論文データベース

[全文情報を閉じる]

全文情報
(著者抄録)
本稿は日本的特徴といわれる,企業研究者の事業部門への異動について,こうしたキャリアパターンが形成された過程を歴史的に分析している。そこで見いだされたことは,次の3点である。第1に,日本の研究者の多くは35歳から40歳で事業部へ異動するが,そのほとんどは,昇進を伴わない主任研究員の「水平異動」である。第2に,研究者の事業部への異動は,1980年代以降頻繁になったものである。第3に,このようにキャリアパターンが変化した背景には,1980年代の技術の成熟化と人員管理上の問題があり,この点で異動は必ずしも「現場主義」とは関係がない。以上のことから「日本的」といわれる生産システムは,歴史的に相対化する必要があることを論じる。また日本企業は,異動によって研究者を柔軟に配置することで,1980年代の技術革新にうまく対応してきたのであり,またこうした点こそ,欧米企業が日本企業に注目した理由であったと考えられる。

(論文目次)
I はじめに
II 研究者の事業部への異動
III キャリアパターンの変化
IV キャリアパターン変化の背景
V 結論と展望

 I はじめに

 1980年代から90年代初頭,日本の製造業の国際競争力の強さと,それに対する欧米企業の関心を背景として,日本企業の生産システムに関する研究が盛んにおこなわれた。それぞれの研究で着目する点に違いはあるものの(注1),このような「日本的生産システム論」が一貫して論じてきたのは,日本企業の生産現場の経験を重視する「現場主義」の姿勢と,生産部門の生産性の高さであった。それは研究開発に注目する研究においても同様で,研究開発部門と生産技術部門との人事交流が活発であることが取り上げられ,日本企業の研究開発組織は,異動を介して部門間で頻繁に情報交換がおこなわれる「鎖状リンク・モデル」としてとらえられてきた(青木,1989;Kline,1990;伊藤,1992)。そして,欧米では研究者のキャリアパターンが多様で,特に研究開発部門から生産技術・製造部門への部門間異動がほとんどおこなわれないのに対し(雇用職業総合研究所,1989;榊原・Westney,1990;日本生産性本部,1992;Okimoto・西,1994),このような研究者の生産技術部門への異動は日本的特徴と言われてきたのである(青木,1988,1989;若杉,1989;野中,1990;藤本・Clark,1991;伊藤,1992,1993;Westney,1994;Okimoto・西,1994;榊原,1995;Kusunoki・Numagami,1996)。
 しかしこれらの研究は,一時点でのヒアリングや人事データに基づく分析にとどまり,このようなキャリアパターンがどのように生じたのか,という生成過程については触れられていない。しかし,キャリアパターンはその国に固有なものでも普遍的なものでもなく,企業組織や経営上の様々な変化に伴って変わるものであることが明らかにされている(注2)。日本企業と欧米企業との差異に注目し両者を対比させて論じることは重要であるが,その一方で今後は,「日本的」といわれる特徴が,果たしてどの程度まで日本に固有なものであるかを,歴史的に相対化していくことが必要であろう(注3)。またキャリアについては,これまで主に人材育成の視点から分析がなされ,企業内で長期にわたりはば広い異動をおこなう日本企業は,人材育成の点でも優れていることが論じられてきた(日本生産性本部,1989;今野,1991;小池編,1991,小池,1993;八代,1995)(注4)。これに対し今田らは,ホワイトカラーの企業内異動を,「年功制と終身雇用を主たる準拠枠として組織構造と人員構成を調整する多様なメカニズムの総体」ととらえる興味深い視点を提示している(今田・平田,1995)。
 しかし現在のキャリアパターンが,企業における組織や経営のいかなる変化に応じ,どのような力の相互作用によって形成されたのかという組織的な視点からの分析はほとんどおこなわれていない。こうした視点からの分析は,日本企業の組織構造や人事管理のあり方だけでなく,今後の変化をも展望することにつながるだろう。このような問題意識から,本稿では研究者の異動を歴史的に分析し,特に研究所から事業部への部門間異動が,組織や経営におけるどのような問題を背景としたものであるかについて考察する。分析は総合電機メーカーA社を事例とし,ヒアリングによる記録のほか(注5),社内資料,中央研究所所内紙,雑誌記事などを資料として用いる。1社の事例をそのまま一般化することはできないが,ここでは事例分析によって,今後の分析視角を取り出すことが目的である。
 第1に,中央研究所研究者の異動を分析し,事業部への異動のほとんどが,主任研究員の同じ職位レベルへの異動(「水平異動」)であることを論じる。第2に,1969~96年の事業部異動を分析し,80年代初頭以降とそれ以前とでは,研究者のキャリアパターンが異なっていること,これまで日本企業の特徴といわれてきた研究者の事業部異動は,もともと日本企業に特徴的だったのではなく,80年代以降頻繁になったものであることを論じる。第3に,こうしたキャリアパターンの変化は,半導体技術の成熟化と事業部組織の拡大による人員管理上の必要を背景に生じたことを論じる。第4に,研究者の事業部異動は,研究所の先端技術を事業部に人ごと移転する機能を果たしており,異動によって研究者が社内に柔軟に配置されることで,日本企業は1980年代の激しい技術革新に素早く対応してきたことを論じる。1980年代欧米企業が日本企業の研究者の異動に注目した理由も,まさにこうした研究者の柔軟な配置にあったと考えられる(注6)。以下では以上の4点について,順に論じていく。
 A社は,明治期に創業された日本を代表する総合電機メーカーで,平成10年度資本金は約3000億円(連結を除く),従業員数は約7万人の一部上場企業である。専門職制度として研究所研究者には「研究職制度」(1964年導入),事業部技術者には「技術職制度」(1965年導入)があり,研究職としては研究員(主任相当),主任研究員(課長相当),主管研究員(部長相当),主管研究長(副所長相当),技師長(所長相当)等の職位が設けられている。中央研究所は,「基礎的学術」「理学中心の仕事」を目的として1940年代,東京郊外に設立された研究所である。その後も新しい研究所が次々と設立され,現在A社は7研究所,約3000人の研究者を抱えている。うち中央研究所の所員は約1000人(スタッフ部門を含む)である。はじめ中央研究所では主に電子顕微鏡の研究がおこなわれていたが,1950年代からアナログコンピュータ,半導体(トランジスタ)の研究が始められ,60年代に半導体(集積回路),大型計算機,原子力の研究が中心になった。そして現在では,情報・通信,エレクトロニクスのほか,計測・科学・医療機器,材料などの研究がおこなわれている。特に半導体は,中央研究所が研究から製品化まで中心となって事業を立ち上げた経緯もあって,現在でも中央研究所の中心的研究テーマとなっている。
 半導体の製造工程には,大きく分けて設計と製造の二つの工程がある。研究所では主に半導体の材料に関する基礎的研究や,回路設計における先端的な要素技術の開発,論理設計がおこなわれ,具体的な製品の開発や設計は事業部の設計部でおこなわれている。一般に研究者は,システムLSI,DRAMといった製品ごとに専門が分かれており,工場の設計部も製品ごとに分かれている。開発はこの設計部を中心におこなわれ,回路設計のほかにも,トランジスタの配置といった製品のレイアウトや,製造プロセスなどが設計されている。また,半導体は製品や技術の専門分化が進んでいるため,同じ設計部内でも,技術者は回路設計とプロセス設計とに専門が分かれ,テーマの打ち切りやプロジェクトの場合を除けば(注7),製品間や専門間での研究者,技術者のローテーションはほとんどおこなわれない。なお,1999年4月現在の研究開発組織(半導体グループ)は図1のようになっている。

