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(著者抄録)
本稿の中心的な課題は、職業紹介事業が公的独占のもとにおかれるまでの紆余曲折を観察することによって、職業紹介事業の機能について考察することである。戦前期の職業紹介事業は、公営紹介と民営紹介が並存したところに特徴がある。しかし、法律的な後ろ盾を有した公営紹介が、民営紹介を押しのけて順調な発展を遂げたわけではなかった。民営紹介は、公営紹介に比較して身元保証などの機能で優れ、1930年代中ごろまでは市場においても政府見解においても一定の存在意義が認められていたのである。それにもかかわらず、38年に職業紹介事業が公的独占のもとにおかれたのは、民営紹介の存在意義を覆い隠すに足る統制経済の強い影響ゆえであった。


(論文目次)
I 職業紹介事業の公的独占
II 旧職業紹介法以前
    1 「弊害」の認識
    2 仲介業者と取り締まりの実態
    3 公営職業紹介の展開~行政指導の限界
III 旧職業紹介法以後
    1 旧職業紹介法
    2 長野県の例
    3 東京府の状況
IV 旧職業紹介法下の公営紹介と民営紹介
V 政府見解の転換
    1 民営紹介禁圧の根拠-内務省(厚生省)の場合
    2 改正職業紹介法に対する国会答弁
VI 結びにかえて-住みわけの意味するところ

 I 職業紹介事業の公的独占

 「何人ト雖モ職業紹介事業ヲ行フコトヲ得ス」(注1)。
 第2条としてこの条項を擁した職業紹介法改正法律案は,1938年3月,第73回帝国議会衆議院社会事業法案外二件委員会において付帯決議を伴って可決され,実質的な審議を終えた。このとき成立した改正職業紹介法は,前掲条文にみられるごとく,原則として民営(有料)職業紹介事業(注2)を禁止する姿勢を明らかにした。そしてこの方針は,第二次大戦後の職業安定法にも受け継がれ,爾来六十余年,1999年6月に改正職業安定法が国会を通過するまで,職業紹介事業の公的独占というかたちで日本の労働市場を支える制度のひとつとして維持されたのである。
 本稿の目的は,何故に職業紹介事業は公的独占の手にゆだねられたのか,という問題を検討することにある。そのために本稿では,公営紹介と民営紹介が並存した戦前期における職業紹介事業の展開を観察し,相互の比較を通じて,労働市場において職業紹介事業の担う役割を検討する。
 職業紹介事業における公的独占を放棄する1999年の職業安定法の改正は,政府の規制緩和小委員会などの意見を受けて,97年ごろより雇用法制研究会・中央職業安定審議会などを中心に議論が重ねられた。その過程ではさまざまな論点が提出されたものの,こと民営紹介に関しては,料金の水準や徴収方法,許可制・届出制の是非などが問題点として指摘されるにとどまり,職業紹介事業を公的独占のもとにおくか否かという原則論は中心的議題にはならなかった(注3)。
 これらの改正論議の中で,職業紹介事業の公的独占は,「労働力を国家管理し,民営職業紹介所による無政府的攪乱を許さないという国家総動員体制の遺物が,東西冷戦体制が崩壊したいま見直されるのは当然だろう」(注4)という歴史認識のもとにおかれ,「まず,民営職業紹介事業の弊害の実態について,具体的な調査・検討がなされる必要がある」(注5)といった冷静な意見は等閑に付された。たしかに,民営紹介の弊害の調査・検討といってもそれは容易ではなく,公営紹介との比較ともなればさらに多くの困難が伴う。たとえば,1999年の民営紹介の解禁は,国際的にみると97年のILO181号条約に対応しており(注6),欧州においてすら民営紹介の経験が豊富であるとはいいがたい。比較的規制が緩やかであった合衆国の例もあるが,労働市場の構造の違い,とりわけ横断的労働市場の有無は,職業紹介の機能を大きく変える可能性もあり,単純な比較は厳に戒める必要がある。
 したがって,クロスセクションでの各国比較と併行して(注7),日本においてそもそも何ゆえに職業紹介事業が公的独占のもとにおかれたのかを考察することには意味があろう。後述のように,今世紀初頭の日本における職業紹介事業は,公営紹介と民営紹介の並存のうえに展開した。それゆえに,21世紀になんなんとする現代が「女工哀史の時代と同じではない」(注8)にせよ,民営紹介の機能や弊害を,とりわけ公営紹介との比較のうえで議論する材料を提供できるからである。
 本稿の中心的な課題は,職業紹介事業が公的独占のもとにおかれるまでの紆余曲折を観察することによって,職業紹介事業の機能について考察することである(注9)(注10)。その結果,明らかになったことは次のようにまとめられる。政府当局は産業化の当初より,職工の頻繁な移動に伴う過少な技能形成という面に民営紹介の「弊害」を認め,公営職業紹介所を各地方自治体に設置させることでこの弊害は除去できると考えた。ただし,この段階では当局には民営紹介を積極的に禁圧する考えはなく,むしろ民営紹介は公営紹介の拡大によって自然に淘汰されることが想定されていた。ところが現実には,行政指導はもとより法律制定をもってしても公営紹介による民営紹介の代替は遅々として進まなかった。そこで彼らは,有料職業紹介事業を禁じるILO34号条約を盾に,民営紹介を法律的に禁止することを主張した。しかし,肝心のILO34号条約は批准に至らず,政府上層部はこの意見を却下する結果になった。この時点で,民営紹介は事実においても政府見解においても労働市場での一定の役割を認められたといえる。それにもかかわらず,1938年に職業紹介事業が公的独占のもとにおかれたのは,民営紹介の市場における存在意義を覆い隠すに足る統制経済の強い影響ゆえであった。
 本稿は以下,IIで旧職業紹介法制定以前の行政指導の段階について,IIIで旧職業紹介法制定以後について,長野県と東京府・市を例に概観する。IVでは旧職業紹介法下での公営紹介と民営紹介との関係を,全国的な統計の側面から考察する。Vでは職業紹介法改正までの議論を参考に,職業紹介事業が公的独占のもとにおかれるに至るまでの事情をまとめる。VIは結論で,本稿で明らかになったことが,労働市場における職業紹介事業の役割という優れて現代的な問題にどのような示唆を与えうるかを検討する。


 II 旧職業紹介法以前

 職業紹介事業の公的独占は,1938年の改正職業紹介法によって成立した。しかし,職業紹介などの労働者を募集する仲介事業を,規制または公的に独占すべきであるとの主張が登場したのは,このときがはじめてではない。本節および次節では,明治以降の労働者募集仲介事業に対する規制について事例を中心に概観することで,大正期から昭和初期に公営紹介がおかれていた位置を考察する。

