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(著者抄録)
わが国の所得格差が拡大しているという私の主張に対して,様々な批判がなされた。それらは4点に要約される。本稿では,それらの批判に対して回答を詳細に示すとともに,所得分配の計測にまつわる新しい視点を提供した。当初所得の定義と計測は国によって異なるので,国際比較には留意を必要とするが,私が主として用いた所得の概念は再分配所得なので,国際比較の可能性は高く,『日本の経済格差』の結論を揺るがすものではなかった。すなわち,わが国の所得分配は不平等化しているし,平等神話の崩壊は確実である。最後に,所得格差の拡大に関して,機会の平等と結果の平等の相違と,政治や経済政策の役割について論じた。

(論文目次)
I はじめに
II 高齢化論
III 所得統計資料の問題
IV 所得の定義
V 所得の構成要素として見落とされている項目
VI 所得格差是認論
VII まとめ

 I はじめに

 わが国の社会経済は2極化が進んでいる。所得分配の平等度の変遷を時系列的に大まかに調べれば,戦後から20~30年間は平等度が高かったが,1980年ごろから不平等の拡大していることがわかった。いわば中間所得層のウエイトが減少し,高所得層と低所得層のウエイトが上昇していることを意味し,これは貧富の格差拡大という2極化の意味である。
 国際比較の視点から所得分配を調べてみると,高度成長期においてわが国は北欧や中欧並みに平等性が高かったが,最近では世界の先進諸国で最も所得分配の不平等性が高いアメリカほどとはいわないが,ヨーロッパの大国,すなわちイギリス,フランス,ドイツ並みの不平等度になっている。いわば所得分配に関して普通の国になったのであり,わが国で信じられてきた平等神話の崩壊をうかがわせている。先進諸国の中で効率性と平等性の両者に長所があるとされ,わが国が誇りにしてきたユニーク性はもう存在しない。
 実は平等神話の崩壊ないし2極化現象は,所得といった最もわかりやすい経済変数のみならず,社会階層といわれる職業,教育,そして資産分配においても同様にみられる現象となっている。親のステイタスが子供のステイタスにそのまま受け継がれる社会,そして高資産がそのまま継承される社会になりつつある。階層間の職業移動がなくなり,いわば世襲や遺産相続によって,階層分化と階層固定が顕著になっている。わかりやすくいえば,資産家ないし上層階級の親をもつ子供は,そのまま資産家や上層階級になり,そうでない階層の子供はそのまま貧困層ないし下層階級になる程度が高まっている。
 以上のことを『日本の経済格差――所得と資産から考える――』(岩波新書)で明らかにしたが,私の分析,特に所得の分析に対して様々な批判が寄せられた。それらの批判に答えることによって,できれば私のいいたいことをより鮮明に,かつ説得力をもたせるようにしたい。ただし,批判の中には正当なものも数あるので,それは率直に反省として述べておきたい。最後に,新しい課題もいくつか提唱しておきたい。
 それらの批判を大別すれば,次の四つに要約されよう。第1の批判は,わが国の所得分配の不平等の進展は,高齢化を反映したものであり,すなわち人口の年齢構成変化の要因が大きく作用しているので,さほど心配しなくてよい,というものである。第2の批判は,私が主として資料として用いた厚生省の『所得再分配調査』に依存して国際比較をするのは,注意を要する,とするものである。第3の批判は,所得の定義が国によって異なるので,定義を共通にしてから国際比較を行うべき,というものである。第4の批判は,わが国経済の不振を立て直すには,所得格差の拡大はむしろ歓迎すべきといえるので,現時点では不平等化の問題は無視してもかまわない,というものである。
 本稿での新しい問題提起とは,通常の所得統計に計上されない項目が,実社会には数多く存在することを指摘していることにある。代表的には,帰属家賃の問題と,企業(特に大企業)が従業員に給付している諸々の福利厚生費の存在がある。これらの意味を論じてみたい。
 なお,最近における階層固定化という私の主張は,社会学者によって本格的に検証されるべきものである。私の本の出版後,1995年度のSSM調査(社会階層と社会移動全国調査)の分析結果が公刊されつつある。その全容についてはもうしばらく待たねばならないが,散見される成果によると次の二つの異なった評価がある。
 第1は,原・盛山(1999)によるもので,過去の長期間に注目すれば,戦後の急速な開放化(すなわち機会の平等化)は,少なくとも否定される。すなわち,いわれているほどの階層開放は進まなかった。ところで,近年“急速”に階層が固定化しつつあるという議論も極端にすぎる,と主張されている。私も最近に関して,“急速”とはいっていないが,階層固定化を簡単に認めないのが,原・盛山(1999)の主張である。
 第2は,佐藤(2000)によるもので,原・盛山(1999)とは異なる見解である。すなわち,最近になって階層固定化がみられると,主張されている。佐藤の見解によると,階層固定化は戦前への回帰といってよいほどの深刻さである。
 両者とも同じデータを使用していながら,異なる結果を得ているのは,推定方法とサンプルの採用方法が異なるからである。
 私自身の評価は佐藤説に近いが,1995年のSSM調査の分析結果が,最終的に明らかになってから判断されるべきことである。社会学者の本格的分析と論戦に期待したいし,経済学者との対話も必要であると痛感する。



