくることがある。客観的叙述としては間違いではないが,そのような法律が自然にできるわけがなく,その裏には必ず人間(個人)の動き(働き)があるはずである。
 法案作業というものは,いつでも膨大な根回し作業と物理的作業量を伴い,それに取り組むことは,組織にとっても個人にとっても一大事である(注12)。
 どんな法律でも,「あれは私が作った」という人が少なくとも20人はいると言われているが,ある意味ではこのような法案作業の正鵠を射た言葉である。
 いずれにしても,一定の外部の状況(政策課題)を踏まえて,誰か(この「誰か」が特定されることは普通は稀であり,現象的には,自然にある係あるいはある課においてそのような発想がコンセンサスとして存在していたというようなことが一般であろう)が発想し,それが政策として成形(熟成)されていき,組織的な意思決定過程に入り,各段階における特定の意思決定権者の積極的または消極的な賛成・支持を経て,最終的な意思決定権者(省庁であれば大臣)の了解を受けて組織としての意思が決定されていくこととなる。
 そしてそのそれぞれの段階で「人間(個人)」が大きな機能を果たしている。
 この人的要素というものはいろいろな観点から見ることができるであろうが,法律の制定・改正ということの発想および意思決定とそのタイミングという観点で見た場合,法律には次の2通りのものがある。
 (1) そのタイミングをはずせば世の中には存在しなかったであろうもの。
 (2) そのタイミングをはずしたとしても後には存在したであろうが,そうであったとしても内容は大きく異なっていたであろうというもの。
 (1)のタイプは,タイミングの要素が決定的な意味を持つタイプのものであり,労働基準局関係の立法では,作業環境測定法(昭和50年法律第28号)のようなものがこれに当たる(注13)。
 それに対して,(2)のタイプは,(1)ほどにはタイミングが決定的なものではないが,その後の景気の悪化,社会全体のムードの変化等によってその成否,内容が左右されるもので,安衛法などはこれに当たると言えよう(注14)。


IV 労働安全衛生法の制定

1 労働基準法制定による総合的な労働安全衛生法制の確立

 どんな法律でも,一朝一夕に短時日に出来上がるというものはそれほど多くはなく,一般には,その背景には,長い熟成時期が存在する。
 労働安全衛生法もその例外ではなく,安衛法の制定というものを見ようとする場合には,労働基準法(昭和22年法律第49号)の制定による総合的な労働安全衛生法制の出現の時点からスタートしなければならない。
 1947(昭和22)年に制定された労働基準法(以下,「労基法」ともいう)においては,「第5章 安全及び衛生」として,安全衛生に関する章が設けられ,第42条から第55条まで14カ条が規定された。
 また,法に定めるこれらの安全衛生関係規定を具体化するものとして,439カ条に上る「労働安全衛生規則」(昭和22年労働省令第9号)が制定され,同年11月1日から施行された。
 これらは,工場法および同法に基づく命令や各府県の取締規則をはじめとする戦前の安全衛生関係法令を基礎にし,さらにこれまでの工場監督行政の体験から得た事項やILO条約等を参考として制定されたものであり,その内容は,概ね当時の国際水準に達していたと言われている(注15)。
 このように,労基法の第5章(安全及び衛生)および労働安全衛生規則(以下「安衛則」ともいう)によって構成される労働安全衛生法令は,統一性と普遍性(注16)など労働基準法全体に通ずる特徴を当然のことながら備えているという点において,対象となる業種・規模が限定されていた戦前の安全衛生関係法令の単なる統合ではなかった。例えば,従来全く安全衛生法規制が及んでいなかった病院や商店,事務所などで働く労働者にも,休養室,健康診断,安全衛生教育などの一般的安全衛生規定が適用されるなど,すべての労働者に安全衛生規制が及んでいくことになったのであり,当時としては,現行の安衛法の制定・施行にも匹敵する労働安全衛生に関する大立法であったと言うことができよう(注17)。

2 内包していた問題点(法的側面において)

