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(著者抄録)
本論文の目的は歴史研究そのものではなく、人事の歴史制度分析のための経済理論を導入することにある。具体的には、長期雇用、賃金プロファイル、および企業内人材育成という様式化された日本企業の特徴が均衡で成立する既存のモデルを拡張して、内部の労働者を昇進させるか外部から中途採用するかという問題を分析に加える。そして上記の諸特徴と内部昇進との間の制度補完性を示し、これらの特徴を備えた均衡が存在する条件を求める。また、短期雇用と中途採用という特徴を備えた別の均衡との比較制度分析を行う。さらにモデルの分析を通して、人事の歴史制度分析のために重要となると思われる、最近のミクロ経済理論におけるいくつかの概念を紹介する。


(論文目次)
I はじめに
II モデル
III 分析
   短期契約
   長期契約
IV 結果
   1 複数均衡
   2 制度補完性
   3 均衡の比較と移行のダイナミクス

 I はじめに

 Gibbons(1997)が指摘するように,伝統的な労働経済学は「労働」を他の財・サービスと同様に扱っており,価格と数量,すなわち賃金水準と雇用量の決定を主な研究テーマとしている。そして失業や雇用政策の研究は,雇用関係の始まりとともに分析を終えている。企業内部の複雑な人事制度にメスを入れることはあまりなかった。このような立場は,伝統的な経済学が市場という特定の取引制度における,価格という特定の決定の分析を中心としてきたことに対応していると思われる。一方,最近,組織の経済学,比較制度分析,人事の経済学という分野が脚光を浴びつつある(注1)。これらの分野は,いずれも企業の内部におけるインセンティブの分析を中心とする点で共通している。「人を適切な行動に誘うインセンティブを与えるために,どのような制度を設計しなければならないか」。このような制度設計のマネジメントへの洞察を,ゲーム理論や契約理論など最新のミクロ経済学での厳密な分析用具に依拠して深めていこうとするのが,これらの新しい分野である。
 興味深いことに,経済史研究においても同様の対比が可能である。上記のGibbons(1997)と同じく,エコノメトリック・ソサエティの第7回世界大会で報告されたGreif(1997)によれば,経済史分析への伝統的なアプローチは,市場という特定の制度がどの程度機能していたかに焦点を当てる。一方最近では,多様な制度を最新のミクロ経済学の助けを借りて分析し,その含意を探るというアプローチによる経済史研究が現れてきた。Greif(1997)は歴史制度分析(historical institutional analysis)と呼んでいる(注2)。
 人事の経済学も歴史制度分析も,用いられる分析用具の多くは共通している。しかし歴史制度分析特有の理論的視点もある。本論文の目的は歴史研究それ自体を行うことではなく,人事の歴史制度分析のための経済理論を導入することにある。具体的には,様式化された日本企業の人事制度上の特徴が均衡で成立するモデルを定式化し分析する。そしてモデルの分析を通して,人事の歴史制度分析のために重要となると思われる,最近のミクロ経済理論におけるいくつかの概念を紹介する。


