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(著者抄録)
高齢者の労働供給に関するこれまでの日本の実証研究では,健康は「非経済的要因」として扱われ,健康と就業が同時決定となっている可能性が考慮されてこなかった。健康変数に何を用いるかという選択の妥当性も,ほとんど検討されていない。本稿では,平成8年の労働省『高年齢者就業実態調査』個票に基づき,複数の健康指標を用いて健康の内生性を考慮したモデルを推定した。得られた結論は以下の通りである。第1に,健康変数の選択によって推定結果に方向の異なるバイアスが生じた。第2に,外生性テストをしたところ,健康と就業の同時決定関係が確認された。第3に同時決定バイアスは,年齢が上昇するほど大きい。


(論文目次)
I はじめに
II データと観察事実
III 実証分析
IV 要約と今後の課題

 I はじめに

 高齢者の労働供給分析においては,労働市場からの引退がどのような要因によって決定されているのかを明らかにすることに大きな関心が払われてきた。とくに近年は,年金制度改革との関連で公的年金の役割が注目されており,公的年金の就業抑制効果を指摘する研究成果が数多く出されている(注1)。しかしながらこれらの実証研究には以下のような共通した問題点がある。
 その第1は,健康状態を表す変数の扱いかたである。従来の実証分析では,公的年金よりも健康が就業・不就業決定にきわめて大きくかつ有意な影響を及ぼしていることがしばしばある(注2)。それにもかかわらず,これまで健康状態はもっぱら「非経済的要因」として扱われ,注目されることがなかった。しかも健康変数として用いられてきたのは,調査の回答者自身の自己申告による健康状態であるが,この変数を用いることの妥当性はこれまでほとんど検討されてこなかった。
 自己申告による健康状態については,不就業を正当化する言い訳になっているのではないかという指摘が数多く出されている(Anderson and Burkhauser(1985),Bound(1991),Dwyer and Mitchell(1998))。もし自己申告の健康状態が就業状態と独立でないのであれば,従来型の労働供給関数の推定結果は同時決定バイアスを伴っている可能性がある。政策変数である公的年金の就業抑制効果も過大にあるいは過小に計測されているかもしれない(注3)。
 また,健康というものはしょせん,計測不可能なものであるから,どのような健康変数を選択しても変数誤差の問題から逃れることはできない(Bound(1991))。したがって,主観的な健康指標がどのような要因によって規定されているのかを検討したり,複数の健康指標を用いて労働供給関数の推定結果がどれほど頑健であるかを検討したりすることは重要である(注4)。
 問題点の第2は,賃金の扱いである。従来の労働供給関数の推定では賃金率は説明変数から除外されていたり,あるいは不完全な形でしか含められなかったりしてきたため,市場賃金率に高齢者がどのように反応しているのかが正確には把握できなかった。
 本論文の目的は,従来のような健康の扱いを見直し,健康と就業状態の同時決定関係を考慮したうえで公的年金などの政策変数の影響力を検討することにある。具体的には,労働省『高年齢者就業実態調査』平成8年(以下,『実態調査』と略)のマイクロデータを用いて賃金率を含めた就業決定関数を推定するとともに,複数の健康指標を用いて健康の内生性を考慮したモデルで高齢者の就業決定関数を推計し,外生性テストを行う。
 本論文の構成は以下の通りである。まず,IIでは,使用するデータと観察事実について整理する。IIIでは,実証分析とそのインプリケーションを検討する。さいごにIVでは,結果のまとめと今後の課題について考察する。