 1 「弊害」の認識

 本邦における労働者募集仲介事業は,19世紀末の産業革命期以降急速に増大した各種労働需要に対応するために,労働市場で重要な役割を担うようになった。その一方で,仲介者という立場を利用した詐欺・誘拐・人身拘束などの事件が後を絶たず,産業化の当初から,不正行為を掣肘するために何らかの規制が求められていた。
 たとえば,明治後期の農商務省商工局による調査報告書は,周旋業者が「弊害」をもたらしていることをとくに項目を設けて記録している(注11)。そこでは,人身拘束や詐欺行為のほかに,仲介業者が人材の引き抜きに関与したことが大きな問題とされた。具体的には,個々の事件や一般的な観察結果に加えて,警察が取り締まった事件のうち「職工紹介業者カ甲工場ノ職工徒弟ヲ誘導シ乙工場ニ轉セシメタルモノ」が相当の割合を占めたことを指摘している(注12)。当時の農商務省商工局は,これらを根拠に工場法で仲介業者を規制すべきことを主張したのである。
 たしかに,ここで「弊害」とみなされた諸現象が,経済学的に考えても,すなわち労働市場にとっても弊害であると即断するのは短絡かもしれない。しかし重要なのは,当時の人材流動化の背景に,技能蓄積などの初期費用の負担問題があったことである。たとえば農商務省商工局(1897)は,「……今日ニ於テハ徒弟少シク業ニ熟スレバ契約期限滿了前ニ事故ヲ口實トシテ師弟ノ關ヲ絶タント企テ若シクハ逃走シテ他ニ轉職スルモノアリ或ハ利〓(益(エキ))ヲ以テ誘導スル同業者アルモ如何トモスベカラズ故ニ徒弟ヲ養成スルハ損失ト煩ヒ多キニヨリ漸次之レヲ廢スルノ傾向アリ」と指摘し,「若シ之ヲ放任スルトキハ技藝練達ノ職工ヲ得ルノ途ナキニ到ラン」と結論づけた(注13)。仲介業者の「弊害」は,このような「引き抜きあいの外部性」(注14)を助長する存在として理解された側面があり,介入すべきとの主張には一定の根拠があったと考えられる。

 2 仲介業者と取り締まりの実態

 元来,労働者を募集する方法は,雇主による直接募集(縁故,広告募集など)と,なにがしかの仲介者をはさんだ間接募集に分けられる。さらに間接募集は,仲介当事者の種類によって,委託募集(募集従事者),労務供給事業,職業紹介事業に区分されることが多い(注15)。直接募集ないし委託募集を規制するための募集取締規則は,「1881年山口県において発布された職工募集取締規則をもって嚆矢と」され(注16),以降各府県単位で制定された。
 ただし,当時の募集人の活動内容は明らかではなく,上記諸規制によってどれだけ募集人の「弊害」が抑制されたかも定かでない。ただし,たとえば,取り締まりが府県単位であるため,府県をまたがる遠隔地募集に対しては規制の厳密さを欠いたようである(注17)。新潟県では「募集従事員として縣内にくり込む者多數をしめ大正十三年末調に於ては三千六百八十餘人を有し他の募集人を合算すれば優に一萬人に達するであらう」(注18)といわれ,当局が管内にかかわるすべての募集人を把握できたわけではないことが示唆されている。その一方,1922年度には5万1708人に達した全国の募集従事者許可申請者のうち,1505人(2.9%)が不許可の決定を受けており,一定の規制が機能していた可能性も無視できない(注19)。
 他方,職業紹介事業の形態をとる場合には,その内容についていくつかの実態調査報告が現存している。ここでは,「紹介營業に關する調査」を材料に,その特徴を簡単にまとめよう。この調査は,東京市社会局が1921年10月から11月にかけて行った,管内の紹介営業者の調査で,集計された報告書が残っている。ここでは本稿と関連の深い「雇傭紹介業者」についてみる(注20)。
 雇傭紹介業者の総数は289人,残念ながら個々の取扱数は掲載されていない。その特徴は以下のようにまとめられる。第1に,業者の規模は概して小さく,業主単独で営業しているものが166人と過半を占める。2人以上の雇人がいる業者は16人にとどまり,上野黒門町にあった株式会社富士屋(資本金1000円)が25人の雇人を抱えていたのをのぞくと,最大は5人の雇人をもつ業者が3人のみである。第2に,業者の所有する不動産は大きく,富士屋を除く288人の平均所有額は3423円にのぼる。第3に,副業を有していた業主が多く67人を数え,家族を含めると135人であった(注21)。
 以上のような特徴をもつ紹介業者の「弊害」はどの程度だったのだろうか。本調査には規則違反の処分件数が記録されている。雇傭紹介業者289人のうち,規則違反で処分を受けたのは22人(41件)であった。もっとも重い処分は営業停止30日で3件あるが,その他は罰金で済まされている。つまり,許可取消などの重大な違反はなかったものの,警察的取締が皆無ではなかったことは確かだといえる。
 この調査の特徴は,当時の民営紹介の業務内容をかいつまんで説明している点にもある(注22)。その中で強調されているのは,紹介業者のもつ調査機能である。
 通常,紹介業者を経由する求職者は,「住替」と呼ばれ,以前に同一の紹介業者の仲介を受けている者と,「新規」と呼ばれ当該業者では初めて取り扱われる者にわけられる。前者においては「紹介業者が,平常彼等被紹介者の性質,仕事振り,身元其他の事をも知悉」しているので,その情報に基づいて紹介が行われる。ここで注目すべきは,「仕事振り」をも業者が関知していた点であろう。このことは,紹介業者が紹介後にも,雇主や労働者と何らかの形で連絡をとりあっていたことを示唆している。「新規」の場合には,「其出生地,年齢,之〓(迄(マデ))の經歴其他の希望などを聞きて,略ゝ此被紹介者の性質等を推察し,且つ尚不充分なる者は通信其他の方法に依りて,身元を調査し,之と同時に,需要者(雇主)の方も相當調査」すると指摘している。「新規」「住替」いずれにしても,調査と身元保証が重視されていたことがうかがわれる。
 双方の思惑が一致した場合には,二,三日の試用期間ののち契約を結んだ。もちろん,「紹介周旋濟み後日に至り,被紹介者が雇先に於て種々なる犯罪を犯して,少なからざる煩瑣を來さしむる事」もあった。実際の処理については言及されていないものの,紹介業者が被紹介者と継続的な関係をもつ場合もあったことも考慮すると,何らかの形で紛争に介在した可能性が高い。
 本調査では,以上のような一般的な言及のほかに,株式会社富士屋における紹介業務の流れが紹介され,例外的に大規模な民営紹介の業務内容を伝えている。富士屋では,たとえば豊原(1943)に描かれた東京府職業紹介所の業務体系と比較すると,明らかに分業が進んでおり,東京市当局も本調査結論部で「公設紹介所の眞に眞似る能はざる處なり」と評価している。残念ながら,保証人がいない場合や,被紹介者の指定した保証人が保証を拒絶した場合の措置については触れられておらず,実際の紛争時に紹介者が担った役割は不明である。しかし,締結された契約や紹介の経緯をすべて記録として保存しており,何らかの形で契約後の雇用関係にもかかわった可能性は高い。実際,この点は本調査のまとめにも紹介営業の長所として言及されている。いわく,「雇主,雇人兩者側の事情に通じ,紹介周旋甚だ便利にして,且つ適材を適所に配置し得るなり,蓋し此長所は紹介營業者の,今日有する長所の大なるものなり」。またいわく,「紹介營業者に對しては,甚だ非難多けれども,兎に角或一部の需要者被紹介者より相當信用あり」。
 結局,民営紹介は規模の大小を問わず,調査や信用を鍵として紹介業務を構成していた様子がわかる。