 II モデル

 本論文では,長期雇用,賃金プロファイル,企業内人材育成,および内部昇進という様式化された日本企業の特徴を,できる限り簡単なモデルで分析する。出発点となるモデルは,Kanemoto and MacLeod(1989)およびMacLeod and Malcomson(1989)に依拠している(注3)。本論文では彼らのモデルを,内部の労働者を昇進させるか外部から中途採用するか,という問題を分析できるように拡張する(注4)。
 企業は(ある確率で)無限期間存続し,労働者を雇用して生産を行う。一方,労働者は2期間働いて労働市場から退出する。第1期目(およびそのときの労働者)をyoung(若年期,若手),第2期目(およびそのときの労働者)をold(壮年期,壮年)と呼ぶことにしよう。いわゆる重複世代モデル(overlapping generation model)の枠組みに基づいて,各期に企業はyoungを1人採用し,前期に採用した(したがって当期には)oldとの合計2人を雇用すると仮定しよう(注5)。
 労働者は第1期(young)に,企業特殊的(文脈的)技能に投資するかどうかを決定する。労働者の投資決定をa∈{0,1}で表し,a=1は企業特殊的投資を行うことを,a=0は投資を行わないことを意味する。簡単化のために投資の費用は企業および労働者いずれにとってもゼロとする。しかしa=0のときには労働者は第1期に私的利益b>0を享受すると仮定する。このbは,たとえばa=0を選ぶことで得られる余暇の価値,汎用的な技能を高めることで得られる満足,名声の価値などを表している(注6)。企業は労働者のaの決定を第1期には観察できないが,彼らの仕事ぶりを観察することによって,第2期のはじめに知ることができると仮定する。しかしその情報は第三者には観察できず,したがって立証可能ではないと仮定する。
 労働者の投資決定aが立証可能でないとは,aの値に依存した契約を強制してくれるフォーマルな仕組み(たとえば裁判所)が存在しないことを意味している。したがってoldに対して,「youngのときに企業特殊的技能に投資していればwH,さもなければwL」というような技能に連動した賃金スケジュールを企業が提示しても,労働者が契約がそのとおりに履行されると予想するとは限らない。なぜならば,もしもwH>wLならば,たとえ労働者がa=1を選択していても,契約を遵守してwHを支払う代わりにwLを支払って労働費用を節約するインセンティブが企業側にあるからである。このような契約の不履行を妨げるフォーマルな仕組みが存在しないと仮定しているのである。契約の履行について企業が労働者の信頼を得るためには,契約を遵守することが企業にとって望ましくなるように,あらかじめ契約内容を適切に設計する必要がある。言い換えれば,契約は企業にとって自己拘束的(selfenforcing)でなければならない。
 技能形成の決定に焦点を当てるために,労働者のその他の決定(たとえば毎期の仕事ぶり)は捨象する。労働者はリスク中立的で,youngのときの賃金をw1,oldのときの賃金をw2とすると,2期間の生涯効用はa=0を選択したならばw1+b+δw2,a=1を選択したならばw1+δw2である(注7)。ただしδ∈(0,1)は労働者および企業共通の割引要素で,企業が次の期に存続する確率と時間選好を反映している。
 労働者がyoungのときの投資は,労働者がoldになったときの生産性に影響を与える。したがって,企業の各期の利益は,oldが前期にどのような投資決定を行ったかに依存する。まずoldが前期にa=0を選択している場合を考えよう。この場合の当期の企業の(労働者への賃金支払い前の)利益を基準化して0とする。一方,oldが前期にa=1を選択していた場合には,当期の企業の利益は定数x>0で与えられる。したがってxは,労働者が企業特殊的技能を蓄積することで相対的にどの程度企業の利益に貢献できるかを表すパラメータと解釈できる。
 さらにoldに関する外部労働市場が存在する。毎期のはじめに,企業は利益yをもたらす労働者を外部から採用する機会を得る。ここでyはその労働者を採用して賃金を支払った後で企業に帰属する利益で,[-Y, Y]上の一様分布にしたがう確率変数と仮定する。したがって外部から採用する労働者の期待収益はゼロである。毎期のはじめに,真のyの値が実現して,すべての労働者および企業に観察可能と仮定する(注8)。YはY>0を満たす定数で,労働市場がどの程度活動的かを表すパラメータと解釈できる。以下では自明なケースを排除するために,x<Yを仮定する。
 企業は毎期のはじめにyoungとoldに雇用契約を提示する。雇用契約は賃金とoldの採用ルールから構成される。賃金については最低賃金が定まっており,賃金をそれより低い水準に設定することはできないと仮定する。簡単化のために最低賃金を基準化して0とする。一方,oldの採用ルールは,定数z∈[-Y, Y]の決定で表すことにする。つまり「もしも外部から採用可能な労働者が利益y>zをもたらすならば,oldとは契約せず外部採用を行う。