 このようにして,労基法に基づく労働安全衛生法制は出発したが,そのスタート時点から,法的側面において,次のような問題点を内包していた。
 労働基準法では,主たる義務者を「使用者」としているが,この使用者とは,「事業主又は事業の経営担当者その他その事業の労働者に関する事項について,事業主のために行為をするすべての者をいう」(同法10条)とされており,事業主(法人企業であれば法人そのもの)または企業の内部において労基法の各条に定める義務の履行について義務を負わされ,かつ,その任を履行し得るに足るだけの権限を与えられている者(自然人)を幅広く指している(注18)。
 このように,法律上の義務主体そのものが,企業組織の中の個人(自然人)とされる場合があること,またそれも企業内部の「義務の委任」と「権限の付与」の状況如何で相対的に定まるものであり,「手すり」の設置や「防じんマスク」の装着などの規定を考えれば分かるように,時には企業組織の末端の方に位置する係長であっても「使用者」に該当する場合があること(注19)等,「事業経営の利益の帰属主体そのものを義務主体としてとらえ,その安全衛生上の責任を明確にする」(注20)という考えからはほど遠いものがあった。
 また,労働基準法の制定によって,義務主体が工場法の「工場主」から「使用者」に変えられ,保護客体が「職工」から「労働者」へ変えられることにより,労基法に基づく安全衛生上の義務は,使用従属関係の存在する範囲内に限られることとなり,たとえば構内下請などには及ばないこととなった。
 それらのことは労働者の安全衛生の確保にとっては不都合なことであり,結果としては,このことが1964(昭和39)年制定の「労働災害防止団体等に関する法律(昭和39年法律第118号)による「特別規制」の必要につながり,また,安衛法の「事業者」につながって行ったと言える。
 さらに,もう一つの法的な問題として,法律なかんづく安全衛生法令がある意味で宿命的にもつ特性が挙げられる。すなわち,法令は,原則としてその時点において社会が抱えている問題(政策課題)に対応して作られるものであり,作られた時点から陳腐化が始まると言っても過言ではない。特に,安全衛生法令は,「安全規則は先人の血で書かれた文字である」(注21),あるいは「成長する規定(growing regulation)」(注22)という言葉にもあるように,技術の進歩,災害・疾病の発生状況その他産業労働の場における諸般の事情の変化を背景として不断の進化を遂げていくものであり,労基法による労働安全衛生法制の確立後の,災害発生とそれらに対応するための規則の制定・改正の繰り返しの事実が証明しているように,どうしても後追いの性格を持ち,必然的に頻繁な規則の制定・改正が不可避なものである。そのようなところから,安衛則はその制定直後から改正がなされ始めているが,特に昭和30年代以降,労基法に基づく安全衛生関係規則の制定,改正に拍車がかかってきた。
 それは,安衛則の改正と安衛則以外の労基法に基づく特別の規則(特別則)の制定という二つの方向で行われたが,原則として安全関係は安衛則の改正で対応し,衛生関係は特別則の制定で対応するという方向をとっていった。
 このような改正を重ねていくうちに,現実の必要性から自ずと法律の委任の枠との関係を意識せざるを得ない規定もでてくるようになり,既存の法律の不完全さ,不自由さが意識されるようになってきた。そして,このような頻繁な規則の制定・改正という量的な問題が,一定の段階で法律の制定・改正という質的な問題に転化するのはある意味で当然のことであり,その結果,表1に見るように,安衛法の制定に際して必要な整理が行われるところとなった。

表1 労基法に基づく省令事項で安衛法の制定に際して法律事項とされたものの例

3 前身となる法の引き継ぎと新たな法理念の創造

 1972(昭和47)年,労働安全衛生に係る総合的立法として,労働安全衛生法が制定された。
それは労働基準法に基づく労働安全衛生法制が構築されたときと同様に,新たな総合立法が共通して持っている性格,すなわち,「前身となる法の引継ぎ」と「新たな法理念の創造」という二つの要素を兼ね備えていた。
 まず,前身となる法,すなわち,労働基準法第5章(安全及び衛生)ならびに労働災害防止団体等に関する法律第2章(労働災害防止計画)および第4章(特別規制)からこれらの法律の規定事項が安衛法の骨格として引き継がれていった。さらに,表1で見るように,労基法に基づく多くの命令事項が安衛法制定の際に法律事項へと格上げされた。
 次に,新たな法理念の創造,すなわち,安衛法を安衛法たらしめている新たな法理念の付加については,労働省が中央労働基準審議会の場に提出した「労働安全衛生に関する立法についての考え方」(昭和46年9月28日,労働省)という文書の中にまとめられている次のような考え方で知ることができよう。
 「労働省としては,同報告(筆者注:「労働基準法研究会報告」のこと)やその他の事情をも含め,慎重に検討した結果,この際,安全衛生行政については,全般にわたり抜本的に充実を図る必要があるとの結論に達した。
 このため,さらに種々検討を重ねているが,法制的には,次に掲げる理由から,現行労働基準法とは別に労働安全衛生についての単独法を制定したいと考えている。
(1) 現行労働基準法の建前に基づいて法規制の範囲を直接の使用従属関係のみに限定していたのでは,的確に労働災害を防止するのに十分でないこと。
(2) 労働災害発生の現状から,その対策には,危害防止の最低水準の確保にとどまらず,より厚みのある行政を展開する必要があること。
(3) とくに中小企業については,労働災害を防止し易い環境を整えることができるよう積極的な技術面の指導,財政的な援助を合せて実施する必要があること。
(4) 労働安全衛生面の規制を行なうに当たり,国民の権利義務にかかわる事項については,根拠規定を明確にする必要から,以上の事項を法制化する場合,おのずからその規定条文数が相当多くなることが予測されること。」
 さらに,同文書では,「新法」に盛り込むべき事項として検討している必要な事項として,次のようなものをあげている。
  (1) 事業者責任の明確化と事業所における安全衛生管理組織の確立
  (2) 危害防止基準の明確化と技術指針,快適基準の作成
  (3) 危険な機械類あるいは有害物の事前規制の徹底
  (4) 安全衛生教育の徹底
  (5) 健康管理の充実
  (6) 工事計画等の事前審査制度の充実
  (7) 自主的改善計画作成制度の導入
  (8) 特殊な労働関係下における労働災害の防止の徹底