 3 公営職業紹介の展開~行政指導の限界

 一方,1911年になると東京市が職業紹介所を設置し,翌12年には大阪市が財団法人大阪職業紹介所を設立,公営紹介も開始されるようになった。ただし,多くの論者の評価によれば,このときの公営紹介は基本的に救恤事業であって規模も最小限にとどまっていたとされている(注23)。
 しかしながら,当時にあっても当局や識者の一部には,恒常的な社会事業としての公営職業紹介事業を確立・普及させるべきであるとの意見が根強くあった。1911年に懸案であった工場法が成立・公布されると,公営職業紹介所設置の動きは具体的にあらわれた。1917年,地方局内に救護課(のちの社会課,社会局)を設置した内務省は,1919年に「失業保護に関する施策要綱」を大臣の諮問機関である救済事業調査会より発表し,政府が失業問題に対して取り組むことを公式に表明した。公営紹介は,その一翼を担うものとして位置づけられている。また財界にあっては,渋沢栄一の肝いりで財団法人協調会が同年末に成立した。
 おりからの1920年3月に第一次大戦後恐慌が起こると,内務省は各地方自治体に対して失業救済措置の一環として職業紹介所の設置を行うよう行政指導をいっそう強化した(注24)。
 むろん各地での相違はあるものの,この内務省の要請にすばやく対応した府県も存在した。東京府は5月,外郭団体である社会事業協会のもとに東京府中央工業労働紹介所を設置している。また協調会は6月に中央職業紹介所を設立し,職業紹介の全国的連絡機関となった。
 このときの反応を,地方自治体の例として長野県についてみてみよう。
 内務省通牒を受けた長野県は,同年7月29日付で「失業對策ニ關スル件〓(通(ツウ))牒」を県内各郡市長へ発し,「郡市役所内ニ職業紹介所ヲ置クコト」,「町村役場内ニ職業紹介所ヲ置キ……」と通達した(注25)。また,8月には県理事官の稲垣潤太郎が大阪および東京に派遣され,職業紹介所を視察している(注26)。さらに県当局は,9月10日に郡市書記会議を開催して担当者を一堂に集め,職業紹介所設置について念を押した(注27)。その3日後の9月13日には「職業紹介所ニ關スル件」として再度通達を出し,会議での確認事項を整理したうえで「大正十年四月ヨリハ県下一斉ニ紹介所ノ開始ヲナスコト」とした。
 県下の各郡市町村はこれに応じて職業紹介所を設置しはじめ,少なくとも明けて1921年5月の時点で,県内で197個所が設置されるにいたった(注28)。
 しかし,この時点の紹介所が実質を伴ったとは言い難かった。長野市,松本市,上田市を除いて独立した庁舎・人員をもつ紹介所はなかった。判明する予算措置をみても,松本市1036円,長野市973円を除くと,平均予算額は,郡レベルでも143円(10郡),町村レベルでは14円に満たない(157町村)。独自の予算をもたない紹介所も23個所にのぼった。およそ200個所設置されたなかで,実質的な活動を担えるだけの基盤をもっていた紹介所は,長野県内ではほんのわずかだったと考えられる。
 この点は,南安曇郡が職業紹介所の対象から製糸労働者を除外することを県へ伝えた,次の資料でも裏づけられる。元来,長野県は,器械製糸業の中心地として多くの労働者を使用しており,前節でみた仲介業者の「弊害」の温床とみなされていた。したがって職業紹介所の役割も,当然製糸労働者の職業紹介に向けられた(注29)。しかし,諏訪製糸業に対する労働者の主要な供給地のひとつであった南安曇郡は,資料1のような通知(原文は縦書き)をもってこの考え方を明確に拒否している。

<資料1>

 この資料から,製糸業では労働者募集方法についておそらく募集人を用いるという方法が確立していたこと,さらに,職業紹介にはある程度の訓練が必要だと認識されていたことがわかる(注30)。南安曇郡は,これらの事情を考慮して本来の主要な目的である製糸労働者の紹介業務を行わない旨,県に伝えているのである。
 そもそも,仲介業者が介在することによって種々の弊害が発生し,募集費用も高騰するという問題が,公営紹介の出発点であった。従来の救恤事業ではこの問題を解決することは難しく,無料主義と国家の信用を背景にした公営紹介によってのみ,募集に際しての弊害は除去可能だと考えられたのである(注31)。これに対して,実際の職業紹介事業を担うべき南安曇郡の対応は,政府の手前職業紹介所は一応開設するものの,実質的活動は行わないと表明しているに等しい。町村などの末端自治体では,さまざまな理由から当時の仲介業者を代替するだけの職業紹介事業を展開することは難しかったのであろう。
 総じていえば,公営紹介は第一次大戦後恐慌を契機に一定程度の広がりをみせた。しかし実質的な活動を行ったのは一部の都市地域に限られ,それも失業者の救済と,何らかの理由で既存の仲介業者を利用できなかった層に対応するにすぎなかった。


 III 旧職業紹介法以後

 1 旧職業紹介法

 内務省は,公営紹介の遅滞の原因は,全国的な連携がとられていないことと財政的な基盤が脆弱なことだと考えた(注32)。そこで,従来の行政指導ではなく法律を制定することによって,この点を手当てしようとした。1921年3月衆議院を通過し,成立した職業紹介法の制定がそれである(以下,1938年の改正まで旧職業紹介法と呼ぶ)。
 旧職業紹介法は,公営紹介を市長村営とし,同時に国庫補助を与えること,ならびに全国的な連絡機関を整備することを主な立法目的とした。全国的な連絡機関については,協調会に中央職業紹介事務局を設置し全国の職業紹介事業を管轄させ,市町村・郡府県・地方・全国の各レベルに創設された連絡協議会が担当地域内での紹介の円滑化を図った。さらに,新設された労働紹介委員会に官労使の代表を招き,協議機関とした。
 その一方で,各紹介所に対しては独立した庁舎と職員を有することを要求し,国庫補助も予算額の2分の1を上限としたので,地方自治体の反応は芳しくなかった。

 2 長野県の例

 ふたたび長野県の例に戻ろう。
 IIで触れたように,長野県では1920年から次々に郡市町村営職業紹介所が設立されたが,その大部分は実質的な活動基盤をもたない形だけのものだった。
 旧職業紹介法が施行されると,県は7月1日付で「職業紹介所事業ニ關スル件」として各郡市町村に通牒を発し,既設紹介所を速やかに法に則った職業紹介所に転換させるように指示した。さらに7月20日に再度通牒を発し,適法な紹介所への転換の有無の報告を求めた(注33)。
 これに対して,各自治体は一斉に適法な紹介所への転換を拒否した。たとえば,南佐久郡は,通牒に対して直後に資料2のように回答した(原文は縦書き)。同様の回答は北佐久郡や更埴郡からもよせられている。

<資料2>

 この資料では,紹介所の設置は「尚早」であると述べられている。当時の農業労働は,結ゆいなどによって農村内部もしくは近郊で賄われており,職業紹介の介入する余地はなかった(注34)。当初意図された工場労働力に対しては,前節で触れた南安曇郡の回答にも見られたように,既存仲介業者の存在からか参入する態度すらみせなかった。そのなかにあって,財政負担を強いる職業紹介所の整備は,地方自治体にあってはとうてい受け入れられるものではなかったのであろう。