の場合にはoldと契約する」という意味である。しかし以下ではzは立証可能ではないと仮定する。したがって,上記のルールにしたがって外部採用を行うことが企業にとって実際に最適となるように,zは設定されなければならない。
 このモデルでは多様な契約を考えることが可能だが,分析では(両極端な)2種類の契約に焦点を当てる。賃金契約を表す変数としてc∈{0,1}を導入しよう。まずc=0は次のような短期契約を表す。「youngに対してw1を支払う。oldと契約する場合には賃金w2を支払う」。このうちw1およびw2は固定賃金であり,立証可能である(したがって強制される)と仮定して問題ないであろう。
 次にc=1は,企業内技能形成を促進する長期契約を表す。「youngに対してw1を支払う。oldと契約する場合には,oldの賃金は技能形成に依存する。oldがa=1を選択していたならばwH,a=0ならばwLを支払う」。ここでwHをwLよりも十分大きく設定すれば,労働者がそのような契約を信頼する限り,youngのときに企業特殊的技能に投資するインセンティブを与えることができる。しかしすでに論じたように,果たして企業はそのような契約を遵守するかどうかという問題がある。企業はoldが前期に企業特殊的技能への投資を行ったかどうかを(当期に)観察できるが,この情報は立証可能ではない。よって労働者に技能形成のインセンティブを与えるためには,「a=1ならばwH,a=0ならばwLを支払う」という,技能形成に連動した賃金契約は企業にとって自己拘束的でなければならない(注9)。


 III 分  析

短期契約
 まず最適な短期契約を求めよう。この場合には労働者が退出するまでの2期間のゲームを考察すれば十分で,ゲームを後ろから(第2期から)分析する。第2期にoldを雇用する場合には,最低賃金ゼロを支払うことが企業にとって最適である。よってw2=0である。第1期のaの決定にかかわらずw2=0なので,労働者は第1期にa=0を選択して私的利益bを享受するほうを選好する。明らかに企業にとって最適な,youngに対する賃金もw1=0である。よって労働者を2期間雇用した場合の企業の利益は0となる。賃金契約c,採用ルールz,その他のパラメータθ=(x, Y, b,δ)を所与として,労働者を2期間雇用することで企業が得る期待利益をπ(c, z,θ)と書くと,



となる。明らかに期待利益を最大にする第2期の採用ルールはz=0となる。oldを雇用した場合には利益ゼロであるが,y>0ならば正の利益が得られるからである。この採用ルールは,事後的に効率的であることに注意しよう。つまり企業は,外部から雇用する労働者のほうが生産性が高いとき,かつそのときに限って,外部採用を行う。企業の2期間の期待利益は,



となる。一方,労働者の2期間の生涯効用はbに等しい(注10)。
 企業が無限期間存続する場合にも,どの労働者に対しても上記の契約を提示し,どの労働者もa=0を選択するという過去に依存しない戦略が,無限回繰り返しゲームにおける均衡を構成する。毎期の企業の期待利益はY/4で,したがって現在価値は,



で与えられる。

長期契約
 次に,労働者がyoungのときにa=1を選択するインセンティブを与える,最適な長期契約(c=1)を求めよう。とりあえず,企業が契約(w1, wH, wL, z)を遵守すると労働者が信じると仮定しよう。労働者にyoungのときにa=1を選択させるためには,契約は次の誘因両立制約を満たさなければならない。



一様分布の仮定により,

と計算されるので,左辺はyoungのときにa=1を選択した場合の,労働者の2期間の生涯期待効用,右辺はa=0を選択したときの生涯期待効用である。なお,外部から中途採用が行われた場合(y>zのケース)のoldの効用はwLで与えられている。すなわち,oldの地位を外部採用者が占め,その結果内部のoldは昇進できずに賃金wLの職位に甘んじる,と仮定している。以下ですぐに明らかになるようにwL=0となるので,y>zのケースではoldは外部労働市場で雇用されると仮定しても分析結果は変化しない。誘因両立制約(4)は次のように整理できる。