図1 半導体グループ機構図



 II 研究者の事業部への異動

 まず,研究者の異動についてA社の事例を述べよう。研究者のキャリアは,これまで様々な研究によって詳しく分析されている(日本生産性本部,1985,1987,1989;雇用職業総合研究所,1989;今野,1991,1992;伊藤,1992,1993;榊原,1995;石田ほか編,1996,1997)。調査対象とする企業の産業や規模は異なるもののこれらの研究では,研究者は新規大卒時に一括採用され,入社7~10年後の主任研究員時に,ほとんどが事業部へ異動することが明らかにされている。事業部へ異動した研究者が再び研究所へ戻ることはまれで,異動は研究→開発→製造という一方向のルートでおこなわれる。
 A社中央研究所の研究者のキャリアパターンも,これとほぼ同様である。事業部技術者のほとんどが出向・転籍まで同じ事業所内にとどまるのに対し,中央研究所研究者の多くは途中で他部門へ異動する。図2は,1970年,80年,90年に入社した研究者の,中途退職者や出向・転籍者を除いた入社時の人数を100として,研究所に残っている人数の比率を各年齢時で表したものである。1970年に配属された43人では,途中10人が退職,または大学や関連会社へ転籍した。そして残った33人のうち,19人が事業部,他部門へ異動した。同様に1980年配属者34人では途中4人が退職し,残った30人も,18人が事業部,他部門へ異動した。1990年配属者47人では,3人が退職,残った44人のうちすでに17人が異動し,31歳で中央研究所に残っている者は27人である。このように配属された研究者の半数以上は,組織的異動も含め,途中で事業部や他部門へ異動している(注8)。

