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はじめに-ネオ・コーポラティズム再訪-
第1章 スウェーデン・モデルの崩壊
第2章 試練のなかのオーストリア・モデル
第3章 ドイツ・モデルの適応力と困難
第4章 現代日本のマクロ・コーポラティズム-賃金決定と政策参加-
第5章 いままたコーポラティズムの時代なのか-メゾ・コーポラティズムとその日本的展開-
第6章 コーポラティズムと経済パフォーマンス
第7章 比較コーポラティズムの基礎的数量分析-韓国とアメリカ、日本の比較利益集団分析
第8章 新しい政治経済モデルの探索-「収斂の終焉」の終わりか-
第9章 要約と展望

はじめに-ネオ・コーポラティズム再訪

 いままた,なぜコーポラティズムなのか-3つのテーマ

 ネオ・コーポラティズムは死んだ,「英雄的単純化」としてのネオ・コーポラティズムと言い放ったのは「いまもなおコーポラティズムの世紀か」(Schmitter 1974)以降,20年このかた終始コーポラティズム研究にリーディングな役割を果たしてきたP.シュミッターその人であった(Schmitter 1989;Streeck and Schmitter 1991)。確かにコーポラティズムなど70年代の遺物,80年代にはネオ・リベラリズムが制覇したという粗雑な観念が独り歩きしているから,「いままた,なぜコーポラティズムなのか」-そういう問いかけがあって不思議はない。
 この問いに対するわれわれの回答は本書全体を通じて与えられるだろう。ここではただ,第1次石油危機の直後,日本の民間有力組合が政策制度要求を掲げて政策参加の狼煙を上げて以来,ある種のネオ・コーポラティズム的な政策形成メカニズムが構築され広く制度化されてきたという基本的な事実を書き留めておくだけにしよう。この国際比較研究の何よりの出発点はここにあるといってよい。ヨーロッパ大陸でネオ・コーポラティズムが衰退していくときになぜ日本ではその台頭が見られたのか-この対照的な風景をどう説明したらよいものか。
 というわけで,次のような3つの問いに答えたいとわれわれは考えた。第1に,ネオ・コーポラティズム型の利益媒介構造と政策形成が目立つ諸国(たとえば,スウェーデンやオーストリアなど)でこの間本当にコーポラティズムは「崩壊」したのだろうか。もしそうならば,その理由は何か。第2に,日本の「ある種のネオ・コーポラティズム的な政策形成メカニズム」というものには国際比較的に見ていかなる個性が認められるか。第3に,これら2つの問いに対する暫定的な回答を踏まえて,今後のコーポラティズムについていかなる将来像を描くことができるか-という3つの問いであった。
 これらの問いに答えるために,いくつもの方法を動員した。第1には,スウェーデンやオーストリアさらにはドイツ等に赴いて現地調査を行い,国別のモノグラフを書いてみようと試みた。第2に,計量的手法を用いてコーポラティズムの国際比較を行った。先行研究をレビューしたうえでコーポラティズムと経済パフォーマンス,コーポラティズムの類型化などの作業に手を染めた。第3に,日本の個性理解のために,こうした国際比較に加えてマクロ・レベルでの政策参加行動の歴史的軌跡を克明に描写し,併せてメゾ・コーポラティズムの生成と発展プロセスを詳細に追った。第4にこれらの成果を用いて,あり得る新しい政治経済モデルについて検討を加えた。今後に期待される「アジア・コーポラティズム」,さらに一般化して言えば古くて新しい「国家コーポラティズム」研究にも小さな触手を伸ばした。

 コーポラティズムという言葉

 このコーポラティズムには適切な日本語訳がない。団体(協調あるいは統合)主義などという訳語がないわけではない。しかしどうも適当な表現とは思われない。したがって,本書でも片仮名表記のままにしておいた。確かに,「『コーポラティズム』の曖昧さはさまざまな『イズム』のなかでも際立っている」(Crouch and Dore 1990:1)。言葉の詮索を始めれば切りがない。それでも,いくつかの点には触れておく必要がある(第5,第6章も見よ)。
第1に,シュミッター自ら書いているように(Schmitter 1979),このコーポラティズムの「相互に独立した同時的再発見」は第1次石油危機直後の74年,G.レーンブルッフ,シュミッター,そしてR.パール=J.ウィンクラー(Lehmbruch 1974; Schmitter 1974; Pahl and Winkler 1974)によって行われた。前2者による定義は(いずれが「正しい」定義であるかという問いには答えず)本書にも援用されている。シュミッターは中世ギルドやコルポラシオーンなど職能団体と国家との関係を彷彿とさせるような特定の利益代表システムのありように,またレーンブルッフはナショナル・レベルの政策的協調という点にコーポラティズムの神髄を求めた(どちらの契機もコーポラティズムの定義に欠かせない)。そして両者いずれの場合にも原理的には一方で多元主義,他方では「一元主義」(あるいは全体主義)に対峙するものとしてネオ・コーポラティズムを理解し,したがってまたその社会あるいはリベラル・コーポラティズム(マノイレスコ風に言えば「純粋コーポラティズム」,そのほか「下から」のコーポラティズムといった言い方もある)は国家コーポラティズム(権威主義的あるいは「上から」の,さらには「従属的」コーポラティズムとも別称される)と峻別されることになった。旧ソヴィエト・東欧世界の「一元主義」とアングロ・サクソン世界の多元主義(それによる冷戦構造)を思い浮かべれば,ちょうど両者の中間的緩衝地帯にコーポラティズム的な小さな国民社会が構築されてきたという地政学的(ゲオポリティカル)な構図が浮かび上がる。特に多元主義との関係でいえば,「極端な個人主義はコーポラティズムと両立しない」し,また「コーポラティズムはある種のコミュニティ意識を必要とする」。第2に,もし彼らに先立って第2次大戦後,この「社会コーポラティズム」の存在理由を明らかにした作品を1つ挙げよと言われれば,おそらくその最有力候補のひとつにA.ションフィールドの『現代資本主義』(Shonfield 1965)が選ばれるだろう。そこでも,包括的で緻密な資本主義の国際比較研究に基づいて,集権的な「計画」とその対極に位置する「マーケット・イデオロギー」のいずれとも峻別されながらかつそれらと両義的に関係し合う「社会コーポラティズム」の基本的な容姿が描き出されていたからである。このように,ネオ・コーポラティズムの理解に欠かせないのは,1つには多元主義-コーポラティズム-一元主義(全体主義)という座標軸であり,もう1つが社会-国家,下からの-上からの,リベラル-権威主義的,純粋-従属,新しい(ネオ)-古いといったダイコトミーによるコーポラティズムの下位区分である。第3に,こうした下位類型という点でいえば,さらにマクロ-メゾ-ミクロといった水準の区別も見逃せない。ふつうマクロは国,メゾは産業や地域,そしてミクロとは企業を指している。このうち,後2者のメゾあるいはミクロ・コーポラティズムという表現は80年代になって頻繁に使われるようになった。マクロ・コーポラティズムの後退とパラレルに進んだ現象である(第5章を見よ)。これらの下位類型のほかにも,たとえば水準ではスープラナショナル・コーポラティズムといった用語があるし,「行政コーポラティズム」とか「テクノ・コーポラティズム」といった言い回しも登場する。
 とまれ,本書の主題であるネオ・コーポラティズムとは,多元主義的な「市場」とも権威主義的な「国家」とも区別された,しかし両者を糾合した職能団体的な「第3」の利益代表ならびに政策協調システムであるということができる。
 本書の構成
第1章から第3章まではスウェーデン・モデル,オーストリア・モデル,そしてドイツ・モデルに関する国別のモノグラフである。日本の位置づけには,コーポラティズムの計量的国際比較と併せてどうしてもこういった現地調査が欠かせないと考えた。調査は92年3月(スウェーデンとオーストリア),93年3月(ドイツ)にウィッタカーと稲上によって行われ,いずれの章も両者の討議を踏まえて稲上が書き下ろした。ネオ・コーポラティズムの困難と「崩壊」とが描写されている。第4章は,この主題の分析には願ってもない格好の場所にいる逢見によって書かれたものであり,第1次石油危機後の日本におけるマクロ・コーポラティズムの形成と制度化プロセスが克明に追跡されている。その「抑制された」実証的な筆致は強い説得力を結果しているように思われる。第5章では,メゾ・コーポラティズム研究とその意味について周到な解釈を施したのち,その日本的展開と高い蓋然性について詳細に分析している。篠田は,日本の企業別組合の関心と関係枠が「階級からセクター準拠へ」移行しながら「外」に向かって拡張しつつ多元化していった姿をその揺らぎを含めて鋭く写し取っている。第6章では,コーポラティズムに関する計量的な国際比較を試みた。厄介で骨の折れる作業ではあったが,粘り強くこれに携わった下平の努力によってこの領域での最新の成果を手にすることができた。しかもその分析結果は他の章の叙述とよく共鳴する。第7章は,コーポラティズムの新たな国際比較研究をめざして辻中が筆を執ったものである。日米韓の3カ国が分析対象になっている。工業化特性の相互比較や利益集団構造の比較分析といった手法が動員されている。ひとつの試論として読んでほしい。第8章では,大胆に「新しい政治経済モデルの探索」が企てられた。長時間にわたる2人の議論を踏まえてウィッタカーがドラフトを書き,それを稲上が翻訳しながら補足した。粗削りにであれ,ひとつの収斂パラダイムが浮き彫りにされている。
 この3年間に及ぶ調査研究を通じて,われわれは国の内外を問わず数知れない方々のお世話になった。そのご協力とご支援なくしては到底本書が陽の目を見ることはなかっただろう。いまここに逐一そのお名前を掲げることはしないが,われわれはこの機会に改めて心からの謝辞を申し上げたいと思う。その唯一の例外として,われわれの「仲間」でもあった日本労働研究機構の統括研究員・星野淳子氏をお名前に挙げさせていただきたい。そのプロならではの緩急自在な対応と叱咤激励によって,ようやくわれわれはいま本研究の出口にたどり着くことができたからである。
 稲上 毅



第1章 スウェーデン・モデルの崩壊

 はじめに

 スウェーデン・モデルという言葉の理解が広いか狭いかの違いはあっても,Lash(1985)やLash and Urry(1987),Ahlen(1989),Olsson(1990),Kjellberg(1990,1992)をはじめとして,スウェーデンのネオ・コーポラティズム-このコーポラティズムという文脈に沿ってスウェーデン・モデルを論じること自体の妥当性(注1)についていまは問わない-は崩壊したという議論をしばしば耳にする。しかし他方では,Martin(1987)のように,スウェーデン・モデルの変わらざる本質とその創造的適応プロセスを強調する見方もある。さらに,89年の東欧民主革命後のロシア・東欧世界における「資本主義化」という未曽有の実験が進むなかで,いま一度多くの人々の関心がスウェーデン・モデルに回帰しつつあるといった観察も見いだされる。たとえばR.スカースは,「ポーランド,ハンガリー,チェコスロバキア,そして旧ソ連を訪ねてみるがよい。明示的にであれ暗示的にであれ,そこではスウェーデンが社会開発のモデルになっている」(Scase 1992:362)と記している。もしこの指摘が正しいならば,少なくとも政策的関心という点で,スウェーデン・モデルはいま崩壊どころではなく,明らかに再生しつつあると言わなければならない。
 とまれ,旧西側世界においては91年9月の総選挙で社会民主党の長期政権が瓦解して以降,「60年間にわたって社民党政権下で成長してきた社会福祉〔福祉国家〕と国家コーポラティズムからなる『スウェーデン・モデル』は死んだ」(Financial Times, 14 February 1992)といった論調が大きな勢いを得ている。「ノルディック・サバイバル」といった表現さえ登場し,G.カールソンの後を襲ったC.ビルトは「コレクティヴィズムの時代は終わった!」(注2)とまで言い放った。いま,レーンブルク委員会(Rehnberg Commission)によって恒例の賃金交渉は「中断」されたままであり,また経営者団体SAFは92年1月になって「積極的労働市場政策」の担い手であった3者構成の全国労働市場庁(AMS)から離脱した。さらに92年2月には,政府はこのAMSのみならず他の3者構成機関も含めてそれらをすべて政府所管のものとし,したがって労働組合代表のこれら機関への参加を排除したい旨の意思表示まで行った(Rehn 1992:25)。いずれのケースもスウェーデン・モデルの凋落ぶりを伝える出来事であるといってよい。
 いま,ネオ・コーポラティズムの「宗主国」と言われるスウェーデンでいったい何が起こっているのか,現地に赴いてこの点を確かめてみたいと考えた。もしスウェーデン・モデル,広くネオ・コーポラティズムのありように基本的な変化が生じているのだとすれば,それはいかなる理由によるものであろうか-日本の政治経済をネオ・コーポラティズムの成熟という社会的文脈に沿って解き明かしたいというわれわれの関心に照らして,理論的にもまた実践的にもその示唆するところは決して小さなものではないだろう。
 われわれは日本労働研究機構ならびに在外公館の協力を得て,LOやSAFなどスウェーデンの労使頂上団体をはじめ,AMSや研究機関を訪問して一連のインタビュー調査(注3)を試みた。

(注1) スウェーデンの労使関係,もう少し広くスウェーデン・モデルの理解について大別して次のような2つの学説的系譜が存在し,いまも互いにその覇を競っている(cf., Fulcher 1987)。ひとつは「労働運動理論」と呼ばれるグループであって,ことえばKorpi(1978),Esping-Andersen(1985,1990)などがそれを代表する。他方にはコーポラティズム的アプローチを重視する多数の研究者がいる。前者は「資本主義社会では資本が必ずや国家を支配する」という命題を否定したうえで,「強い労働運動は国家機構に対して有効に働きかけ,労働側に有利な諸条件を手に入れることができる」という観点を強調する。Fulcher(1987)は,「コーポラティズムの矛盾」という概念を導入して両者の統合を試みた。また,Elvander(1990)はネオ・コーポラティズムという用語がますます曖昧になり,他の言葉(たとえば,B.マリンの「一般化された政治的交換」〔Generalised Political Exchange〕とか「利益協調」〔Interest Concertation〕)に置き換えられるようになったと記している。

(注2) その意味は「個人主義の完全制覇」といったニュアンスで語られていたのではない(cf., Financial Times, 23 October 1991)。なお,集合主義と個人主義の歴史的なシーソー・ゲームという興味深い仮説についてはHirschman(1982),Kosonen(1987:286)を参照せよ。もちろんここで,あまりに多義的なこの「個人主義」という言葉の意味内容についてあれこれ詮索することはない。ほとんど正反対の内容が同じ個人主義という用語によって意味されていたことについては,M.ウェーバーやF.A.ハイエクがつとに指摘している。

(注3) スウェーデン調査は1992年3月18日から20日までの3日間,稲上毅とHugh Whittakerによって行われた。訪問したのは2つの使用者団体(SAFとSIF),4つの労働組合(LOと金属労組,TCO,SACO/SR),それにAMS(全国労働市場庁),そしてストックホルム大学社会研究所(G.レーン名誉教授,C.ル・グラン教授)であった。貴重な時間を割いてインタビューに応じてくださった方々にこの場を借りて心からお礼の言葉を申し上げたい。また厄介な連絡調整にあたっていただいた日本労働研究機構の星野淳子氏,在スウェーデン日本大使館の泉真氏にも厚くお礼申し上げる。


1 スウェーデン・モデル-ユニークな構想力と理論

 この小さな文章の関心は,このようにスウェーデン・モデルの帰趨とその含意に注がれている。そうなれば,最初にどうしても「スウェーデン・モデルとは何か」について触れておく必要がある。そのユニークな構想力をできるだけ内在的に理解するために,まずそれを裏打ちしている経済理論と社会理論の骨格について立ち入ってみたい。仮にスウェーデン・モデルに大きな困難が生じている(生じた)としても,果たしてそれをどこまでそのモデル内在的に説明できるか-この大切な論点に肉薄するためにも,この作業は欠かせない。