この条件を満たすためには,明らかにwH>wLが必要である。
 次にyoungが契約を受け入れる条件は,



と書ける。所与の(z,θ)に対して,企業にとって最適な長期契約は,制約式(5),(6),および
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の下で,期待支払額



を最小にする(w1, wH, wL)である。この最適化問題の解が,w1=0,wL=0,および誘因両立制約(5)を等号で満たすことを容易に確かめることができる。よって(z,θ)を所与とするとwHは,



で与えられる。労働者の生涯期待効用はbとなり,youngの参加制約(6)は厳密な不等号で満たされることになる。労働者を2期間雇用することで得る企業の期待利益は,



となる。この期待利益を最大にする採用ルールzは,簡単な計算によってz(θ)=xと求められる。このルールが事後的には非効率であることに注意してほしい。効率性の観点からは,外部市場の労働者がy>x-wH(x,θ)を満たすならば,内部昇進よりも外部採用を選ぶべきだが,採用ルールにしたがえば,
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のときには内部昇進が行われる。この採用ルールの非効率性は,bがゼロに近づき,その結果技能形成のインセンティブを与えることが容易になり,wH(x,θ)がゼロに近づけば解消される。
 企業の2期間の期待利益は,



となる。企業の期待利益の現在価値は,



で与えられる。
 ここまでの分析では,労働者は企業が契約を遵守することを予想すると仮定してきた。残されているのは,契約が企業にとって自己拘束的であるための条件の導出である。まず,企業が内部昇進を選択する場合を考えよう(
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)。このときに契約を遵守すればoldの労働者にwH(x,θ)を支払うことになる。しかし契約にしたがわずにwL=0を支払えば,短期的に労働費用をwH(x,θ)だけ節約できる。ここで,労働者がそのような企業の機会主義的行動に直面した場合には,それ以降の労働者はすべて技能形成に投資せず,一方,企業も最適な短期契約を提示する,というトリガー戦略を考えよう。すると契約にしたがわなかった場合には,次の期以降の企業の期待利益の現在価値は,δ(Π1(θ)-Π0(θ))減少する。したがって,賃金契約が自己拘束的であるためには,



が成立することが必要である。(11)を計算すると,次の条件が得られる。



 第2に,採用ルールz=xが企業にとって自己拘束的でなければならない。契約にしたがえば内部昇進を行うケース(

)で,契約に背いて外部採用を行うと,企業は短期的にy-(x-wH(x,θ))を得る。しかし,上記と同様に,企業が採用ルールz=xから逸脱した場合には労働者は投資をせず,企業も短期契約を提示するトリガー戦略においては,長期的にδ(Π1(θ)-Π0(θ))を失うことになる。したがって,自己拘束的であるためには,



が満たされなければならない。左辺はy=xのときに最大なので,



この条件式は(11)に等しいので,(12)が成立していれば,採用ルールも企業にとって自己拘束的になる。


 IV 結  果

 1 複数均衡

 前節の分析は,2種類の均衡が存在する可能性を示している。まず次のような特徴を持つ短期契約に基づく均衡が常に存在する。
 1.法的に強制される固定賃金:w1=w2=0
 2.フラットな賃金プロファイル
 3.企業内技能形成の欠如:a=0
 4.(事後的に)効率的な採用ルール:z=0
 5.企業の現在価値:(3)で定義されたΠ0(θ)
この均衡を短期契約均衡と呼ぶことにしよう。一方,条件(12)が成立するとき,次のような特徴を持つ均衡も存在する。
 1.企業にとって自己拘束的な,技能に連動した賃金:w1=wL=0<wH
 2.勤続に関して右上がりの賃金プロファイル
 3.企業特殊的技能への投資:a=1
 4.(事後的に)内部昇進に偏った採用ルール(注11):z=x
 5.企業の現在価値:(10)で定義されたΠ1(θ)
 繰り返しゲームにおけるフォーク定理として知られているように,実際にはこれらの両極端な均衡の間に,連続に無限個の均衡が存在しうる(たとえばyoungがある一定の確率でa=1を選択するような均衡)。このような複数均衡の存在は,通常の経済分析では,どの均衡に注目するかが不確定で恣意的になるためにモデルの問題点とみなされる。しかし歴史制度分析では,均衡の制度がただ一つに定まるモデルでは説明が困難な,多様な制度が共存するという歴史的事実を説明する理論的基礎となり,むしろモデルの特徴として望ましい側面とみなすことができる。さらに,複数均衡のうちどの均衡がどのような状況で成立するかを説明する理論は,まだ不十分な段階にある。そこで,歴史的背景を詳細に調べることによって,歴史研究が複数均衡の間の選択を説明する助けとなる余地が生まれてくる。