 II データと観察事実

 本論文で使用するデータは,労働省『高年齢者就業実態調査』平成8年(1996年)の個人調査の個票である。分析の対象は,現在60~69歳の男性で,55歳当時雇用者だった者に限定した(注5)。元雇用者に限定したのは第1に,長年,自営業者として働いてきた者と雇用者とでは属性や就業・引退行動を規定する要因も異なると予想されるので,分けないで実証分析に用いると不均一分散の問題が生じるためであり,第2に,年金制度改革との関連で雇用者の就業・引退行動がどう変わるかに政策的な関心が集まっているためである。平成8年『実態調査』では各種年金の受給権の有無を調査していないので,残念ながら実証分析の対象サンプルを被用者年金の受給権者グループに限定することはできない(注6)。しかし対象を元雇用者とすることでなるべくそれに近いサンプルを確保した。
 分析の対象とするサンプルの就業率を年齢階層間で比較すると,60~64歳では68%が就業しているが,65~69歳の就業率は48%に低下する(注7)(表1)。一方,健康状態に関しては,平成8年『実態調査』は「ふだんの健康状態(元気,あまり元気でない,病気がち・病気)」に加えて,「肉体的な面での就業の可能性」を質問している。回答者は,「フルタイムで働くことが可能」「職場・勤務の条件によっては可能」「働くことはできない」の三つのなかから一つを選択する。この「就業可能性」も主観的なひとつの健康指標として考えることができよう。「ふだんの健康状態」を年齢階層間で比較すると,どちらでも「元気」の割合が圧倒的に高く,60~64歳で76%,65~69歳で64%が「元気」と回答している。しかし「肉体的な面での就業可能性」を指標にする場合には,60~64歳は50%が「フルタイム就業可能」と回答しているものの,65~69歳になると「条件による」が57%と最も多くなる。これは健康指標によってとらえている情報に違いがあることを示唆するものである。

表1 使用変数の平均



 III 実 証 分 析

 この節では,健康の内生性を考慮したモデルを推定し,単一式での推定結果とどのように異なるかを検討する。日本ではこうしたアプローチでの実証研究は進んでいないのが現状で,本研究はこの分野における数少ない実証研究といえる(注8)。

 1 健康の内生性を考慮したモデル

 ここではStern(1989)で示された健康の内生性を考慮したモデルに賃金を明示的に組み込む。モデルは以下の三つの式によって構成される。
 第1式は,就業決定式である。高齢者iの就業状態は,仕事から得られる賃金と健康状態,その他の個人属性によって決まり,p* iがある水準以上なら就業すると考える。



ここでh** iは観察不能な真の健康状態を表す変数で,wiは賃金,Xpiは個人iの予算・時間制約や選好を規定する外生変数からなるベクトル,upiは正規攪乱項である。
 第2式は真の健康状態の決定式で,真の健康状態は就業状態と賃金,個人属性に依存すると考える。



 第3式は,賃金関数である。賃金は真の健康状態とその他の個人属性によって決まる。



 第4式は,観察不能な真の健康状態(h** i)を,自己評価の健康状態(h* i)に関連づける式である。自己評価の健康状態は真の健康状態と就業状態によって決まる。



 第4式を変形して第1式と第3式に代入し,第2式を第4式に代入して整理すると,次の式が得られる(注9)。



 p* i , h* i は実際には観察不能であるが,代わりにつぎのような指標を観察することができる。



このようにして,第5式から第8式までからなる同時方程式体系が導かれる。
 モデルの含意について触れておくと,Grossman(1972)のモデルで示されたように,良好な健康状態は生産性を高め,賃金を引き上げる効果をもつ半面,高賃金は健康への需要を拡大させるとみられる。したがって,αw,βhはともに正値が予想される。また,健康状態が良好であれば就業に伴う苦痛がより少ないと考えられるので,αpも正値と予想される。就業決定に及ぼす賃金の影響(βp)は,所得効果と代替効果の大小に依存するが,通常はプラスと予想される。一方,就業状態が健康に及ぼす影響は,就業状態から真の健康状態への影響(αh)と就業状態から自己申告された健康状態への影響(αr)の二つのルートがある。就業することで健康を害するのであればαhは負値になるであろうが,高齢者がしばしば言うように「仕事が健康にいい」という状況が成立していれば,正値となる可能性もある。また,不就業の言い訳として「健康状態が悪い」と申告している場合には,αrは正値となろう。しかしながら上記のモデルでは(αh+αr)という和として識別されるのみとなっている((5)式)。