4 それぞれの時期区分に応じた安衛法の制定経過

 IIIの3において立法過程の時期区分を行ったが,次に,それぞれの時期区分ごとに安衛法の制定経過の特徴的なところを見ていくこととする。
 第1期 発想→部内での意思決定過程 この過程では,IIIの4で述べたように,時には法律の存否がかかっているという意味で,特に人的要素が大きな意味をもつ。
 もし,タイミング誤たず法案を発想しえたとしても,法案を発想し,推進しようとする担当者あるいは担当組織(課内討議をクリアし,課長の賛同を得た後は担当課)としては,省内で,合意をどのようにとりつけていくかが,事の成否のポイントとなる。そのためには,政策担当だけではなしに,予算担当,法施行担当など省内の多くの関係者に対する根回しや関係部局との(時には熾烈な)折衝が必要とされる(注23)。
 そういう意味で,法案を発想した担当者あるいは担当組織としては,この「第1期」の特に後段は重要な意味合いをもつ。すなわち,省という組織としての決定に至った段階で,(その後に内容の出入りがあることは当然のこととしても)その法律で実現しようとする理想は確実に実現への大きな一歩を踏み出すからである。
 安衛法制定の背景については,北川俊夫氏は,(1)1963(昭和38)年11月7日の同日に発生した国鉄鶴見事故と三池炭鉱爆発事故,(2)四日市ゼンソク問題や水俣病問題などの顕在化と公害対策基本法の制定や環境庁の設置などを背景とした「人命尊重」の理念の社会的なムーブメントとしての定着,(3)新工法や新原材料がどんどん生産現場に入ってくること,また,労働災害が工場,事業場の塀の中にとどまらなくなってきていた現状に対して,労基法による安全衛生対策では対応できなくなってきていたこと,等をあげたあと,「そういうようなところから,次第に行政を含む安全衛生関係者の間には,『基準法に基づく安衛則という法体系ではなく,独立した一つの法律をつくるべきだ』という声が高まってきた」と述べている(注24)が,安衛法の場合には,ある意味で,これが一番正しい言い方であるかもしれない。
 というのは,1967(昭和42)年8月1日,労働省に安全衛生局(注25)が設置された時点で,労働省内部には次は安全衛生に関する総合立法だという雰囲気が一気に高まり,それなりの準備が進められ始め,さらに,その勢いは,その後の1970(昭和45)年の公害国会においていわゆる公害14法が成立するなかで決定的となっていったからである。
 第2期 洗練過程 安衛法の場合には,1970(昭和45)年5月22日に労働基準法研究会の中に「安全衛生小委員会」(その後,第3小委員会と改称)が設置されて以降,同研究会の報告書の提出までがこの「第2期」となる。
 この第2期の研究会は,この労働基準法研究会がそうであったように,通常,学識経験者だけで構成され,あるべき姿論も含めて理論的な基礎を打ち立てる作業が行われる。
 この過程は,「第1期」とオーバーラップする場合(研究会での検討を進めながら,省として法案作業に入るか否かの見きわめをつけていく場合など)も時にはあるが,研究会設置の時点で,省の大勢として法案作業に入るとの意思が事実上固まっている場合も多い。安衛法の場合は,前述のように,まさにそうであったと言えよう。
 研究会の作業と並行して,行政庁内部でも膨大な資料を収集,分析し,研究会での検討に資するとともに,それらをもとに,法案の内容と文案を成形する作業が続けられていく。
 安衛法の場合にも,国内の他の類似立法例(鉱山保安法,高圧ガス保安法等の産業保安法等),諸外国の立法例(アメリカの労働安全衛生法(OSHAct)など),ILO条約,勧告(ILO第116,119号条約は批准前提。その他多くの安全衛生関係ILO条約,勧告を参照),労使の意見,学識経験者の論文,提言,その他マスコミの論説などが参考とされている。
 特に「国内の他の類似立法例」は,安衛法の場合には重要な資料であり,多くの産業保安法をもとに法案の各項目ごとの対比表を作成(罰則を含む)し,それが法案の各条文の内容固め,また,法制局における法律案の審査や法務省における罰則の審査において効果的に用いられた。
 この第2期の研究会設置以降法案国会提出までの主だった安衛法の制定経過は表2のとおりである。