図2 残った所員の比率(1970,80,90年入社者)

 次に,部門間異動と昇進との関係をみよう。表1は,1981年,86年,91年,96年に中央研究所から事業部へ異動した研究者の,それぞれ異動前と異動直後の職位について調べたものである。本来,研究所と事業部では専門職制度が異なるため,研究員は技師,主任研究員は主任技師と職名が変わる。しかしこのような職名の変化は省略し,表中では研究所での職名に統一して表記してある。なお,カッコ内は専門職の人数である。たとえば1986年に異動した部長のうち,1人は,異動後も事業部で部長となったが,もう1人は,部長相当の専門職である副技師長に変わっている。これをみるとわかるように,部長以上の異動は少ない。もちろん部長全体の人数が少ないこともあるが,主任研究員をみても異動後に部長となるケースは非常に少ない。多くは主任研究員の,昇進を伴わない「水平異動」である。また1981年,86年に比べて,91年,96年では研究員の異動が多くなっており,異動する研究者の年齢が若年化していることを示している。

表1 研究者異動前,異動後の職位比較(1981,1986,1991,1996異動者)

 さらに,事業部異動後のキャリアをみると,異動後も同じ職位レベルのままである場合が多い。表2は,中央研究所から半導体事業部K工場へ異動した研究者の,異動年と異動人数,異動時の職位を表したものである。異動した研究者の1997年時点の職位をみると,同じ職位のままである者が58人と,全体の半数以上にのぼる。最近の異動者が同じ職位のままであるのは当然としても,およそ10年前に異動した者が同じ職位にとどまっているのは,研究員という比較的若い時期に異動し,まだ主任技師に上がらない者がいるからである。また,異動後職位の上がった22人も,そのうち11人は,研究員から主任技師に上がった者である。ほとんどの大卒研究者,技術者が,専門職位である主任研究員,主任技師に上がることを考えれば,主任技師への昇進は特別なことではない。

表2 研究者の半導体事業部異動人数と異動年,移動時職位

 このように中央研究所の研究者のキャリアパターンをみると,先行研究でも明らかにされているように,多くの研究者は主任研究員時に事業部へ異動している。しかも研究員から主任技師に上がるものを除けば,異動のほとんどは昇進を伴わない「水平異動」である。



 III キャリアパターンの変化

 しかしA社において,研究者のキャリアパターンがこのようになったのはそれほど昔ではなく,比較的最近のことである。もちろんウェストニーが指摘するように,日本の企業研究者のキャリアパターンには,「現場主義」の歴史も関係している(注9)。たとえば日本学術振興会が1942年におこなった調査では,回答企業41社のうち36社が,研究者を将来工場勤務に就かせることを考慮している(注10)。A社中央研究所でも1942年の設立初期から,研究者がしばしば半年から1,2年工場に長期出張するなど,研究所と工場との緊密な連携が目指されていた。こうした長期出張は,今日でもおこなわれている。また,工場内に中央研究所の「分室」をつくり,研究者と事業部の技術者とが共同で研究開発をおこなう分室制度もつくられていた。特に半導体工場の分室は規模も大きく,1960年代半ばから70年代にかけて半導体事業の立ち上げに大きな役割を果たした。同じころ,たとえばアメリカのベル研究所では,研究所と事業部との交流がほとんどなかったといわれており(注11),研究開発部門と生産技術部門との密接な協力関係は,たしかに日本企業の特徴といえるだろう。しかし,分室制度や事業部への長期出張では,研究者は事業部での仕事を終えると再び研究所に戻るのに対し,1980年代に注目された事業部への異動は,研究者が再び研究所に戻ることのない一方向の異動である。
 図3は,中央研究所所内紙の,2月,8月人事異動発令の記事から,事業部への異動人数と異動時の職位とをみたものである。異動人数の変化をみると,1981年から異動者が少しずつ増え始め,80年代後半から毎年十数人が異動するようになる。ところでこうした異動者数の増加は,中央研究所全体の研究者数とは関係ない。半導体研究を始めた1950年代半ばから,中央研究所では,中途採用などによって,電気工学系の人材を積極的に採用し始めた。このため1955年ごろには500人程度であった中央研究所の研究者は,60年には1000人となり,60年代半ばには1400人に達した。しかし,その後人数は,ほぼ1200~1300人で一定している。このことからも,日本企業の特徴とされる研究者の事業部異動は,少なくともA社では,1980年代以降頻繁になったものであるといえる。先に挙げた図2をみても,1970年入社者の人数が比較的ゆっくりと減少していくのに比べ,80年,90年入社者では若いうちから人数が大きく減り始めている。組織改編による影響もあるが,このことは,研究者の異動のあり方が変わってきたことを示している。