1.1 曖昧な定義

 SAFでの経験

 ところが,議論はたちまちこの出発点のところでつまずいてしまう。一義的に明確なスウェーデン・モデルの定義づけなど存在しないように思われるからである。
 ストックホルムでのヒアリング調査の経験について語るのがよいだろう。1992年3月20日,スウェーデン経営者連盟(SAF:Svenska Arbetsgivarforeningen〔Swedish Employers’ Confederation〕)で3人から聞き取り調査を行った。そのうちの2人,副会長のU.ニールソン(Ulf Nilsson)氏とエコノミストのB.オクスハマー(Bjorn Oxhammer)氏はスウェーデン・モデルについて微妙に異なる話し方をした。まず,ニールソン氏によれば,「〔スウェーデン・モデルは〕時期的には1950-80(82)年の期間に存在したものであって,それは次のような11の要素から成り立っている。第1に結果をにらんだ(Result-oriented)合意形成的でしかも原則に捕らわれない実務的な意思決定を大切にしていこうという姿勢,第2に法律よりも話し合いによる合意が大事という考え方,第3に労使頂上団体(LOとSAF)とその強いリーダーシップ,第4に中央集権的な交渉機構,第5に賃金交渉のパターン・セッターとしての輸出産業,第6に積極的労働市場政策,第7に労使交渉に対する国家の不介入,第8に小さな公共セクター,第9に低い税率,第10に経営者の低い負担,第11に経済成長といった諸要素である」(注4)。もっともこれら諸要素のうち,第8から第11までの要素はスウェーデン・モデルによってもたらされるだろう成果を列挙したものであり(いまではこれらの成果はそのいずれもが裏切られた-その意味でスウェーデン・モデルは「崩壊している」というのがニールソン氏の言わんとするところであった),また第1と第2の要素はいわばスウェーデン・モデルの運用ルールに触れたものである。それに比べて,のちに詳しく述べるように,第3から第7の要素はまさにスウェーデン・モデルの骨格を構成している。そういう意味で,これら11の要素を単純に並列的に捉えることはできない。
 このニールソン説に対して,オクスハマー氏は事前にコピーしていたコミックな1枚の図(図1)を示しながら,「〔わたくしの理解では〕スウェーデン・モデルという屋台は結局のところ3つの柱によって支えられている」として,次のように解説した。「この図の一番右側にある第1の柱はLOとSAFによる中央集権的な賃金交渉と連帯主義的な賃金政策です。もう少し言うと,国家による干渉なしに労使双方がマクロ経済への賃上げ効果,賃金と生産性,労働者の福祉水準といったものを総合的に勘案しながら集権的な形で,しかも大きな賃金格差が生じないように賃上げ交渉を行うということです。そのアイデアは1932-76年,その後82年-91年まで続いた社民党政権に負うところが大きい。もっとも,いまこの第1の柱は分権化と個人主義化(Individualization)の激しい波に洗われている。そして,その背景にはインフレの昂進があります。第2の支柱は自由貿易による市場経済重視というものです。社民党はいつも『強い産業を!』と言ってきました。そのことが,このスウェーデンのような小さな国にかなり強い国際競争力をもった大企業,VolvoとかSaabといった大きな企業が成立してきた重要な理由なんです。市場経済のあり方,特に製造業の国際競争力についてでしょうか,その維持と向上にスウェーデン・モデルは強い関心をもってきたんです。いまこの点に関連することでいうと,『所有者の権利』の重視ということがあります。たとえば,外資の積極的な導入とか民営化の促進とか,それにアントレプレヌアシップ(小零細企業)の支援とかいった事柄です。第3の柱は一般的な福祉システム(General Welfare System)というもので,これには医療とか公的年金とかいった領域,それと公共部門が独占してきた社会福祉サービス,それともうひとつが積極的労働市場政策による完全雇用の維持で,細かくはこれら3つの要素から成り立っているのが一般的な福祉システムというものです。言うまでもないでしょうが,いまこの第3の柱はタックス・プレッシャーにさらされているわけです。『もうそういうシステムの充実なんて,いいんじゃないか』そういう声(図の‘Weakened Incentives’)が強まってきています」(注5)。
図1 沈没するスウェーデン・モデル-B.Oxhammer(SAF)の図解
 ちなみに,このオクスハマー氏の簡明な説明で見落としてならないだろう点のひとつは,「コミックな」と形容したこの図柄そのものにあるように思われる。すなわち,スウェーデン・モデルは海中に浮かぶ,しかもいまその基石が崩れつつある3つの柱にようやく支えられている。その意味で,いまスウェーデン・モデルは漂流している,もう少し厳しく見れば,まさに沈没しつつある-というのがこの図の物語っていることであるように思われる。
 このように,2人のスウェーデン・モデルについての解説はその基本的な構造と現状認識を共有しながらも,なおアクセントの置きどころをはじめとして微妙な食い違いを見せている(たとえば,ニールソン氏は「一般的な福祉システム」について触れていない)。しかもそれが,同じSAFという使用者頂上団体のキーパーソンによる同じインタビューの席上での発言であったという点が興味深い。

(注4) 1992年3月20日のSAF副会長U.ニールソン氏とのインタビュー記録による。ちなみに,日本語スライドによるイントロダクションから膨大で貴重な資料類まで,SAFは驚くべき用意周到さでわれわれの長時間のインタビューに応じてくれた。特に記して深謝したい。

(注5) SAFのエコノミスト,B.オクスハマー氏とのインタビュー記録による。

 誰の造語,どんな意味か

 それにしても,いったい誰が「スウェーデン・モデル」という言葉を使いはじめたのだろうか。A.ラールソン(Allan Larsson:全国労働市場庁会長・当時)は「新たなスウェーデン・モデルに向けてか」という講演のなかでこう語っている-「スウェーデン・モデルという表現,これはスウェーデン人の発明したものではありません。フランスのジャーナリストで『L’Express』誌の編集主幹であったJ.-J.セルヴァン-シュレベール(Jean-Jacques Servan-Schreiber)が60年代の末に書いた『アメリカの挑戦』(注6)という本のなかで〔はじめて〕使ったものです。彼は,60年代の西欧工業諸国に見られた社会的緊張や対立を生み出すことなく,長期にわたって良好な経済成長へとスウェーデン社会を導いた政策〔体系〕のことを記述するためにスウェーデン・モデルという言葉を使いました。(中略)『スウェーデンではその問題をどう解決しているのかを見てみればよい。われわれだって同じことをやれるはずだ』というように〔このスウェーデン・モデルという言葉が〕使われた」(Larsson 1987:1-2)。しかし70年代の末になると,スウェーデン・モデルに別の意味が与えられるようになったとラールソンは述べている。完全雇用の維持と手厚い社会保障が肥大化した公共部門と重税をもたらし,それがスウェーデン経済を無力なものにしてしまったというまったく逆の評価が与えられることになったからである。さらに,80年代中葉になると再び国際的評価が好転しはじめ,「もう一度,スウェーデンがモデルとして引かれるようになった」。このように,スウェーデン・モデルはその時々にその評価が大きく変化しただけでない。もっと困ったことに,その内容(定義づけ)もまた変わっていったと見なければならない。「われわれが現在もっているスウェーデン・モデルは,シュレベールが60年代にそう命名したものとは本質的な点で異なっている-そのことを示すことは手易い。社会政策でも教育政策でも,また労働市場政策についてもそういうことができる」(ibid.)とラールソンは語った。
 しかしそうであればなるほど,たとえ暫定的にでもここで「スウェーデン・モデル」という場合,その意味内容が何であるかについてはっきりさせておかねばならない。

(注6) この書物は高度工業化と知的創造性をめぐる競争で「アメリカの挑戦」にさらされているヨーロッパ(とりわけフランスやイギリス,ドイツといった大国)がそれにどう対応すべきかを論じた作品である。一方ではスウェーデンやスイス,オーストリアによって例証されるような「専門化」(Specialization)の道がある。しかしある種の「連邦主義」(Federalism)がもうひとつの選択肢としてある。シュレベールはこの後者の必要と「EC戦略」を強調した。

 さまざまな見解

 まず,上記のニールソンやオクスハマーの説明に加えて,さらにいくつかの見解に当たってみよう。第1に,ラールソン自身どう言っているのか。経済成長と社会改革との独特なコンビネーション,レーン-メイドナー・モデル(the Rehn-Meidner Model),そして長期的視点に立った中央集権的な団体交渉の3つからスウェーデン・モデルは成り立っているという(Larsson 1987)。第2に,P.ロビンソンのように3つの目的と6つの手段を挙げるものもいる。3つの目的とは「最優先の政治的課題」である完全雇用の維持,平等で連帯主義的な社会の実現,生活水準の継続的上昇のことであり,6つの手段とは「限定的な」ケインズ主義,連帯主義的な資金政策,積極的労働市場政策,寛大で普遍主義的な福祉国家,「サルチオバーデンの精神」,3者協力による合意形成の政治の6つである(Robinson 1989a,1989b)。第3に,K.アーレンは1938年のサルチオバーデン協定に体現された労使協調の精神,それに基礎づけられたレーン-メイドナー・モデルを指してスウェーデン・モデルと呼んでいる。そしてそのレーン-メイドナー・モデルを支えているのが,LOとSAFによる高度に集中集権的な団体交渉制度であり,その実効性を担保しているこれら労使頂上団体の卓越した組織力と統率力であり,さらに合意形成を重視したその交渉プロセスである。端的にアーレンは,「スウェーデン・モデルとは〔これら諸制度によって表現される〕たぐいまれな労働関係システムと,〔ユニオン・リーダーの〕マクロ経済的関心によって基礎づけられた洗練された団体交渉的アプローチ,その両者のコンビネーションのことである」(Ahlen 1989:330-331)と明快に言い切っている。第4に,SAFのH.-G.ミュルダールによれば,スウェーデン・モデルには6つの特徴が認められる。その6つとは,自由な市場経済重視,独立した競争的企業,国家の干渉なく労使の協調的精神に基づいてよく組織化された労働市場,企業レベルにおけるよく発達した労働者参加制度,実践的な改革,プラグマティズムと平和的方法による妥協の6つである。そして強力な労使頂上団体の存在,中央集権的な賃金交渉,少ない労働争議と労使紛争,これら頂上団体のマクロ経済への強い関心という4つの制度的要因がスウェーデン・モデルを支えてきたのだという(Myrdal 1980:57-58)。第5に,R.ミシュラによれば(彼はスウェーデン・モデルとは言わずにスウェーデン型コーポラティズムと表現している),中央集権的な賃金交渉とよく秩序づけられた安定的な労使関係,積極的労働市場政策,福祉国家についての一般的合意という3つの柱によってスウェーデン型コーポラティズムは成り立っている(Mishra 1990:62)。第6に,S.ラッシュとJ.アリーはその挑戦的な著作『組織化された資本主義の終焉』(1987)のなかで,「スウェーデン・モデルあるいはスウェーデン型ケインズ主義の基礎はレーン・モデルによって与えられている」(Lash and Urry 1987:237)と指摘している。第7に,A.マーティンによれば,「経済成長の要請に呼応し得る分配的紛争をめぐる制度的調整と規範システムの複合体」がスウェーデン・モデルと言われるものであり,その原型は38年のサルチオバーデン協定に求められる(Martin 1987)。最後に,『フィナンシャル・タイムズ』紙のある解説記事はスウェーデン・モデルを現代資本主義のなかでも「最も知的な社会主義的形態」と形容したうえで,その4つの構成要素として財の自由市場(必ずしも資本についてではない),積極的労働市場政策,中央集権的な賃金交渉,そして高度な福祉国家を挙げている(Financial Times,9 October 1991)。
 比較対照
 わずか10事例ではあるが,これらスウェーデン・モデルについての多様な見解を相互に引き比べてみるといくつかのことに気づく。第1に,スウェーデンモデルといっても,その目的あるいは成果と手段あるいは方法とを区別することができる。しかし困ったことに,その目的あるいは成果についてでさえ,たとえばニールソンとロビンソンのように互いにその見方が大きく異なっている。経営者の低い負担,低い税率,小さな公共部門,経済成長といった側面を強調することもできるし,福祉国家としての成熟に力点をおく理解もある。第2に,目的か手段かは別にしても,自由な市場とか競争的企業の存在といった点を力説する考え方がある一方(たとえばSAFのミュルダールやオクスハマー,さらに『フィナンシャル・タイムズ』),それらにまったく無頓着な立場もある。いずれも,曖昧なスウェーデン・モデルという見方に好都合な材料である。しかし第3に,こういった違いを超えて次の2点では大方の意見は一致している。すなわち,政労使相互の一定の役割期待を踏み外すことのない,そして労使協調と合意政治を重視したマクロ経済社会政策の形成と運用,もうひとつが高い組織率と統率力をもった労使頂上団体,中央集権的な労使交渉,独自の賃上げパターン・セッター,連帯主義的な賃上げ政策,積極的労働市場政策からなるひとまとまりのユニークな制度・規範装置である。これら2つがスウェーデン・モデルを構成する中心的要素であるという点について,多くの論者の間に目立った意見の相違は見られない。そうしてもしこれら2つの要素を固有名詞で言い表すならば,要するに「サルチオバーデンの精神」と「レーン-メイドナー・モデル」ということになるだろう。
 スウェーデン・モデルに関するここでの定義はこれら2つの共通項とかなり重なる。しかしそれに立ち入る前に,サルチオバーデンの精神については簡潔に,またレーン-メイドナー・モデルについては(それを補完修正した「EFOモデル」を含めて)やや詳細に,その経済理論と社会理論の骨格について触れておかねばならない。

1.2 サルチオバーデンの精神

 「歴史的妥協」の背景

 1938年にLO(注7)とSAF(注8)の間で結ばれたサルチオバーデン協約(Saltsjobaden Agreement)は,「歴史的妥協」と呼ばれ,スウェーデン型コーポラティズムの誕生を告げるものであった(Lash and Urry 1987:37)。しかし,それに先立つ20年代は政治的不安定,イデオロギーによって分断された労働運動といった要素に加えて,高い失業率と度重なる労働争議・労使紛争によって特徴づけることができる。「世界の争議史上目を見張るほどのひどいストライキ,ロックアウトの頻発」(Robinson 1989b:8)が見られ,そのため28年には政府はLO-SAFに労働協約を「強制」してストライキを非合法化したほどであった(Scase 1977:28)。
 その大きな転機とてったのが,1932年のP.A.ハンソン(Per Albin Hansson)党首率いる社会民主党による政権獲得(注9)であった。大量失業の克服がこの新政権の最大の課題であった。大蔵大臣には「ケインズ主義者」のE.ウィグフォシュ(Ernst Wigforss)が就任,膨大な赤字国債を発行して公共事業の拡大に努め,雇用機会の拡大を図った。これと並行して通貨切り下げが進められ,強力な輸出促進策が採用された(Lash and Urry 1987:37)。おかげで景気は目立って浮揚し,33年からの5年間のうちにスウェーデンの失業者数は16万余りから2万弱にまで一挙に減少した。社民党政権による国民経済危機克服のこの「実験」は,こうして大きな成功を収めた。
 しかし,サルチオバーデン協定締結のより直接的な契機となったのは30年代の労働争議の苦い経験であり,またそれに対する政府委員会による治癒策の模索を通じてであった。T.L.ジョンストンの克明な研究によれば,第1に,「30年代の最も重要な労働争議」とされる建設業の労働争議が33年から34年にかけて生じ,それが折からの景気浮揚策の足を引っ張る結果となった。このこともあって,第2に,政府は産業平和のための3人委員会(いわゆるNothin Commission)を設置した。1934年12月のことである。同委員会は35年に政府にその報告書を提出したが,そこには産業平和に関する労使自治についての勧告などが掲げられていた。国家の干渉あるいは立法措置を回避しようとするある意味で「伝統的」な考え方(スウェーデン社会のリベラリズム的な「伝統」については,Lash and Urry 1987:29f.)がここにもその顔をのぞかせている。第3に,LOは社会民主党と緊密な関係を維持してきたこと,またLO傘下労組の争議行為が国民経済に与える大きな影響力といったことも手伝って,次第に労働組合の社会的責任に関する自覚が高まりはじめていた-これら3つの動きが互いに共鳴し合って,サルチオバーデン協定への水路づけがなされた。さらに具体的にいえば,「産業平和3人委員会」の勧告を踏まえて36年にはLOとSAFによる労働市場委員会(Labour Market Committee)が設けられ,それがサルチオバーデン協定の具体的な草案づくりを行った。併せて,同委員会の報告書によってLOによる労働振動の集権化と権限集中にも大いに拍車がかかった(Johbston 1962:34-35,192)。
 その後の「修正を施されながら現在もその効力を保っている」(注10)このサルチオバーデン協定は,こうして誕生した。ジョンストンは,スウェーデン・モデルの構築に重要な影響を与えたこの協定を「38年基本協約」(面白いことに,この著作にはサルチオバーデン協定といった言葉は一度も登場していない!?)と呼んでいる。そしてこの協定には,のちに述べるように,生産手段の国有化など「経済民主主義」の放棄と労働者に対する指揮命令権限など経営権の承認,労使関係への国家介入の排除,中央集権的な団体交渉機構,労使協調的で平和的な交渉手続きの重視といった諸項目が盛られていた。しかし,この「歴史的妥協」が重要であるのはこれに尽きない。それに加えて,文脈上特に大切と思われるのは,労使の社会的存在証明と社会的責任への自負心がこの協約によって宣明されたからである(ETUI 1989:10)。単に労使関係・労使交渉のあり方をめぐってあるべき制度装置と意思決定プロセスがくっきりと浮き彫りされただけではない。それ以上の含意がそこには込められていた。たとえば,協調的な意思決定,合意政治の重視といったことが意味していたのは,「無責任な仕方で『第3者』あるいは社会全体に悪影響を及ぼすような不用意な労使紛争は避けねばならない」(Rehn and Viklund 1990:313)ということであった。この点の理解が重要であるのは,この協定あるいは「サルチオバーデンの精神」と,LOの盟友・社民党のハンソン首相が掲げた「『国民の家』政策(‘ Folkshems’ Politik)」,スウェーデンの先駆的で普遍主義的な(ベヴァリッジ的意味で選別主義的ではない)福祉プログラム,労働組合自らの(M.オルソン的意味での)「包括的」組織としての性格づけ,さらにはLOの連帯主義的な賃金政策といったものとの間には,互いに見逃すことのできない相互浸透と共鳴関係を見て取ることができるからである。

(注7) LOが創設されたのは1898年,1991年3月現在の加盟組合数は23,組合員数の合計(引退者を含む)は226万人(うち民間部門が135万人),最大労組は自治体〔現業〕労組(64万人),2番目が金属労組(46万人)である。300人の代議員による定期大会の開催は5年に1回,中央執行委員会の構成メンバーは15人,17の地方組織をもつ。官民セクターを超えたマニュアル・ワーカー(現業労働者)の労働組合であるというところにその最も基本的な特徴がある。1931年には社会民主党との間に協調委員会を設置,現在も同党と緊密な組織的・イデオロギー的な提携関係を結んでいる。ちなみに1889年の社会民主党結成は熟練労働者に淵源し,そのイデオロギー的基礎はマルクス主義にあった。詳しくは,cf., Scase 1977,Kjellberg(1990)。

(注8) SAFは傘下最強メンバーであるVFとともに1902年に創設された。直接のきっかけは同年の普通選挙権獲得を掲げた社会民主党とLOによるゼネストであった。91年3月現在,加盟している経営者団体は35,企業数では4.5万にのぼる。すべて民間の経営者団体・企業である(この点はLOと異なる)。会員企業となるためにはSAF傘下の経営者団体への加盟が条件となっている。総会は通常年に1回,理事会(月1回)の構成メンバーは32人である。政党との特定の関係はない。

(注9) これに先立つ社会民主党の政権掌握は1917年(連立内閣),20年(単独),21年,24年にまでさかのぼることができる。簡潔には,cf., Scase 1977:42f.