 II 高 齢 化 論

 第1の批判は太田(1999),大竹(2000)等でなされた。これに対しては,高齢化がわが国の所得分配を不平等化させた要因ということは,私も本の中で主張していることである。たとえば,低所得者の多い独居老人の比率が増加している,等々である。しかし,高齢化の要因が,所得分配が大きく不平等化している事実にどれほど貢献しているかを,統計的に提示していないので,第1の批判は正しいというか,私の本の欠点を補完してくれたといえる。ただし,高齢者の間で所得格差が拡大していることは高齢者間の貧富差が広がっており,いわば2極分解を意味する。これが深刻でないとはいえない。したがって,高齢化が原因となって所得分配の不平等化に貢献したのは事実であるが,不平等化を問題なしとはいえないのである。
 高齢化に関連していえば,もう一つ考慮されなければならないことがある。それは,わが国の賃金決定における年功序列制を念頭におけば,若年層と中・高年層の賃金格差は一般的に大きい。高齢化が進むということは,賃金の高い年齢層の増大を意味するので,所得の構成要素として賃金のウエイトが高い場合,所得分配が不平等化するのである。わが国の所得分配の不平等化は,この要因を無視できないのである。これらは太田(1999),大竹(2000)の主要論点でもある。これらもあくまでも所得分配不平等化の原因を示すもので,それでもって分配不平等化が社会に問題を提供していない,とはいいきれない。ところで,わが国の賃金決定は勤続年数や年齢によって上昇する程度が減少過程にある。すなわち,勤続年数や年齢間格差が縮小傾向にあるので,高齢化による賃金格差幅は将来減少する可能性が高い。
 むしろ年功制の見直しと能力・業績主義の浸透によって,たとえ同年齢・同勤続年数の人であっても働きぶりに応じて賃金が決まるので,個人間の賃金格差の拡大が進行中である。しかも企業間の賃金格差も競争によって拡大しつつある。これらの拡大要因とすでに述べた縮小要因のどちらの要因が大きいかによって,将来の賃金格差の動向が決まる。私は能力・業績主義によって,個人の賃金格差が拡大に向かい,そして企業間賃金格差の拡大という要因が,より強固であると予想している。
 太田(1999)は,橘木(1998)を批判して,わが国賃金の年齢間格差は拡大していないと主張し,賃金格差が拡大の事実はないとした。年齢間格差だけに注目すれば,すでに私も述べたように年功制の見直しが進んでいるので,太田氏の主張に間違いはない。ただし,賃金分配に注目すれば,賃金は年齢以外に,性,教育,職業,企業規模,産業,等々様々な要因によって決定されるので,それぞれの要因に関して賃金格差がどう変遷したかを調べる必要がある。
 その一部を橘木(1996,1998)でも行っている。たとえば,男女間賃金格差は,フルタイム労働者は別として,女性のパートタイマーの増加を反映し,かつ時間あたり賃金率の差が両者の間で広がっているので,格差は拡大の傾向にある。教育による格差は,高学歴社会の影響を受けて,大卒と高卒の間の賃金格差は縮小の傾向にある。しかし,今後は能力・実力社会を迎えて,この傾向が反転する可能性もある。ブルーカラーとホワイトカラー間の賃金格差に変化はないが,これも学歴間格差と同様に将来拡大するかもしれない。企業規模間格差は拡大傾向にあった。
 賃金格差の変遷を知るには,これらの効果をまとめて,総合的に知る必要がある。年齢間格差だけでは物語の一端しかわからない。しかし,それらの効果を総合的にかつ完璧に知るには,賃金に関する個票の利用が不可欠となる。これに関していえば,わが国では個票の利用に関して,一般の研究者に大きな制約がある。これは泣き言になるが,個票の利用可能性については,役所で働いている人に有利がある。
 以上をまとめれば,様々な個別の効果を全体として総合的に評価して,はじめて賃金格差が全般的に拡大しているかそれとも縮小しているかが検証されうるのである。年齢間格差の検証だけで賃金格差全体の動向を主張しようとした太田氏の批判は,枝を見て幹を見ていない,ともいえるのである。