表2 労働安全衛生法の制定経過

 この労働基準法研究会の第3小委員会から出された報告には,その後の安衛法に具現化された事項が(ほとんど)すべて網羅されている。
 常識的にみても,一般には,研究会報告の内容がその後の調整を経て法案という形に煮つめられていくという関係にあることは十分推察できるところであり,したがって,この小委員会報告の内容にその後の流れの中で新たに付加された若干の事項から法案の内容を差し引いた部分が,いわば第3期の過程で調整された部分ということになろう,この点については,第3期のところで検証する。
 第3期 調整過程 この過程は,立法過程においては一つの大きな山場であり,労・使をはじめ関係する各方面や財政当局を含む政府部内各省庁との間において必要な調整が行われて,納まるところに納まっていく過程である。
 その過程は一般に公開で行われる性質のものではないところから,それほど表に出ることはないが,刊行物や表2に表れた資料などをもとに安衛法の制定過程を検証してみたい。
 まず経営側の対応であるが,それについて,北川俊夫氏は,「安衛法が国会で成立するまでは苦難の道だった」との前置きに続いて,次のように述べている(少々長いが,安衛法の立法史を語る場合欠かすことのできない貴重な証言であるので,そのまま引用する)(注26)。
 「その一つに,経営側からの猛反対があった,理由は,基準法では法律の遵守責任者が『使用者』であるのに対して,安衛法では『事業者』としている点だった。
 使用者とは,『事業主又は事業主のために行為をする者』であり,会社組織の末端の係長であっても使用者に該当する場合もある。会社上層部が関与した悪質な法違反であっても,『そんなことには社長や役員は関知していません。担当者が行っていることです』と責任転嫁をされる可能性が多かった。そこで,安衛法では『事業者』というふうに上の方の責任をしっかりとらえられる考え方を出した。
 それとともに,特に労働災害の多かった建設業などについては,元請責任を追及する規定を充実させた。
 そのため各業界とも安衛法の制定に消極的で,特に建設業界は積極的反対という具合だった。箱根で開かれた全国の建設事業者の代表の集まりで安衛法制定への反対決議が行われ,ドスの利いた声で私のところへ電話がかかってくることもあった。
 そのような状況を見かねて,助け舟を出してくれたのが,中災防の会長を務めていた三村氏と理事長を務めていた前田一氏だった。前田氏は戦後の労使紛争時に日経連を率いた“闘将"である。三村氏と前田氏の呼びかけで財界トップが集まる労働安全衛生懇話会が開かれ,原労相に対して『安衛法の制定を要望する』という決議が提出された。
 財界の統制力はすごかった。この決議以降,業界からのクレームがぴたりと止んでしまった。まったく,三村氏と前田氏には頭が上がらない」。
 ここに出てくる「労働安全衛生懇話会」は,中央労働災害防止協会(中災防)会長の三村起一氏と同副会長兼理事長の前田一氏が,日経連代表常務理事桜田武氏,経団連会長植村甲午郎氏,経済同友会代表幹事木川田一隆氏をはじめ各業界のトップ計22人に呼びかけ,開催したもので,同懇話会には,労働省からも原労働大臣をはじめ幹部が出席し,1971(昭和46)年の9月から11月にかけて3回の会合がもたれた。
 この席上で,日経連代表常務理事の桜田武氏が「大正15年に会社(日清紡)に入ったが,当時の宮嶋清次郎社長は『人に幸福をもたらさない会社なら潰した方がよい』といっていた。40年以上も,この言葉が脳裡に焼きついている。安全衛生は,職場をあずかるもののモラルとしてやらなければいけない」と述べたと伝えられている(注27)。
 企業経営者の良心と誠実さを感じさせる言葉である。
 この北川氏が述べるところの経営側が猛反対をした二つの点,すなわち,
(1) 法律上の主たる義務主体を労基法の「使用者」から「事業者」に変更したこと,
(2) 元請責任を追及する規定を充実させたこと,
の2点は,IVの2で述べた労働基準法に基づく労働安全衛生法制が法的側面において内包していた問題点に対応するものであり,結局これらがIIに述べたように労働災害死亡統計に「断層」を作り出すほどの効果を生みだしたものと考えられる。
 この(1)の点については,北川氏が述べているように「上の方の責任をしっかりととらえられる考え方」を打ち出すため,安衛法では,その主たる義務主体を事業者としたもので,この「事業者」は,同法2条III号で,「事業を行う者で,労働者を使用するものをいう」と定義されており,法人企業では法人そのものをさし(注28),労基法の「使用者」のように,時には末端の係長が法律上の義務主体となるというようなことはない。
 また,(2)の点については,安衛法の29条において,建設業,造船業のみでなく,鉄鋼業や化学工業など,構内で下請を使用して事業を行っているすべての企業で最上位のもの(元方事業者)に対して,関係の構内下請企業が安衛法の規定に違反しないよう必要な指導を行い,違反を認めた場合には,是正のため必要な指示を行うべき義務を負わせることとした。この規定は,業種,規模の如何を問わず,構内下請を使用している企業全てに対して適用される義務範囲の大変広い重たい規定である。
 さらに北川氏の文章を続けたい。
 「安衛法の制定に反対したのは経営側だけではなかった。中央労働基準審議会では,労働側から『労働者にとって,基準法というのは“不磨の大典"であり憲法と同じ。基準法を変えてはならない』『基準法と分離して,技術的なことばかり行っても労働災害は無くならない。労働条件を良くすることによって,初めて労働災害を防止できるのではないか』といった反対意見が粘り強く出された(注29)。
 そこで,中央労働基準審議会の石井照久会長が『条文の中に,安衛法と基準法とは不可分一体であることを明記することにしましょう』と,取りまとめに動いてくれた。
 安衛法第1条にある『この法律は,労働基準法と相まって,(中略)職場における労働者の安全と健康を確保するとともに,快適な職場環境の形成を促進することを目的とする』という条文は石井先生の発案だった」
 このような(中央労働基準審議会を表舞台とした)労使との調整と並行して,財政当局との折衝や各省庁その他関係各方面との調整が行われた。
 特に,多数の産業保安法による既存規制分野の重複排除と潜在分野についての理解の整理などで,各省庁との調整は激烈を極め,相互の確認事項も相当数にのぼった。
 このようにして行われた約半年間にわたる第3期「調整過程」において,どのようなものがいつの段階で構想として現れ,いつの段階で最終的な法案作成の段階までには至らず消え去って行ったのかを,表2に現れた公表資料に基づいて検証したのが表3である。