 2 実証分析の方法

 1 賃金関数の推定

 上記の同時方程式体系を推定するにあたり,まず問題となるのは賃金である。就業状態や健康状態は全サンプルについて観察可能であるが,賃金のデータは現在就業しているサンプルについてしか得られない。そこで,第1段階における作業として,各高齢者に提示される市場賃金率を,高齢者の属性に基づき推計する。
 従来の実証研究では,就業確率は誘導形で推定されていたり(清家(1993)第4章),たとえ構造形でも不就業者について別の統計から得られる賃金を当てはめたり(清家(1993)第5章,橘木・下野(1994)第3章)している例が多かった(注10)。そこで本論文では,55歳当時雇用者で,かつ調査時点で雇用者であるサンプルを対象にサンプル・セレクション・バイアスを修正した賃金関数を推定し,得られたパラメーターを用いて推定市場賃金率を作成する。現在会社・団体などの役員についている者は推定対象サンプルから除外した。
 モデルにおいて賃金は健康と同時決定関係にある。したがって賃金関数の推定は,健康の内生性を考慮した以下のような手順で行う(注11)。
 (1)(5)~(7)式に含まれるすべての説明変数を用いて就業決定関数・健康関数の誘導形を推定する。
 (2)誘導形の就業決定関数の推定結果から逆ミルズ比を作成する(注12)。
 (3)誘導形の健康関数の推定結果から健康状態の推定値を作成する。
 (4)逆ミルズ比を説明変数に加え,健康状態を(3)の推定値で置き換えて賃金関数を推定する。この結果得られる推定量は,一致推定量である。
 使用した変数の定義は付録に記してある。推定は健康状態を示す変数に「ふだんの健康状態」(「元気」=1,「あまり元気でない」+「病気がち,病気」=0とするダミー変数)を用いた場合と「肉体的な面からみた就業可能性」(「フルタイムで働くことが可能」=1,「職場・勤務の条件によっては可能」+「働くことはできない」=0とするダミー変数)を用いた場合の2通りを行った(注13)。したがって,推定賃金率も2種類作成される。
 賃金関数の被説明変数は,仕事収入を月間総労働時間で除した時間当たり賃金率(仕事収入月額/(1日当たり労働時間*週労働日数*52/12))の対数である(注14)。説明変数には,健康状態,年齢,定年経験の有無,55歳当時の職種を示すダミー変数,および地域ブロックを示すダミー変数を使用する。
 就業決定関数の構造形の説明変数としては,健康状態,賃金率,「住宅ローンなし」を示すダミー変数,公的年金受給額,企業年金・個人年金受給額,非勤労・非年金所得,他の世帯員所得,同居配偶者の有無,同居子の有無を使用する。なお,就業決定関数の説明変数に公的年金受給額を使用する場合,在職老齢年金の受給額は就業状態によって変化するために同時決定バイアスの問題が生じることが知られている。同時決定バイアスを回避する方法としては,年金受給額の代わりに厚生年金の受給権を用いる方法(清家(1993)第5章)や,本来年金額を用いる方法(小川(1998),安部(1998),中村(1998))などが考案されているが,本論文ではこれらの方法をとらなかった。その理由は,第1に,厚生年金の受給権は平成8年『実態調査』では調査されていないこと,第2に,本来年金額の計算にはいぜんとして問題点が多く残ること(注15)――である。
 健康関数の構造形の説明変数としては,就業状態,年齢,定年経験の有無,賃金率,「住宅ローンなし」を示すダミー変数,公的年金受給額,企業年金・個人年金受給額,非勤労・非年金所得,他の世帯員所得,同居配偶者の有無,同居子の有無,および都道府県別の65歳時点の平均余命とその2乗項を使用する。これらの変数は,健康資本への需要に影響するだけでなく,健康の生産にも影響する変数である。まず,高齢になるほど健康の生産効率は低下するとみられる。健康は正常財と考えられるので,所得や純資産が多いほど健康需要は大きいと考えられる(注16)。一方,同居配偶者や同居子(ほとんどが成人とみられる)の有無は,清潔で衛生的な家庭環境やバランスのとれた食事,家庭内ケアといった健康の生産要素の代理変数となっている(Grossman and Benham(1974),Lee(1982))。
 就業決定関数を識別するためには,就業決定には影響を与えず健康状態にのみ影響するような説明変数を少なくともひとつ含める必要がある。しかしながら,『実態調査』は就業や年金に関する豊富な情報を提供する半面,健康に関してはごく限られた項目しか調査していない。ここでは平均的な医療衛生環境の代理指標として,厚生省『都道府県別生命表』から得られる1995年の都道府県別の男性平均余命とその2乗項を健康関数の説明変数に用いる(注17)。
 推定結果は表2に示す通りである。式全体の説明力は「肉体的な就業可能性」を用いたほうが高い。各説明変数の符号や有意度は,健康変数の選択によってかなり違いがある。たとえば健康が賃金に及ぼす影響は,「ふだんの健康状態」を用いた場合は有意でないが,「肉体的な就業可能性」を用いた場合は有意に大きく,「フルタイム就業可能」と回答する人ほど高賃金を得る傾向にあることを示している。年齢の影響は,「ふだんの健康状態」を用いた場合は有意でないが,「肉体的な就業可能性」を用いた場合は有意にプラスである。他の条件を一定として,生産性の高い人だけが高齢期にも雇用者として労働市場に残っているのかもしれない。定年経験の影響は,「ふだんの健康状態」を用いた場合で20%の低下,「肉体的な就業可能性」を用いた場合で11%の低下となっている。55歳当時の職種との関係では,元管理職は「ふだんの健康状態」を用いた場合に有意に高賃金であるが,「肉体的な就業可能性」を用いた場合は係数が小さく有意でない。地域ブロック・ダミーはどちらのケースでもすべてマイナスで有意度もおしなべて高く,基準となる「関東地方1」ブロック(東京・埼玉・千葉・神奈川)が突出して高賃金となっている。これは高齢者にとって良好な就業機会が首都圏に集中していることを示唆するとともに,求人倍率など労働需給の地域性を反映しているものとみられる。