図3 研究者の事業部異動人数と異動年,異動時職位の変遷

 また1980年代以降は,異動人数だけでなく,異動の内容も変化している。研究者の異動時の職位をみると,1980年代以前には,年齢の比較的高い部長相当職以上での異動が多く,しかも異動後はより上の管理職位に就く「上昇異動」が多かった。これらは主に,幹部候補者育成のための異動だと考えられる。これに対して1980年代には,主任研究員での異動が増え,また若干ではあるが,研究員での異動もみられるようになる。これは管理者として事業部に異動するという,1980年代以前の異動とは異なっている。すなわち,主任研究員時に事業部へ「水平異動」するという,今日のようなキャリアパターンが形成されたのは,1980年以降のことなのである。



 IV キャリアパターン変化の背景

 それではなぜ,研究者のキャリアパターンはこのように変化したのだろうか。その要因を一つに特定することはできないが,ここでは,どのような力の働きかけによって研究者の異動が促されていったのかをみよう。背景には半導体技術の成熟化と事業部組織の拡大,それに伴う人員管理上の問題があったと考えられる。
 1950年代アメリカを目標に始められた日本の半導体生産は,70年代までは小規模で,量産とはいいながら,その生産量は少なかった。A社でも研究開発から試作品の組み立てまでそのほとんどを中央研究所がおこない,「研究開発に工場がくっついている」感じであったという。「研究開発したものを,手作りで強引につくって」顧客に納めるような状態で,中央研究所から工場に研究者が長期出張するなど「開発した人がしょっちゅう工場を見ながら,不具合があったらまた直すみたいな,そういうことがやれた時代」であった(注12)。
 しかし1976~80年,半導体集積回路の量産技術で日本企業がアメリカ企業に追いつくと,以後最先端の半導体DRAMの開発では,日本がアメリカに先行するようになる(佐久間,1998)。たとえば国際学会(Institute of Electrical and Electronics Engineers)での日本企業研究者の発表論文数(注13)をみると,1980年代以前は年間10本にも満たなかったのが,80年代以降は,80年に12本,81年に18本と急速に増えている。A社は,1973年に4キロビットDRAMの開発に成功すると,76年には16キロビット,1979年には64キロビットの開発にも次々と成功し,81年,64キロビットDRAMでは世界のトップシェアを獲得した(『A社社史』)。半導体集積回路の生産量が急速に伸び始めるのも,この時期である(通産省『機械統計年報』各年版)。
 半導体産業の成長を見越した総合電機メーカーは,1983年,重電機器や家庭電気機器から,半導体などの産業用電子機器へと事業の中心を移し,半導体関連設備へ多額の投資をおこない始めた。また各電機・通信機メーカーも,半導体事業への投資を大幅に増やした(佐久間,1998)。A社もまた1979年から半導体関連設備への投資を増やし始め,特に84年には83年のおよそ1.5倍の投資をおこなった。こうして1979年から84年の5年間に,A社の半導体事業は年平均成長率36%の事業に成長し,産業用電子機器部門の売り上げが,85年には売り上げ全体の36%(うち半導体11.5%)を占めるまでになったのである(注14)(『A社社史』)。このように半導体事業が拡大し,技術が高度になると,量産に必要な装置や設備も大規模になり,高価格化してくる。事業部には新たな生産ラインが次々とつくられ,開発から試作まで事業部の生産ラインを使っておこなうほうが効率的となった。こうして「研究所だけでものごとができる時代は終わ」り,「ものつくりは事業部でないとできない」,「研究者が人ごと異動していかないと,実際の製品ができな」い時代になったのである(注15)。A社以外の電機・通信機メーカーをみても,1980年代には事業部研究所が新設されるなど,事業部での開発力が強化されている(日本能率協会,1987)。このように研究者の事業部への異動が増えた背景には,半導体技術の成熟化があったのである。また本稿で扱っているのは半導体産業であるが,このほかにも技術が成熟化した産業では同様の変化がみられるのではないか。すなわち,日本的特徴といわれるキャリアパターンは,半導体や自動車など技術が成熟化した産業においてみられるものと考えられる。
 しかし,長期出張や分室制度ではなく異動が増えた背景には,こうした技術の成熟化以外に,事業部組織の拡大を背景とした人員管理上の問題もあったと考えられる。A社では半導体事業の拡大に伴って事業部組織が拡大すると,工場は「ビジネスがどんどん伸びていたので,ものすごく人を欲しが」るようになり(注16),新しい技術の知識を持つ研究者が,即戦力となる人材として事業部から強く求められた。1983年当時のA社常務取締役は,このような事業部開発力の強まりについて次のように語っている。