表3 当初構想に現れた事項で最終的な法案作成の段階までには至らなかったもの

第4期 法律制定過程 この過程は,図2でいうと法律案提出から公布までの過程である。議会制民主主義をとっている以上,立法過程の中でもこの部分が中核であることは言うまでもない。安衛法の場合には,衆議院の社会労働委員会において6回(1972年3月14日,3月21日,3月28日,4月12日,4月18日,4月25日)の審議が行われ,衆議院本会議(4月25日)で可決の後参議院へ送られ,同社会労働委員会において4回(5月11日,5月18日,5月25日,6月1日)の審議が行われ,同本会議(6月2日)で可決・成立している。
 当然のことではあるが,国会における論議が法律の内容およびその後の法施行の基本方向を決定するわけであり,現に安衛法の場合も,衆議院において6項目にわたる修正が行われたほか,各院においてその後の法施行に関し重要な方向づけが行われた。
 それがどのようなものであるのか,安衛法審議の際の総括質疑を例にとってそのことを検証してみたい。
 この「総括質疑」は,「締めくくり質疑」とも言われ,当該委員会における審議日程を終えるに当たって行われ,それまでの当該委員会における質疑の中の重要事項を(それこそ文字どおり)おさらいするもので,委員会における論議の集大成とも言え,このような検証作業を行うには最適なものであると言えよう。
 もちろんここに至るまでには,与野党等関係者間で真剣な折衝,調整が行われ,その結果がこのような形で表に現れてきているものであろうことは想像に難くない。
 安衛法の場合には,予算関係法律案であったところから衆議院先議であったので(注30),先議を行った衆議院社会労働委員会における総括質疑の中から幾つかの事項を抜き出して,表4において,それがその後の法律案文の修正や法施行にどのようにつながっているかを対比してみた。