表2 資金関数の推定結果

 なお,賃金関数は現在雇用就業しているサンプルを対象に推定するので,サンプル・セレクション・バイアスを修正するために推定した誘導形の就業決定関数の被説明変数には雇用就業状態を用いている。同様に,誘導形の健康関数のなかで就業状態を示す説明変数にも,雇用就業者ダミーを用いている(注18)。

 2 健康関数の誘導形の推定

 第2段階としては,推定賃金率を説明変数に用いて就業と健康の同時決定モデルを推定する。前述したように健康関数は識別不能なので,本稿では健康の内生性を考慮した就業決定モデルのみを推定する。手順は以下の通りである。
 (1)まず,健康関数の誘導形をProbit推定し,得られたパラメーターをもとにh* iの推定値h* iを作成する。
 (2)(6)式の就業決定の構造方程式に含まれるh* iをh* iで置き換えて再びProbit推定をする。得られる推定量は一致推定量である。
 表3は誘導形の健康関数の推定結果である。どちらのケースでも推定賃金率の係数は有意に正値で,高賃金は健康への需要を増加させることを示している。公的年金や非勤労・非年金所得,他の世帯員所得といった賃金以外の収入の影響もおおむね有意に正値で,所得水準が高いと健康への需要が大きく,健康の生産水準も高いことを示している。定年経験はどちらの推定でも有意であるが,「ふだんの健康状態」を用いた場合は係数が著しく大きい。年齢が健康に及ぼす効果は二つの推定で相反する結果となっている。通常は加齢とともに健康の生産効率は低下するとみられ,マイナスの符号が予想されるが,「ふだんの健康状態」を用いる場合には正値となっている。同居配偶者・同居子の有無はどちらの推定でも有意でない。就業決定関数の識別に用いる平均余命とその2乗項は,いずれも有意水準を満たしていない。

表3 健康関数(誘導形)の推定結果

 3 構造形の就業決定関数の推定

 表3の推定結果をもとに健康状態の推定値を作成し,それを用いて構造形の就業決定関数を推定する。結果は表4に示す通りである。比較のために,健康の内生性を全く考慮しないモデルの推定結果も示してある(注19)。主な発見は以下のようにまとめられる。