 3 東京府の状況

 前項では,旧職業紹介法下にあっても公営紹介が広く進展しなかったことを,長野県の例をとりあげて観察した。ただし,公営紹介が苦戦を強いられたのは地方に限ったことではない。
 ここでは都市部を代表する東京府の状況を,いくつかの資料を用いて観察してみたい。
 1928年5月,東京府社会事業協会・東京府各職業紹介所の主催で「求人者懇談会」なるものが催された。これは,公営紹介に対する求人側の意見を聞くための会合で,銀行・百貨店・各種工場などの雇主44人が意見を述べた。それをまとめた東京府少年職業相談所・東京府職業紹介所「雇主より見たる職業紹介事業」(1928年9月)には,出席者の発言内容が逐一掲載されている。会合の性質上,概して公営紹介に対する賛意が示されているが,その賛意はどちらかといえば少年相談所に向けられたものであった(注35)。同時に,公営紹介への注文も少なくない。指摘された改善点は多岐にわたったが,もっとも頻度の高かったものは,紹介に際して選考を厳密にしてほしいという意見であった。
 民営紹介との比較という観点からここで注目すべきは,公営紹介をほとんど利用しない雇主が「民営と同様に」身元を保証すべきであると主張した点であろう。たとえば,三共製薬の取締役である湯浅武孫は次のように述べている(注36)。
  「私共の會〓(社(シャ))では一切縁故關係に依って雇傭し,職業紹介所の手を煩わしたことがありません。縁故關係による理由は比較的身許の確實な人を得られる爲に外ならない。唯今頂戴した書類の中にも「紹介所は就職者の身許保證の責に任ぜず」と云ふ一項がありますが,此の項目が即ち紹介所と雇主との接近を妨げる一因ではあるまいか。私は公營紹介所も求職者の保證の責に任ずる態度に出られむ事を切望する。」
 箕田パンの主である箕田猿之助は,直截に次のように発言した(注37)。
  「現在の紹介所は改善を施さない限り到底從來の口入屋に比較して公〓(益(エキ))なものとは思はれません。口入屋に於てはどんな人を雇ふにしても必ず身許保證をして呉れるから,安心して使用する事が出來ますが,紹介所に於ては比較的不適當な人間を紹介し乍ら而かも身許保證もしない。私共が人を雇ふのは慈善のためではありません。私は現在の處では紹介所よりも口入屋の方が遙に實際的であると考へます。」
 身元保証のない公営紹介は,一部の事業主に心もとなさを感じさせており,彼らが公営紹介を利用しない一因をなしていたのである(注38)。
 また,東京府職業紹介所は1929年6月に「職業紹介事業と府下の現状」と題した文書を作成し,公営紹介のおかれた状況を総括している。この文書は,法的なバックアップにもかかわらず遅々として拡大の進まない公営紹介について,民営紹介との比較のうえで問題を整理しようとした報告書である。そのなかでは「公〓(益(エキ))職業紹介事業と營利職業事業との比較」という節がとくに設けられ,低い求職者就職率に象徴される,公営紹介の劣る部分が次のようにまとめられた(注39)。
  「公〓(益(エキ))紹介所の營利業者に比し劣れる点としては,
  一,求職者の身許保證をせざること
  二,無料なるため不眞面目なる利用者をも誘致し易きこと
  三,知的労働者の如き紹介困難なる職業を希望する求職者多数を占むること
  四,専門化の不充分なるため,少数の係員にて広汎なる範囲の業務を取扱ふため適切なる措置を講じ難きこと」
 さらに,市町村営主義をとった旧職業紹介法ゆえに「従業員の更〓(迭(テツ))が縷々繰返され,知識や雇主との親密な関係を欠く」とも指摘している。
 結局,旧職業紹介法制定以降においても公営紹介が拡大しなかった背景には,財政的な負担のみならず,身元保証の有無のように,現場でも意識された制度的な陥穽が存在していたのである。


 IV 旧職業紹介法下の公営紹介と

民営紹介
 旧職業紹介法が制定された後にあっても,公営紹介が速やかに全国的に展開したとは言い難かった。前節では,地方自治体における対応や都市部における当事者の認識を通じてこのことを観察したが,本節では統計上からも確認する。
 そもそも,旧職業紹介法は公営紹介の整備を目的としており,民営紹介を原則として禁止する立場ではなかった。具体的な規制を定めた営利職業紹介事業取締規則(以下,取締規則と略記)は,許可制のもとでのごく一般的な違反行為を列挙する内容に終始しており,当規則によっては通常想定される営利職業紹介事業は大きな規制を受けないと想像される。規制の特徴として,兼業禁止規定にみられるように紹介業者による物理的金銭的拘束を排することが意識されており,芸妓娼妓酌婦紹介との直接の関係を絶とうという姿勢が窺知される。なかでも紹介領域や手数料について明示的な規制がないのは興味深く,旧職業紹介法が民営紹介を禁止する方針ではなかったことはここからも示唆されよう(注40)。
 この取締規則が1927年に施行されると,届けられた民営紹介業者は減少したといわれている。その根拠は戦前の職業紹介統計であり,厚生省『職業紹介統計』あるいは中央職業紹介事務局『職業紹介法施行拾年』などに収録されている(注41)。先行研究でもその都度同じものが掲示されているが,本稿では煩をいとわず求人数と求職者数についてまとめ,図1とした。付け加えるならば,この『職業紹介統計』と現代の『職業安定業務統計』との違いは大きく2点ある。ひとつは求人数や求職者数が有効概念ではないこと,そしてもうひとつが産業別の求職者数を観察することができることである。たしかに,求職産業をどのように分類するかには疑問の余地が残るが,職業紹介のあり方について産業間で比較検討することは,資料上の問題点を留保しながらも議論する意味があろう。

図1 職業紹介事業の推移(1921-1942)

 『職業紹介統計』によれば,民営紹介の業者数は,1927年を境に4000人強から2000人弱へ半減した。その一方,図1に示されたごとく求人・求職数ともに目立った変化はない。したがって,業者あたりの求人・求職・就職数がともに増加したことになる。実際,たとえば業者あたりの就職数でみると,旧職業紹介法成立直前の1921年には60人強だったのが,同法成立と同時に100人前後へ上昇,さらに取締規則制定と同時に200人以上へさらに上昇している。これと対照的に,公営紹介においては紹介所あたりの就職数に明らかな上昇傾向はない。上にみた取締規則の内容からも,兼業禁止規定による業者数の表面的な減少である可能性があり,1927年以降の民営紹介業者の減少の実態についてはさらに詳しい考察が必要であろう(注42)。
 全国的な求人・求職数の動向をみると,1921年以降着実に増加したかにみえる公営紹介は,25年にはやくも減少の傾向をみせ,再び求人数で民営紹介を凌駕するのはようやく31年に至ってからである。根拠法の制定以降,じつに10年の歳月を要したことになる。他方,民営紹介は旧職業紹介法施行後および取締規則施行後も安定的に推移し,公営紹介によって大きな侵食を受けた様子はうかがわれない。つまり,いままでみてきた公営紹介の苦戦は統計上でも確認できる。
 この点を,もう少し詳しくみてみよう。職業紹介事業の効率性を代表する指標としては,求人倍率や(求人)充足率が用いられることが多い。前者は求職者に対してどれだけの就職の機会を集められたかを示し,後者は求人に対しどれだけの人材を提供できたかを示す(注43)。それぞれについて,職業紹介法施行以降取締規則施行までと,取締規則施行以降職業紹介法改正までの2期間について平均値を計算したのが次の表1である。

表1 民営紹介と公営紹介の求人倍率・充足率

 表1から,民営紹介は,公営紹介と比較すると求人倍率・充足率ともに高く,この関係は1927年の取締規則施行以降も変わらないのがわかる(注44)。民営紹介は,公営紹介に対して求人倍率・充足率という点からみて優位にたちつづけることができたのである。
 この民営紹介と公営紹介との差異は,何に依存していたのだろうか。1927年より数年間のみではあるが,求職者に対して発行した紹介状の数,求職者のうち再来者の数が報告されている。それをまとめたのが次の表2である。

表2 民営紹介と公営紹介の紹介率・再来者率

 表2における両事業の相違点として,公営紹介での紹介率が民営紹介を下回り,60%をきっていること,公営紹介での再来率が民営紹介を上回り,40%を超えていることがわかる。とくに,公営紹介において,求職者のうちのべ人数にして半数程度しか紹介を受けられず,逆に求人側からみても紹介を受けられるのが約7割(原票からの算出)のみなのは,当時の公営紹介に何らかの難点があったことを示唆している。また,求職者のうち半数弱が,かつて公営紹介を用いたことがある(同一の紹介所でなくともよい)ことは,公営紹介で提供している雇用機会が定着率といった面で何らかの特徴を有していることをうかがわせる(注45)。
 以上のように,公営紹介の苦戦の背後に全体としての効率性の差があったことが,統計によっても示された。この民営紹介と公営紹介の差は,紹介先別に取扱成績を分類するとわかりやすい。『職業紹介統計』には業態別取扱成績として,工業及鉱業,土木建築,商業,農林業,水産業,通信運輸,戸内使用人,雑業の分類がある(注46)。代表的な工業及鉱業ならびに商業,戸内使用人について,民営紹介と公営紹介の動向を求人数と求職者数から確認したのが,図2~図4である。