表4 国会における質疑とその後の法律案文の修正や法施行へのつながり

第5期 法律施行準備過程 法律が制定・公布された後の法施行の準備過程であり,政令,省令,告示,施行通達の立案と発出が行われる。
 その内容は,もちろん,法の目的を達成するために必要な事項ということになるが,(1)他省庁所管法令との調整(他省庁所管の法令との関係における適用除外規定など。例として,安衛法施行令12条I,II号および13条VIII号の三つの号だけで,船舶安全法,電気事業法,高圧ガス保安法,液化石油ガスの保安の確保及び取引の適正化に関する法律,ガス事業法という五つの法律との調整問題があることが見てとれる),(2)国会における質疑,付帯決議などの審議結果を受けた措置,(3)その他調整の過程における各方面との了解事項の履行(書き込み,または書き込まないこと)などにも留意が必要とされる。
 安衛法の場合は,政・省令,告示の条文数が全体で約3500カ条もあり,また折衝すべき省庁も数多く,膨大な作業であった。
 さらに,6月8日に公布された法律の施行日が,当初予定から前倒しして同年10月1日とごく短時日にセットされたこともあり,その作業は今振り返ってみても殺人的なものであったと言わざるをえない(9月30日に出されたこれら政・省令,告示の官報号外は400頁にものぼったが,その印刷のためには,8月末が原稿の大蔵省印刷局持ち込みの締め切り日であった。そうすると,6月8日の法律の公布日から3カ月弱で,これらすべての作業を終えなければならなかったことになる)。


V あとがき

 戦後の社会経済情勢の変化には著しいものがあり,労働基準法のもとに普遍的・統一的なものとして発足した労働安全衛生法制も,4半世紀でもって抜本的な作り直しを余儀なくされた。
 その安衛法制定の効果は,冒頭に述べたように極めて大きなものがあり,社会のある分野(安衛法の場合には,「労働」という分野)の基本にかかわる法律が制定される時には,社会が大きく変わりうることがあるということを実証している。
 振り返って思うことは,
(1) 言葉の持つ力の威力(主たる義務主体の「使用者」→「事業者」への転換)と,
(2) 「理念の正当性」の重要性,ということである。
 この前者についてはすでに述べた。
 後者については,労働安全衛生法の根底にあるものが「人の命に対する愛情と畏敬の念」であるということに思いをめぐらせれば,十分に納得できるであろう。
 さらに,労働安全衛生法が制定された1970年代は,世界の先進諸国においても労働災害の防止を直接の目的とする総合的労働安全衛生立法がなされた時期であった(注31)(注32)。
 安衛法は,このような世界史の大きな流れの中にも位置づけられるものであり,歴史の同時性,必然性というものの不思議を感じさせられるところである。
 安衛法が制定,施行されて早や27年が経過した。ここ数年,安衛法を充実させなければ対応しきれないような事故が散見されるが,いずれにしても安衛法の基本的な性格が前述の「安全規則は先人の血で書かれた文字である」ということわざにもあるようにどうしても後追い的なものであるとすれば,今後も改正が続いていくであろうし,いずれの日にか,今度は1947(昭和22)年の労基法による総合的な労働安全衛生法制の発足,1972(昭和47)年の安衛法の制定,とは別の視点から,抜本的な作り直しを求められる日が来るかもしれない。


(注1) 労働災害の発生状況を見る場合に,大きく分けて,件数で見る場合と率で見る場合とがある。件数で見る場合も,死亡者数,死傷者数,重大災害(一時に3人以上の死傷者を伴う事故)の発生件数,業務上疾病発生件数等種々のとらえ方がある。ここでは,事柄が重大で,発生する災害の頂点に位置し,客観的に的確に把握しうる死亡災害について,労働基準法施行翌年の1948(昭和23)年以来1998(平成10)年までの半世紀間(正確には51年間)の時系列で比較してみた。
(注2) 1997(平成9)年(2078人)および1998(平成10)年(1844人)は,「ほぼ横ばい」とは言いづらいが,これが経済活動の著しい停滞によるものか,新たな傾向を示すものなのか,あるいは別の要因によるものなのかは,もう少し様子を見てみる必要がある。
(注3) 北川俊夫「労働安全衛生法の制定に到るまで」『労働安全衛生広報』No. 660,1996年10月1日号,27頁。
(注4) 「労働安全衛生法この10年と今後の課題」『安全』Vol. 33,No. 7,1982年,11頁。
(注5) 同上9,10頁。
(注6) たとえば,次のような,昭和30年代の政府によるたたみかけるような矢継ぎ早やの各種産業災害防止対策などは,その典型例である。
   ・産業災害防止総合5カ年計画の策定(1958(昭和33)年8月8日閣議了解)による総合的,計画的な産業災害防止対策の推進
   ・産業災害防止対策審議会の設置(1959年(昭和34)年4月,総理府設置法の一部改正による)
   ・国民安全の日(毎年7月1日)の設置(1960(昭和35)年5月6日閣議了解)
   ・安全に関する内閣総理大臣表彰制度の創設(1960(昭和35)5月6日閣議了解)(同年7月1日の第1回「国民安全の日のつどい」において初の表彰が行われ,その後毎年7月1日に実施され,今日に至っている)など。
   特に,「産業災害防止総合5カ年計画」は,労働災害の増加傾向に歯止めをかけることを目的として,1958(昭和33)年を初年度として策定されたものであるが,1964(昭和39)年の労働災害防止団体等に関する法律の制定に際して,同法に基づく法律上の制度として位置づけられ,さらに安衛法の制定に際して同法第2章「労働災害防止計画」として同法の中に取り入れられた。その意味で,安衛法のルーツの一つがここから始まると言える。
   これら一連の政府全体としての取り組みは,その矢継ぎ早な打ち出し方からいっても,また,感じられる意気込みからいっても,戦後日本の安全衛生対策の本格的な始まりであったと言えよう。
(注7) 前田正道編『法制執務(全訂)』ぎょうせい,66頁で述べる「法律案の立案に当たっての注意点」や佐藤達夫編『法制執務提要(第2次改訂新版)』98頁参照。
(注8) 1999(平9)年8月13日付衆議院公報(附録)から(注表)。