表4-1 就業決定関数(構造形)の推定結果

表4-2 就業決定関数(構造形)の推定結果

 第1に,Hausman(1978)の外生性テストをした結果,健康変数に「ふだんの健康状態」を用いた3ケースと,「肉体的な就業可能性」を用いた60~64歳の1ケースで係数にシステマチックに有意な差が検出された。すなわち,就業決定において健康は内生変数であるという仮説が支持された。
 第2に,公的年金受給額の就業決定に及ぼす影響については,健康変数の選択によって相反する方向にバイアスが生じている。どちらの健康変数についても同時決定関係が確認された60~64歳のケースを例にあげよう。単一式の推定では,公的年金受給額の係数は「ふだんの健康状態」を使用した場合に-0.060,「肉体的な就業可能性」を使用した場合に-0.056となっているが,二段階推定では前者で-0.061,後者で-0.042と差が拡大する。すなわち,健康の内生性を考慮しないモデルでは,公的年金の就業抑制効果は健康変数の選択によって,過小にも過大にも推計されている。また,健康と就業の同時決定がもたらすバイアスは,60~64歳のケースより,65~69歳について推定したケースのほうが大きい。
 第3に,二段階推定の結果では就業決定に及ぼす企業年金・個人年金や非勤労・非年金所得といった典型的な経済変数の影響が大きくなっている(注20)。
 つぎに,先行研究と比較するために公的年金受給額の係数からマージナル効果および弾力性を計算したものが表5である。

表5 公的年金が就業に及ぼす影響の比較

 公的年金受給額の影響を年齢間で比較すると,60~64歳層よりも65~69歳層のほうが弾力性が大きくなっている。これは岩本(1998)でまとめられているように,他の研究の計測結果と同じ傾向である。また,昭和58年,昭和63年,平成4年の3時点の『実態調査』データをプールして就業確率を推定した小川(1998)によると,60~64歳層の公的年金受給額のマージナル効果は-0.029,弾性値は-0.418であり,平成8年のデータに基づく本稿の弾性値(「ふだんの健康状態」で-0.321,「肉体的な就業可能性」で-0.205)のほうが絶対値でみて小さい。これは平成6年の在職老齢年金制度の改革によって就業抑制効果が減退したことを示唆するものである。なお,『実態調査』に基づき公的年金受給額ではなく本来年金額を使用した中村(1998)は,60~64歳層のマージナル効果を-0.020(平成8年)と報告しており,本稿の値(「ふだんの健康状態」で-0.019,「肉体的な就業可能性」で-0.012)はそれとほぼ等しいか,絶対値でみてやや小さくなっている。
 最後に賃金の影響を検討しよう。最近の研究では,『国民生活基礎調査』(厚生省)の個票をプールした大日(1998)が,60~64歳男性の賃金弾力性を0.28と報告している。また,同調査の個票をプールして動学モデルを推定した岩本(2000a)では,賃金弾力性は0.13となっている。ただし『国民生活基礎調査』では労働時間に関する情報がなく,これらの弾力性は1年間の雇用者所得について計算されたものである。その他の先行研究で賃金率に対する弾性値をみると0.042~0.900と広い範囲にばらついている(注21)。
 本稿の二段階推定における60~69歳層の賃金率弾力性を計算すると,「ふだんの健康状態」を用いた場合で0.525,「肉体的な就業可能性」を用いた場合では1.441とかなり大きい。ただし60~64歳層と65~69歳層に分割すると,二段階推定の賃金の係数はほとんどの場合に有意でなくなる(表4-2)。健康の内生性を考慮すると60代前半層の就業決定に及ぼす賃金の影響は統計的に有意には観察されない。



 IV 要約と今後の課題

 高齢者の労働供給に関するこれまでの日本の実証研究では,健康は「非経済的要因」として扱われ,健康と就業が同時決定となっている可能性が考慮されてこなかった。また,就業決定において,しばしば賃金率は説明変数から除外されていたり,あるいは不完全な形でしか含められなかったりしていたため,市場賃金率に高齢者がどのように反応しているかが把握できなかった。さらに,健康状態を表す変数に何を用いるかという選択の妥当性は,ほとんど検討されてこなかった。
 本稿では,平成8年の労働省『高年齢者就業実態調査』個人調査の個票を用いて賃金率を含めた就業決定関数を推定し,さらに複数の健康指標を用いて健康の内生性を考慮したモデルを推定した。得られた結果は以下の通りである。