 2 制度補完性

 本論文のモデルの主要な特徴は,企業が内部昇進か外部採用かという採用ルールz∈[-Y, Y]を決定できる点にある。そしてこの決定と,賃金契約c∈{0,1}との間に,制度補完性(institutional complementarity)があることを示すことができる。数学的には,これら2種類の制度設計の変数が次の式を満たすとき,変数の間に制度補完性があるという。



条件式においてπ(1, z,θ)-π0(0, z,θ)は,(z,θ)を所与としたときに企業が賃金契約c=1を選択したときの期待利益とc=0を選択したときの期待利益との差である(注12)。条件式は,任意のθに対してこの差がzの増加関数であることを意味している。すなわち,採用ルールがより内部昇進を重視する方向に変化すれば,長期契約c=1の選択が短期契約c=0の選択と比べて,相対的により望ましくなる。(1)および(8)より差を計算すると,



となり,明らかにzの厳密な増加関数となっている。この結果,最適な採用ルールはc=0の下ではz=0,c=1の下ではz=xとなり,長期契約の下で内部昇進をより重視する採用ルールが選択される。このように制度補完的な関係にある賃金,ルールなどの制度は,一方を選べば他方を選ぶことがますます望ましくなり,その結果,ひとまとまりのシステムとして同時に取り入れられる傾向にある。
 日本企業の人事制度,コーポレート・ガバナンス,生産システム,企業戦略等の特徴の多くが,互いに制度補完的な関係にある,という主張がよくなされる(注13)。しかし,厳密なモデルの分析によって補完性を導出し,その結果に基づいて主張する研究はそれほど多くない。さらに,実証的に補完性を詳しく調べた研究は極めて少ない。歴史研究がその穴を埋めることを期待したい。ただし,歴史研究と理論研究とが,まさに補完的になることが望ましい。すなわち歴史事象に対して仮説を築き,注意深いモデルの定式化と分析によって議論の論理,一貫性,頑強性を調べ,さらに理論分析の含意を歴史に戻って確認する,そのようなプロセスに裏打ちされた研究が待ち望まれているのである。

 3 均衡の比較と移行のダイナミクス

 本論文が焦点を当てた2種類の均衡のどちらが企業にとって望ましいだろうか。短期契約均衡は,企業特殊的技能蓄積のインセンティブを与えることができないが,効率的な中途採用ルールによって利益を高めることができる。一方,長期契約均衡では,技能形成のインセンティブを与えることができる反面,採用ルールが過度に内部昇進に偏ってしまう。π0(θ)とπ1(θ)(もしくはΠ0(θ)とΠ1(θ))の大きさを比較することによって,長期契約均衡のほうが企業にとって望ましくなる条件は,



となる。右辺を調べることによって,次のような比較静学分析結果が得られる。x,δが大きいほど,またb, Yが小さいほど,長期契約均衡のほうが企業にとって望ましくなる。この結果は直感的に明らかであろう。企業特殊的(文脈的)技能の価値が相対的に高まるほど,また企業が存続し将来が重視されるほど,長期契約均衡での企業の期待利益のほうが大きくなる傾向にある。また,企業特殊的技能蓄積を行わないことで得られる私的利益が大きいほど,または外部労働市場が活発なほど,長期契約の利点は失われ,短期契約均衡のほうが企業に高い期待利益をもたらす可能性が高くなる。
 しかし,条件(15)が満たされれば長期契約均衡と同様の特徴が現実に観察される,と簡単に結論づけられるわけではない。第1に,長期契約均衡が存在しない可能性がある。存在条件は(12)で与えられているが,(15)を用いて書き直すと,