(注10) Rehn and Viklund 1990:313.

 サルチオバーデン協定

 全部で5つの章からなるこの「基本協定」をひもといてみよう。まず第1章では,この協定から発生する諸問題を処理すべく設置されたSAFとLOによる労働市場審議会(Labour Market Council)に関する条項が掲げられている。第2章では労使協調と産業平和のための労使交渉手続きが,また第3章では,経営権の保障という文脈に沿って雇用契約,解雇とレイオフ,再雇用といった事柄の取り扱い原則が定められ,つづく第4章では中立的「第3者」の利益保護および争議行為の事実上の制限が,さらに第5章では公共的サービスを脅かすような争議行為の規制が取り上げられている。
 このうち,第1章の労働市場審議会についていえば,既存の労働裁判所(Labour Court)による紛争(「第3者」にかかわる紛争を含む)処理では不十分であるという共通理解のうえに立って「特別のフォーラム」としてこの審議会が構想された。興味深いことに,それは労使の交渉機構でありながら,同時にまた公共サービスや雇用安定に関する仲裁機関(労使同数の6人構成)にもなっている。交渉機構として機能する場合にはその議決方法は単純多数決,しかし仲裁機関として機能する場合,特に同委員会内部で自ら結論を出せなかったときには労使双方が推薦する「第3者」である仲裁委員長にその決定をゆだねるとされていた。ここで見落とせないのは次の2点,すなわち,第1にはこの単純多数決そのものが意味していたのは,委員の全員出席という前提の下で,全員一致かあるいは少なくとも「反対」側委員(つまり労働側から見れば使用者側委員,使用者側から見れば労働側委員)の1人以上の賛成によって審議会の決定とするということであった。実際には賃金交渉事項がこの審議会に持ち込まれることはほとんどなかったが(Johnston 1962:186),それでも単純多数決によって労使交渉の結論を導き出そうとしている点がまことに面白い。第2には,そういう手続きに訴えているのも政府の交渉(さらには紛争解決)への「干渉」を極力排除しようとするためであった。もちろん,この審議会はLOとSAF共通の関心事項について幅広く話し合うための大切な機会でもあった(Johnston 1962:174-175,269f.)。要するに,政府と法律から自由になったところで労使代表が意見・情報を交換し,交渉しさらに仲裁もするといった多元的な役割がこの労働市場審議会に託されていた。
 第2章の交渉手続きに関する規定では,「非正当的」な労使紛争(雇用契約問題がその代表例)については,その争議行為に先立っていくつもの手続きを経なければならないと定められた。ローカルおよび全国レベルでの労使交渉,調停行為に対する回答義務,紛争解決のための独自提案,争議行為のための事前通告(7日間)といったことに加えて,さらに「私的な仲裁」を欠いた場合には争議行為に訴えることができないとも規定された。交渉が不調となったとき争議行為に訴えることができるが,そのためには秘密投票によって組合員の3分の2以上の賛成票を獲得しなければならなかった(Johnston 1962:261)。
 「基本協定」の第3章で注目されるのは,たとえばその23条(現行基本協定,32条)で次の3点について使用者の専決権が認められたことである。すなわち,第1にクローズド・ショップやユニオン・ショップといった条項にかかわりなく,もっぱら「労働力の質によって」従業員を雇用することができること,第2に生産の必要に従って労働者を再配置できること,第3に生産市場や価格変動などに配慮してその労働者数を限界的に調整することができるとも定められた(もっとも,この経営専決権は1946年の労使協議制に関する協定〔Agreement on Works Councils〕をはじめ,その後繰り返し労働側からの「挑戦」にさらされることになる)。そしてこれら第3章における経営専決権に関する諸規定は,たやすく推察できるように,第4章における労働者に関する雇用保護規定(注11)と裏腹の関係を構成するものであった。
 第4章と第5章で見逃せないのは,一方で雇用保護を掲げながら,他方では中立的「第3者」に対する権益保護,また公共サービスの脅威となるような争議行為に対する事実上の制約を定めていたことである。このサルチオバーデン協定によって同情ストや2次的ボイコット一般が禁止されたわけではなかったけれども,制約条件の強化によってその実行はより困難なものとなった。第5章で触れている「社会的に危険な争議」の回避については,必ずしも有効に機能したとは言いがたいが,LOとSAFによる上記の労働市場審議会の仲裁機能にその役割が託された。このような公共部門のホワイトカラー層に広がる問題領域にまでLOが「積極的」なかかわり方をしたこと自体,注目に値する。それは,労働組合の社会的責任の自覚(ある種の(コミュニティ意識」)と,それに基づく労働組合の「自主規制」あるいは自粛行動を象徴するものであった。
 オルソン図式(注12)に従えば,そこには国民経済に巨大な影響力をもちはじめた労働組合がもっぱら組合員の利益のみに汲々とする「特殊利益」の組織ではなく,大所高所に立った「包括的」(Encompassing)な組織として立ち現れている姿を見て取ることができよう。

(注11) 言うまでもなく,それは労働者にとって多くの利点をもつものであった。「歴史的妥協」と呼ばれるゆえんである。cf., Johnston 1962:205-215.

(注12) オルソンの図式とは,「特殊利益」組織の分配結託(Distributive Coalition)や共謀(Collusion)による国民経済の疲弊,その逆に「包括的」組織(時に特殊利益組織の「包括的」行動とも呼ばれる)による経済発展という理論的推論のことを指している。特に「包括的」組織と経済発展に関する「第5命題」(Olson 1982:47-53)が興味深い。なお,本稿に関連する記述でいえば,たとえば「スウェーデンでもノルウェーでも,その主要な特殊利益組織はアメリカやイギリスとは異なって著しく包括的であり,おそらく他のいかなる先進的民主主義社会よりも包括的であろう」と記し,さらにその理由に触れて,「小さな相対的に同質的な社会においては,大きな多様性に富んだ社会の場合よりも,その組織はより包括的な性格をもちやすい」(Olson 1982:90-91)からだと「第3命題」を援用しながら述べている。

1.3 レーン-メイドナー・モデル

 戦時期のLO規約改正-中央集権的賃金交渉と連帯主義的賃金政策

 サルチオバーデン協定は,その制度のみならずその精神においてもその後のスウェーデン労使関係と経済社会政策に計り知れない影響を与えた。
 この協定の延長線上に立って,1941年のLO大会で同労組規約の大幅改定が企てられた。とりわけ,賃金交渉をめぐってLOが傘下組合の賃金交渉にかかわりをもつようになったこと,また傘下組合に対してLOが「提案」を行うことができるようにもなった。LOによるこうした賃金交渉の中央集権化の背景には,当時でこそ連帯主義的賃金政策とは言わず農林業を中心とする「最も金水準の低い労働者たちを支援する」という言い回しになっていたが,実質的には連帯主義的賃金政策(その試みは1922年にまで遡及することができる)という考え方があった。
 もちろん,戦時体制というものがこうした中央集権的な賃金交渉を強化したことも否めない。LOとSAFは「賃金に対する政府の直接統制を避けるために」(Johnston 1962:279),1940から44年までの間,生計費の変動に見合って賃金を調整するいわゆる「インデックス協定」を結んだ。また,第2次大戦後をにらんで44年に発表された「スウェーデン労働の戦後改革」のなかにも,51年のレーン-メイドナー・モデルに連なる基本姿勢と先駆的主張とを見いだすことができる(注13)。

(注13) cf., LO 1951:74-75.

 『労働組合と完全雇用』-スウェーデン・モデルの「福音書」

 「レーン-メイドナー・モデルあるいはレーン・モデルと呼ばれるものは第2次大戦後,1951年のLO大会に提出された報告書のなかに登場する」と語ったストックホルム大学のG.レーン名誉教授(注14)は,「スウェーデン・モデルの『福音書』」と自ら書き記した大会報告書の一部をコピーして東京に送ってくれた。その報告書のタイトルは『労働組合と完全雇用』(1951年LO大会提出)と銘打たれ,(イ)労働組合運動の賃金政策,(ロ)労働の戦後改革-どうやって危機を防ぐか,(ハ)完全雇用の重要性と展望,(ニ)賃金抑制は安定性の基盤か,(ホ)経済政策と賃金政策の調整といった構成になっている。
 紙幅をいとわず,その基本的な論旨を抽出してみよう。まず(イ)では,第2次大戦後,政府はすべての国民に対する社会保障という課題に直面し,その経済政策の目標のひとつとして完全雇用を掲げるようになった。しかしそれによって労働組合の担うべき役割がなくなったというわけではない。「人間労働を含む国民社会のあらゆる生産的資源を意図的に調整していくことなしに完全雇用を達成することはできない。国民経済の均衡を覆すような〔労働組合の〕賃金政策は必ずやこの目標をないがしろにしてしまう。したがって,〔政府と組合の〕経済政策を互いに調整する必要がますます強まっている」と記されている。注目に値するのは,目標としての完全雇用,手段としての政府と組合との経済政策調整の必要という指摘であり,また過剰な賃上げが国民経済を疲弊させるという労働組合の基本認識についてである。こうした考え方の先駆的形態は,すでにLOの「戦後改革」(1944年)のなかに認めることができる。そのプログラムでは,第2次大戦後に予想される経済不況の到来と大量失業を防止するため(この見通しそのものは「まったく見当外れで」,逆にひどいインフレに襲われたのではあるが),3つの改革案が提示されていた。第1に財・サービスの生産拡大を支えるべく,税制と社会保障政策を通じた所得配分のありように注意が怠ってはならないこと(「私的な資本主義の自然な傾向にゆだねておけば,過剰な貯蓄,過小な消費,そして失業が結果するだろう」),第2に経済を循環軌道から拡大軌道に乗せるために投資とりわけ建設業への投資を促進する必要があること,そのために公共投資と併せて公共政策主導型の民間投資拡大を図ること,第3に人口増の停止状態から生じる労働市場の硬直性に対処するため労働移動を促す新たな政策,たとえば「労働転換」(衰退職業から成長職業への職業転換・移動),職業訓練・再訓練,地域間移動といった諸政策(注15)を導入する必要があることなどが掲げられていた。大事な点は,こうした経済社会政策のある意味で「閉じた」論理構造そのものにある。では,さらに,(ハ)完全雇用の維持といっても,それは国家による賃金統制や国家による強制的な労働配置といった「非民主的」な方法によってはならないことが力説されている。個々人の自由が完全に保証されたうえで,それが社会(コミュニティ)の利益と調和するというものでなければならない。その場合,経営者の行動の自由が一部,たとえば,独占の排除とか投資規制といった形で制限されることはやむを得ない。原理的にいって,個々人の自由が保証された民主主義的社会で完全雇用を維持していくには,次の2つの方法のいずれかによるほかない。第1の選択肢は,投資や価格あるいは輸入を統制したり制限的賃金政策を発動することによってインフレを抑制し通貨価値の下落や価格上昇に歯止めをかけるにせよ,一般的なマイルド・インフレーションの傾向を許容する道,もうひとつの方法は,財やサービスの供給に見合った購買力を維持することによって国民経済の均衡を保つことである。スウェーデン社会のこれまでの経験に照らして選ぶべき道はこのうち後者であるに違いない(注16)。なぜならば,「持続的な価格上昇は〔国民経済〕全体の生産性向上の障害となり,ひいては給与生活者の生活水準と実質賃金上昇の妨げにもなる。それはまた,長期的には国内的にばかりでなく貿易という面からも完全雇用の維持を難しいものにする」(注17)からである。このように,先の(イ)の主張と重複するが,まず「国民経済の均衡」という言葉が特筆大書され,そのうえでインフレ抑制,生産性と実質賃金の維持向上といった具体的な構成要素が掲げられ,さらに長期的な観点が重視されるといった内容になっている。では,(ニ)国家の賃金交渉への介入は論外としても,完全雇用と賃金政策との関連をどう考えたらよいか。ひとつには,完全雇用と通貨安定が両立するような「賃金抑制政策」(Wage Constraint Policy)という考え方がある。しかし,賃金ドリフトの発生が懸念されるだけでなく,戦時期および終戦直後の経験に照らして特にそれを長期的な労働組合の賃金政策とすることには組合内部に強い反対があった。「もし政府(コミュニティ)が経済の安定について責任をもつというのであれば,完全雇用政策と労働組合の賃金政策との対立は解消する。それでもディレンマを解決しなければならないというのであれば,経済政策と賃金政策の調整を図らねばならないだろう」(注18)。
 こういった議論を踏まえて,『労働組合と完全雇用』の結論である(ホ)では,その「調整」(Coordination)のありように触れて次のように記している。第1に,一方では自由な労働市場を危機にさらすことのないような完全雇用のための政府の経済政策,他方ではインフレーションを誘発して完全雇用を危機にさらすことのないような労働組合の賃金政策-こうした両者の調整行動がまさにこの「福音書」のアルファであり,またオメガであった。いずれの要件(行動)を欠いても完全雇用を長期にわたって維持していくことはできない。第2に,したがって労働組合についていえば,組織労働者の内部においてのみならず,国民社会の他の構成メンバーとの間でも〔賃上げ〕競争に奔走することがないよう,労働組合はしかるべき調整努力を払う必要がある。「労働組合の賃金政策は一般的な経済政策と調整されねばならない。労働組合運動全体〔LO〕として,これまで以上に〔傘下〕組合の賃金政策について責任をもたなければならない。(中略)一般的な連帯という観点からすれば,最近の目立った改善にもかかわらず,なお平均よりもかなり〔賃金水準の〕低い人々に政策上のプライオリティをおくべきである」(注19)。しかしその場合,大切な点は生産性の伸びと賃金上昇との結びつきを見失ってはならないということである。第3に,ひるがえって政府は国民経済の均衡維持のため,国家財政の適切な運用を図ること,その一環として過剰な企業利潤の蓄積を排除すること,税制等によって国民の購買力を維持すること,また地域的な「失業の島(アイランド)」をなくすためにインフレ誘発的でない公的手段を地域特性に見合って駆使すること,そのために公共需要の創出や地域間および職業間の自発的な労働移動を促進すること-こういった諸政策を積極的に推進する必要がある。第4に,生産性向上と賃金上昇のリンケージという場合,その具体的な方法とはいかなるものか。「底辺」グループの賃金水準を引き上げるという基本方針(いわゆる「連帯主義的賃金政策」)を貫きながら,インフレ誘発的な賃上げを回避するためには,一方で「不採算部門の産業に補助金を出すようなことをしてはならない。その部門に必要なことは補助金ではなく効率を高めることである」。他方,高収益の産業・企業で高い賃金が支払われるという動き(そのひとつが賃金ドリフト)に任せてはならない。賃金はその仕事の質に見合って産業・企業横断的に支払われねばならない(「同一労働同一賃金」の原則)。ということは,そこには,一方において高い収益と効率が維持され,したがって生産性の高い産業・企業が市場競争のなかで生き残っていくためのある種のスクラップ・アンド・ビルドの産業政策が想定され,他方ではそうした競争的な産業・企業の労働需要に見合って必要労働力を地理的・産業的に,さらには職業的に移動させていくといった労働政策(後の呼称で言えば,「積極的労働市場政策」)の必要が示唆されている。そういった形で生産性と賃金との結びつきを図っていこうというのが『労働組合と完全雇用』の基本的な考え方であった。
 もちろん,同一労働同一賃金の原則といっても,仕事が違えば賃金も異なるということであって単純に賃金格差の平準化が主張されているのではない。しかしそうなると,「適切な」賃金格差とはいかなるものかという厄介な問題に直面する。この「福音書」は,この点に関してより「客観的な」職務評価方法の開発について言及しているが,正直歯切れは悪い。
 以上が,G.レーンが「1951年の福音書」と呼んだレーン-メイドナー・モデルの骨格である。それは,このようにいくつものまことに印象的な諸要素から成り立っていた。すなわち,第1にインフレ回避と完全雇用の同時達成(目標としてのインフレなき完全雇用政策),第2にそのための政府の経済政策と労働組合の賃金政策の「調整」,第3に賃金交渉に対する国家の不干渉と市場経済重視の基本姿勢,第4に賃上げ規範としての生産性向上と賃金上昇との連携,第5にそれにかかわる連帯主義的賃金政策と積極的労働市場政策,第6にそのための長期的視点に立った市場競争力重視の産業・労働政策,そして第7に「包括的」な有責主体としての労働組合,第8にそうした労働組合によってスウェーデン・モデル(ここではレーン-メイドナー・モデル)が開発されたという点である。
 最近の論文やインタビューのなかでレーン教授自身が述懐しているところによれば,このモデルづくりに際して,一方では戦時および戦争直後のいわば「統制的」経済政策のありように終止符を打ち,長期的な観点に立ってそのオルターナティブを提示する必要に迫られていた。しかし他方では,単純に市場経済重視といった方向を打ち出せばそれで済むというわけではなかった。現に賃金ドリフトの発生によって遵守されるべき連帯主義的賃金政策は大きな暗礁に乗り上げていたからである。そしてもしそれなくしては画竜点睛を欠くという意味で新たに設計されたのこのモデルの精髄的要素は何かと問われるのであれば,それは市場競争重視の産業・労働政策に違いない「積極的労働市場政策」ということになるだろう(cf., Rehn 1992:5f.)というのも,「この政策はよく一方的といって批判されたが,それは本来の趣旨ではなかった。それは誤解なんです。理論的には,労働市場の需給双方の観点を2つながら大切にしていこうとするものでした。一方で最も生産的な産業セクターの拡大によって経済成長を達成していこう。他方ではそれに見合って労働力を再配置・再訓練していく必要があるという組み立てなんです」(注20)-これが積極的労働市場政策という言葉の根本的な意味であった。その趣旨は保護主義的産業政策(注21)ともまた「ラッダイツ」とも馴染まない。

(注14) ストックホルム大学のC.ル・グラン教授はレーン名誉教授のことをわれわれに「スウェーデン・モデルの父」と紹介した。

(注15) これが後に「積極的労働市場政策」と言われるようになった。

(注16) この前者の道の可能性とその問題点については,cf.,LO 1951:83-84.