付録 使用した変数の定義

・Hausman(1978)の外生性テストをした結果,健康変数に「ふだんの健康状態」を用いた3ケースと,「肉体的な就業可能性」を用いた60~64歳の1ケースで係数にシステマチックに有意な差が検出された。すなわち,就業決定において健康は内生変数であるという仮説が支持された。
・公的年金受給額の就業決定に及ぼす影響については,健康変数の選択によって相反する方向にバイアスが生じている。すなわち,従来の健康の内生性を考慮しないモデルでは,公的年金の就業抑制効果は健康変数の選択によって,過小にも過大にも推計されている。
・健康と就業の同時決定がもたらすバイアスは,年齢が上昇するほど大きい。
・内生性を考慮すると,60~64歳層の就業決定に及ぼす賃金の影響は有意には観察されなかった。

 健康の内生性をテストする本論文の試みは,いくつかの重要な課題を残している。その最大のものは,健康関数の定式化である。『実態調査』から得られる健康情報が少ないために,平均余命といった追加的な情報を利用したものの,識別変数として十分な有意度をもっていない。二段階推定で健康状態の推定値が有意でなくなったり,χ2統計量がマイナスになって外生性テストが実施できなくなるなど,問題ある事態がいくつか発生した。これは健康関数の説明力が不十分なために,2段階目の推定が全体的に不安定なのだと考えられる。今後は日本でも,アメリカで行われているように多様な健康情報を用いた高齢者の労働供給構造の解明が重要なテーマとなるであろう。


*本稿は中馬・大石(1998b)を大幅に改稿したものである。研究の機会と多くの示唆をいただいた中馬宏之教授に深く感謝申し上げる。また2名の匿名レフェリー,岩本康志,小椋正立,香西泰,駒村康平,高山憲之,武藤博道,山田武の各氏には研究のさまざまな段階で貴重なご教示をいただいた。しかしながら本稿に残りうる誤りの責任は筆者一人のものである。

(注1)公的年金の就業抑制効果をサーベイしたものとしては岩本(1998)を参照。

(注2)たとえば清家(1993)第4章では,厚生年金の受給資格をもつことは就業確率を15%引き下げる半面,健康状態が悪い場合に就業確率は33%低下すると書かれている。また橘木・下野(1994)第3章でも,病気の場合は就業確率が60~64歳で41%,65~69歳で55%それぞれ低下することを示しており,ほかのどの説明変数よりも大きな影響を及ぼしている。

(注3)日本で早くからこの問題点を指摘したものとして中馬(1993),大竹(1994)がある。健康と労働に関する包括的なサーベイとしてはCurrie and Madrian(1999)がある。

(注4)岩本(2000b)は,厚生省『国民生活基礎調査』に基づき,「健康意識」「仕事への影響」といった主観的健康指標と「傷病の有無」「自覚症状の有無」といった客観的健康指標とを比較し,主観的指標のほうが所得・就業との関係が明瞭と述べている。

(注5)同じ『実態調査』を使用した清家(1993)第4章,第5章,および橘木・下野(1994)第3章,第4章,安部(1998),小川(1998)は55歳当時雇用者だった者に限定せず実証分析をしている。一方,1984年の『全国消費実態調査』(総務庁)個票を用いた高山編(1992)第6章は,男性サラリーマンおよびサラリーマンOBとみられるサンプルに対象を限定している。

(注6)厚生年金の受給権は,1983年調査で調査されている。

(注7)これは総務庁『労働力調査年報』による労働力率(60~64歳74.9%,65~69歳54.2%)より低い。55歳当時の自営業就業者をサンプルから除外している影響とみられる。

(注8)中馬・大石(1998a),中馬・大石(1998b),岩本(2000b)など。

(注9)ただしαp=αp/(1+αpαr),βp=βp/(1+αpαr),γp=γp/(1+αpαr),ehi=uhi+uri,epi=(upi-αpuri)/(1+αpαr),αw=αw/(1+αpαr+αwαrβp),γp=-γp・αrαw/(1+αpαr+αwαrβp),γw=γw(1+αpαr)/(1+αpαr+αwαrβp),ewi=(uw-αwur-αrαwepi)(1+αp・αr)/(1+αpαr+αrαwβp)。