となる。ただしg(θ)≡(x+Y)/(2(1-δ)Y+(x+Y))である。0<g(θ)<1なので右辺はf(θ)より小さいことに注意しよう。すなわち,f(θ)g(θ)<b<f(θ)ならば,企業による長期契約の遵守を労働者が信じるならば短期契約均衡よりも高い期待利益を企業にもたらすが,そもそも長期契約均衡は自己拘束的でなく,したがって長期契約均衡は存在しない。
 第2により根本的な点として,モデルは複数均衡の存在を示したが,均衡間の選択については何も厳密な分析を行っていないことに注意すべきである。非効率な均衡のほうが成立する可能性も十分にある。
 また,仮にあるパラメータの下で長期契約均衡のほうが企業にとって望ましく,そして実際に長期契約均衡が観察されると仮定しよう。そして何らかの外生的なショックによってパラメータθの値が変化し,新しい値の下では短期契約均衡のほうが望ましいと仮定しよう。前者の均衡から後者の均衡への移行は滞りなく起こるだろうか。
 最近の比較制度分析は,円滑な移行を困難にする要因を指摘している。第1に制度補完性である。長期契約均衡から短期契約均衡に移行するためには,企業は賃金契約をc=1からc=0に変更するのみならず,採用ルールもz=xからz=0に変更しなければならない。つまり複数の制度改革を行う必要がある。何らかの理由で内部昇進の偏重が続けば,新しいパラメータの下で短期的でフラットな賃金契約に変更しても,期待利益はかえって下がってしまうかもしれない。
 第2に労働者の技能形成である。企業のほうが別の均衡のほうに移行しようとしても,労働者が戦略を変更しない限りは企業にも変更するインセンティブは生まれない。本論文のモデルでは,長期雇用均衡から短期契約均衡への移行は,この要因によって困難にはならないと予想される。なぜならば,企業のほうから暗黙の契約から逸脱すれば,労働者はトリガー戦略にしたがって短期契約均衡での戦略(a=0)に変更するからである。しかし逆に短期契約均衡から長期契約均衡への移行を考えてみよう。この場合に企業が労働者の技能形成を促す長期契約に移行しようとしても,労働者が企業を信頼せず常にa=0を選択する戦略に固執する限りは,企業も長期契約に変更するインセンティブを持たず,短期契約均衡から抜け出せない可能性がある。
 以上の二つの要因の説明においては,企業や労働者が容易に戦略を変更しないという特徴が重要である。このような性質は慣性(inertia)と呼ばれている。なぜ慣性が生じるのか,という問いに答える理論研究の蓄積はまだ少ないが,少なくとも歴史研究においてはこのような慣性の存在を前提とすべきだろう。Greif(1997)によれば,歴史制度分析の研究の多くは,制度の移行において経路依存性(path dependence)があることを示している。つまり,過去の均衡において人々の間に普及していた期待や制度・組織が,その後の制度の発展に影響を与え続けるという性質である。このような経路依存性は,慣性を生み出す要因のひとつと考えることができる。
 ただし,ある均衡から別の均衡への移行を困難にする要因があるからといって,移行のためには,関連する様々な制度を一挙に変えてしまう,いわゆるビッグバン・アプローチが望ましいとは限らない。たとえばまずzを下げて中途採用を増やしていくことによって,制度補完性を通してc=1からc=0への変化が芋づる式に生じる可能性もある。この点をもう少し詳しく説明するために,モデルを少し変更しよう。モデルでは企業特殊的技能の価値xは外生的に与えられている。今この値がxt+1=h(xt, zt)にしたがって毎期変動すると仮定しよう。ここでxtは第t期のxの値,ztは第t期の企業の採用ルールである。ただし企業は第t期にxtを観察して,その後ずっとxtのままで安定すると予想してzt=xtおよびwt H(xt)≡2bY/(δ(xt+Y))を選択する,と仮定する。さらにh(・)は増加関数であると仮定しよう。すなわち,内部昇進をより重視するほど,企業特殊的技能の価値も内生的に高まっていく,という仮定である。
 ここで何らかの外生的ショックによって,第t期に企業特殊的技能の価値が,それまでの一定の値xからxt<xに変化したとしよう。