(注17) LO 1951:82.

(注18) LO 1951:89.

(注19) LO 1951:94.

(注20) 1992年3月19日のG.レーン氏とのインタビュー記録による。cf., Rehn 1992:5.

(注21) 1950年代以降大幅な雇用削減に悩んできた繊維労働組合は1961年,それまでの保護主義的政策を放棄し,職業再訓練など将来の雇用機会に結びつく「積極的」政策にその方針を転換した。cf., Rehn 1992:6.

1.4 EFOモデル-パターン・セッターと生産性基準原理

 背景と狙い

 このレーン-メイドナー・モデルはそれから20年後の1970年,いわゆる「EFOモデル」によって補強されているが,この新モデルは賃上げ交渉におけるパターン・セッターと賃上げ基準に深いかかわりをもっていた。
 なぜ,補強の必要があったのか。第1には,賃金交渉の「複雑化」という現象が見落とせない。レーン-メイドナー・モデルが想定していた賃金交渉の主役はあくまでも現業のブルーカラー労働者を組織するLOと民間セクターを組織する使用者団体SAFという労使一対の頂上団体であった。民間部門のブルーカラー労働者が賃金交渉の中心的な担い手であり,それがスウェーデンの賃上げ相場を決定するという暗黙の前提がおかれていた。ところが,高度産業化とともに60年代以降公共部門が拡張し,併せてホワイトカラーも目立って増加した。その結果,LOとは別にホワイトカラー労働者を組織するTCO(Tjanstemannens Centralorganisation〔Swedish Confederation of Salaried Employees〕),また大学等の専門職を組織するSACO/SR(Sveriges Akademikers Centralorganisation 〔Swedish Confederation of Professional Associations〕といった後発の組合が急激にその組合員数を増やし,同時にその発言力を強めてきた(注22)。したがってスウェーデンの賃着交渉機構は,のちにも触れるように(図2),次第に複雑なものになっていった。SAFとLOによる賃金交渉といった単純なモデルは次第に現実と乖離しはじめた。こうした状況を踏まえて,いったい賃金交渉のパターン・セッターは誰であるべきか,また賃上げ水準は何に準拠すべきかといったことが改めて労使双方の強い関心事になった。第2に,より直接的な契機という意味ではインフレ昴進への懸念を背景にしたOECDの報告書『価格上昇の問題』(W.Feller,M.Gilbert, B.Hansen, The Problem of Rising Prices, Paris:OECD,1961),さらにアメリカにおけるケネディ政権による所得政策の導入といった出来事が大きな影響力をもった点も見逃せない。事実,EFOモデルの英文改定版『賃金形成と経済』(1973年刊:原書出版は1970年)の冒頭には,「マニュアル・ワーカーもホワイトカラーについてもその賃金が全国的な団体交渉によって決まり,しかも一国経済が国際貿易に大きく依存しているような小国において,その所得政策の経済的基礎はどこに求められるべきか-その定式化がこの研究の狙いである」(Edgren et al. 1973:11)と記されていることからも,そうした事情をうかがい知ることができる。もう少しかみ砕いていえば,政府の所得政策の発動(たとえば,賃金交渉への政府の介入)に対してスウェーデンの労使頂上団体は「伝統的」に強い懸念を抱いてきた。もちろん,レーン-メイドナー・モデルでもこの立場は堅持された。しかし,公共部門の拡大は賃金交渉に対する政府の発言力を増大させる可能性がある。そればかりではない。上記OECD報告が言うように,「たとえ製品市場,労働市場における総需要と総供給のバランスがとれていても,労使間で合意された賃上げは他の条件とは独立にすぐさまより直接的な形で物価上昇に結びつく可能性がある」(注23)ということになれば,政府がインフレ抑制に強い関心をもつ限り,政府として従前にも増して賃金交渉に干渉せざるを得なくなる-少なくともその可能性が高まろう。それはスウェーデンの労使双方にとって「伝統的」な立場を否定されることであり,重大な脅威であるに違いなかった。そうして上の「総需要と総供給のバランスがとれていても」というくだりは,賃金交渉のありように引きつけていえば,すでに指摘したパターン・セッターやその賃上げ水準といったより立ち入った問題について労使による自主的な検討が欠かせないということを意味していた。賃金交渉のマクロな基本設計だけでは不十分であって,細部設計にまで立ち入る必要があった。いまひとつ第3の文脈として,先の引用(「一国経済が国際貿易に大きく依存しているような小国」という言い回し)にもあるように,国際的に見たスウェーデン経済の基本的特性についての理解がより研ぎすまされるなかで,このEFOモデルが構想されたという点にも注目する必要がある-少なくとも,以上3つの背景と文脈に沿っていま一度レーン-メイドナー・モデルの可能性について再検討し,しかるべき補強策を掲げる必要が労使双方にあった。
図2 現代スウェーデンの賃金交渉テーブル

(注22) DACO(1931年結成)と旧TCO(37年創設)が合併していまのTCOができたのは1944年のこと,ホワイトカラーの組織体で,現在19の産業別組合を擁している。91年3月時点での組合員総数は114.5万人,民間と公共部門の構成比はちょうど半々,定期大会は4年に1回,中央執行委員会の構成メンバーは16人。傘下の最大組合はSALF(Sveriges Arbetsledareforbundet:Swedish Union of Clerical and Technical Employees)の28万人である。政党との特別の関係はない。またSACOは1947年の創設,傘下組合数は25,組合員数は33万人(うち民間部門は6.5万人),8,500人ほどの自営専門職もメンバーになっている。定期大会は4年に1回開かれている。

(注23) Edgren et al. 1973:68.

 モデルの性格-労使合作の「競争-保護」セクター・モデル

 こうして作られたEFOモデルの具体的な中身に立ち入る前に,2つの点に触れておかねばならない。1つは,「EFOモデル」という名称の由来についてである。EはEdgren,FはFaxen,OはOdhnerの頭文字であり,それぞれLOとSAF,それにTCOのエコノミストの名前である。つまりこのEFOモデルは,先のレーン-メイドナー・モデルがLOエコノミストによって単独に創案されたのとは異なって,賃金交渉の主役であるこれら3つの労使頂上団体が参加して共同で作成されたものであった。その意味で労使合作のマクロ経済モデルであった(なお,これに政府は一切関与していない)。労働組合はLOのみでなく,民間・公共部門横断的にホワイトカラーを組織するTCOが加わっていた。もう1つは,モデルの基本構造についてである。まことに興味深いことに,ノルウェーの先駆的な『Aukrust Report』(1966)にならって,このモデルでも経済セクターは厳しい国際競争にさらされている「競争セクター」(輸出産業,輸入品と競争している国内産業,造船業,木製品製造業など)と,商業や建設業,農業,サービス業さらに公共部門といった「保護(シェルター)セクター」とに2分されていた(注24)。生産高,価格,生産性,雇用,さらにそれら相互関係についてすべてこれら2つのセクターごとに分析されていた。ここにこのうえなく雄弁に,このEFOモデルの意図と背景が語られている。

(注24) このモデルは「スカンジナビアン・インフレーション・モデル」とも呼ばれる。本文中に記した報告書にもあるように,ノルウェーの経済学者Odd Aukrustがその先駆的モデルを開発した。cf.,Olsson 1990:149.

 事実発見と政策提言

 まず,いくつかの事実発見を摘出しておこう。第1に,競争セクターの賃上げ行動は1952年(レーン-メイドナー・モデルの翌年)から68年までの計測期間に関しておおむね良好なものであった。その意味で,組合による過剰な賃上げ要求という「世上の非難」は当たらない。ここで良好(原文では「メイン・コース」に沿った賃上げと表現されている)という言葉は,「長期的に見れば,競争セクター産業の賃金は生産性と価格の上昇によって画されるだろう限界を大きく上回って上昇したことはない。もしそういうことが生じれば,輸出,投資,雇用に悪影響を及ぼすことになるだろう」という理論的推論と,上記計測期間の観察結果とが基本的に一致したことを意味している。賃金要求には実質上の臨界点が存在し,それを上回る「過剰な」賃上げはかえって長期的に安定した賃金上昇を傷つけるという観念が労使双方によって共有されていた。第2に,同じ計測期間について賃金波及のメカニズムを調べてみると,競争セクター(具体的にはパターン・セッターとしての金属産業)の賃上げ結果を踏まえて,その後に保護セクターの賃金交渉が続くというパターンが確立していた。「長期にわたって,競争セクターがスウェーデンにおける賃金決定のリーダーであった」。労働市場のメカニズムと連帯主義的賃金政策の2つによって競争セクターから保護セクターへの賃金波及が生じていた。しかし重要なことに,60年代の末になるとこうした賃金波及パターンが崩れはじめた。第3に,保護セクターの賃上げで特に懸念されたのがその生産性の低さである。それがコスト上昇を招いている。第4に,政府の干渉から自由な賃金交渉という「伝統」はこの20年ほどの期間について基本的に健在であった(Edgren et al.1973: chaps.l,11,13)。
 こうした事実認識に基づいて,スウェーデン経済の長期的な安定成長にとって大切なのは次の3点であると分析された。第1に,今後とも激しい国際競争にさらされていく金属産業(競争セクターの代表)を賃上げのパターン・セッターとし,その先行基準に基づいて保護セクターへの賃金波及が生じることが望ましい。第2に,その金属産業の賃上げ水準は国際的に決定されるだろう価格上昇分プラス生産性向上分の和から長期的に大きく乖離してはならない。「過剰な」賃上げは長期的には価格上昇を招き,国際競争力,投資さらに雇用といった諸側面で悪影響をもたらすに違いない。第3に,「これまでほとんど関心が払われてこなかった」保護セクター,とりわけサービス産業における生産性向上が欠かせない。国民経済に占めるその大きな比重を考えると,「この分野での生産性向上は〔スウェーデン経済の〕安定と成長にとってきわめて重要である」-以上が,EFOモデルを提唱したEdgren et al.(1973)を貫く基本的な事実認識であり,また主張であった。
 これら3つの政策提言のうち,とりわけ重要なのは前2者である。すなわち,スウェーデン経済における賃上げ相場は厳しい国際競争にさらされている金属産業によって担われるべきだという主張,さらにその賃上げ相場は国際的な価格変動という他律的側面をカッコにくくれば,長期的に金属産業の生産性向上にリンクさせるべきだというのがこのEFOモデルのいわんとするところであった。要するに,第1にはパターン・セッターとしての金属産業,第2に生産性向上に準拠した賃上げ行動-これがこのモデルのエッセンスであった。

1.5 スウェーデン・モデルとは何か

 サルチオバーデン協定(1938),レーン-メイドナー・モデル(1951),EFOモデル(1970)についての以上のような理解を踏まえて,スウェーデン・モデルについて暫定的な定義づけを与えておこう。これら3つの協定やモデルに着目したのはほかでもない,スウェーデン・モデルはサルチオバーデン協定に端を発し,レーン-メイドナー・モデルによってその骨格を与えられ,EFOモデルによって一応の「完成」を見た,社会的パートナーシップによって支えられたマクロ経済社会運営に関する個性豊かな政策モデルと見ることができるからである。

 定義づけ

 すでにいくつか例示したように,スウェーデン・モデルを一義的に定義づけることは容易でない。そのモデルが長い時間を費やして(サルチオバーデン協定からEFOモデルまででも30年以上)形成されてきたということ,したがってその間の「変質」は避けがたいことであったし,アクセントの置きどころといい,理論的あるいは実践的な関心事といい,おのずからずれや食い違いが生じて不思議はなかった。そうした事情が大なり小なりスウェーデン・モデルの明確な定義づけの妨げとなってきたように思われる。
 とまれ,スウェーデン・モデルをここでは次のように定義する-
 強力な社会的パートナーシップ(すなわち,高い組織率と強い統率力をもった「包括的」組織としての労使頂上団体,それが構築する合意形成重視の柔軟で協調的な中央集権的労使関係,さらに「経済民主主義」の回避といった諸要素から成り立っている)に基づいて,一方では政府を巻き込みながら(政府の経済政策の眼目は「国民経済の均衡」の維持にある)広義の「積極的労働市場政策」を展開し,他方では「適切な」賃上げパターン(連帯主義的賃金政策,賃上げパターン・セッターとしての金属産業,生産性向上に準拠した賃上げ行動,国家の不介入という4つの要素から成り立っている)によって完全雇用と安定的な経済成長を達成しようとする理論的・実践的な経済社会モデル-これがスウェーデン・モデルと呼ばれるものにほかならない。したがって,このモデルを構成する最も中心的な要素を抽出すれば,強力な社会的パートナーシップ,積極的労働市場政策(広義),「適切な」賃上げパターンという3つになる。
 いくつかの補足と解説が要るかもしれない。第1に,このモデルの独特の個性という意味でいえば,肝心かなめな点は完全雇用とか安定成長とかいったその目標にあるのでもなければ,また合意形成の重視といった意思決定プロセスの性格にあるのでもない。スウェーデン・モデルの個性は,詰まるところ,強力な社会的パートナーシップに支えられた積極的労働市場政策と「適切な」賃金決定というその方法に求められるということ,これがひとつ。第2に,このモデルにおける国家あるいは政府の位置どりには微妙なものがある。労使の賃金交渉への政府の干渉はスウェーデン・モデルを否定するものと見なされている一方,政府は「国民経済の均衡」を維持すべくその経済政策を運用する主体としてモデルに組み入れられている。しかしなお,政労使3者の関係はいわば並列状に位置づけられているのではない。労使という社会的パートナーがあくまでもスウェーデン・モデルの基本的な構成主体であり,それを政府が補完するといった関係にある。冒頭でも触れたが,スウェーデン・モデルを捉えてネオ・コーポラティズムと呼ぶのが適切であるかどうかという問いかけはある程度までこの点にかかわっている(cf., Robinson 1989a:33)。LOと社民党は長期にわたって組織的な支持協力という「特定の」関係を維持してきた。したがって,その社民党が政権の座にある場合には政府とLOとの関係は一層緊密なものになる。それでも原理的にいえば,スウェーデン・モデルにおける政労使の3者関係を単純な並列関係にあるものと理解してはならない。第3に,サルチオバーデン協定に書き込まれた経営権の保証といい,賃上げ交渉への政府の介入排除といい,また積極的労働市場政策といい,スウェーデン・モデルはいわゆる「経済民主主義」に対して批判的・懐疑的であり,その意味で「自由な市場」に対してある種の思い入れをもっている。第4に,EFOモデルによってくっきりと浮き彫りされたように,大きな貿易依存度といい,高い対外エネルギー依存度といい,また金属産業の国際競争力の維持といい,それを踏まえた賃上げパターン・セッターといい賃上げ規範といい,スウェーデン・モデルにはどこかナショナリスティックな雰囲気が漂っている。コーポラティズムの生成と発展には「コミュニティ意識」が欠かせないという仮説を援用すれば,スウェーデン・モデルに漂うこうしたナショナリスティックな基本属性はこのコミュニティ意識に対応しているといってよい。第5に,そのナショナリスティックな雰囲気は労働組合までも広く包み込んでいる。繰り返し触れたように,スウェーデン・モデルにおける社会的パートナーの一方の担い手である労働組合は「包括的」な組織であって,決して「特殊利益」の組織ではない。この点,利益代表行動におけるアングロ・サクソン型とはその性格を異にしていると言わなければならない。

2 モデルと現実-崩壊への道程

 上記の定義づけを念頭において,70年代以降の経験的現実のほうに目を向けることにしよう。
 なぜ,分析の的を70年代以降の20年間に絞るのか。ひとくちでいえば,その背景と原因は一様でないにせよ,この期間を通じてスウェーデン・モデルと現実とのギャップは大きく広がり,スウェーデン・モデルの崩壊と形容して差し支えない事態が生じたからである。検証期間をこの時期に絞ることについては,ひとつの傍証としてEFOモデルに関連してすでに言及しておいた52-68年までの期間におけるスウェーデン経済の「良好な」パフォーマンスという記述を思い起こすことができよう。

2.1 社会的パートナーシップ

 スウェーデン・モデルの第1の柱である「強力な社会的パートナーシップ」という場合,それが具体的に意味しているのは,(イ)LOとSAFの排他的な代表性であり,(ロ)「包括的」組織としての協調的な行動様式であり,(ハ)中央集権的な労使関係あるいは労使交渉であり,さらに(ニ)国家干渉のブロックと経済民主主義の拒絶という「サルチオバーデンの精神」にかかわる要素であった。これら4要素のそれぞれについて何か基本的に重要な変化が生じていないか。