(注10)小川(1998)は『実態調査』の就業者データから55歳当時の属性別に賃金月額の平均を計算し,それを不就業者に割り当てている。この方法はサンプル・セレクション・バイアスを伴うことに加え,(1)労働時間を考慮していない,(2)属性によっては各セルのサンプル数が極端に少なくなり,統計的に有意な平均がとれない――といった問題がある。

(注11)基本的にはHeckman(1979)の2段階推定法であるが,健康を内生変数として扱っている点が異なる。

(注12)Heckmanの2段階推定法については,賃金関数と就業確率関数の説明変数の重複が多いと,多重共線性から係数にバイアスが生じやすいことが指摘されている(縄田(1997))。参考までに,就業確率の推定値を賃金関数の説明変数に回帰した場合の決定係数は0.416であった。

(注13)『実態調査』では,健康状態に関する情報は10月1日時点のものであるのに対し,就業状態や賃金率のもととなる仕事収入,労働時間,週労働日数は9月の情報で,時間的なズレがある。本稿では9月の健康状態が10月1日時点と同一と仮定していることになる。

(注14)『実態調査』ベースの賃金率については,時間当たり賃金率を計算するもととなる仕事収入が,調査月の前月の仕事収入となっていることに注意が必要である。すなわち1996年調査では9月の仕事収入が使用されており,ボーナスが含まれていない。高齢雇用者の場合とくに,在職老齢年金との関係で,毎月の給与を低く抑える代わりにボーナスを高くするという操作が多くの事業所で行われていると一般には言われている。もしそうした操作が広範に行われているとしたら,ここでの賃金率は実際よりも低くなっているおそれがある。

(注15)在職老齢年金受給者について平成8年『実態調査』の減額率から本来年金額を逆算し,その金額と当該労働者の賃金や労働時間から,あるべき在職老齢年金額を規則に沿って計算すると,実際の年金額との間に大きな差異の生じるケースが多かった。また,賃金や労働時間から判断すると在職老齢年金の対象者となるはずの者が厚生年金を受給していると回答しているケースも多い(中村(1998)も同様の指摘をしている)。

(注16)ここで定年経験は,退職一時金所得の代理変数として用いている。

(注17)平均寿命(0歳時の平均余命)ではなく65歳時点での平均余命を用いたのは,乳児死亡率の影響を除去するためである。

(注18)紙幅の関係上,これらの推定結果は割愛した。必要な方は著者(oishi2@ipss.go.jp)に請求されたい。

(注19)なお,「健康の内生性を考慮しないモデル(単一式での推定)」では,健康変数に推定値ではなく実際に報告された値を用いており,推定賃金を作成する際にもサンプル・セレクション・バイアスの修正のみを行い,健康の内生性を考慮していない。

(注20)本稿と同様に健康・賃金・就業の同時決定モデルを推定した岩本(2000b)では,内生性を考慮すると健康が就業に及ぼす影響は有意には観察されていない。

(注21)岩本(2000a)参照。


参考文献
安部由起子(1998)「1980~1990年代の男性高齢者の労働供給と在職老齢年金制度」『日本経済研究』No. 36。
中馬宏之(1993)「書評:清家篤著『高齢化社会の労働市場』」The Economic Studies Quarterly, Vol. 44, No. 5.
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――――・―――――(1998b)「高齢者の就業決定における健康要因の影響・『高年齢者就業実態調査』による分析」高齢社会における社会保障体制の再構築に関する理論研究事業の調査研究報告書II』長寿社会開発センター。
岩本康志(1998)「2020年の労働力人口」『経済研究』Vol. 49,No. 4。
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〈1999年10月1日投稿受付,2000年6月9日採択決定〉


 おおいし・あきこ 1963年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。国立社会保障・人口問題研究所社会保障基礎理論研究部第2室長。主な論文に「高齢者の引退行動と社会保障資産」(共著)『季刊社会保障研究』Vol. 35,No. 4(2000)など。労働経済学専攻。