 III 所得統計資料の問題

 第2の『所得再分配調査』については,・当・初・所・得の定義が他の統計データと異なる性質があるとの指摘は重要で,注意を要する点である。したがって,アメリカをはじめ,外国における当初所得と比較することには注意が必要である。ただし,私が主として関心を示した所得の概念は,税や社会保障の貢献分を考慮した・再・分・配・所・得なので比較に問題はない。再分配所得に注目すれば,最も不平等性が高い国はやはりアメリカであり,順にヨーロッパの大国と日本が続き,最も平等性の高いのが北欧諸国と中欧の小国である。
 なお,気になる点がある。それは厚生省の『所得再分配調査』が単身高齢者,ないし低所得者階級の標本が過大という声がある。逆に,総務庁の『全国消費実態調査』には単身者の標本が過小との声がある。政府が厳正に標本抽出を行っていると信じるしかない。ところで,皮肉にもこれら過大推計と過小推計の両者を平均すると,わが国の真の姿があるのかもしれない。この両者を平均した結果,わが国の再分配所得の分布はアメリカより平等性が高いが,ヨーロッパの大国と同じ程度,最も平等なのは北欧諸国,という結論を主張できる。日本の平等神話の崩壊は確実にいえるのである。
 ここで所得分配の調査統計における単身者のことを議論しておこう。一般に所得の統計は家計を単位にして収集される。家計には所得稼得者の数が異なることが多いし,家族の人数も異なっている。たとえば稼得者に関していえば,夫のみが働き妻が専業主婦の場合と,夫と妻の2人が働く場合では,家計所得は大きく異なるので,厳密には共通の土俵で比較できない。ただし,稼得者の数は,それぞれの家計が自由に決定しているのであるから,あえて問題にする必要はない,という考え方もある。単身者は当然のことながら1人のみの稼得者である。
 稼得人数の違いによる差が大きいことを橘木(1998)でも示したが,大竹(2000)は高学歴の夫と高学歴の妻がともに働くケースが増加して,家計所得の格差拡大の大きな要因の一つとして,これを主張している。これは直感的にわかりやすい議論である。一番困難なことは,夫と妻が働いた場合,労働の非効用(すなわち働くことの苦痛)が倍加するので,このことを考慮して夫と妻の共働きの効用を評価する必要がある。少なくとも,夫のみが働き,妻が働かない場合には,妻の労働の非効用がないからである。
 次に,家族の人数が大きく異なる場合,所得の大小による効果よりも,生活水準に注目すれば,その影響度はより大きい。特に単身者とそうでない家計では,規模の経済が作用するかしないかによって,生活水準は異なる。たとえば,単身者もそうでない家計も,テレビや冷蔵庫は1台保有するだろうから,単身者に不利である。しかし,「独身貴族」という言葉が流行したように,独身者のほうが生活水準が高い,という説にも説得力はある。子供の数が増加すれば,生活水準に差が生じることは明らかである。家族構成による差については,八木・橘木(1996)で詳しく検討している。
 このように稼得者の数と,家族人数を共通の尺度で調整して家計の所得を再計測したものを,等価所得概念による所得という。実際の統計では,家族の人数による差の調整が,より普及している。家計間の所得はこの等価所得によって比較されてはじめて,高い信頼性が備わることはいうまでもない。所得分配の国際比較についても同様である。
 世界各国の所得分配を比較するプロジェクトとして,「ルクセンブルク所得分析」という組織があるが,このプロジェクトでは各国のデータをもちよって,共通の理論体系に基づいて等価所得概念に変換してから,国際比較研究を行っている。わが国はこのプロジェクトに何度も誘いを受けたが,いまだに参加していない。先進諸国の中では異様なことであり,日本政府も参加してほしいものである。最近では台湾・韓国もこのプロジェクトに入っており,アジアからもわが国は孤立しそうである。
 日本がこの研究プロジェクトに入っていないので,わが国の所得分配の現状を国際的な視点から正確に確認することは不可能である。いわばやや信頼性の欠ける比較研究しかできない。たとえば,私が用いた『所得再分配調査』は単身者が入っているので,統計としての信頼性は高いが,等価所得概念に修正していないものを用いた。大竹・齊藤(1999)では,等価所得概念に変換して,所得を再推計したところ,当初所得はともかくも,再分配所得に関していえば,わが国の不平等度の数字はやはり高いという結果が示された。したがって,私が『日本の経済格差』で述べた不平等度に多少の修正は必要であるが,結果を大きく変えるものではなかった。
 わが国政府がOECD(経済協力開発機構)に提供したデータ,すなわち『全国消費実態調査』による国際比較研究は,等価所得概念を用いているので比較可能性はあるが,先ほど述べたようにこの統計は単身者の標本がなぜか少ないので,信頼性にやや欠ける。一般に単身者は低所得者の数が多いのである。Oxley, Burniaux, Dang and D'ErcoleによるOECDの研究(1997)は,わが国の所得分配の不平等度は先進諸国の加盟国のうち,中間あたりと示しているが,これも留保が必要となるのである。
 OECDに関していえば,1970年代にOECDが先進諸国の所得分配の現状を比較して,高度成長期においてわが国は北欧・中欧並みに平等性が高いという結果を示した(Sawyer(1976)参照)。この研究成果がわが国の平等神話を生む一つの有力な根拠となったが,日本のデータは『家計調査』が用いられていた。『家計調査』は単身者と農家が標本より除かれており,深刻なことに低所得階級が排除されていたことを意味している。したがって,わが国の所得分配の平等性が高かったという通説にも疑問符がつく。過去の日本社会の所得分配平等神話も,いわれているほど実際はそうでなかった,という解釈も可能である。私はこの解釈を支持しているが,歴史家によって検証されるべきものである。
 ついでながら,『家計調査』を用いて,時系列変動を調べるには問題がある。なぜならば,単身者の増減が所得分配の変遷に影響を与えるが,『家計調査』はこのことを考慮できないからである。この問題は橘木(1998)をはじめ,大石・伊藤(1999),大竹(2000)のすべてにあてはまる問題である。世の中単身者の数が増加している効果を調整しないで,2人世帯以上のデータだけで分配の不平等の変遷を議論するのは,分析対象の家計を共通にしているという意味は大きいが,国全体の所得分配の変遷を議論するには不適当である。
 ここまで述べてきたように,わが国の所得分配はどの統計資料を用いるかによって,国際比較上の地位が異なってくる。総合的に判断すると,ここでほぼ確実にいえることは,すでに述べたことでもあるが,所得分配の不平等性が最も高いのはやはりアメリカであり,次にヨーロッパの大国と日本が続き,最も平等性の高いのが北欧諸国と中欧諸国の小国である。わが国の平等神話崩壊は確実である。ついでながら,1960年から70年代に関する平等神話も,実は虚像であった,という仮説も検証に値する。
 国際比較を離れて,わが国のデータのみに注目して検証してみると,『所得再分配調査』『全国消費実態調査』『家計調査』すべてに関して,ここ20年くらい所得分配の不平等化が進行している。それぞれのデータは,時系列的に共通の定義で計測されているので,過去と現在を比較することに何も問題はない。ただし,すでに述べたように,『家計調査』は単身者の増減を考慮できないので,やや説得力に欠ける。むしろこの点では,単身者の増減を考慮できる『所得再分配調査』のほうに信頼性がある。
 『日本の経済格差』では,『所得再分配調査』の1992年分までの数字しか示せなかったが,その後新しい数字が公表されたので,表によってそれを示しておこう。