 排他的代表性の揺らぎ

 まず,(イ)LOとSAFの排他的な代表性についてどうか。ここで排他性という場合,その尺度は次の2つ-1つは競合組織の有無とその優劣,いま1つはこれら頂上団体の集権性についてである。いずれについても,第3の柱である「適切な」賃上げパターンについて検討する際に詳述するのがよいだろう。しかし結論を先取りしていえば,とりわけ重要な労働組合組織の排他的代表性について60年代中期までLOの排他的といってもよい優位が認められた。しかし,その後は目立ってホワイトカラー・ユニオンの発言力が増大し,LOの発言力は次第に後退していった。70年代に入るとLOとTCOやSACO/SRといった競合組合間のせめぎあいと反目が常態化し,「労働戦線の分裂」といった事態が出現した。マニュアル・ワーカーとホワイトカラー・ユニオンとの対立に加えて,民間部門と公共部門の組合間ライバルリーも増幅した。「セクター間クラッシュ」という事態が生み出された。また,後者の集権性についても類似した経緯をたどった。70年代の非公式ストの頻発と賃金ドリフト率の上昇といった動きは「賃金爆発」を誘発しただけではない。それは同時にLOやSAFの統率力の低下を物語るものでもあった。81年以降,SAFは事実上その賃金交渉イニシアティブを放棄し,分権的交渉への道が切り開かれた。
 ここでは,前者の競合組織の存在について触れておこう。いまもLOが民間部門,公共部門の別を超えて現業マニュアル・ワーカーを組織する23のメンバー組合のナショナルセンターである(注(7),参照)。このマニュアル・ワーカー組織率の長期趨勢データによれば,1910年から80年代中期までその組織率はほほ一貫して上昇し(86-87年が87%),その後緩やかに下降してきているがそれでも91年の組織率は81%であり,国際的に見ればきわめて高い水準を維持している(詳しくは,cf., Kjellberg 1990:60;1992:119)。一方,ホワイトカラーを組織しているナショナルセンターTCOおよび大学教員等を組織するSACOによるホワイトカラー組織率はこれまた長期的な増勢傾向をたどり,75年の72%から91年には80%に達している。ちなみに,年金生活者等を除く91年現在の組織人員はLOメンバー組合が合計で180万人,TCOが114万人,SACOが26万人となっている(Fact Sheets on Sweden:Labour Relation in Sweden, May 1991)。勢力の拮抗状態がうかがえる。

 「包括的」組織の協調行動-広がる隔たり

 少なくとも労働組合LOが,サルチオバーデン協定に端を発し,レーン-メイドナー・モデルを経てEFOモデルに血肉化されたような,M.オルソンのいう「包括的」組織としての性格をその身に強く帯びてきたことは言うまでもない。この点は,スウェーデン・モデルの成熟を支えてきたこれら3つの協定やモデルに言及した際に触れた。争議行為を含む労働組合の賃上げ行動が長期的に国民経済にいかなる影響を及ぼすか(その場合,賃金コスト,雇用機会,生産性,国際競争力,価格,購買力,税制,社会保障,職業訓練・移動といったものの相互関係についての理解が欠かせない),望ましい賃上げ規範とパターン,またあるべき産業労働政策とはいかなるものか-LOはスウェーデン経済社会のマクロ運営に対する強い自負心をもって,38年の「歴史的妥協」以降一貫してこうした関連の環に強い関心を注いできた。その意味で,歴史的にもまた国際的にもLOは「包括的」組織行動の格好の例証となっているように思われる(注25)。
 いまもなお,こうしたLOの基本姿勢に変化は見られない。たとえば,『将来の賃金政策』と題する91年大会に提出された文書に当たってみよう。同一労働同一賃金と賃金格差の是正というLOに伝統的な「連帯主義的」賃金政策を高々と掲げたこの文書は,一方でSAFをはじめとする使用者側の「個別賃金管理」とネオ・リベラリズムへの傾斜に強い警戒心をあらわにしながら,しかしこう記している-
 スウェーデンは貿易に多くを依存する小国である。したがってその経済発展は世界市場で他の競争国に伍してどこまで自国製品を売ることができるかにかかっている。もしスウェーデンの国際競争力を衰えないようにしようというのであれば,輸出品のコストと価格を他の競争国のそれに先んじて上昇させるようなことがあってはならない。国境を超えた資本の移動が自由になるに従って,他国と比較した場合の賃金と労働コストはますます大きな問題になるだろう。(中略)〔89年の『FOS報告』(注26)に言及しながら〕長期的には,スウェーデン経済が許容し得る以上の賃上げなど不可能なことである。そんなことをすれば,その結果はインフレと失業である。産出量が増えいなのに特定のあるグループについて賃上げを行えば,必ず他のグループがその犠牲になる。生産性の向上は一国経済の発展にとってまさに戦略的な重要性をもっている。いったい,生産性を上げるどんな方法があるのか。生産資源が高度に利用され失業率も低いスウェーデンのような国では,産業や企業の構造改革が生産性向上にとってきわめて重要である。構造的合理化は低生産部門の縮減と高生産性部門への諸資源の移動を意味する。(中略)〔人的資源についていえば〕人々の知的能力の有効活用がますます大切になっている。狭く限定された課業をできるだけ迅速にこなす労働者よりも,自らが担当する工程以上のものを理解しようとする知的でコミットメントの高い責任感をった労働者のほうがはるかに生産性が高い。〔さらに賃金配分についていえば〕大切なことは公正な賃金格差とはいかなるものかについて使用者とばかりでなく労働者間でも話し合い,一定の合意にこぎつけることである(LO 1991a:5,8-9,10)。
 細かな解説は要らないだろう。貿易立国スウェーデンへのある種のナショナリズム(あるいは「コミュニティ意識」)に裏打ちされたLOの「包括的」利害関心といい,広義の「積極的労働市場政策」といい,また「適切な」賃上げ行動に方向づけられた規範意識といい,ここには,まさにスウェーデン・モデルが鮮明に描き上げられている。もしある新しさが加わったとすれば,それは生産性向上にとって「個人」の役割がより強調されるようになったことであり,それに関連して後述の金属労組による「連帯主義的労働政策」といった観点が前面に押し出されるようになったという点だろう。実際,SAFの「個別賃金政策」に対抗してLOは-60年代から70年代前半まではわれわれの「集合的な強さ」の時代,80年代が「資本所有者と経営者の時代」であったと形容したうえで-,90年代は利己的でない知的で自立した「個人の時代」でなければならないと見ている(LO 1991b:13)。
 ちなみにこの「新味」に限定してTCOの立場に触れておけば,『われわれの知識がスウェーデンの将来を決める』と題する「90-93年・TCO運動方針」のなかで,「国際競争力はいよいよ原材料や資本,重厚長大な技術に依存する程度が低まっている。それに代わって,将来の競争力にとってより決定的になるのは個々人の知識でありまた参加である。その意味で従業員の能力開発と労働組織化の方法がいよいよ重要になるだろう」(TCO 1990:7)と記している。したがって,LOとTCOの見方はこの点で大きな違いはない。
 他方,SAFについてはどうか。スウェーデン・モデルはサルチオバーデン協定といい,またEFOモデルといい,LOとSAFの「合作」という側面をもっていた。しかし先にそのインタビュー記録を一部引用したところからも明らかなように,SAFのニールソン,オクスハマー両氏ともにスウェーデン・モデルは実質上すでに崩壊していると見なしていた。なぜ「崩壊」かという問いにはまだ答えていないが(LOからすれば,そのかなりの責任はSAFをはじめ使用者側の対応にあるということになるだろう),たとえば賃金交渉を例にとった場合,SAFがかつてのLO-SAF体制を放棄してしまったことは明らかである。その体制がそれとして機能したのは「スウェーデン・モデルの黄金時代」(Olsson 1990:27)と言われる50年代後半からの約10年でしかなかった。80年代になるとSAFは中央集権的な賃金交渉という従来路線から反転し,はっきりと分権的交渉という方向に歩み出した。そして,その後現在に至るまでのSAFの基本哲学というのであれば90年9月のSAF理事会で承認された「SAFの90年代ビジョン」という副題を掲げた『自由市場と自由選択』をひもといてみるのがよいだろう。その冒頭には次のように記されている-
 われわれはこのビジョンのなかで,個人主義化(Individualisation),分権化(Decentralisation),そして国際化(Internationalisation)という3つの発展傾向を描いている(注27)。いずれも来るべき時代の企業のありように大きな影響を及ぼすだろう条件である。
 企業の役割とは国民の求める財とサービスを提供することである。その役割が効率的に果たされるためには企業にとっての条件が整えられなければならない。SAFの役割は,大企業であれ中小企業であれ自由企業(Free Enterprise)にとって最良の条件を作り出すことである。自由市場経済,これこそ90年代の最も顕著な特徴であり,個人主義化,分権化,そして国際化の動きにもっと大きな弾みがつくだろう。生産性,適性と能力,そしてフレキシビリティ,これらがあらゆる企業の競争力に影響を与える最も重要な要因になるだろう(SAF 1990a:4-5)。
 こううたい上げた後にこの文書が掲げている「必要な変革」には,ことえば,所有権の保証と労働組合主導の「労働者基金(Employee Investment Funds:後述)」の廃止,ヨーロッパ水準への減税,公共部門の削減と民営化,政府機関と労使団体との明確な住み分け(注28),EC加盟促進,団体交渉の分権化,労働協約の簡素化(注29),争議行為規制の強化,賃金統計・調査協力の見直し,組合間「デマーケーション」紛争の抑制,労働移動の国際化,人材育成に向けた学校教育制度の見直し,さらには「カンパニー・90」(注30)プログラムなど人事・組織管理の充実強化といった項目が列挙されている。したがって,「ビジョン」の内容といい,SAFの役割認識といい,さらにこれら個別のスローガンといい,そこに浮き彫りされているのは「包括的」組織としてのSAFであるよりも,むしろネオ・リベラリズムあるいはサッチャーリズムにコミットした使用者団体のいわば反「スウェーデン・モデル」的な風貌であるといってよい。本項の副題に,「広がる隔たり」と表現したゆえんである。K.アーレンやK.キェルバーグもいうように,スウェーデン・モデルを象徴したかつてのLO-SAF体制はもはやなく(Ahlen 1989;Kjellberg 1992),上のSAFの「ビジョン」を念頭におく限り,その修復も当面ほとんど考えることができない。そうである限り,いまのLOとSAFの政策的オリエンテーションと両者の関係を指して「包括的」組織の協調行動というように表現することには大きな無理があるように思われる。冒頭に引いた最近のSAFの全国労働市場庁(AMS)からの離反に象徴されるように-それは上記のスローガンでいえば政府機関と労使団体の明確な住み分け(つまり,3者構成主義〔Tripartitism〕の否定)の格好の一例証である-,いまLOとSAFの歯車は互いにかみ合わせの悪い状態になってしまった。

(注25) Olson 1982:89-92.M.オルソンは,第2次大戦後20年ほどの西ドイツと日本の特殊利益組織の「包括的」行動と急速な経済成長の関連についても言及している。

(注26) 「FOS」がそれぞれ,F=Faxen(あのEFOモデルのFaxen氏),O=Odhner(同じくEFOモデルのOdhner氏),SはSpantというように報告書執筆者の頭文字を並べたものである。『90年代の賃金形成と経済』(1989)と題するこの報告書には,なおEFOモデルの理論と精神が脈々と息づいている。cf., LO 1991a:7-8.

(注27) 「1990-93年・TCO運動方針」を見ると,TCOが今後それに適応していくべきマクロ趨勢として「国際化」と「分権化」の2つを挙げている。SAFの基本認識との共有という点でなかなかに興味深い。cf., TCO 1990:8.

(注28) つまり,3者構成主義(Tripartitism)の否定ということにほかならない。ネオ・コーポラティズム的政権決定からの「退却」あるいは多元主義への接近のひとつの証左であるに違いない。G.レーンは最近の論文のなかで,SAFのAMSからの脱退とC.ビルト政権のこれへの同調に触れながら,「両者〔現政府とSAF〕は市場経済の名において,これまで強力な労使頂上団体が政府の協力を得て営々と築き上げてきた『ネオ・コーポラティズム』とスウェーデン社会における労働組合の影響力をともに切り崩そうとしている」(Rehn 1992:25)と書いている。

(注29) したがって,それは個別企業の労使による「ローカルな」自由裁量権の拡大につながる。

(注30) この「カンパニー・90」の中身を見てみると,たとえば顧客第一,人的資源開発による企業成長,「学習企業」と頻繁な組織内異動といったことが強調されている。cf., SAF 1990b.

 分権的労使関係に向けて-SAFの意欲と「民主化」要求

 強い社会的パートナーシップのひとつの要素として,(ハ)中央集権的な労使関係・交渉を挙げておいた。しかし,上記「ビジョン」の個別スローガン(団体交渉の分権化,労働協約の簡素化)のなかにも掲げられているように,SAFははっきりとした態度で労使関係の分権化への志向を強めている。賃金交渉について検討する際に詳しく述べるように,この10年来の動きといってよい。できるだけ「ローカル」(つまり企業レベル)での自由裁量の範囲を拡大すべく,労働協約は「簡素化」されたものであることが望ましい。微に入り細を穿った「硬直的な」協約は避けるべきだというのがSAFの基本的な考え方になっている。「労使交渉と労働協約は個々の産業や企業の必要を満たすものであって,したがって産業内でもまた産業間でもそれはバラエティに富んだものになる」(SAF 1990a:9)という見方が明確に打ち出されている。
 この分権化に関して,ホワイトカラー・ユニオンTCOの見解も見落とせない。TCOは先に引いた「90-93年運動方針」のなかで,組合運動に大きな影響を与えるだろう時代の潮流として「国際化」と「分権化」の勢い,正確にはその同時進行について言及している。「こうした発展は〔一方で〕国家の役割が部分的に分割されて中間的な地方の自律性が高まるのと並行して,他方では〔スウェーデン〕経済がますます国際的な生産と消費システムのなかに包摂されていくことを意味する。この傾向は西ヨーロッパのあらゆる地域に見いだすことができる(TCO 1990:8)。それを労使関係の場面に応用すれば,一方における超国家的(スープラナショナル)な労使関係の生成(注31)と,他方におけるナショナルな労使関係の産業・地方さらには企業レベルの分権化のシンクロナイゼーションということになる。TCOは分権化の流れを時代の趨勢と理解し,その必要を肯定的に捉えている。
 いまひとつ,こうした分権化への動きが60年代後半に「東西」(注32)の先進社会を巻き込んで展開した国際的といってよい「激しい民主化(Democratisation)の嵐」と深く通底するものであったという側面を見逃してはならない。つまり,労使関係の分権化という動きは単に使用者の一方的な思惑によって導き出されたものではなく,働く者の民主化要求と部分共鳴し,そうした共振現象をテコにして労使関係の分権化への流れが水路づけられたという側面が見落とせない。したがって一方では,次項で触れるような70年代の一連の労働立法が大なり小なりこうした民主化要求に沿ったものであったということ,他方そうした立法化が契機となって労使関係の分権化・民主化にさらなる拍車がかかったという因果連鎖(cf., ETUI 1989:34;Ahlen 1989:332-333)をそこに認めることができる。たとえていえば,ILO総会(1971)での労働者参加プログラムの採択,TCOの同種の方針確立,関連法規の立法化,ローカル組合・従業員の「参加」促進,労使関係における分権化の進展といった連鎖構造(cf., Bratt 1991:8)を観察することができる。

(注31) 最近のヨーロッパの動向については,ETUI,Newsletter, vol. 8 no. 1(March1991).

(注32) 旧「東側」世界でいえばプラハの春(1968),また「西側」世界では学生紛争とニュー・レフト,環境保護やフェミニズムなどの「新しい社会運動」がその例証となろう。

 国家干渉と経済民主主義-モデルからの重大な逸脱

 強い社会的パートナーシップというスウェーデン・モデルの大きな支柱の第4の構成要素が,かつてサルチオバーデン協定によって明示された(ニ)国家の労使関係への不介入と経済民主主義の否定という要素である。結論的にいえば,これらいずれの要素についてもこの20年ほどのうちにサルチオバーデンの精神からの重大な逸脱が生じた。
 労使関係への国家の介入という動きは,第1には60年代以降の公共部門の顕著な拡大とともに「緩やかに」進んだ。具体的には,賃金決定における公共部門の役割が大きくなるに従って(後述のようにその傾向は70年代になって顕在化した),事実上スウェーデンの労使関係に占める政府の比重も高まらざるを得なかった。第2に,第1次石油危機後の「賃金爆発」現象を背景にした政労使による74-76年の「ハガ会議」(Haga Meetings)に見られるような所得政策導入の動きが注目される(cf., Olsson 1990:33)。そこで社会民主党政権による提案が労使の「インフォーマルな合意」となった。使用者にとっても大きいメリットがある労働組合による賃金自粛,他方での所得税減税と「使用者税」の新設,こういうパッケージによる所得政策がそれであった。ちなみに,この使用者税は従業員給与総額の1%(税率は77年までに4%まで漸次上昇した)を使用者が政府に納めるもので,かなりの労働コスト増加によってスウェーデン経済の「競争」セクターの国際競争力を傷つけた。この「ハガ合意」は結局のところ労働組合側の「約束不履行」(Ahlen 1989:340)によって失敗した。しかしこうした所得政策的な対応はその後80年代になっても繰り返された。84-85年にかけての「ローゼンバット会議」(Rosenbad Meetings),89年の「ボンマースビック討議」(Bommersvik Discussions)がそれを例証する(Martin 1987:95-96;Ahlen 1989:339-342;Olsson 1990-60f.)。そしてその延長線上で,ついに91年には冒頭で触れたようなレーンブルク委員会による徹底した所得政策が実施されることになった(注33)。
 第3に,労使関係に深いかかわりのある一連の労働法規が70年代に制定された。解雇制限法(1974),労組職場代表法(1974),共同決定法(1977)といったもののほか,74年には労働安全衛生代表者の権限強化に関する法律,さらに78年には職場環境法の大幅改定も企てられた(注34)。これらの立法はそれぞれの「限界」を超えて,「『立法よりも〔労使〕協定を重視する』協調的なスウェーデン・モデルからの実質的な離反」(Kjellberg 1992:99)を意味するものであった。したがって当然のことながらサルチオバーデンの精神が無視された,あるいは「歴史的妥協」が反古にされたという使用者側からの批判が相ついだ。SAFは共同決定法を拒否,その施行は82年まで延期されたほどである。この間いかに労使の溝が深まり,スウェーデン社会が騒然たる混迷期を迎えていたかは,たとえば70年代の山猫ストの頻発,高率の賃金ドリフトを含む「賃金爆発」の発生,上記の所得政策の導入と企業に対する増税,労働コスト上昇によるスウェーデン「競争」セクターの国際競争力の衰弱,その「回復」のための70年代後半から80年代初めにかけての数度にわたる通貨クローネの大幅切り下げ(76年,77年〔2回〕,81年さらに82年に実施された),そして76年の政権交代劇(6年後の82年,社会民主党が再び政権の座に返り咲いた)-これらの一連の出来事がそれを雄弁に物語っている。こうした個々の事実はそれをスウェーデン・モデルの中心的な構成要素と見るかあるいは派生的な効果と見るかの違いはあっても,いずれも「危機に瀕するスウェーデン・モデル」という見方を支持するに足る重要な出来事であった。
 では,経済民主主義のほうはどうか。それがサルチオバーデンの精神を真っ向から否定するものであることは言うまでもない。70年代の上記のような一連の立法化戦術による労働攻勢の矛先はついに「経済民主主義」という高みにまで上り詰めた。LOは75年,いわゆる「労働者基金(Wage-Earners Funds)」の創設を提唱,以後その是非をめぐって激しい論争が展開された。使用者側からも野党からも厳しい批判の声が挙がった。最終的には,84年に5つの地方にこうした基金が設けられた。「富のより公平な分配,そして企業の投資など長期的経営戦略に対する〔労働組合の〕影響力の行使」(ETUI 1989:21)をその主たる狙いとするこの基金の運用は9人からなる理事会によって担われ,そのうち5人が労働組合代表から選ばれた。年額約20億スウェーデン・クローネが企業から集められた。具体的には,一定額以上の利潤があった場合その純利益の20%,プラス従業員給与の0.2%の金額が企業から徴収された。集められた資金は民間企業の株式証券の購入に充てられた。しかし,実際にこうした徴収が行われたのは84年から90年までの7年間であって,91年10月に発足したC.ビルト新政権は92年からは本基金の「全廃」方針を打ち出した(SAFもまた,その「90年代ビジョン」のなかでその廃止を主張していた点についてはすでに触れた)。それにしても,この基金が一時的にであれ実際に機能したことは事実であって,それが繰り返し言うようにサルチオバーデンの精神に深く抵触するものであったという点は動かない。「モデルからの重大な逸脱」と表現したゆえんである。

(注33) レーンブルクは1973-83年までAMS会長であった人物である。同委員会設置のいきさつを含めて,cf., Kjellberg 1992:114f.