図2 工業及鉱業における職業紹介事業の推移(1921-1937)

図3 商業における職業紹介事業の推移(1921-1937)

図4 戸内使用人における職業紹介事業の推移(1921-1937)

 図3,図4にもみられる通り,戸内使用人と商業,そのほかでも通信運輸,雑業について,民営紹介は公営紹介に対して十分な競争力を保持した。逆に,工業及鉱業ならびに土木建築においては,公営紹介が圧倒的なシェアを獲得した。ただしこの二者では,労働者募集方法として職業紹介事業よりもむしろ募集人や労務供給事業が利用される傾向にあったことはつとに指摘されており,統計がとられはじめた当初より民営紹介での取扱件数は少なかった(注47)。ゆえに,公営紹介によって拡大する余地を狭められた可能性はあっても,もともとの地盤を侵食されたとは必ずしもいえないかもしれない。
 このことをもう少し詳しく検討してみよう。とくに,鉱工業・商業は大正期から昭和初期にかけて大きく成長した産業であり,どのようなかたちで公営紹介が勢力を伸ばし,逆に民営紹介が勢力を維持したのかは,当時の公営・民営紹介の役割を考えるうえでは重要であろう。次の表3,表4は鉱工業・商業全体について,求人数,求職者数,ならびに求人倍率,求人充足率の年平均値を,取締規則施行前後にわけてまとめたものである。

表3 鉱工業における職業紹介事業

表4 商業における職業紹介事業

 鉱工業では,公営紹介が急速に成長する一方,民営紹介は逆に大きく求人・求職を減少させている。少なくとも表面的には,公営紹介による民営紹介の代替が起こったといえる。ただし,公営紹介における募集環境が改善されたわけではなく,求人倍率は民営紹介所の1.4前後に対して1.0前後を推移し,求人充足率も民営の0.45前後に対して0.40前後にとどまった。
 逆に商業においては,公営紹介とともに民営紹介も求人を伸ばした結果,民営紹介の立場が大きく揺らいだとはいえない。それは,求人倍率や充足率にも現れている。1927年以降,求人倍率は公営紹介の1.00に対して民営紹介は1.53,求人充足率は公営紹介の0.28に対して民営紹介は0.35を維持し,民営紹介は公営紹介に対して一定の立場を保持し続けたと考えられる。
 とりわけ鉱工業において,募集環境の改善のないまま急拡大が可能だったのはなぜだろうか。
 さいわい,公営紹介に関しては鉱工業のさらに細かな分類が可能である。公営紹介は,鉱工業において1927年を境にグロスで年平均約23万人の求人を増加させることに成功したが,この求人増加がどの分野によってもたらされたのかを図示したのが図5である。

図5 鉱工業公営職業紹介における求人増加の産業別内訳

 図5では,鉱工業のなかでも特定の分野に求人の増加が集中した様子がうかがえる。たとえば,製糸業は全体の求人増加の52%をもたらしており,紡織業の21%,嗜好品業の6%をあわせると,上位3分野で実に全体の80%をしめることになる。具体的には,製糸業では1921~26年平均でわずか2千人の求人しか集められていなかったのが,1927~38年平均では120千人に激増し(注48),紡織業では18千人から66千人へ,嗜好品業では19千人から33千人へそれぞれ求人を増加させた。他方,器械機具(18千人から25千人),金属工業(22千人から28千人),船舶車両(4千人から8千人)など戦略産業と目された重工業分野では求人増加こそ生じたものの比較的わずかにとどまり,全体に対して大きな影響を与えていない。
 この間,公営紹介の鉱工業求職者は,その他産業を除くと年平均約14万人の増加をみた。図5と同様に,この求職増加がどの分野の求職者によって担われたのかを図示したのが,図6である。図5と比較すると,ばらつきが大きい。その理由は,器械機具,金属工業分野への求職者が多いためである。したがって,器械機具や金属工業といった重工業分野では,公営紹介は求職者の増加に比較して求人を十分集めることができなかったとまとめられる。その結果,両分野では求人倍率は減少し,良好な求人ではなかったのか,あるいは求職者も十分な熟練を保持していなかったためか,充足率もかえって減少を示した。

図6 鉱工業公営職業紹介における求職増加の産業別内訳

 つまるところ,1927年を境とする公営紹介の躍進の内実は,鉱工業,しかも製糸・紡織といった特定かつ在来軽工業分野に支えられており,決して鉱工業全般にわたって公営紹介が勢力を拡大したというわけではなかったのである。
 以上より,旧職業紹介法および取締規則が,当時の民営紹介全体に直接多大な影響を与えたわけではないことが看取される。公営紹介が大きく勢力を拡大したのは特定の業態に偏っており,民営紹介全体を圧迫したわけではない。また,職業紹介法の公布により制度的財政的基盤を強化したはずの公営紹介は,民営紹介が従来得意としてきた分野には,容易には参入ができなかったこともうかがわれる。戦時体制に入る1930年代末までは,その意味での住みわけが進む過程にあったと考えられる。


 V 政府見解の転換

 1 民営紹介禁圧の根拠――内務省(厚生省)の場合

 上述のように,旧職業紹介法および取締規則制定当時において,民営紹介は確固とした存立根拠を保持したことが統計的にも実態的にも観察される。他方,立法のもと,なかば強制的につくられた市長村営の職業紹介所は多く休眠状態のままであった。このような実情にかんがみ,進歩的といわれた内務省(のちに厚生省)社会局や識者は職業紹介事業の公的独占を主張するに至った。
 この点に関して,東京大学経済学部所蔵の職業紹介関係文書のなかに「營利職業紹介廢止ニ關スル意見」と題された一遍の文書が保管されている(注49)。保存の状況から職業紹介法の改正をにらみ,内務省社会局内部で議論された意見をまとめたものと考えられる(注50)。この文書の中核となる個所を,次頁に資料3として引用する(原文は縦書きタイプ打ち)。

<資料3>

 この資料は,ILO条約批准を形式的理由として,民営紹介を禁圧する姿勢を明確に示している。そもそもILOは,1930年10月に開かれた理事会以来,有料職業紹介の禁止の方向へ進んでいた。総会に向けて1931年10月の理事会に報告された「グレイ・レポート」は,内務省社会局によって1932年3月付で「有料職業紹介所の廢止」として全文翻訳されており,関心の強さがうかがわれる(注51)。「營利職業紹介廢止ニ關スル意見」はこの一貫した流れを反映したものと考えることができる。
 前掲資料では,民営紹介を禁止する実質的理由として,そもそも弊害が多く社会正義に反する,公営紹介の発展の妨げになる,という点があげられている。このうち第2点には,旧職業紹介法・取締規則をもってしても公営紹介の拡大が遅々として進まなかった事情が反映されており,明治期の認識との違いがある。
 しかし,こうした内務官僚の強い意向にもかかわらず,民営紹介の原則禁止がすぐに政府の方針となったわけではなかった。
 たしかに,1919年の第1回ILO総会で採択された「失業に関する条約案」(2号条約)は,その第2条に「各締盟國ハ中央官廰ノ管理ノ下ニ公ノ無料職業紹介所ノ制度ヲ設クベキコト」と定めており,旧職業紹介法の整備を待って22年に批准されてもいる。しかし,同条約には民営紹介を禁止することは明記されておらず,批准の閣議決定のおりにも民営紹介は禁止しないことが確認されていた(注52)。
 ILOが民営紹介の禁止を明確に打ち出すのは,1933年の第17回総会に「有料職業紹介所廢止ニ關スル條約」(34号条約)が提出されてからである。内務官僚は同条約の採択を見越して,「既定事實ノ四」として議論の前提として扱っている。しかし,同条約はILO総会でこそ採択されたものの,国内では枢密院の反対にあい最終的に批准されなかった。とくに,枢密院において,当時の内務大臣後藤新平が「我國ニ於テハ既ニ有料職業紹介所ガ次第ニ改善セラレ,其機能ヲ發揮シテ居リ,公營ノ無料紹介所ト竝行シテ,其業務ニ當テ居ルカラ,特ニ條約ノ御諮詢ヲ奏請スルニ及バズ」という趣旨の発言をしており,民営紹介を肯定するこの考え方はその後の政府見解として維持されることとなった(注53)。公営紹介の拡大が遅々として進まない現状に対し,国際協調と社会正義を前面に押し出し民営紹介の原則禁止を訴えた内務官僚の思惑とは反対に,政府レベルでの公的独占のコンセンサスは十分とれていなかったのである。