 以前のA社は,工場では余りカネを使わず,むしろ研究所が多く使っていました。それでは,潜在的な技術力は育成できても,最後の製品化で遅れをとります。それが,最近では,工場のマンパワーが増大し,開発費は大きく伸びました。既に,研究者一人当たりの研究費は,研究所よりも工場の方が上回るまでになっています。……これを非常によい傾向だと考えており,工場がさらに力をつけてくれれば,製品開発力は一層向上すると思います(『A社社報』1983年5月号)。

 技術者の多くは,配属後,事業部内で育成される。しかし技術革新が早まり技術の専門分化が進むと,目前の製品化に追われる事業部技術者だけでは,新しい技術を取り入れて開発をおこなうことは難しくなる。そのため,事業が拡大して予算的にも余裕の出た事業部は,研究者を事業部に積極的に受け入れることで,彼らの持つ先端の知識や技術を新しい製品の開発に活かしてきたのである。またこのころには,中央研究所でも人材の活性化がはかられようとしていた。1977年,当時の中央研究所総務部長は,研究者の高齢化が今後の課題であるとして,欧米諸国の研究所を視察した印象を次のように語っている。

 一定期間研究部門にいた人が,開発部門へ動くといった考え方が可成り確立されているように感じました。例えば,フィリップスの研究所では,研究に7~8年従事させた後殆どの人を開発に移すということをやっています。中研も一仕事終えた人で適性のある人は,工場に出て開発に従事するといった施策をもっとやってもよいのではないかと感じました(「中央研究所所内紙」No.233,1977年(傍点は筆者))。

 1980年代は研究所志望の新規学卒者を,積極的に中央研究所へ配属したこともあって,こうした施策はいっそう進められたと考えられる。たとえば日本能率協会が先進企業30社におこなった調査では,多くの企業が今後の課題として中高年対策を挙げ,研究者の適性配置やローテーションを検討している(日本能率協会,1987)(注17)。1980年代から若い研究者の事業部異動が増え始めた背景には,適性のある研究者を適応力のある若いうちに事業部へ異動させようという,研究所側の人事管理上の意図も働いていたのである。このように1980年代には,即戦力になる人材として研究者を求める事業部側の要望と,適性のある研究者を早めに異動させたいという研究所側の要望とが一致することで,研究者の事業部への異動は促されたのだと考えられる。
 以上はごく限られた事例の観察であるが,日本的特徴といわれる研究者のキャリアパターンは,こうしたキャリアパターンが注目されたまさに1980年代に形成されたものといえるだろう。すなわち研究者の事業部への異動は,必ずしも日本企業に固有なものではない。またキャリアパターンが形成された背景をみると,研究者の事業部への異動は,研究開発部門と生産技術部門との密接な協力関係によるものというより,技術の成熟化や人員管理といった組織上の問題が背景となっている。日本企業の特徴とはむしろ,研究者を自由に事業部へ異動させられることであり,このように人を社内に柔軟に配置できる点こそ,1980年代に,欧米企業が日本企業に注目した理由であったのだと考えられる(注18)。もちろん,日本企業は,欧米企業と比較すれば研究開発部門と生産技術部門の協力関係は密接であった。研究者の工場出張や分室制度は昔からみられたものである。また異動の結果,両部門の情報交換が促進されるとも考えられる。この点で,本稿は「日本的生産システム」の議論を受け継ぐものである。しかし,これまでの議論は,日本企業の「現場主義」を重視するあまり,研究者の部門間異動についても,それが日本企業固有の特徴であるかのように普遍化しすぎてきたのではないか。今後は,このような議論の相対化が必要であろう。
 また研究開発についても,研究開発部門の果たしている役割は,生産技術部門と協力しておこなう製品開発ばかりではない。1980年代の半導体では,むしろ中央研究所は将来的な先端技術の研究開発を担い,事業部が具体的製品の開発・設計をおこなうという分業こそが重要であった(注19)。1980年代,国際学会で日本の企業研究者がおびただしい数の論文を発表していることをみても,研究所が事業部との製品開発だけではなく,先端的な技術の開発を担ってきたことが裏づけられるだろう。そして1980年代日本企業は,研究所で新しい技術の研究に携わった研究者が次々に事業部へ異動することで,製品サイクルの短期化や技術革新の早さに柔軟に対応してきたのである。