注表 第145回通常国会(1999(平成11)年1月19日召集,同年8月13日終了)

(注9) 安枝英伸『労働の法と政策』有斐閣,35頁以下。
(注10) 「転換期の労働政策」というテーマの座談会において,法政大学の諏訪教授は,労働省の審議会の特色について,次のように述べている。
   「これ(筆者注:審議会)が日本における企業別組合の限界を補完していることは間違いないのであり,労働組合は,国の大きな政策を決めていくときに,審議会の場を通じて相当大きな影響を及ぼす力を確保してきました。審議会と言いますと,一般には役人が舞台回しをすべてして,あとはみんなサル回しのサルのように踊らされていると見られていますが,こと労働省の関係する労使代表が出る三者構成の審議会では,ずいぶん違う感じです。調整者としての事務局の役割が大きいことは事実ですけれども,中で行われている議論は,大部分が労使間の団体交渉を全国レベルで行っているようなもので,ここが特色だと思えます」(『日本労働研究雑誌』No. 463,1999年1月号,12頁)。
(注11) 花見忠『労働政策と労働法』(平成11年度労働通信教育講座),(社)日本労使関係研究協会,17頁。
(注12) 北川俊夫氏は,この法案作業における関係者の苦労の一端について,次のように述べている。
   「なかでも,ぼう大な政省令改正を含む困難な作業を立派にこなした当時の安全衛生部のスタッフには,いかに感謝しても足りないものがある。当時,作業をとりまとめていた気鋭の事務官-いまや地方の基準局長であるが-は,疲労のあまり明朝は無事に出勤できるだろうかとの不安をいだきながら寝についたことさえあったと述懐した。また,ある技官からは,いまだに「私の生涯で,あんなにこきつかわれることは二度とないでしょう」と皮肉をいわれる。過労死という言葉がまだなかった時代にしろ,責任者としていまも内心忸怩たるものがある」(北川俊夫「安衛法の20年」『労働基準』1992年7月号,1頁)。
(注13) 作業環境測定法制定施行20周年を記念する座談会において,参加者の1人である沼野雄志氏(沼野労働安全衛生コンサルタント事務所所長)は,同法制定に際しては,一方で通産省による環境計量士制度創設のための計量法の改正の動きがあったことから,法制定のタイミングが決定的に重要な意味をもっていたとして,次のように述べている。
   「もし計量法の改正当時労働省が測定法を作っていなかったら,作業環境測定も計量法の環境計量のわくの中での位置付けしかなかったわけで,作業環境測定のデザインも評価も今のようなしっかりしたものとはならなかったでしょうし,作業環境管理を基盤にした今の労働衛生の三管理もなかったでしょう。もしかすると,いまだに健康診断で中毒の患者を見つけて投薬治療するという昔ながらの管理が続いていたかもしれませんね」(『作業環境』Vol. 17,No. 1,1996年1月号,8頁)。
(注14) 北川俊夫氏によると,安衛法は,「(昭和)48年の石油ショック後の政治,経済事情を考えると,もし,1,2年ずれていたらならば成立はむずかしかったに違いない。まさに『天の時,地の利,人の和』を得た絶好のタイミングで誕生した」のであった(『安全衛生運動史』中央労働災害防止協会,379頁)。
(注15) 野口三郎『労働安全衛生規則の解説(安全の部)』(財)産業労働福利協会,2頁。
(注16) 有泉亨『労働基準法』法律学全集47,有斐閣,25頁。
(注17) 1970年に制定されたアメリカの労働安全衛生法(OSHAct)が,ウォルシュ・ヒーリー法(Walsh-Healey Act)など,それまでの断片的な連邦の安全衛生関係法令を踏まえた名実共にアメリカ(連邦政府)では初めての総合的な労働安全衛生法であったのに対し,日本の場合には,それに先立つこと23年も前に総合的な労働安全衛生法制が成立していたと言うことができる。1972(昭和47)年制定の日本の労働安全衛生法は,この「総合性」という点に関しては,労基法に基づく労働安全衛生法令の仕立て直しであり,ほぼ同時期に日米で同名の「労働安全衛生法」が制定されたとは言っても,その点では大きな違いがある。