 2 改正職業紹介法に対する国会答弁

 前項でみたように,少なくとも1935年の枢密院でのILO34号条約非批准決定時点で,政府は民営紹介を禁止する意志はもっていなかった(注54)。それにもかかわらず,1938年の職業紹介法改正において,原則として民営紹介が禁止されたのには,いかなる理由が存したのだろうか。
 残念ながら,この間の内務省(厚生省)内部での議論の転換を跡づける資料は見つかっていない(注55)。しかし,職業紹介法改正法案の国会審議のなかで,その理由を垣間見ることができる(注56)。
 1938年3月6日の衆議院本会議において,厚生大臣木戸幸一が職業紹介法改正法案提出の趣旨を説明した。そのなかで強調されたのは,「國家ノ遂行スル諸政策ニ順應セシムル爲メ,勞務ノ適正ナル配置ヲ圖ルコトガ,極メテ緊〓(要(ヨウ))デアル」という,いうなれば国家総動員の考え方であった。木戸は,「生産力ノ擴充計畫遂行」のためにも「職業紹介事業ヲ政府自ラ管掌シ,是ガ機關ヲ整備擴充シ,以テ現下竝將來ノ時局ニ對處セント致シマシテ」職業紹介法の改正に踏み切った,と法案提出理由を明らかにした。ただし,民営職業紹介事業を原則禁止とすることには,演説のなかでほとんど触れられず,最後に「……民間ニ於ケル職業紹介事業,竝是ガ類似事業等ニ付テ若干ノ規制ヲ加ヘル規定ヲ設ケタノデアリマス」と述べるにとどまった。結局,それまで内務省内部で議論されていたはずのILO条約との整合性や民営職業紹介事業の弊害などは一言も触れられなかった(注57)。民営紹介禁圧の理由は,統制経済というただ一点に集約されたのである。
 また,民営職業紹介の将来像を質した村瀬武男の質問に対しては,木戸は「特別ノモノニ付テハ,ヤハリ民間ニ委ネナケレバナラヌカト考ヘテ居リマス」と応じ,一定の配慮をすることを示唆した。さらに世耕弘一が前述の枢密院決定との矛盾を質したのには,木戸は直接ではなく,従来からの営業者は原則として許可制によってこれを認めることを表明することで間接的にこたえた。
 したがって,少なくとも政府の公式見解では,職業紹介法改正の主たる目的は,国家総動員体制に対応するために職業紹介所を市長村営から国営に転換することにあり,民営紹介は原則として存続させる方針であった。しかし,国家総動員法の成立に象徴される統制経済の強まりの中で,総動員計画や重要産業五年計画が次々と策定され,国会における政府答弁は何の制約にもならず,民営紹介は禁圧されていくことになる。


 VI 結びにかえて――住みわけの意味するところ

 本稿は,公的独占に至るまでの職業紹介事業を制度史的視点から概観してきた。結局,財政的制度的な手当てにもかかわらず,公営紹介は民営紹介に比して効率性の面で不利な立場に立たされ,それゆえに広範な普及が妨げられていたことが事例的にも統計的にも確かめられた。この不利を覆し公営紹介を拡大させるには,統制経済を背景とした強行的制度変革によるしかなかったのである。
 本稿を閉じるにあたって,戦前期の職業紹介事業の展開過程が,現代の労働市場に対してどのような示唆を与えうるのか検討しよう。
 そもそも,労働市場における職業紹介事業の役割はどのようにとらえられるのだろうか。
 従来の労働経済学を基礎とした研究は,労働市場が労働者と企業のみで構成されるという前提を共有し,仲介業者の主体的な介入はほとんど想定されない。とはいえ,具体例には乏しいもののいくつか考え方が提起されている。
 そのひとつは,matchmakerとしての役割を重視する考え方である。個々の市場参加者は,おのおのにしかわからない嗜好や技能・能力などをもっており,適材適所を目指すにはその隠された情報をうまく引き出し,相性のよいように結びつけることが必要になる。職業紹介は,求人と求職者の双方との関係を構築することによって積極的にこの役割を担うことができると考えるのである(注58)。
 そしていまひとつの有力な考え方は,middlemanとしての役割を考える立場である(注59)。人材の採用に当たって少なからぬ費用がかかる場合など,採用後に労働者がとる行動いかんは収益に直接大きく影響する。このとき,労働者に保証がまったくなければ企業は求人を手控えるかもしれない。職業紹介事業は,ある程度就職後の雇用関係に介入しながら労働者や企業に保証を与えることで,良好な雇用関係に一役買っている可能性もある。
 以上のような,相互に依存するかもしれない2種類の視角から本稿を整理すると,いくつかの仮説が抽出できる。
 技能蓄積など労働者に初期投資が必要な場合,いわゆる引き抜きあいの外部性が発生して労働市場の効率性がゆがめられる可能性があることは,理論的にも指摘されている。本稿で明らかになった事実に則れば,当初民営紹介はその外部性を助長するものとして認識され,問題を回避するためには公営紹介こそがふさわしいとされた。しかし大正期になると,民営紹介は身元保証などの形で,逆に労働者の逸脱行為を抑制する機能をもつようになった。それに対して公営紹介は,財政的な裏づけや全国的連携というmatchmakerとして優位な機能をもちえたにもかかわらず,民営紹介に拡大を阻まれることとなった。公営紹介が就職後の雇用関係に可能な限り介入しないことを原則としたこと,さらには公営紹介における再来者率が高かった事実をも考慮すると,以上の歴史的経緯は公営紹介がmiddlemanとしての役割を十全に担うことができなかったことを示唆している。さらにいえば,戦前期の条件のもとでは,職業紹介事業にとって重要だったのはmatchmakerとしての機能よりもmiddlemanとしての機能だった可能性も指摘できよう。
 翻って戦後の職業紹介事業の展開をみると,職業安定行政がmiddlemanおよびmatchmakerの役割を十分担ってきたかについては議論の余地がある。これについては別途厳密な検証が必要であるが,「2割職安」と揶揄されるほどに落ち込んだ市場シェアや近年の民営化論の強まりをみる限り,否定的にならざるをえない。とはいえ,近年解禁された民営紹介がどの程度の役割を担うかもいまだ未知数である。middlemanとmatchmakerの相互の関係を考慮しつつ,全体として職業紹介事業をどう構築するかを再確認する必要があろう。
 本稿では,国営化までの職業紹介制度の制度的沿革を追うことによって,民営紹介と公営紹介との関係の外形を描くことができた。たとえば,民営紹介所の「弊害」の実態や業態ごとの事情など,個々の論点に関してはさらなる資料の発掘が必要であるし,本稿で提出された仮説の詳細なデータによる検討も欠くことはできない。しかし,職業紹介事業のもつ役割の考察に,歴史的な視点からひとつの材料を提供できたのではないかと考える。