(注34) これらの新労働立法については,cf., Bratt 1991, Nordin and Sydolf 1990.

 小 括

 以上,「強い社会的パートナーシップ」を構成する4つの要素のそれぞれに沿って,この20年ほどのうちにスウェーデン・モデルのいかなる変質が生じたかについて素描した。
第1に,このモデルはLO-SAF体制に支えられて成り立ってきた。しかし70年代以降,労働組合間のライバルリーの増幅によってLOの排他的代表性は大きく損なわれた。ホワイトカラー・ユニオンの拡大と発言力の強化,それとパラレルに進んだ公共部門(労組)の拡張が大きかった。組合組織率は高まったが(あるいは高水準で安定したが),それは必ずしも頂上団体の強い統率力を導き出しはしなかった。賃金交渉は80年代に入って分権化への傾斜を深め,頂上組合間の対立は激化した。
 第2に,「包括的」組織としての協調行動という点でも重要な変化が生じた。いまもなおLOはスウェーデン社会の「包括的」組織として自らの「伝統的」な政策図式に執着しているように推察される。しかし,他方のSAFは80年代を通じて次第に「個人主義化」「分権化」「国際化」という時代の新潮流にその身をゆだね,サッチャーリズムあるいはネオ・リベラリズムへの傾斜を強めていった。「包括的」組織としてよりも,むしろ使用者のための「特殊利益」団体という性格を強め,したがってまたかつてのLOとの協調体制の担い手としての性格は薄れ,たとえば賃金交渉の分権化といい,労働協約の簡素化といい,争議行為の規制強化といい,「カンパニー・90」キャンペーンといい,「個別賃金政策」といい,また民営化の促進といい,3者構成機関からの撤退といい,さらにはスウェーデン経済社会の「ヨーロッパ化」(そのためのEC加盟)といい,労働移動の国際化促進といい,この20年間を通じてLOとの政策的な距離は広がり,その溝は深まったと言わなければならない。いまやLOとSAFの政策的非対称性がくっきりと浮き彫りされたといってもよいだろう。
 第3に,詳しい経緯についてここでは立ち入らなかったが,80年代になると分権的な労使関係・賃金交渉に大きな弾みがついた。80年の「大争議」がひとつのきっかけとなり,83年が一大転機となった。行きつ戻りつしながらも次第に頂上団体の「調整」機能は衰弱し,産業別交渉が確固たる地歩を占めるようになった。ローカルな交渉にも拍車がかかった。
 しかし,こうした分権的労使関係の成熟は決して使用者(団体)の一方的な意向によって生じたものではなかった。それはまた,職場からのあるいは働く者の「民主化」を求める声に呼応した変化でもあったからである。とりわけ企業別労使関係の生成と成熟に注目するならば,70年代にスウェーデン社会で立法化された一連の労働法規の影響を見落とすことができない。労働条件ともども職場の労働者の発言力を高めようとするそれら立法措置によって企業内労使関係の成熟が促されたからである。
 第4に,労使関係に関する国家の不干渉,そして経済民主主義の否定という事柄もまたスウェーデン・モデルの大切な要素である。しかし前者については,公共部門の拡大に伴って実質上賃金交渉における政府の役割が高まったばかりでなく,70年代以降いくども繰り返された賃金自粛と減税パッケージによる所得政策導入の試みによって,さらには上でも触れた労使関係法規の立法化によって労使関係に対する政府のかかわり方はいよいよ深いものとなっていった。まさしくそこに,労使関係に関する「労使の自主管理から国家の介入へ」(Kjellberg 1992:99)という変化を看取することができる。
 もうひとつの経済民主主義の否定という基本ルールも,84年の「労働者基金」の導入によって蹂躪された。
 要するに,これら4つの観点から見る限り,スウェーデン・モデルの支柱のひとつである「強い社会的パートナーシップ」という要因は20年このかた基本的に衰弱し続けたと言われなければならない。労使頂上団体の排他的代表性は揺らぎ,その「包括的」組織としての協調行動にも大きな陰りが生じた。分権的労使関係への傾斜は深まり,労使自治と経済民主主義の否定という伝統的ルールさえ侵食されることになったからである。
 それにしても,いったいなぜこの20年ほどのうちにこうした根本的といってよい重要な変化がスウェーデン・モデルに生じたのかという大事な問いに対する回答は,賃金交渉の変質について立ち入って検討するときまで残しておくことにしよう。

2.2 積極的労働市場政策

 ところで,スウェーデン・モデルの第2の柱は積極的労働市場政策と呼ばれるものであった。もっともここで積極的労働市場政策という場合,その意味は2通りある。広義のそれと狭義の用語法である。ふつうには狭義の意味で積極的労働市場政策という言葉が使われるが,あえて広義の意味づけも付け加えたい。したがってまず,こうした用語法とその理由について多少の解説を加えておく必要があるだろう。

2つの用語法-狭義と広義

 ふつう積極的労働市場政策といえば,ここでいう狭義のそれを意味している。産業政策(いまこの表現の是非は問わない)に深いかかわりのある広義の積極的労働市場政策といった言い方があるわけではない。しかし,この後者の側面に見失われてしまうのはいかにも惜しい。確かに積極的労働市場政策といえば,変化していく労働需要のあり方に見合って労働供給を調整し,完全雇用の維持に努めるとともに生産性向上,インフレ抑制に資するといった基本的狙いをもっている。
 その場合,労働需要のありようについてどういうことが予定されていたのか。ここで思い起こしたいのが,すでにあの「福音書」(1951)のなかに登場していた次のような議論である-,すなわち,インフレ誘発的な賃上げを回避するためには,一方で「不採算部門の産業に補助金を出すようなことをしてはならない。その部門に必要なことは補助金ではなく高率を高めること」(LO 1951:96)である。他方では,連帯主義的で「穏やかな」賃金政策(さらには賃金ドリフトの抑制)によって「後ろ向き」の産業・企業を排除し,競争力に富んだ産業と企業を育成していこうという観点と主張がその当初からスウェーデン・モデルには埋め込まれていた。実際こうした見方に沿って,のちのEFOモデルでは効率に劣るサービス産業の生産性向上の必要が特筆大書されていた。そればかりではない。G.レーン自身,積極的労働市場政策については誤解が多いとしたうえで,すでに引用したように,「〔この政策は〕理論的には,労働市場の需給双方の観点を2つながら大切にしていこうとするものでした。一方でもっと生産的な産業セクターの拡大によって経済成長を達成していこう。他方ではそれに見合って労働力を再配置・再訓練していく必要があるという組み立てなんです」と語ったことからも十分うかがえるように,まさに狭義の積極的労働市場政策は労働需要サイドにかかわる積極的ないわば産業政策的な対応(それをここでは広義の積極的労働市場政策と呼んでいる)と裏表一体の関係にあると理解することができる。あえて狭義と広義の積極的労働市場政策という言い方をしたゆえんである。

 積極的労働市場政策(狭義)の後退

 まず,狭い意味で積極的労働市場政策という場合,その「積極的」(Active)とはどういう意味か。端的にいって,失業手当とか早期引退促進政策といった「消極的」(Passive)な政策メニューに対して,労働供給のありようをできるだけその時々の労働需要に見合ったものに調整していく,あるいは積極的にとりわけ障害者等に対して雇用機会を創出していくといった攻めの姿勢を指して「積極的」という表現を用いている。具体的には職業カウンセリングや職業紹介,職業訓練・リハビリや労働者の地理的移動促進(手当支給),障害者等に対する雇用創出政策といったものが含まれる。この政策の主たる担い手であるAMS(全国労働市場庁:Arbetsmarknadstyrelsen)が分析している労働市場政策の「積極性」に関する国際比較データによれば,スウェーデンではいまでも労働市場政策関連予算の約7割がこの積極的労働市場政策に注がれており(残りの3割は失業給付),その比率はヨーロッパ各国中でも目立って高い(AMS 1991:16,Korpi 1990:9)。ちなみにこうした考え方とその政策メニューのいくつかは第2次大戦後に新たに開発されたものではなく,今世紀初頭にまでさかのぼることができる(Robinson 1989a:9)。こうした攻めの労働市場政策が機能する限り,景気動向といったものをカッコにくくっていえば失業は減少することが期待されている。
 ところで,この狭義の積極的労働市場政策はいまなお基本的に堅持されているとはいえ(下平1989参照),第1に,労働市場政策関連予算の支出実態を見てみると,この20年ほどの間に失業給付が目立って増大したことが知られる。すなわち,1972-73年の失業給付(「消極的」労働市場政策を代表する)は労働市場政策予算の11%を占めるにすぎなかったが,10年後の83-84年には実に29%にまで急膨張した。1988-89年でも29.4%という水準にとどまっている(Jangenas 1985:36,SAF 1990b)。それと並行して,失業者のための「リリーフ・ワーク」や障害者のための雇用創出(いずれも「積極的」労働市場政策にくくられる)への支出が減少した。したがってひと言でいえば,1970年代以降「消極的」労働市場政策の比重が目立って高まったということができる。
 第2に,積極的労働市場政策の担い手である全国労働市場庁は-その下部機関には24のCountry Labour Boards〔AMSの地方機関〕,360のEmployment Offices〔職業安定所〕,さらに120のEmployability Institutes〔職業リハビリテーション・カウンセリングがその中心的機能〕が設けられている-政労使の3者構成機関として運営されてきた。ところが冒頭にも記したように,92年1月,SAFはこのAMSから「撤退」した。その背景には,3者構成主義(Tripartitism)の否定,失業給付水準の切り下げ(注35),民間職業紹介サービス業の認可(SAF 1990a,1990b)といった政策思想や要求がある。もちろん,このSAFの撤退はそれだけで直ちに積極的労働市場政策の終焉を意味しない。しかし,それがスウェーデン・モデルを貫いてきた合意形成重視の協調的な社会的パートナーシップを大きく傷つけたばかりでなく,すでに触れたようにSAFのネオ・リベラリズムへの傾斜を物語ってもいる。ということになれば,それだけ積極的労働市場政策の内容とも衝突する可能性が出てくるだろう。
 第3に,あるいはその「衝突」の一事例といった言い方もできようが,90年代の人的資源管理(HRM)と開発をめぐってSAFは「カンパニー・90」といったキャンペーンを展開して企業内における人的資源管理の必要を強調する一方,それと併せて学校制度の見直し(注36)等について強い関心を示している。このうち前者に絞って言えば,SAFの企業調査によると,スウェーデン企業は「90年代の人事戦略」として高齢者の再雇用や職業能力の再開発,工業労働分野における女性雇用の促進(戦力化),移民労働力の積極的活用(注37)といった事柄に強い意欲を見せており,SAFはその線に沿ったマクロな政策対応の必要を繰り返し主張している(SAF 1990b)。そのなかには民間職業紹介サービス業の認可を含むもっと「柔軟な」採用政策の必要,社会保障(特に引退促進的な公的年金の修正),労働時間や外国人就労に関する「硬直的」法制の見直しといった項目と併せて,たとえば従業員の定着率の向上,その方法でもある内部労働市場における「労働交換」(Labour Exchange:配転や昇進)の促進,作業環境や職場の人間関係の改善さらにはOJTの充実,組織の柔軟化,内部市場での計画的キャリア開発など,ひとくちでいえば「積極的」人材開発政策(‘Active’ Personnel Development Policy)の必要を強く訴えている。すでに言及した積極的労働市場政策(狭義)と比較してみて,こうした個別政策の内容(その隔たり)もさることながら「外部労働市場から内部労働市場へ」という使用者側の関心の移行が目に止まる。こうした変化が労使関係の分権化という既述の動きとパラレルなものであることは言うまでもない。
 第4に,その主たる原因を積極的労働市場政策(その失敗)に求めることはできないにせよ,90年代に入って,第2次大戦後,いなスウェーデン・モデルの提唱以降まったく例を見ないほどに失業率が著しく高まりを見せている。この点も見落とせない。AMSでインタビューしたG.ファラゴ(Gabor Farago)氏は「政府予測では失業率は93年あたりでピークに達するだろう。91年は2.7%だったが,この〔92年〕2月にはすでに4%水準を突破した。もっと上がるのではないか」と語った。事実,92年8月の失業率は5.6%を記録した。そして9月には,野党である社会民主党を含めた「緊急経済パッケージ」(注38)が2度にわたって発表された(社会民主党が保守政党と政策合意するといったことはスウェーデン政治史上まさに画期的な出来事である)。『フィナンシャル・タイムズ』紙は「いまや,スウェーデンは失業のモデル国」(Financial Times, 15 April 1992)とまで言い放った。確かにいま,スウェーデン経済社会は大きな乱気流のなかにある。

(注35) 失業期間が長期化した場合,その失業給付水準を現行の直前収入の90%保障(あるいは,91年の場合には日額最高543スウェーデン・クローネ)から75%保障に切り下げる必要があるとSAFは訴えている。cf., The Swedish Institute, Swedish Labor Market Policy:Fact Sheets on Sweden, August 1991, SAF, 1990b.

(注36) たとえば就学年齢の早期化,学生・親による進学校および教育カリキュラム選択に関する自由保障などが掲げられている。cf., SAF 1990a,1990b.

(注37) 1967年以降,スウェーデンで働きたいと思う外国人は北欧諸国からの場合を除いてすべて事前に就労ビザを取得しなければならないことになった。70年代初頭になると,非北欧諸国からの移民労働者の流入は事実上停止された。しかしそれに代わって今度は難民や家族呼び寄せによる外国人流入が増えはじめた。80年代中期にはその年間人数は3万人にのぼった。とまれ,いまも移民労働者の受け入れについてスウェーデン政府は厳しい制限を設けている。といって,スウェーデンは「出稼ぎ労働」政策をとっているわけではない。cf., The Swedish Institute, Immigrants in Sweden:Fact Sheets on Sweden, August 1990.