表 所得再分配効果(ジニ係数)

 調査年1992年から95年への変化についてわかる点は,次の点である。第1に,当初所得のジニ係数はやや上昇しているので,不平等化が少し進展した。第2に,再分配所得に関していえば,ジニ係数がやや下降しており,不平等度がやや減少したといえる。厚生白書によると,これは社会保障による再分配効果が強力になったと解釈されている。
 所得分配の不平等を測定するのに最もふさわしい再分配所得を長期の視点,すなわち1980年から95年までで評価すると,傾向的に所得分配の不平等化が読み取れる。ジニ係数でいうと,約15年間で0.046ポイントの上昇なので,かなりの不平等化がみられたと結論づけられる。
 ここで重要なことは,すでに述べた三つのデータともに所得分配の不平等化を示しているので,わが国の所得分配を時系列でみると,格差拡大は主張できる。データによって格差拡大の程度に大小はあるが,どのデータも格差縮小は示していないのが象徴的である。所得分配の不平等化は確実に進行しているのである。



 IV 所得の定義

 第3の批判である所得の定義については,『所得再分配調査』の当初所得の定義に問題あり,という指摘は第2の批判のときに少し述べたが,具体的に何が問題と指摘されたかをここで述べてみよう。
 『所得再分配調査』の当初所得では,公的年金の支給額が計上されておらず,再分配所得に計上されていることへの批判である。いわば引退者の当初所得に公的年金支給額が計上されていないので,高齢者の当初所得が相当低額になってしまうのである。その他,医療費の現物給付等も同じ問題を含んでいる。これらが標本全体の当初所得による不平等度を高めている,という批判である。
 大石・伊藤(1999),大竹(2000)はこの点に注目して,日米間の当初所得に関していえば,アメリカが公的年金の支給額を含めているが日本は含めていないので,比較可能ではないと主張している。この点は重要な指摘で私にも異存はないが,私が主として関心を示した所得の概念は,当初所得ではなくむしろ再分配所得なのである。当初所得に関する表現は,私の本の中でも「当初所得で見てわが国のジニ係数の方が高いという事実は,にわかに信じ難いほどの不平等である。」(6頁)と述べて,当初所得に疑念を呈している。そして,「アメリカは何度も述べるように先進資本主義国の中で最も所得分配の不平等度が高い国である。」(78頁)と結論づけたのは,再分配所得に立脚して国際比較を行った結果に依存したものである。
 当初所得に関する限り,日本がアメリカよりも所得分配が不平等であるかの印象を与えた私の不注意は素直に反省するが,私の本意はすでに述べたように再分配所得を比較したものである。
 ところで,当初所得に公的年金支給額を含めるべきかどうかの問題を,原則論として考えてみよう。アメリカをはじめ多くの国で,公的年金をはじめ社会保障の給付額を当初所得に含めているようである。そして,その当初所得から税金を差し引いて,課税前所得と課税後所得の双方を計測している。
 わが国の『所得再分配調査』ないしその基礎になっている『国民生活基礎調査』は,社会保障の担当部局である厚生省がデータを収集している調査である。自分たちの業務である社会保障制度がどのような再分配効果をもっているかを知りたいために,公的年金や医療給付を再分配所得に計上したのには,それなりの正当性がある。現に『所得再分配調査』では当初所得,課税後所得,再分配所得の3者の統計が示されており,税による再分配効果と社会保障(保険料拠出と給付の双方を考慮)による再分配効果を別個に計算しているのである。
 世界の大勢は社会保障給付額を当初所得で計上しているが,社会保障独自の再分配効果に注目すれば,それらを再分配所得に計上することは,一つの目的に基づいているのであって,あながち否定すべきものではない。
 むしろ留意すべきことは,当初所得として何が定義されているか,すなわち社会保障給付費が含まれているかどうかを入念に吟味してから,当初所得に基づいた国際比較に取り組む必要性があるという教訓である。概念を共通に調整してから比較が可能ということがいえよう。しかし,実はこの概念の共通化が,これから述べるようにそうやさしいことではない。
 もう一つの方法は,標本から引退者を除外して,現役所得稼得者のみに注目して,所得分配の不平等度を計測すれば,公的年金等の給付額の影響力を除くことができる。しかしこの方法は,引退者を無視するので国民全体からみた計測とはいえない欠点も生じる。