 V 結論と展望

 以上の分析は次のようにまとめられる。

(1) 研究者の事業部への異動は,部長職以上の者の昇進を伴う「上昇異動」と,主任研究員の昇進を伴わない「水平異動」との二つに大きく分けられる。

(2) 1980年以前は研究者の事業部への異動は少なく,部長相当職以上の「上昇異動」がほとんどであった。しかし1980年代以降になると,主任研究員の「水平異動」が大きく増える。すなわち,日本企業の特徴とされる研究者の事業部への異動は,80年代頻繁になったものであり,現在のようなキャリアパターンは80年以降形成されたものである。

(3) キャリアパターンが変化した背景には,1980年代の技術の成熟化と事業部組織の拡大があった。そして即戦力になる人材として研究者を求める事業部と,活性化のため研究者を早めに異動させようとする研究所との人員管理上の要請とが一致することで,研究者の異動は促されたのである。

(4) 研究開発においては,こうした研究者の事業部への異動によって,研究所から事業部へ一方向的に技術や情報が伝えられている。日本企業はこのように研究者を異動させ,企業内に柔軟に配置することで,1980年代の技術革新にうまく対応してきたのであり,またこうした点こそ,1980年代に欧米企業が注目した点だったと考えられる。

 本稿はA社研究者の事業部への異動に限られた分析であり,ここでの議論を一般化することはできない。しかしこうした分析を通してみえるのは,日本企業の強みが,組織や経営上の変化に応じて人を柔軟に配置できることにあったのではないかという点である。日本のブルーカラー研究においては,ブルーカラーが職場で柔軟に配置され,ときには前職と関係のない職種へも幅広く転換させられることで,日本企業は技術革新に素早く対応する柔軟な生産システムを築くことができたと指摘されている(小池,1977;菅山,1995)。研究開発においても,同様のことが言えるだろう(注20)。
 またこのような研究開発システムは,1980年代半導体産業のように,技術が単線的に発達し,製品目標が常に明確な場合には有効に機能した。しかし,1990年代のような新しい技術や製品の創造が求められる場合に,同じように有効に機能するとは限らない。日本的な生産システムの特徴やその生産性の高さなど,1980年代盛んにおこなわれた議論については,今後は歴史的な視点から相対化し,細かく分析していくことが必要である。


*本稿は,平成11年度文部省科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。本誌の執筆にあたっては,A社人事部,中央研究所の方々に多大なご協力をいただいた。また,稲上毅教授(東京大学),佐藤博樹教授(東京大学),森建資教授(東京大学),ならびに2名の匿名レフェリーから,丁寧なコメントやアドバイスをいただいた。心から感謝するとともに,ここに厚く謝意を表したい。もちろん,ありうべき誤謬は,すべて著者の責任によるものである。


(注1)たとえば中村は,日本の生産システムに関する研究を,「生産管理」「製品開発」「企業間関係」「製造職場労働者の熟練」という四つのテーマに整理している(中村,1996)。

(注2)たとえばアメリカの自動車産業や通信産業でも,リーン生産方式の普及やダウンサイジングによって,マネージャーに必要な技能が,一職能に特化したものからより広い多職能なものへと変化し,マネージャーのキャリアパターンも変化したことが報告されている(MacDuffe, 1996; Batt, 1996)。

(注3)先駆的な業績として藤本(1997)が挙げられる。

(注4)もちろんこれらの研究でも,人材育成による社員の技能の向上が組織の効率に結びつくと論じられる点では,組織への視点を含めて議論している。また,八代は異動の機能として,企業内労働需給の調整など組織における異動の機能についても言及している。しかし,分析の中心は,キャリアが個人の人材育成とどのようにかかわっているかにある(八代,1995)。

(注5)1997年と98年,A社人事教育部,中央研究所,半導体事業部においてヒアリングをおこなった。中央研究所では研究者8名,その他それぞれ3名に2時間程度のヒアリングをおこなっている。対象者は主に半導体集積回路設計の研究者,技術者で,すべて男性正社員である。また1998年と99年に,中央研究所OB2名と前中央研究所所長,半導体事業部技術者2名にヒアリングをおこなった。