(注38) 1992年9月20日(第1弾),9月30日(第2弾)の2回にわたって,ビル政権は野党の社会民主党と共同で「緊急経済パッケージ」を発表した。第1弾の主たる内容は児童手当引き上げの延期,年金支給開始年齢の引き上げ(現行の65歳から3カ月ずつ繰り下げて66歳とする),年金額の一律2%カット(93年1月から実施),病休手当の大幅引き下げ(1~3日について現行の65%保障をゼロとする措置など),疾病保険・労災保険運用の労使移管,防衛費・対外援助費の削減,他方では,石油税・タバコ税の引き上げ,所得税課税分岐点の引き上げ延期,キャピタルゲイン課税の引き下げ延期などの増税措置が含まれた。また第2弾には,全額事業主負担となっている使用者負担金(社会保険料に相当する)を現行の34.8%から30.5%に引き下げること,法定有給休暇の2日削減(現行27日が25日になる),所得税の基礎控除の圧縮,サービス関連間接税の引き上げなどが含まれる。この第2弾の眼目は使用者負担金の削減にあった。

 「広義の」積極的労働市場政策の帰趨-風化の軌跡

 では,もうひとつの広義の積極的労働市場政策のほうはどうか。この点に関してまず注目すべきは次の3つの出来事である。第1に60年代にまでさかのぼることのできる公共部門の奇形なまでの肥大化現象,第2に70年代の「賃金爆発」による(そしてそれ以降も収まらなかった)賃金コスト上昇によるスウェーデン製造業の国際競争力の衰弱,第3に70年代から80年代にかけて行われた一連の通貨切り下げ政策の負の効果についてである。
 これらのうち,第1の公共部門の肥大化は完全雇用の維持と福祉国家の成熟(福祉と教育水準の高度化)といういずれ劣らぬ大義名文の下に生じた事態であった。1965年から89年までの4半世紀のうちに公共部門の雇用は77万人から164万人に膨張し(2.1倍),民間部門のそれは293万人から282万人に(0.96倍)微減した。したがって現在の官民雇用比率はラフにいって4対6といった割合になるが,OECD24カ国中これほどの高率の公共部門を抱える国はほかに例がない。この動きと並行して女性の雇用機会さらにはパートタイム雇用の拡大も見られ,それが今日のスウェーデン労働市場の顕著な特徴のひとつとなっている。こういった公共部門の急激な拡大に伴って,GDPに占める公共支出が目立って増加したことは言うまでもない。1965年に36.2%であったものが90年には61.4%にまで激増した。文脈上大切な点は,EFOモデルによる限り,こうした公共部門の急膨張が「保護」セクターの肥大化を意味するという点であろう。それは51年の「福音書」に掲げられていた市場競争重視の産業政策,生産的な産業セクターの拡大といったシナリオと看過することのできないずれを見せている。ちなみに,C.ビルト新政権はこうした肥大化した公共部門の「民営化」に強い意欲を見せているが(35の国営企業の民営化構想),しかしその実行はなお今後の課題として残されている。
 第2に,広義の積極的労働政策という観点に照らして,70年代を通じて(そしてそれ以降も)スウェーデン製造業の国際競争力が衰えていったという点が見逃せない。70年代前半のインフレ率と単位労働コスト上昇率はそれぞれ8.0%,8.7%であったが,70年代後半には10.5%,11.0%にまで上昇した。それと並行して,OECD平均に比べてスウェーデンの工業生産指数は75年を境にして大きく鈍化しはじめ,80年代前半には逆に下降,ようやく80年代後半になって緩やかに上向きはじめた。それでもスウェーデンの工業生産指数はOECD平均の伸びに比べてかえって水を開けられ,その格差がいまも拡大し続けている(具体的な指数でいうと,それぞれ1960年=100とした場合,OECD平均とスウェーデンの工業生産指数は1970年が178:175,75年が198:200,しかし80年には243:196,さらに90年では311:236というように大きな格差がついている)。また製造業の労働生産性伸び率で見ても,75年以降スウェーデンは11の競争国(アメリカやドイツ,日本を含む)に比べて次第に大きな格差をつけられることになった(cf., SAF 1991:40-41)。その限り,スウェーデン経済における「国内製造業の衰退(Deindustrialization)」プロセスが進んでいると見なければならない。これもまた,スウェーデン・モデルの筋書きとは異なっている。
 第3に,76年に社民党の44年間にわたる長期政権の後を襲った新政権は一連のクローネ切り下げを断行した。82年の通貨切り下げ(それは再び政権に復帰した社会民主党によって行われた)まで入れれば実に前後5回にもわたる大きな企てであった。81年の切り下げ率は10%,翌82年には16%もの大幅なディバリュエーションが行われた。しかしそれらが何をもたらしたか,これが問題である(注39)。結論的にいえば,1つには短期的な景気浮揚による経済ブームの出現,それによるインフレと労働力不足,それが引き金となった賃上げといった悪循環が生じた。これがひとつ。もう1つは,経済ブームによって企業側の「合理化」プレッシャーが削減され,かえって技術革新と産業イノベーションの道がふさがれる結果になってしまった。そのいずれもが広義の積極的労働市場政策,ひいてはスウェーデン・モデルにとって負の効果をもつものであったことは言うまでもない。

(注39) 92年3月20日のSAFエコノミスト,B.オクスハマー氏とのインタビュー記録による。いまではこの苦い経験のことを「82年の失敗」と呼んでいる。

 「積極的」産業政策とは

 このように見てくると,改めて次のような疑問が脳裏を過ぎる。確かに上で述べたように,積極的労働市場政策というものには狭義のそれに吸収し切れない大事な要素が付着していた。保護主義的産業政策の否定といい反ラッダイツといい,市場経済重視といいスウェーデン製造業の国際競争強化といい,労働需要サイドに関するあの規範的イメージを抽出することができる。
 しかし,果たしてそれは産業政策と呼び得るものだろうか。この点,結論的にいえることは,たとえば生産性上昇率に見合った賃上げとか,積極的労働市場政策(狭義)とか連帯主義的賃金政策,さらには保護主義的政策の回避とか企業の過剰な内部留保を避ける税制といった諸手段を通じて,いわば結果として競争力に富んだ産業・企業の存続と発展を促すということであって,そのための直接的な産業政策といったものはほとんど見当たらない。強いて何らかの産業政策的な施策を挙げるとすれば,70年代後半から80年代初頭にかけて非社民党政権によって行われた「危機救済のための補助金行政」(強いていえば,「消極的」産業政策)といったものを指摘することができるだろう。これは造船,鉄鋼,紙・パルプ,繊維産業など当時「破産に瀕していた大企業」に対して,こうした産業での大量解雇を避けるため当該の地方公共団体,使用者団体さらに労働組合が一致して政府に緊急の救済策を迫ったケースである。それが膨大な政府支出(注40)となり,82年に再登場した社民党政権は財政再建のためこうした施策を廃棄した。興味あることに,こうした救済策の発動と並行して,文字どおりの積極的労働市場政策(狭義)が産業省さらに労使団体の支援によって行われもした。「76-80年に実施されたこうした救済策は産業省の後押しで行われたものであって,労働市場庁はまったく関係しなかった。それでもいくつかの事例の場合には,労使双方の頂上・地方団体が深くかかわって企業の余剰労働力を他の新たに雇用機会が広がりつつあった企業に移動させるといった仕事に携わった」(Rehn1992:10)。
 要するに,スウェーデンに関して「積極的」産業政策といった言葉づかいをするのはややミスリーディングであるといってよい。確かにSAFのB.オクスハマー氏がインタビューのなかで語ったように,「社会民主党はいつだって『強い産業を!』と言ってきた。そのことは,スウェーデンのような小国が国際的にかなりの競争力をもった大企業,VolvoとかSaabとかいった大企業をもっていることと関連がある」としても,しかしスウェーデン・モデルが内在的に積極的労働市場政策に匹敵するようなものとして固有の「積極的」産業政策を想定することには大きな困難がある。むしろ,そういったものの不在がスウェーデン・モデルの注目すべき特徴のひとつであるということができよう。

(注40) 70年代末から80年代初頭にかけて,ごく一時的にではあったが政府の「臨時産業政策」支出は労働市場政策関連費用の3分の1から2分の1相当の膨大な金額に達したことがある。cf., Rehn 1992:6f; Johannesson 1991:7.

 小 括

 スウェーデン・モデルの第2の柱は積極的労働市場政策であった。ここでは,それを狭義と広義に分けて検討した。その結論としておおよそ次のようにいうことができよう。
 第1に,いまも積極的労働市場政策(狭義)という基本的な考え方が放棄されたわけではない。その意味で,それはなお基本的に健在である。しかし20年このかた,「消極的」労働市場政策にくくられる予算執行の比重が次第に高まりを見せた。それに加えて,80年代から90年代にかけてスウェーデンの使用者(団体)の政策思想に重要な変化が生じた。完全雇用という考え方まですっかり投げ捨ててしまったわけではないが,肥大化した福祉国家の大幅修正という方針と併せて従前の労働市場政策の「硬直性」に対する批判を募らせた。また,積極的労働市場政策(狭義)の関心が外部労働市場に向けられてきたの対して,SAFは内部労働市場における人的資源開発あるいは「内部交換」への関心を研ぎすませている。さらに,この政策はこれまで政労使の3者構成機関であるAMSによって担われてきたが,92年1月になってSAFはこの全国労働市場庁から撤退した。
 90年代にかかる頃から,失業率はインフレ率ともども目立って高まりはじめた。スウェーデン・モデルはかつての面目を失った。
 第2に,広義の積極的労働市場政策と呼んだものも70年代を通じて大きく揺らいだ。その端緒を60年代にまでさかのぼることのできるスウェーデン経済における公共部門の奇形なまでの肥大化は,定義上「保護」セクターの比重をいやがうえにも高めることになった。また,70年代中期の「賃金爆発」現象を契機にスウェーデン製造業の生産指数は低迷しはじめ,工業生産性の伸び率でもOECD平均に大きく水を開けられる結果になった。ひとくちでいえば,この20年ほどの間スウェーデン製造業(とりわけ金属産業)の国際競争力は衰えた。さらに,70年代後半から80年代初めにかけて繰り返されたクローネの切り下げ政策は一時的な経済ブームを巻き起こし,その結果一方ではインフレを昴進させ,労働力不足を助長し,労働コストを高めることになった。そればかりでなく,他方ではその経済ブームが災いして企業の経営革新へのインセンティブも大きくそがれた。10年の歳月を隔てて再び通貨切り下げに踏み切ったいま,「82年の失敗」と言われるゆえんである。
 第3に,狭義の積極的労働市場政策にはそれと裏腹で広義のそれが予定されていた。その産業政策的要素をここでは広義の積極的労働市場政策と呼んだ。しかしスウェーデン・モデルに内在的な固有の産業政策メニューがあったというわけではない。むしろ,それが欠けていたところにマクロ経済社会モデルとしてのスウェーデン・モデルのひとつの特徴があるとさえいうことができる。
 いずれにせよ,この積極的労働市場政策もまた先の社会的パートナーシップ同様,狭義のそれであれ広義のそれであれ,この20年ほどのうちに衰退過程をたどって今日に至ったということができる。そしてこれら社会的パートナーシップといい,積極的労働市場政策といい,それらが抱えた困難は大なり小なり,スウェーデン・モデルが予定していた賃金決定パターンの崩壊プロセスと内在的関連をもっていた。そこで節を改めて,この賃金決定メカニズムの変容について考えてみよう。

2.3 賃金決定パターン

 スウェーデン・モデル,もう少し広くとればネオ・コーポラティズムの実践的担い手がその資本主義経済の最も基礎的な利益媒介主体である労使頂上団体であること,それが切り結ぶ関係が労使関係であること,そしてその最も重要な案件が賃金交渉であること-これらの点について疑問の余地はない。したがってスウェーデン・モデルさらにはネオ・コーポラティズムの理解にとって,賃金交渉に関する立ち入った検討は隅の首石的な位置を占めている。
 ところで,モデルを定義づける際にも言及したように,賃金決定パターンという場合にここで意味しているのは第1に中央集権的な賃金交渉であり,第2に連帯主義的賃金政策や賃上げパターン・セッターとしての金属産業,生産性上昇率に準拠した賃上げ,さらには賃金ドリフトの抑制といった一群の賃上げに関する規範であり,第3に国家の賃上げ交渉への不介入という原則である。しかしこれら個別項目の検討に先立っていくつか基本的な事柄に触れておく必要がある。

 いくつかの画期-分権から集権へ,そして集権から分権へ

 スウェーデンの賃金決定に関するこれまでの研究-たとえばEdgren et al.(1973〔1970〕),Lash(1985),Burns and Olsson(1986),Ahlen(1989),Elster(1989),Olsson(1990),Hibbs(1991),Kjellberg(1992),それにSAFのニールソンをはじめとする一連のインタビュー記録を総合してみると,スウェーデンにおける賃金交渉にはおよそ次のようないくつかの画期を認めることができる。
 <1>産業別交渉が中心であった1930年代から第2次大戦後の56年まで(41年から56年をひとつの時代に区分する試み(注41)もある),<2>「スウェーデン・モデルが大きく花開いた」(注42)1957年から65年までの「黄金時代」,<3>頂上交渉の水平的分裂が生じた66年から73年まで,<4>その水平的分裂がさらに進んだ74年から82年,<5>垂直的分権化の動きが決定的となった83年から90年まで,そして<6>91年以降-という時代区分である。しかしもっと大括りにすれば,このうち<2>から<4>まで(つまり,1957年から82年までの4半世紀)をひとつにまとめて「中央集権的」交渉の時代ということができる。それが83年以降大きく崩れ(その意味でスウェーデン・モデルは「崩壊」し),91年のレーンブルク委員会によってスウェーデン・モデルの基本精神に反する形で(つまり所得政策の発動によって)再度集権化されることになった。したがって大きな屈折点という意味では,1956-57年,82-83年という2つの時点に注目する必要がある。
 これだけの簡単を時代区分からだけでも,上の「賃金決定パターン」の第1の構成要素である中央集権的賃金交渉について,それは50年代の後半から約4半世紀にわたって存続したが,80年代初頭からこの10年ほどのうちに「崩壊」し分権化の道を歩むことになったということができる。

(注41) cf., Elster 1989:114.

(注42) Asbage 1986:118.

 「黄金時代」の賃金交渉とその揺らぎ-各期の特徴づけ

 上の<1>について細かく述べる必要はないだろうが,戦時期と52年を除くこの時代の賃金交渉の主体は産業別組合とそのローカル組織であった。1931年以降は,「インフォーマルなルール」(Olsson1990:25)ではあってもLOの最大かつ最強の金属労組(Svenska Metallindustriarbetareforbundet)がパターン・セッターとなって賃金交渉をリードするという慣行が出来上がっていた。「すべて産業別全国組合(National Union)が自ら交渉を行ったが,LO最大の金属労組から始めるというルールができていた。金属産業で協定が結ばれると,それがLO内外の他のすべてのグループに対する大きな規範となった」(Edgren et al.1973〔1970〕:52)。
 LOが賃金交渉の産業間調整に乗り出したのは規定上41年(同年の規約改定についてはすでに述べた)以降のことであるが(Elster1989:114),第2次大戦後についていえば,52年の賃金交渉に際してLOは戦後はじめて賃金「調整」行動に乗り出した。それは朝鮮戦争特需による大きな賃金ドリフトの発生と価格上昇に対する緊急避難的な対応であった(Edgren et al.1973〔1970〕:53)。金属労組と建設労組などの有力組合はそうした動きに懐疑的であったが,SAFは中央集権的交渉を強く希望した。
 LOとSAFによる本格的な集権的賃金交渉が始まったのは57年以後のことである。それからおよそ10年ほどの<2>「スウェーデン・モデルの黄金時代」の賃金交渉パターンをデッサンしてみると,およそ次のようになる-労使頂上団体LOとSAFは他のいかなる組織よりも早く交渉に入る。3月から4月にかけてその交渉が妥結する。その後すぐに他の交渉が始まる。LOとSAFの中央協定が〔賃金交渉の〕出発点であり,また〔賃上げ〕規範になる」(Olsson1990:27)。その効力はLO傘下組合のみならず,広くホワイトカラー・ユニオンであるTCOにも及んだ(TCOがLOから独自に交渉しはじめるのは<3>の66年以降のことである)。もっとも,この中央交渉はあくまで「アド・ホック」なものとしてスタートした。したがって,その都度LOは傘下組合から「先行交渉」についての承諾を得なければならなかったし,中央交渉の手続きについてそれを制度化する意図のないことも併せて明らかにしなければならなかった。それでもこの先行交渉が度重なるにつれて,次第にLOとSAFの中央交渉はそれぞれの傘下労使団体に対する「勧告」という性格を帯びるようになった(Edgren et al.1973〔1970〕:53-54)。民間の金属産業の現業労働者の賃上げ相場というものに準拠した,LOとSAFによる一種の「枠組み協定(Framework Agreement)」ということになる(注43)。もう一点見逃せないのが,この「黄金時代」においてさえ,あの「福音書」が懸念していた大幅な賃金ドリフトが生じていたということである。それは中央交渉の観点からすれば到底「認めがたい」(中央レベルでの「公式」の賃金協定に対する)上乗せ部分に違いなかった。そうした賃金ドリフトは産業レベルのみならず企業レベルにおいても生じていた。そのドリフト率は大幅で「中央交渉の妥結率(Formal Contract Increase)に匹敵するほどのものであった。(中略)ブランチ〔産業〕やローカル〔企業〕の組合は中央協定(Central Agreement)など考えずに『非公認(Unauthorized)』の賃上げ-伝統的な賃金交渉を維持すべきだという組合員からの圧力の下で-を求めて交渉に臨んだ。経営者のほうも,ローカルな組合とのトラブルを恐れて,あるいはより適切な賃金構造のためにしばしばこうした要求に応じた」(Olsson1990)。多くの経営者には,より良質な労働力を確保したい,生産性向上のインセンティブにしたいといった思惑も働いていた(cf.,Burns and Olsson 1986)。そのため,SAFは経営者団体や個々の経営者に対してもよく「調整」したが,賃金ドリフトの発生を抑えることはできなかった。以上要するに,この「黄金時代」には,第1に民間の金属産業労使が実質上大きな影響力をもった形でLOとSAFによる中央賃金交渉のヘゲモニーが確立し,したがってホワイトカラーおよび公共部門の賃金交渉はそれに先行するLO-SAF中央協定を唯一の準拠枠としてその後に続くという構造が生まれた。しかし第2に,LOとSAFによる中央賃金交渉が妥結した後に行われたのは,ホワイトカラーや公共部門の賃金交渉に限らなかった。というのも,LOやSAF傘下の産業労使さらには個別企業の労使が「非公認」の上乗せ交渉を行っていたからである。それが大幅な賃金ドリフトを発生させた。そのドリフト率はのちに詳しく触れるように,中央交渉による「公式」の賃上げ率に匹敵するほどのものであった。
 ひとつの転機が66年に訪れた。この年,国家・地方公務員に交渉権と争議権が与えられた。教員は早速にもその力を行使して高い賃上げを勝ち取った。その動きは「LO-SAFヘゲモニーの後退」(Olsson1990:40)を象徴するものであった。66年交渉におけるホワイトカラー・セクターの大幅賃上げ(LO労働者の3年間で12%という賃上げに対して,ホワイトカラー組合員の3年間で18-20%という大きな格差)はLOへの挑戦であった。賃金ドリフトをめぐる対立(工場合理化の恩恵をなぜホワイトカラーも享受できるのかというマニュアル・ワーカーの反発と両者の抗争),および66年以降82年まで続いた「賃上げ補填補償(Fortjanstutvecklingsgaranti:Wage Development Guarantee)」に関する中央交渉も見逃せない(注44)。といっても,中央賃金交渉というパターンそのものが崩れたわけではない。しかしそれまでくすぶっていた賃金交渉をめぐる頂上労組間の「水平的分裂」が明確になった。ひと言でいえば,LOが代表する民間マニュアル・ワーカーとホワイトカラーの利害衝突,さらに民間部門と公共部門との確執が浮き彫りにされた。「セクター間クラッシュ」(注45)が明らかとなり,その亀裂に沿ってユニオン・ライバルリーも一挙に顕在化した。そうしてその延長線上で69年に2つの重要な出来事が起こった。その1つはホワイトカラー組合であるSIF(Svenska Industritjanstemannaforbundet; Union of Clerical and Technical Employees in Industry)とフォアマンの組合SALFそれにCF(Civilingenjorsforbundet)の3組合がはじめてPTK(Privattjanstemannakartelln)という民間ホワイトカラーのための賃金交渉カルテルを組織し(その公式化は73年),以後現在に至るまでLOとは別個に民間ホワイトカラー独自の賃金交渉テーブルを構築することになった(図2)。頂上労組間の「水平的分裂」と表現したゆえんである。もう1つは,この年はじめてこれら民間ホワイトカラー労組が金属労組に先立って賃金協定を結んだ。こうした結果になったのはLOとSAFが交渉と妥結の「タイミングと内容を中央政府や地方自治体での交渉と調整するため」(Edgren et al.1973〔1970〕:56)であったが,まったく前例のない画期的な出来事に違いなかった。
図2 現代スウェーデンの賃金交渉テーブル
 このように,この<3>の時期にホワイトカラーと「保護」セクターにほかならない公共部門の賃金交渉力が一挙に高まるという形でそれまでのLO-SAFヘゲモニーにひび割れが生じ,これと並列してPTK-SAFという民間ホワイトカラーの中央賃金交渉テーブルが出現した。端的にいってこの60年代後半は,スウェーデンにおける「福祉国家」(完全雇用の維持と社会保障・福祉政策の充実)の成熟とそれに触発された多元的な「セクター間の利害衝突」をその背景としてユニオン・ライバルリーが一挙に噴出した時代であった。LOヘゲモニーの揺らぎといい,労組間の確執による賃上げ競争といい,「福音書」の観点から見れば,それらは規範的に見て決して望ましい事態ではなかった。だからこそ,LOは賃金交渉におけるそのリーダーシップの再構築を賭けて,またSAFは賃金抑制と典型的な「競争」セクターである金属産業の国際競争力の確保をめざして「EFOグループ」の設置に動いたのであった。その成果が「EFOモデル」であったことは言うまでもない。その意味で,このEFOモデルはスウェーデン・モデルの危機の産物であったと見ることができる。
 とまれ,果たしてこのEFOモデルをどこまで実現し得たのか,この点にかかわるここ20年ほどのスウェーデン賃金交渉の変貌ぶりについては-第1次石油危機後さらにLO-SAF体制の衰弱が進み,80年の「大争議」を経てついに83年以降は中央集権的な賃金交渉そのものが崩壊していくのであるが-さらに立ち入って検討してみなければならない。