(注18) 労働省の解釈例規では,この点について,次のように述べている。「『使用者』とは,本法各条の義務についての履行の責任者をいい,その認定は部長,課長等の形式にとらわれることなく各事業において,本法各条の義務について実質的に一定の権限を与えられているか否かによるが,かかる権限が与えられておらず,単に命令の伝達者にすぎぬ場合は使用者とみなされないこと」(昭22・9・13発基17号)。
(注19) 入善町役場事件(昭47・2・10最高裁第2小法廷決定)参照。
(注20) 昭47・9・18発基91号「労働安全衛生法の施行について」記の第2の5。
(注21) 保原喜志夫他編『労災保険・安全衛生のすべて』,有斐閣,14頁。
(注22) 寺本広作『労働基準法解説』時事通信社,262頁。
(注23) 省内での折衝は部内のことであり,また中身も煮詰め途上のものであるところから,なかなかその事跡が書き物として後世に残されることはないが,たとえば,賃金不払い救済制度の創設に関しては,当時の遠藤労働省職業安定局長の回想録(遠藤政夫『五十年の回想』労働基準調査会,209頁)や菊池更旨「賃金の支払の確保等に関する法律の制定をめぐって」『労働基準行政50年の回顧』(社)日本労務研究会,294頁などが残されており,現行制度のように全産業を対象としたものではなく,建設業のみを対象とした制度を先行させる構想もあったことがうかがわれる。
(注24) 北川俊夫「労働安全衛生法の制定に至るまで」『労働安全衛生広報』No. 660,1996年10月1日号,23頁。
(注25) この安全衛生局の設置は,国の労働安全衛生に対する積極的な姿勢を示すものとして各方面から歓迎された(『安全衛生運動史』中央災害防止協会,390頁)が,残念ながら,翌1968(昭和43)年6月15日,佐藤内閣の1省1局削減の対象となって廃止され,その代わりに安全衛生部が設置された。
(注26) 北川俊夫「労働安全衛生法の制定に至るまで」『労働安全衛生広報』No. 660,1996年10月1日号,24頁。
(注27) 『安全衛生運動史』中央労働災害防止協会,378頁。
(注28) 「労働安全衛生法の施行について」昭和47・9・18発基91号記の第2の5参照。
(注29) 総評は,1971(昭和46)年11月30日付「労働安全衛生法をめぐる今日的情況と総評の対策と見解について」という文書において「今回の基本構想の各項を分析し,総合的に判断すると,若干の新味的なものはあるにしても,基本的にその内容は,現行の労基法を改正すれば充分足りるものであるし,具体的実施面で積極的な労災職業病を防止する姿勢と措置を確立すれば充分カバー出来るものである」として労基法改正によることを主張し,単独法としての労働安全衛生法の制定に難色を示した(『いのち』No. 64,日本労働者安全センター,(2)頁)。
(注30) 政府提出法律案の国会提出に当たって,衆議院又は参議院のいずれに先に提出するかについては法律には特段の定めはなく,内閣の任意であるが,予算に関係のある法律案(いわゆる予算関係法律案)については,衆議院に先に提出されるのが例である(前田正道編『法制執務〈全訂〉』ぎょうせい,61頁)。
(注31) 保原喜志夫他編『労災保険・安全衛生のすべて』有斐閣,2頁。
(注32) 労働省が中央労働基準審議会に提出した「労働安全衛生法制として現行の労働基準法とは別に単独法を制定しなければならぬ理由」(1971(昭和46)年12月3日提出)という文書の中で,「なお,最近の職場環境の急激な変化と,労働災害防止の重要性から,米国では公正労働基準法とは別個に,昨年12月,労働安全衛生法(Occupational Safety and Health Act 1970)を制定した。また英国でも,現在同じような趣旨で工場法とは別に独立法の制定について検討中である」と述べられている。


はたけなか・のぶお 1943年生まれ。中央大学法学部卒業。東洋大学法学部大学院非常勤講師。主な著書に『労災保険・安全衛生のすべて』(保原喜志夫他編,共同執筆,有斐閣,1998年)など。労働政策,労働法専攻。