*本稿は,多くの方々からの助言を得て現在の体裁をとるに至った。とりわけ,統計研究会労働市場委員会の研究会で得た様々な知見,現代労働経済研究会(Current Issues of Labor Economics),関西労働研究会で頂戴した示唆に富む意見は,本稿とそれに続く研究の大きな支えとなっている。紙幅の都合上,個々に言及することはできないが,ここに感謝の意を表明したい。


(注1)以下,法令条文は木村(1939)による。
(注2)一般に,職業紹介事業は,経営主体によって,国営,公営(府県市町村営),民営無料(救世軍など),民営有料(営利)に分けられる。以下ではとくに断りのない限り,前二者を「公営紹介」,後二者を「民営紹介」で統一する。ゆえに「職業紹介事業の公的独占」とは,職業紹介事業の主体を原則として前二者に限定することをいう。
(注3)松林(1991),諏訪(1990),小嶌(1996)など。以上『日本労働研究雑誌』No. 446および『季刊労働法』190・191合併号の特集を参考にした。
(注4)馬渡(1996)p. 3。
(注5)有田(1996)p. 11。
(注6)ILO諸条約との関係は鎌田(1996)にまとめられている。
(注7)法制度的見地から合衆国の事例を紹介した小嶌(1996),ドイツの動向を示した井口(1996)などがある。
(注8)馬渡(1996)p. 36。
(注9)戦前期において民営紹介の管理取締は主に自治警察が担当した。公刊資料のなかには警察資料の引用が散見されるので,統計や資料自体は当時作成されていた可能性が高い。しかし残念ながら,管見の限り利用可能な一次資料はほとんど見つからなかった。したがって,本稿は公刊資料もしくは二次資料が中心の論考にならざるをえず,その意味で研究の中間報告であることをここに明記しておく。
(注10)戦前期の職業紹介事業は,失業や貧困,差別問題の一環としてとりあげられることが多く,研究者には独立した考察に値する問題としては認識されなかった。加瀬(1998)など,近年発表された研究においてもこの姿勢は基本的に維持されている。そのなかで職業紹介事業は,社会事業・失業対策の一環としての位置しか与えられておらず,広く労働市場の機能とのかかわりが論じられることはなかった。最近になって澤邊(1992)や来島(1990)など,職業紹介事業を単独でとりあげる論考が見いだされるようになったが,しかしこれらの論考は法令の条文整理や公表統計の紹介にとどまっており,残念ながら多くの部分が労働省編(1961)などと内容的に重なっている。もっとも,戦後の職業紹介事業については,高度成長期を支えたひとつの制度として注目を集めており,加瀬(1997),苅谷・菅山・石田編著(2000)などの研究がある。
(注11)農商務省商工局(1897)p. 58. 農商務省商工局(1904)p. 81.など。
(注12)農商務省商工局(1904)pp. 93-94。
(注13)農商務省商工局(1897)pp. 57-58。
(注14)標準的な人的資本理論によれば,投資された人的資本が所属企業の隔てなく通用するならば,その費用は労働者が負担することとなり,引き抜きあいの外部性は発生しない。しかし,とりわけ就職時の労働者は信用も限られており,自ら訓練費用を負担できない場合が多く,この場合には企業が費用を負担せざるをえない。このとき,技能投資が企業に対して適当に保護されなければ,引き抜きあいが発生する。その結果,企業は,本来必要な技能投資を差し控えるようになる。これが引き抜きあいの外部性の骨子である。引き抜きあいの外部性は,労働経済学では古くから議論されてきた論点の一つであり,近年ではイギリスのサッチャー政権下で行われた職業訓練政策の変更との関連で,Booth and Snower(1996)などがまとめている。
(注15)ただし,間(1993)と労働省編(1961)との見解の相違に見られるように,判断基準が明確な募集形態分類があるわけではなく,これは当時の取り締まりにおいてもあてはまる。
(注16)労働省編(1961)第1巻p. 164。
(注17)募集取締規則制定当時内務省社会局に勤務していた北岡寿逸の述懐によれば,他府県からの募集従事の許可申請に対して排他的に取り扱う府県もあったようであり,全国的な募集取締規則制定のひとつの要因になった(労働省編(1961)第1巻,余録「旧社会局の思い出」p. 6)。
(注18)東京地方職業紹介事務局(1929)p. 4。
(注19)東京地方職業紹介事務局(1923)p. 37第15表。
(注20)当時の東京府における取り締まりは,1917年2月に発令された警視庁令第1号紹介営業取締規則によっていた(1921年警視庁令9号で改正)。「雇傭紹介業者」と呼ばれたのは事務員や職工を紹介する業者である。「紹介營業に關する調査」p. 219。
(注21)以上,「紹介營業に關する調査」による。紹介営業取締規則によれば,紹介業者は最低300円の不動産を所有することが義務づけられており(第4条),同一家屋内での兼業も制限されていた(第5条)。
(注22)「紹介營業に關する調査」pp. 59-61。以下同個所による。
(注23)川野編(1941)など。
(注24)内務省地発第九八號「失業保護ニ關スル施設ノ件依命通牒」。以下,通牒・通達は長野県立歴史館所蔵「職業紹介所設置報告」「職業紹介ニ関スル例規」による。
(注25)農乙発一四二號。
(注26)長野県立歴史館所蔵「職業紹介関係書類」出張復命書。
(注27)このとき内務事務官斎藤樹,協調会参事布川孫市,内務省嘱託生江孝之,大阪市協調会嘱託八濱徳三郎の4人を招いて講演会を催してもいる。
(注28)残存している設置報告書による。年初の内務省への報告では1920年末で3市14郡179町村に職業紹介所が設置されたと書かれている。
(注29)上記講演記録による斎藤の発言内容による。
(注30)もっとも,内務省も訓練の必要性は理解しており,1920年6月に協調会において2週間にわたる職業紹介事業従事者講習会を実施している。ちなみに,長野県はこの講習会に松本市書記の平林早次郎,諏訪郡農会書記の五味一雄の両名を派遣した。この派遣に際して,県は各郡市町村に参加を呼びかけたが,こたえたのは松本市と諏訪郡のみであった。
(注31)講演記録における斎藤樹の発言内容による。
(注32)旧職業紹介法を審議する第六類第十一號委員会での小橋太一内務次官の法案趣旨説明による(『帝國議會衆議院委員會議録29第四十四回議會[三]大正九・十年』臨川書店刊p.623)。
(注33)中央職業紹介事務局の既設職業紹介所の認可見込み照会(7月8日)に対応し,農甲収第二四二九號として発令されたもの。
(注34)中村(1990)など。
(注35)少年相談所とは,各職業紹介所内部に設けられた小学校学卒者専門の窓口である。東京府職業紹介所においては,所長であった豊原又男の考えもあり,小学校との協力のもと積極的に推進された。この方法は,戦時中の統制経済の経験を経て,戦後高度成長期の職業安定所による中卒者の就職斡旋につながるものとして,近年注目されている。
(注36)「雇主より見たる職業紹介事業」pp. 2-3。
(注37)「雇主より見たる職業紹介事業」p. 15。
(注38)しかし,この意見に対する紹介所スタッフの感想は冷ややかで,「身許保證の如き實行不可能なるもの」と断じており,先にみた東京市の例との間には大きな相違点がある。「雇主より見たる職業紹介事業」p. 27。
(注39)「職業紹介事業と府下の現状」p. 23。
(注40)この点,澤邊(1992)は「職業紹介法では基本的には公立・公益の職業紹介所しか認められていなかった。しかし,公的な紹介所を急激に増加させることが財政的な理由で難しかったこともあって,広く普及していた営利職業紹介所の存在を暗黙のうちに認めざるを得なかった」としているが事実誤認であると考えられる(p. 165)。
(注41)各紹介所が中央職業紹介事務局に直接提出する報告は,旬報・月報・季報の3種類があった。事務局は,この報告を用いて年報を編纂している。しかし,当時はまだ「有効」数の概念が行き渡っておらず,基本的には「新規」数あるいは「現在」数で統計が作られたようである。このため初期の段階では混乱が生じたらしく,季報を編集した『職業紹介年報』と,月報を編集した『職業紹介法施行拾年』の間では,1927年以前に多少の異同が生じている。また,厚生省『職業紹介統計』や労働省編(1961)は後者の数値に依拠している。以下,本稿では後者の数値を『職業紹介統計』の呼称で統一する。
(注42)ちなみに東京市社会局の「紹介營業に關する調査」によると,1921年当時の民営紹介の実績は紹介所あたり平均38人であった(p. 48)。
(注43)無論,これらは紹介所のサービスの内容を示すとともに時々の景気動向を反映する。しかし,営利事業と公営事業の比較であれば,景気動向の要因はさしあたりおくことができる。
(注44)求人倍率・充足率ともに,各期間について,民営紹介と公営紹介の間の平均値の差は,t検定の結果統計的に5%水準で有意であった。逆に同一業態内での期間の間の平均値の差は,同様のt検定の結果統計的には5%水準で棄却された。
(注45)後述の「營利職業紹介廢止ニ關スル意見」のなかには,1932年7月の1カ月間の職業紹介統計が掲載されており,そこでの再来率は,民営の約26%に対し,公営では約69%にものぼっている。この点,猪木(1998)は大阪の例を分析し,日本における定着率の上昇過程と企業の施策との関係を指摘しており,興味深い。
(注46)ただし,ここでいう職業紹介は一般職業紹介を指し,日雇,少年,婦人,俸給生活者,朝鮮人はそれぞれ別個の職業紹介を経るとされていたことには注意を要する。実質的にどれだけ住みわけがなされていたのかは判然としないが,少なくとも厚生省統計においては,日雇と婦人について1921年より,朝鮮人について24年より,少年について26年より,俸給生活者について27年よりそれぞれ別個に統計表が掲載されている。また東京府職業紹介所の成立から国営化までの過程を詳細に記録した川野編(1941)には,その紹介網を日雇(失業救済),少年,婦人,俸給生活者と徐々に広げていったことが明確に描かれている。東京府職業紹介所に関する限り,その区別はかなり厳密になされていたとしても差し支えないと考えられる。
(注47)1922年の時点で,営利職業紹介事業全体の求人数118万7267のうち,鉱工業は12万53人で10.1%,土木建築は18万6434人で15.7%をしめており,他方商業は22万8401人(19.2%),戸内使用人は41万1798人(34.7%),雑業は14万9863人(12.6%)であった。
(注48)この製糸業における求人の激増がどのような理由によるのかは興味深い。当時製糸業の中心地であった諏訪地方では,製糸同盟と呼ばれる業界団体が労働力需給をコントロールする試みを行っていた。大正末期はその試みが挫折する時期にあたる。先行研究では,この挫折には県の介入が大きな影響を与えており,職業紹介行政と業界団体とにどのような関係が構築されていたのかは大きな問題であろう。
(注49)(内務省)社会局の便箋に丁寧にタイプ打ちされており,1932年10月1日の日付と「安あ積づみ」の名字が打たれている。この人物は安積得也(社会局事務官,後に厚生省労働局労務課長などを経て岡山県知事となる)のことと思われる。
(注50)この文書は,各地方長官および拓務省宛に担当区域の営利職業紹介事業の調査を依頼する「昭和六年營利職業紹介事業調査書類」と題された書類と,「職業紹介事業研究要綱」と題されたメモ書きとの間にまとめられていた。したがって,昭和初年より問題となっていた職業紹介事業の国営化についての内務省の内部資料であると考えられる。
(注51)以上,内務省社会局社会部「有料職業紹介所の廢止」による。実際にILO総会で議題にされたのは1年後の第17回ILO総会であった。
(注52)「營利職業紹介廢止ニ關スル意見」のうち「既定事實ノ三」による。
(注53)第六類第十一號委員会『マイクロフィルム版帝国議会衆議院委員会議録reel. 28第73回議会』臨川書店,p. 188。
(注54)職業紹介事業の国営化について整理・分析した数少ない先行研究に,河(1996)がある。ただし,この研究の基本的な目的は戦時体制下における労働力の動員計画の策定と実行の分析にある。それゆえに,職業紹介事業の国営化については民営紹介との関係という視点を欠いており,国営化が国家総動員体制の一形態として進められたことは議論の前提とされている。そのなかでは,社会局が国営化に傾いた時期を「1935年3月狭間茂が社会部長に就任してから本格化し」と規定している(p. 25)。
(注55)労働省編(1961)ではこの間の事情を「……満州事変の勃発を契機として,雇用情勢は急変し,軍需方面からの膨大な労働力需要に対応し,円滑な供給が要請されるに至った。このため政府は従来の職業紹介機構をあらためて十分にその機能を発揮せしめる必要があるとして,職業紹介事業の連絡統制ならびに監督に関する機構の改革に着手した」とするのみで,具体的な理由づけを行っていない(第1巻p. 555)。河(1996)は「内務省の方針が国営化に傾く時点を正確に特定するのは難しいが,1937年の7月から8月にかけての第71議会の前に,前述の就職指導職員の設置と関連し,国営を実施するように変わる」と指摘しているが,河(1996)のいう国営化とは,あくまでの公営紹介の経営形態を指しており,職業紹介事業の公的独占と必ずしも同義ではない(pp. 96-97)。
(注56)1936年の職業紹介所の府県への移管を定めた改正に至る過程は河(1996)に詳しい(p. 25)。
(注57)「官報號外 昭和十三年三月十七日 衆議院議事速記録第二十九號」『帝國議會衆議院議事速記録 71』東京大学出版会所収。
(注58)最近では,Roth and Peranson(1999),Roth and Xing(1997)などがある。
(注59)middlemanとは,元来流通業者がもつ役割を評判(reputation)を通じて特徴づけたものをいう(Shapiro(1983)など)。貨幣を中心とした金融仲介に応用されるのが多いが,労働市場への応用例はたとえばYavas(1994)などがある。