 さらに細かいことをいえば,もし引退者の公的年金給付額を当初所得に含めるのであれば,現役者(勤労中の人)の社会保険料(特に公的年金保険料)を当初所得から除外する必要がある。そうしないと,現役者の社会保険料と引退者の年金給付額の双方が当初所得としてカウントされるので,二重加算になってしまう。二重加算を排除すれば,当初所得の分配の不平等度がどう変化するのかわからないが,結構やっかいな問題である。逆にいえば,もし引退者の公的年金給付額を当初所得に含めないのであれば,現役者の社会保険料拠出を当初所得に含めておく必要がある。
 これらの問題は,公的年金制度を賦課方式で運営するのか,それとも積立方式で運営するのか,によって影響を受ける。わが国の公的年金の財源調達方式が変化の過程にあるので,特にやっかいである。特に基礎年金の給付額に税が投入されているので,ことは複雑である。すべての人を納得させる所得の定義のむずかしさを暗示している。
 ところで,重ねていうように私の最大の関心は再分配所得による概念である。再分配所得では,税金と社会保険料は差し引かれ,しかも社会保障給付額は加算されるので,ほとんどの国の所得の定義に共通性が高い。しかも,生活水準を示すには,再分配所得のほうが当初所得よりも,直接指標としてより説得力がある,という点も大切である。この点からも「ルクセンブルク・プロジェクト」の国際比較研究は,最も信頼性が高いし最も注目されてよいものである。



 V 所得の構成要素として見落とされている項目

 所得の定義に関することで,よく見落とされることであるが,所得の構成要素として数字に表れないものがあるということである。わが国の所得を統計として把握できる代表的なものとして,『家計調査』『全国消費実態調査』『所得再分配調査(国民生活基礎調査)』を挙げたが,これらの調査に構成要素として計上されていないものがある。
 代表的にいえば,それらは「帰属家賃」と「企業が労働者に支給している諸々の福利厚生費」である。いわば現金給付や現金所得として眼に入らない所得,あるいは所得として計上されないが,個人がそれを受けることによって,利益ないし効用を得ており,確実に生活水準を向上させている,とみなせるものの項目である。
 「帰属家賃」は,持ち家のある人は家賃を払わないので,借家に住んでいる人が家賃を払うのと比較して,それだけ所得があるようにみなせるのである。すなわち,持ち家の人は家賃を払わない分,支出を節約できるので,それを計算上所得とみなして,帰属家賃と称するのである。本来ならば持ち家のある人には,この帰属家賃を所得に計上して,所得分配の平等・不平等が論じられてよいのである。
 マクロの国民所得勘定ではこの帰属家賃が計上されているが,ミクロ・レベルでの個々の家計所得の段階では,個々の家計ごとに数字を把握することが困難なので,あまり計上されていない。橘木・八木(1994),Tachibanaki and Yagi(1997)では,帰属家賃の額を各家計の土地・住宅資産保有状況を基に計算し,通常の家計所得に加算し,所得分配の平等・不平等を再計算してみた。1980年代後期のバブル期を分析した結果なので,実物資産を保有していた家計の帰属家賃の額が大きく計上され,所得分配の不平等度は現実のものより相当高まっていた。現在はバブルが崩壊したので,帰属家賃の貢献分は以前ほど大きくないと想像されるが,帰属家賃の額がゼロになることは決してありえず,所得分配の不平等度は現在の数字よりも高いだろう,と確実にいえるのではないか。「帰属家賃」は無視できないのである。
 次の項目は,企業が従業員に支払う福利厚生費である。福利厚生費には社会保険料を負担する法定費用と,社宅・保養所・通勤費・病院・退職金,等々の非法定費用がある。わが国企業,特に大企業は後者の非法定福利厚生費の支出が多く,非福祉国家の典型国である日本の福祉の一部を代替していた(たとえば橘木(1997,2000)参照)。
 これら企業の支払う福利厚生費も従業員にとっては,賃金以外の所得とみなすことも可能であり,家計所得に計上してよい項目もある。現実には各家計別に統計として把握することが困難なので,なかなか計上したうえで所得分配の平等・不平等を論じたものは少ない。特に,非法定福利厚生費が大企業に特有であれば,大企業で勤務する労働者の所得を数字以上に大きくするので,所得分配の不平等度を実際よりも高める可能性が高い。
 以上述べたように,帰属家賃と非法定福利厚生費を各家計ごとに計上してから,所得分配の不平等度を計測すべきなのであるが,多くの研究はそれを行っていない。家計の所得分配は,これら二つの要因を考慮すれば,現在の数字よりも相当不平等度が高いと推察される。