一方,賃金契約自体は,wHの変化があるとはいえ,c=1のままで推移するが,xが十分ゼロに近い水準にまで下がれば,企業にとってc=1からc=0に変更することが望ましくなる。こうして芋づる式の変革がうまくいく可能性もある(注14)。このようなアプローチは漸進主義的アプローチと呼ばれている。


(注1)標準的な文献は以下を参照してほしい。組織の経済学はMilgrom and Roberts(1992),比較制度分析は青木・奥野(1996),人事の経済学はLazear(1995,1998)。
(注2)なお,岡崎(1996)が内容を簡潔に紹介している。
(注3)また中馬・〓(樋)口(1995)は,彼らのモデルを用いて日本の経済環境の変化と長期雇用者と短期雇用者の採用比率の変化との関係を分析している。
(注4)この問題を分析した理論的研究はほとんどない。例外はChan(1996)。ただしモデルは異なる。
(注5)したがって採用者数決定の問題は捨象されている。採用者数の問題を扱うモデルについては,中馬・〓(樋)口(1995)およびKanemoto and MacLeod(1989)を参照せよ。
(注6)後者の解釈にしたがうならば,bは第2期に実現すると仮定するほうが自然であろう。この場合には以下の定式化と分析を少し変更しなければならないが,得られる結果に本質的な相違はない。また私的利益の代わりに,人的資本への投資で労働者が被る私的費用を導入した場合の結果も同様である。
(注7)分析結果を,労働者がリスク回避的である場合に拡張することも可能である。
(注8)外部からの採用はoldの地位に限定する。すなわち外部採用の労働者は1期間で労働市場から退出し,かつyoungの仕事をやらせても企業に何ら追加的利益をもたらさないと仮定する。
(注9)一方,Kanemoto and MacLeod(1989)は,企業がoldに対する総賃金を決めたらそれにコミットできると仮定することによって,企業側の機会主義的行動の問題を解決している。さらに企業がoldのうちpの割合を昇進させ,1-pを昇進させないというトーナメント型の昇進制度を導入し,p=1を選択することが企業にとって最適であることを示している。本論文のモデルでも,労働者がリスク回避的と仮定することによって,同様の結論を導出することができる。
(注10)もしも第2期に外部採用が選ばれた場合には,oldは最低賃金ゼロを得ると仮定している。この場合にoldが同一企業にとどまるかそれとも外部労働市場で雇用されるかは,結果に影響を与えない。
(注11)均衡ルールによれば,外部市場の労働者のもたらす利益が十分に大きいならば,内部昇進を行わずに中途採用者をoldの地位につける。その意味で純粋な内部昇進制とはいえない。しかし,仮定を変更して労働者がリスク回避的である場合の分析を行うと,z=Y,すなわち必ず内部昇進を行う採用ルールが最適になる可能性が出てくる。
(注12)期待利益を現在価値で計算しても同様の結果が得られる。
(注13)青木・奥野(1996),Milgrom and Roberts(1992, Chapter 10)を参照せよ。伊藤(1993)は人事制度の補完性に焦点を当てた議論を展開している。
(注14)詳しくはMilgrom, et al.(1991)を参照せよ。


参考文献
青木昌彦・奥野正寛編(1996)『経済システムの比較制度分析』東京大学出版会。
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 いとう・ひでし 1959年生まれ。スタンフォード大学ビジネススクール博士課程修了(Ph.D.)。一橋大学大学院商学研究科教授。主な著書に『日本の企業システム』(編著)など。組織の経済学専攻。