参考文献
【未公刊資料】
(東京大学経済学部所蔵:職業紹介関係文書)
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(法政大学大原社会問題研究所所蔵:協調会関係文書)
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「雇主より見たる職業紹介事業」東京府少年職業相談所・東京府職業紹介所(1928年9月)[請求記号:366.29/68/K]
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「有料職業紹介所の廢止」社会局社会部(1932年3月)[請求記号:336.29/13/K]
(長野県立歴史館所蔵:長野県行政文書)
「職業紹介所設置報告」[請求番号:大10/2E/4]
「職業紹介関係書類」[請求番号:大10/2E/5]
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【公刊資料】
『帝國議會衆議院議事速記録71』東京大学出版会。
『帝國議會衆議院委員會議録29第四十四回議會[三]大正九・十年』臨川書店。
『マイクロフィルム版帝国議会衆議院委員会議録reel.28第73回議会』臨川書店。
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東京地方職業紹介事務局(1923)『管内製絲女工調査』。
東京地方職業紹介事務局(1929)『女工紹介〓(顛(テン))末』。
農商務省商工局(1897)『工場及職工ニ關スル通弊一般』隅谷三喜男解説『職工および鉱夫調査』光生館(1970年)所収。
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 Yavas, Abdullah,(1994) Middlemen in Bilateral Search Markets, Journal of Labor Economics, Vol. 12, No. 3, pp. 406-29.


 かんばやし・りょう 1972年生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。東京都立大学経済学部専任講師。主な論文に「賃金制度と離職行動」『経済研究』51巻2号など,労働経済学専攻。