 VI 所得格差是認論

 第4の所得格差是認論が,実は最も論争的な批判である。頑張る人や貢献度の高い人とそうでない人の間の賃金格差を是認し,前者の人たちの成果報酬と勤労意欲を尊重する思想である。たとえば,太田(1999)が典型である。その他にも様々なところで似たような批判がなされた。竹中・橘木(1999)が最もわかりやすい文献である。実は,私もこの考え方を原則支持する。現に私の本の中でも,賃金や昇進における年功序列制から能力・実績主義への転換を主張している。
 注意を要することは所得と賃金との差である。賃金は労働への対価なので,労働者の生産性,すなわち努力や成果に応じて報酬が決定されることは理にかなっている。しかし,所得は賃金プラス非労働所得なので,非労働所得の役割に注目する必要がある。非労働所得は個人の努力によらない部分が多く,賃金とは異なる原理なり見方があってよい。たとえば,遺産を親から巨額相続した人は,金融資産や土地資産の保有額が大きく,当然のことながら利子や地代の収入は多額になる。非賃金所得が所得分配の不平等に大きく貢献しているのであるから,第4の所得格差是認論には反論の余地がある。したがって,第4の批判は賃金のみを念頭においているのか,それとも所得を念頭においているのかの差にも留意する必要がある。
 次に重要な点は,能力・実績主義に忠実であるのなら,機会の平等ということが大切になってくる。すべての人が平等に教育を受ける機会が与えられ,かつ希望する職業に就く機会が与えられなければならない。企業における採用や仕事の配置も同様である。すべての人が平等に機会が与えられてはじめて,公正な競争がなされるべきものなのである。まずは,機会の平等が大前提である。
 ところが本稿冒頭でも述べたように,わが国の機会の平等には黄信号がともっている。教育・職業機会の平等が阻害されつつあるし,女性に対する機会均等は赤信号ですらある。親子間の遺産相続の実態により,遺産をもらえる人ともらえない人の差は歴然で,子供の人生出発点にも平等性が確保されていない。
 これからはIT革命によって,情報に接しうる人ないし情報を解析できる人と,そうでない人の差も大きくなるかもしれない。最近のデータによると,わが国ではパソコンを購入している人は高所得階級に多く,購入していない人は低所得階級に多いと報告されている。ますます所得格差の拡大が起こりそうである(図参照)。