(注6)ウェストニーによれば,1980年代は「研究開発の仕方に関する日米間の国際的な双方向の組織学習がかつてないほど盛んにおこなわれた時期」であり,アメリカ企業は研究開発組織の再構築をおこない,その過程で研究開発,製造,顧客の三つをより緊密に結びつけるために日本企業を参考にしたという(Westney, 1994)。1990年代以降のアメリカ企業における研究開発組織の変化については,Rosenbloom・Spencer(1996)を参照。

(注7)実際には,途中で研究や製品開発が打ち切られることもあり,その場合は別の研究テーマや製品に配属されることになる。ヒアリングをおこなった研究者,技術者もこのような経験を持っていた。

(注8)他部門のほとんどは,企画室や研究開発推進本部のような,特許などの技術情報を管理したり,研究開発をサポートする部門である。

(注9)ウェストニーは,日本企業の特徴は,研究所が生産部門と強い結びつきをもち,生産部門と非常によく似た組織構造を持つことだと指摘し,それは初期の日本の研究所が技術の輸入と移転という使命をもち,工場レベルの研究開発部門を1カ所へ統合するなど,生産に密着した部門を起源とすることによると説明している(Westney, 1994: pp. 192-194)。

(注10)日本学術振興会工業改善第16特別委員会が,1942年,電機関係14社(15事業場),機械・金属関係18社(21事業場),化学関係8社および理化学研究所,辻,鈴木(梅)各研究所の計47研究機関におこなった調査。そのうち「研究者トシテ入社セシメタル者ノ将来工場ニ勤務ノ場合アルヲ考慮スルヤ」という質問に対し,「現場ニ廻ル事アルヲ予想シ考慮ス」と回答した研究機関は36カ所にのぼり,「工場勤務ヲ考慮セズ」と答えたのはわずか4カ所であった(『日本科学技術史大系 第13巻通史』,1969:pp.426-430)。

(注11)1963~75年アメリカのベル研究所で働いていたある研究者は,当時のベル研究所の状況を次のように語っている。「研究・開発はベル研,製造はウェスタンエレクトリック(WE)と分担が決められており,もしWEで何かしようと思ったら事前にベル研の了承を得ることになっていました。」(『電子情報通信学会誌』Vol.79,No.5,1996:pp.451-461)

(注12)半導体事業部部長(1972年入社)ヒアリングより。

(注13)IEEE Journal of Solid-State Circuits各年号より。なおこの学会は,半導体の企業研究においては最も権威のある国際学会といわれる。

(注14)A社における半導体の売上高は,1979年には70年の約3倍に達し,5年後の84年には70年の14倍にまで伸びている(『A社社史』)。

(注15)前A社中央研究所所長(1972~79年在任)へのヒアリングより。

(注16)半導体事業部主任技師(1979年入社。1985年中央研究所より事業部へ異動)へのヒアリングより。

(注17)アメリカでは,年齢と能力との関係を否定する研究者が非常に多いのに対し,日本では逆に,ほとんどの研究者が,年齢と能力との関係を認めている(日本生産性本部,1992)のも,こうしたキャリアパターンに影響されているものと考えられる。この点に関する分析は,榊原(1993)を参照。

(注18)ウェストニーは日本企業の競争力は,「企業が,生産部門など他部門へ技術者を配置転換し,技術者の本質的な興味を引かないが企業にとっては高い価値をもつ仕事(たとえば漸進的な製品改善)を任命できるということによって支えられているのである」と指摘する。このような指摘は,まさにこの点を鋭く突いている(Westney, 1994)。

(注19)同様の点は,伊藤(1992),Okimoto・西(1994)によって指摘されている。

(注20)1960年代アメリカでは,エツィオーニやコーンハウザーらが,企業内の科学技術者と組織との葛藤を問題とした。最近は,このような企業内専門職は,必ずしも組織と葛藤するものではないことが論じられている(たとえば,Meiksins・Watson,1989;Wallace,1995参照)。しかし日本では従来,このような葛藤はほとんど問題にされなかった。日本企業での研究者の柔軟な配置は,こうした日本企業における研究者と組織との関係についても興味深い視点を提示している。