図 所得階級別にみたパソコン普及率

 わが国ではいわば機会の平等を達成することが,能力・実力主義への移行に際して大前提となるのであるが,このことがまだよく認識されていないのが,わが国の現状といえるのではないか。
 もう一つ忘れてならないことは,パソコンなりIT革命の中で成功する人には,生まれつきの才能も必要になってこよう。所得分配を議論するときに,生まれつきの能力をどう考えるかも,一つの争点である。能力は天の与えるものだから,何者も文句をいえない,という論理もあるし,逆に能力のない人にハンディを与える必要もある,との意見もありうる。
 わかりやすい例を挙げれば,巨人の松井選手,オリックスのイチロー選手は天賦の才能をもって生まれた神の子だから,いかんともしがたいし,その人たちの能力を生かすことが,社会に役立つという見方がある。アメリカのビル・ゲイツもそうである。その一方で,いや彼らも才能プラス努力しているのだ,とみなす意見もありえよう。才能の問題は大きな問題であるし,これをどう評価するかむずかしい課題が残っている。
 なぜむずかしいかといえば,拙著(1998)をはじめいろいろな所で,私は遺産の存在は子供の初期時点での不平等を与えるものと批判して,相続税強化を主張したが,次のような反論があった。「私の子供は松井やイチローのような高い能力をもって生まれなかったので,そのハンディを埋めるために子供に遺産を残したいと考えているが,それも否定するのか」というものである。この考え方は,遺産も天からの才能付与とみなせる側面があり,しかも親子の愛情から発したものなので,高い相続税を課すことは道義に反するとするものである。なぜならば松井やイチローのような高い運動能力には相続税は課せられていないのである。でも,遺産もない,才能もない人はもっと悲惨ではないか,という反論もありえよう。天賦の才能と遺産を同次元で論じることができるのか,今後の論争に期待したい。
 機会の平等が保障されたうえで,人々が公正な競争の中に入り,その結果賃金に格差がつくことに異論はない。むしろ,これが人間社会の公正原理であるといえるので,結果の不平等は容認されよう。
 ただし,どこまでの結果の格差を認めるか,という問題になると複雑になってくる。たとえば成功者の象徴である企業の社長の所得,アメリカでは平社員の200倍の高所得を容認している。そして都市には,逆に敗者であるホームレスが多く輩出されている。極端な大富豪と貧困者という大きな所得格差をさほど気にしないし,その原因の一つは当人たちの努力の差によると,アメリカの人はみなしている側面もある。アメリカン・ドリームは成功者と敗北者を生む社会であるし,アメリカ人の多くはそれに違和感はない。
 究極的にいえば,どこまで結果の格差を容認するかは,個人の価値判断に依存する。アメリカのように多くの人が格差を認めている国から,スウェーデンやデンマークのような北欧に眼を移せば,大きな格差を認めない国もある。北欧では,機会の平等のみならず,結果の平等も同時に求めている。それは,それらの国が福祉国家であるということから明らかである。しかも,課税前所得にかけられる税金に関して,それらの国では所得税の平均税率も累進度も高いことによってうかがえる。再分配を相当強烈に行って,行き過ぎた結果の不平等を是正することに,国民の合意があるからである。
 アメリカも北欧も市場主義と民主主義の国なので,国民一人一人の価値判断の違いが,再分配政策の決定を左右しているのである。つまり,多数決原理によって,結果の格差を容認する程度が決められてくるのである。わが国においても,階層分化が進み,かつ所得分配の不平等化が進行しているなかで,一人一人の価値判断が求められる時代になりつつあるといってよい。結果の不平等をどこまで認める社会になるのであろうか。
 福祉国家でも当然のことながら,国民の税負担や社会保険料負担が高過ぎるとして,国民が勤労意欲や貯蓄意欲を失い,経済効率性や経済成長にとってマイナス,という主張がなされたことがある。現に北欧ではこれが原因で,社民党政権が倒れて,保守勢力が実権を握ったこともある。イギリスでも戦後50年間,保守党と労働党が福祉をめぐって激しく政治の対立があり,政権が何度も変わっているのである。現在ではヨーロッパの多くの国で,社民党が政権を握っているが,1980年代はその逆で保守政権が主流であった。
 ただし,激しく動くヨーロッパの政治の舞台であっても,「第3の道」という思想も最近主張されるようになってきた。福祉国家か非福祉国家か,という二者択一の世界だけではない別の道が,イギリス労働党から提唱されている。ヨーロッパの中で,イギリスだけがアメリカ流の競争重視主義にも価値を認めている。いわばサッチャー首相の遺産である。ただし,競争や効率一辺倒ではないところが,労働党政権の持ち味ともいえようか。
 わが国は幸か不幸かこのように政権が争われたことがなく,高度成長期における大都会の都府県を除いて,基本的に保守政権が続き,非福祉国家の政策が連続してとられてきた。しかも橘木(1999)によると,税と社会保障政策は,再分配効果の弱体化にあるといってよい。わが国民は今後どの道を選択するのであろうか,興味津々である。
 最後にわが国で見逃せないことに,セーフティ・ネットの貧困がある。競争社会の激化は敗者と弱者を生まざるをえないが,わが国はこういう人を救う制度的基盤が薄弱であった。失業保険,医療保険,生活保護等の分野でそれが著しかった。詳しいことは拙著(2000)に譲るが,わが国ではセーフティ・ネットを社会的に用意するというよりも,家族と企業(特に大企業)が社会保障制度の代替を行っていたといってよい。
 家族の崩壊が進み,かつ家族の役割も変貌するなか,しかも企業の経済余力もなくなりつつあるわが国では,社会的にセーフティ・ネットを準備する必要性は高まっている。特に敗者や弱者をこれまで以上に生み出す可能性を秘めている社会,それに高齢者の数も増大しているわが国では,このことを無視して競争だけを重視するのであれば,悲惨な国に陥るかもしれないのである。それを避けるために,国民一人一人の税負担によって,セーフティ・ネットを充実させる必要がある。