参考文献

明石芳彦編(1995)『日本企業の研究開発システム』東京大学出版会。
青木昌彦(1988)〈永易浩一訳〉『日本経済の制度分析』筑摩書房,1992年。
――(1989)『日本企業の組織と情報』東洋経済新報社。
Batt, R.(1996)“From Bureaucracy to Enterprise? The Changing Jobs and Careers of Managers in Telecommunication Service”, Osterman, P. et al., Broken Ladders, Oxford University Press.
Fruin, M. Smart,(1998)“Cards and Product Development Strategies in the Electronics Industry in Japan”,明治大学『経営論集』45巻2,3,4合併号。
藤本隆広,キム・クラーク(1991)〈田村明比古訳〉『製品開発力』ダイヤモンド社,1993年。
藤本隆広(1997)『生産システムの進化論』有斐閣。
今田幸子・平田周一(1995)『ホワイトカラーの昇進構造』日本労働研究機構。
今野浩一郎(1991)「技術者のキャリア」(小池編 1991)。
――(1992)「技術者の労働市場と求職行動」『日本労働研究雑誌』第393号。
稲上毅(1998)「創造的労働と日本の雇用慣行」『日本労働研究雑誌』第458号。
石田英夫ほか編(1996,1997)「研究人材マネジメント:そのキャリア・意識・業績」『組織行動研究』No.26,No.27,慶応義塾大学産業研究所。
伊藤実(1992)「技術革新と日本型研究開発システム」『日本労働研究雑誌』第393号。
――(1993)「研究開発技術者の企業内育成の現状」『日本労働研究雑誌』第401号。
研究開発研究会(1967-68)『研究開発』No.1-12。
神代和欣・桑原靖夫編(1988)『現代ホワイトカラーの労働問題』日本労働協会。
Kline, S.J.(1990)〈鴫原文七訳〉『イノベーション・スタイル』アグネ承風社,1992年。
雇用職業総合研究所(1989)『技術者のキャリア形成に関する調査報告書――総括編』。
小池和男(1977)『職場の労働組合と参加』東洋経済新報社。
――編(1991)『大卒ホワイトカラーの人材開発』東洋経済新報社。
――(1993)『アメリカのホワイトカラー』東洋経済新報社。
Kusunoki, Numagami(1996)“Interfunctional Transfers of Engineers in Japan: An Empirical Study on a Large-scale Manufacturing Firm”,『慶応経営論集』第13巻2号。
MacDuffe, J.P.(1996)“Automotive White-Collar: The Changing Status and Roles of Salaried Employees in the North American Auto Industry”, Osterman. P. et al.
Meiksins, P.F., Watson, J.M.(1989)“Professional Autonomy and Organizational Constraint: The Case of Engineers”, The Sociological Quarterly Vol.30, No.4.
中村圭介(1996)『日本の職場と生産システム』東京大学出版会。
日本科学史学会編(1969)『日本科学技術史大系 第13巻通史』第一法規出版。
日本能率協会(1987)『先進企業30社にみる研究所運営活性化実例集』。
日本生産性本部(1985)『研究・開発技術者の処遇に関する調査報告』。
――(1987)『自主技術開発と組織・人事戦略』。
――(1989)『研究・開発技術者のキャリアと能力開発』。
――(1992)『米国の技術者・日本の技術者』。
野中郁次郎(1990)『知識創造の経営』日本経済新聞社。
Okimoto, D.,西義雄(1994)「日本半導体産業における研究開発組織」(青木・ドーア編〈NTTデータ通信システム科学研究所訳〉(1994)『システムとしての日本企業』NTT出版,1995年)。
Rosenbloom, R・Spencer(1996)〈西村吉雄訳〉『中央研究所の時代の終焉』日経BP社,1998年。
榊原清則・E.ウェストニー(1990)「技術戦略の新展開と技術マネジメント」『ビジネス・レビュー』第37巻第2号。
榊原清則(1993)「アメリカの研究者と日本の研究者」(伊丹敬之ほか編『日本の企業システム第3巻』有斐閣)。
――(1995)『日本企業の研究開発マネジネント』千倉書房。
佐久間昭光(1998)『イノベーションと市場構造』有斐閣。
Shapira, P. et al., The R & D Workers, Greenwood Publishing Group, Inc., 1995.
菅山真次(1995)「日本的雇用関係の形成」(山崎広明・橘川武郎編『日本経営史4「日本的経営」の連続と断絶』岩波書店)。
Wallace, J.E.(1995)“Organizational and Professional Commitment in Professional and Nonprofessional Organizations”, Administrative Science Quarterly, Vol. 40.
若杉隆平(1989)「研究開発の組織と行動」(今井賢一・小宮隆太郎編『日本の企業』東京大学出版会)。
Westney, E.(1994)「日本企業の研究開発」(青木・ドーア編1995年)。
八代充史(1995)『大企業ホワイトカラーのキャリア』日本労働研究機構。


すずき・じゅんこ 1972年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在学中。社会学専攻。