 VII ま と め

 拙著『日本の経済格差』(1998)の出版によって,わが国の所得分配の現状,ひいては経済格差の現状に対する関心が高まったことは,著者としてまことに喜ばしいことであった。わが国社会・経済の現状に関して,通常信じられていたような平等神話はもう消えつつあるということを示したかったのであるが,それが受け入れられる可能性が出てきたのである。
 専門家の間では,わが国の所得分配の不平等化,ないし経済格差の拡大が発生していることは,よく知られていることであった。その萌芽は石川(1991,1994),橘木・八木(1994)にあったし,私も英文では外国向けにそのことを発信していた(たとえば,Tachibanaki(1992,1996a,1996b),Tachibanaki and Yagi(1997)を参照)。この認識は一部の者の間だけに限られていたといってよい。ところが,岩波新書という格好の啓蒙書が出版されたことによって,関心も一般に広がったといえる。学者は学問だけをしておればよいのか,それとも時間と能力に限界があるにせよ,一般向けに情報発信することも必要なのか,という複雑な心境にいるのが,著者の今日の思いである。
 『日本の経済格差』の出版後,ここでも書いたように様々な批判が寄せられた。これらの批判は,主として所得分配の不平等化に関するものが多かった。本特集号にも多くの批判が寄せられているものと思う。本特集号での批判は読む機会がなかったので,回答不可能であるが,それ以前のものは本稿で取り上げたつもりである。
 それらの批判は正当なものも多く,私も反省させられたといってよい。まとめれば,統計資料の選択と,所得の定義,特に当初所得の問題にあるといってよいだろう。これらに対する私の回答は本論で詳しく述べてきたので,ここでは再述しない。
 とはいえ,私が『日本の経済格差』の中で所得分配に関して述べた結論を,大きく揺るがすものはなかった。その証拠を示すために,『日本の経済格差』の「あとがき」で述べた,同書をまとめた文章の一部を抜粋・引用して,本稿における最後の「しめくくり」としておきたい。

 わが国の所得分配は不平等に向かっていることがわかった。国際比較の上からも,わが国の平等神話がもう存在しないことが示された。……
 所得分配の不平等化の要因は,様々な理由が複雑にからんだものである。賃金分配の緩やかな不平等化,わが国社会の高齢化,単身家計の増加,家計内稼得者の微増,一部の資産保有者による金利所得の増加,帰属家賃の貢献,等である。賃金分配については詳しく論じた。特に性別,学歴別,年齢別,企業規模別の賃金分配を検討した。
 所得分配の不平等化をもたらす要因として,合理的な要因あるいは公正な要因と判断されるものに関していえば,不平等化を非難できない。逆に容認しがたいものもある。……(205頁)

 統計資料を用いて,一国の所得分配の変遷を知り,そして国際比較を行うことはそう容易ではない。今後も地道な努力が期待される。ところで,統計に語らせるよりも,われわれが日ごろ接する現象のほうが,より直感に訴える力が強固なのかもしれない。五つの事例を挙げておこう。
 第1に,東京の新宿と隅田川,大阪の大阪城公園に行けば,ホームレスの存在とその数が増加していることがわかる。第2に,1995年に生活保護を受けていた人は60万人であったが,99年には100万人を超す勢いで急増中である。第3に,2000年現在の失業率は5%前後に達しており,ここ数年急増中である。第4に,500万円を超す世界一周豪華客船の予約がすぐに完売であるし,1億円以上のマンションの売れ行きも好調である。第5に,プロ野球選手の最高年俸,15年ほど前は1億円で騒がれたが,今は5億円である。平均所得の伸び率よりもはるかに高い。
 前三者は貧困者の象徴,後二者は富裕者の象徴である。拙著(1998)と本稿でカバーしたのは1995年までであった。ごく最近のデータを用いて検証をすれば,事態はより深刻であるかもしれないことを恐れている。貧富の差は確実に拡大し,所得分配の不平等化は明らかである。わが国の人がこれをどう評価するのか,興味深く見守りたい。



参考文献
石川経夫(1991)『所得と富』岩波書店。
―――(編著)(1994)『日本の所得と富の分配』東京大学出版会。
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―――(1998)『日本の経済格差――所得と資産から考える――』岩波新書。
―――(1999)「格差拡大で高まる公共政策への期待」『論争』7月号,pp. 178-183。
―――(2000)『セーフティ・ネットの経済学』日本経済新聞社。
橘木俊詔・八木匡(1994)「所得分配の現状と最近の推移――帰属家賃と株式のキャピタル・ゲインの推計と併せて――」石川経夫編著『日本の所得と富の分配』東京大学出版会,第4章,pp. 99-116。
原純輔・盛山和夫(1999)『社会階層 豊かさの中の不平等――』東京大学出版会。
八木匡・橘木俊詔(1996)「等価所得比率の測定と所得分配の不平等度の解釈」『季刊社会保障研究』vol. 32,Autumn, pp. 178-189。
Oxley, H, J-M. Burniaux, T-T. Dang and M. M. D'Ercole (1997)“Income Distribution in 13 OECD Countries”, OECD Economic Studies, No. 29, pp. 55-92.
Sawyer, M.(1976),“Income Distribution in OECD Countries”, OECD Economic Outlook.
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Tachibanaki, T. and T. Yagi (1997),“Distribution of Economic Well-being in Japan: Towards a More Unequal Society”, P. Gottschalk, B. Gustafsson and E. Palmer (eds.), Changing Patterns in the Distribution of Economic Welfare, Cambridge: Cambridge University Press, Chapter 6, pp. 108-131.



たちばなき・としあき 1943年生まれ。ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程修了(Ph. D.)。京都大学経済研究所教授。主な著書にWage Determination and Distribution in Japan, Oxford University Press, 1996.など。労働経済学・経済政策専攻。