(注43) LO-SAF中央協定はこの中央交渉に参加した労組(参加するかどうかは労組の自由選択),使用者団体に対して一定の拘束力をもった。他方,PTKとSAFによる協定はそうした拘束力のない「勧告」にとどまった。cf., ETUI 1989:36.

(注44) 詳しくは,cf.,Olsson 1990:64f.

(注45) この「セクター間クラッシュ」については,cf., Schmitter 1990:30.

 連帯主義的賃金政策-協定賃金格差縮小のアイロニー

 こうして60年代後期には,すでにスウェーデン・モデル「崩壊」の兆しが見え隠れしていた。ホワイトカラーおよび公共部門の拡大が見られ,ユニオン・ライバルリーが噴出したからである。スウェーデン・モデルがそこに依拠したLO-SAFヘゲモニーは大きく揺らぎはじめていた。そうしてそのひとつの現れ方が賃金ドリフトであり「賃上げ補填保障」協定にほかならない。スウェーデン・モデルの「黄金時代」にさえ抑制し切れなかった賃金ドリフトは,LOの「連帯主義的賃金政策」と内在的な結びつきをもっていた。なぜなら,大きな賃金ドリフトは中央集権的な賃金交渉を実質上空洞化させるばかりではない。もし高収益の産業や企業でフォーマルな賃上げ協定を上回って高い賃金が支払われれば,一方で「同一労働同一賃金」の原則が踏みにじられ,他方では産業横断的に「底辺グループ」の賃金水準を引き上げるという連帯主義的賃金政策が大きく傷つけられることになるからである。もうひとつの「賃上げ補填保障」についても同様なことがいえる。それは,マニュアル・ワーカーとホワイトカラーの賃金格差縮小を妨げる役割をもっていた。
 では,いったいフォーマルな賃上げによって賃金格差はどこまで縮小したのか。仮に縮めたとしても賃金ドリフトがその「表面的」な縮小を相殺することはなかったか。TCOはじめホワイトカラー組合はこの動きにどう対処したか。そもそもLOの連帯主義的賃金政策はどの程度に支持されていたのか-こういった点が気にかかる。
 そこでまず,連帯主義的賃金政策を高々と掲げた(いまもこの点に変わりはない)LO傘下のマニュアル・ワーカーについて賃金格差の縮小が見られたかどうかについて見てみよう。次の図3によれば,65年から76年にかけて-まことに皮肉なことに,まさにLO-SAFヘゲモニーが失われてスウェーデン・モデルが崩れはじめたときに-,LO傘下の各協定間でマニュアル・ワーカーの賃金格差は目立って縮小した。賃金格差に関するある周到な分析によれば,50年代においては類似した仕事や同一カテゴリーの労働者間における賃金格差縮小に力点がおかれたが(したがって,その「賃金政策は市場条件とよく合致するものであった」と記されている),60年代後半になると「協定された最低賃金が目立って高額になり,それとほぼ時期を同じくして『賃上げ補填保障』が導入された。69年には『平等化補填(Equalization Supplement)』まで入り,その後の協定は『オーレ政策(Ore Policy)』というパターンをとることになった」(Jonsson and Siven1986:12)。ホワイトカラーについてもその賃金格差の縮小幅こそ図3のケースに劣るが,それでも基本的な趨勢は酷似している(cf., Jonsson and Siven1986:12-13)。このように,マニュアル・ワーカー内部においてもまたホワイトカラー内部でもその賃金格差はそれぞれに縮小した。しかし,それはマニュアル・ワーカーとホワイトカラーの賃金格差の縮小と同義ではない。両者の差は,その協定賃上げの平均値において70年代以降も縮まることはなかった(Jonsson and Siven1986:14)。ホワイトカラー労組の増大と交渉力の高まり,そのひとつの証左でもある「賃上げ補填保障」(注46)の普遍化といった力が大きく働いたからである。
図3 マニュアル・ワーカーの賃金格差の縮小(1959-85;LO-SAF協定ブロック)
 こうして,60年代中期からの10年ほどの間にLOの連帯主義的賃金政策はある程度まで実現された。しかし上記のように,まさにその時期はスウェーデン・モデルが崩れはじめた時期でもあった。大切な点は,一方での連帯主義的賃金政策の「成功」と他方でのスウェーデン・モデルの「崩壊」プロセスの進行が偶然の一致ではなかったということである。連帯主義的賃金政策の「成功」は協約最低賃金の大幅な上昇(注47)を伴うものであった。マニュアル・ワーカーとホワイトカラー相互の賃金格差は基本的に保たれたまま(その背後にはホワイトカラー・公共部門の強大化とユニオン・ライバルリーがあった),しかしそれぞれその内部では賃金格差の縮小が見られた。それはいやがうえにも賃金コストの上昇をもたらし,70年代に入って「賃金爆発」を誘発した。インフレは昂進し労働コストはかさみ,スウェーデン製造業の国際競争力はこの時期目立って低下した。そればかりではない。さらに,それは74年に始まるハガ会議に代表される所得政策(それはスウェーデン・モデルと相容れない)の発動に絶好の口実を与えることになった。ひとことでいえば,連帯主義的賃金政策の「成功」がスウェーデン・モデルの自壊につながった。歴史のアイロニーというほかはない。

(注46) この賃上げ補填保障(賃上げスライド保障)は,低賃金のマニュアル・ワーカー層の連帯主義的賃上げ政策にも使われた。高賃金セクターで生じがちな賃金ドリフトとこの補填保障はいわばイタチごっこのようなものであった。それが結果として賃金コスト上昇を招いた。

(注47) cf., Edgren et al. 1973:32f., 45.

 大きな賃金ドリフト-定義・計測と「賃上げ補填保障」

 すでに述べたように,大きな賃金ドリフトの発生は連帯主義的賃金政策を傷つける。しかし実際に,賃金ドリフトはかなり大幅なものであった。この点,もう少し立ち入って見ておく必要がある。
 もっとも,賃金ドリフトの定義それ自体決して明瞭なものではない。EFOモデルを掲げた報告書も,「理論的にも統計的にも協定された賃上げと賃金ドリフトとの間に明確な境界線を引くことは容易でない」(Edgren et al.1973〔1970〕:134)と記していた。そこで,1966年のLO-SAF協定に注目しよう。というのは,この協定によってはじめて賃金ドリフトが中央協定の一部に繰り込まれ,次のような定義が下されたからである。すなわち,賃金ドリフトとは,「協定された賃上げと統計的に集計された収入増の総額との差」を意味すると定義づけられた。それは純粋に統計的な概念であって,倫理的な含みをもってはいない。もう少し具体的にいえば,当該年における「従業員1人当たりの所得増額の平均値(注48)から産業別の中央交渉で協定された賃上げ額を差し引いたもの」のすべてが賃金ドリフトを生み出す。したがって,たとえば当該期間中に時間賃率の高い仕事低い仕事との比率がどう変化するか,企業レベルの交渉で付加的な賃上げがどれほど行われるか,出来高給労働者側の割合とその作業効率がどうなるか,出来高給の変更を伴わない合理化による生産性の上昇がどれほどになるか-実質的には,こういった要因すべて(注49)が賃金ドリフトの内容を形づくることになる(cf.,Edgren et al.1973〔1970〕:144-145)。
 経験的にいって,賃金ドリフトは一般的には高賃金セクターで発注しがちであり,失業率と逆相関すること(フィリップス曲線),また出来高給労働者の比率,企業の生産性や収益とプラスの相関をもっていることなどが知られている。しかしスウェーデン的文脈で見落とせないのは,賃金ドリフトが次のような形で「賃上げ補填保障」に連動させられたという点である。すなわちLO-SAFの66年協定によれば,「低賃金」グループの賃金が相対的に低下するのを歯止めするため(したがって連帯主義的賃金政策に沿って),「66または67年の賃金ドリフトが27オーレ(ore:1クローネ=100オーレ)-その金額は平均時給の3%に相当する-に届かなかった協定グループには(実際には,賃金ドリフトは平均で4%に達した),その27オーレを〔次年度に補填〕保障する」という内容であった(Edgren et al.1973〔1970〕:34)。69-70年協定でも,また71-73協定においても,さらにその後もこういった「賃上げ補填保障」の協定が締結されている(詳しくはcf., Edgren et al.1973〔1970〕:34f.;Olsson1990:64f.)。先に66年の協定によってはじめて賃金ドリフトが中央協定の一部に繰り込まれることになったと表現したのはこのことを意味している。しかし,こうした連帯主義的賃金政策が労働コストとインフレ率の上昇を招き,結果としてスウェーデン・モデルを着実に衰弱させていったことについてはすでに触れた。
 ところで,賃金ドリフトそのものはどれほどのものであったのか。表1によれば,マニュアル・ワーカーの賃金ドリフトはかなり高率であって,ほとんど協定賃上げ率と同じ程度であったことが知られる。それに比べれば,いくどかの例外はあるが概してホワイトカラーの賃金ドリフト率は低い水準にとどまっていた。「ホワイトカラーの賃金制度によりリジッドなもので,賃金ドリフトは小さなものであった」(Olsson1990:132)。
表1 戦後スウェーデンの協定賃上げ率と賃金ドリフト:1946-91
 こういったマニュアル・ワーカーに顕著な賃金ドリフトがマニュアル・ワーカーとホワイトカラーの反目の種になり,「福音書」(1951)が憂慮していた組合間の「賃上げ競争」をあおり立てて賃金コストの上昇をもたらした。マニュアル・ワーカーとの賃金格差の維持を当然視していたホワイトカラー組合は前者の賃金ドリフトに連動した代償(「賃上げ補填保障」のこと)を求め,それを使用者側も拒否しなかった。1970年代になると,まず民間ホワイトカラーについて,さらに70年代中期からは公務員についてそうした「保障」ルールが中央交渉で決められるようになった(図4参照)。マニュアル・ワーカー内部の「低賃金」グループに対する賃上げ補填保障という形で,したがって当初は連帯主義的賃金政策という文脈に沿って66年のLO-SAF協定のなかではじめて公然と論じられた賃金ドリフトは,今後はマニュアル・ワーカーとホワイトカラーの賃金格差の維持(したがって「連帯主義的」脈絡とは異なる)というコンテクストに沿ってもうひとつの「賃上げ補填保障」ルールを導き出す結果となった。いま上でホワイトカラーの賃金ドリフトは小さいと記したが,この事実が大切なのはこういった誘発効果-すなわち,マニュアル・ワーカーとの賃金格差の維持を当然視するホワイトカラー労組が勝ち取ったもうひとつの「賃上げ補填保障」ルール-まで視野に納めてのことである。
図4 「賃上げ補填保障」の構造と波及効果:1966-82
 以上,賃金ドリフトに関連して執拗なまでに2つの「賃上げ補填保障」について触れたのは,第1にそれがマニュアル・ワーカー内部では連帯主義的賃金政策の方法として活用され,他方ホワイトカラー労組から見ればマニュアル・ワーカーとの賃金格差維持の手段として利用されたこと,しかし第2にいずれの補填保障も-前者では低賃金グループの所得を底上げし,後者についてはマニュアル・ワーカーとの賃金格差を保持し続けるという形で-結局は賃金コストの大幅な上昇をもたらしたこと,第3に70年代になって一般化したホワイトカラーに対する補填保障ルールは,「マニュアル・ワーカーとホワイトカラーの賃金格差を縮めようとするLOの意図に反して導入された」(Kjellberg1992:105)ものであり,したがってそこにはLOヘゲモニーの衰退とホワイトカラー組合の影響力の増大,さらに激しいユニオン・ライバルリーが示唆されていたこと-これらの点を見逃してはならないからである。

(注48) したがって,この平均値は企業データによらざるを得ない。cf., Olsson 1990:153.

(注49) 「第1次賃金ドリフト」と「第2次賃金ドリフト」というS.エスキルソンによる区別については,cf., Olsson 1990:83. 前者は「出来高賃金制による意図せざる賃金ドリフト」を,また後者は「賃金構造の是正のため経営者によって意図された賃金ドリフト」のことを指している。

 「賃金爆発」・国際競争力・生産性基準原理

 第1次石油危機後の75年のLO-SAF協定によれば,同年のマニュアル・ワーカーの賃上げ率は10.5%,賃金ドリフト7.5%,合計の賃上げ率は18.0%(ホワイトカラーの場合にはそれぞれ14.3%,2.2%,合計で16.5%)に達した。また翌76年の数値はそれぞれ7.9%,5.4%,合計の賃上げ率は13.3%(ホワイトカラーについては,11.2%,2.5%,合計で13.7%)であった。これが「賃金爆発」(Wage Explosion)と呼ばれる現象である。しかしこうした各目上の大幅な賃上げにもかかわらず,「実質賃金は80年代半ばまで落ち続けた」(Kjellberg1992:105,cf.,SAF1991:38)。言うまでもなく高率インフレのためであった。74-83年までのインフレ率は実に年平均で10.3%にも達した。ジリジリと失業者が増えはじめ,それに加えて同期の工業生産指数も落ち込んだ。SAFデータによれば,スウェーデン製造業の工業生産指数は1960=100とした場合,1974が201であったがそれ以降は低下し続け(ボトムは78年=183),すでに触れた70年代後半からの一連の通貨切り下げによる景気刺激にもかかわらず,ようやく83年になって201と74年水準まで回復したにすぎない(SAF1991:40)。要するに,第1次石油危機からの10年ほどの間にスウェーデン経済に起こったことといえば,このようにまずは名目賃金の大幅引き上げ(賃金爆発)があり,それと並行してハイパー・インフレーションが進み(その原因は石油危機による原油価格の高騰のほか,数度にわたるクローネ切り下げによる短期的経済ブームに求められる),そのために実質賃金が低下し,さらには使用者課税の強化を含む労働コストの高騰と投資減退によってスウェーデン製造業の生産活動は低迷した(cf., Turner1985)。これに伴って製造業セクターの雇用もこの期間に一段と縮減した。1970=100とすれば,74年に99であったその雇用指数は83年には85まで落ち込んだ(cf.,SAF1991)。こうしたひと続きの現象はまさに「国内製造業の衰退」(Deindustrialization)」と呼ぶにふさわしい(Olsson1990:150)。それが,「LO-SAF枢軸体制」の融解が進んで一種アノミークな状況が生み出され,ユニオン・ライバルリーが顕在化したさなかでの出来事であったという点には改めて注目する必要がある。実際には国内製造業の衰退がそうした融解やアノミーを生み出した,あるいはその趨勢に一層の弾みをつけたといってよいだろう。
 しかし,国内で製造業の衰退が見られただけではなかった。スウェーデン製造業の輸出競争力もまたこの期間を通じて大きく後退した。国際輸出市場におけるスウェーデンの占有率は1973=100とした場合,1975=101をピークにして目立って低落しはじめ,77年には88,80年には82,さらに82年には77にまで低下した(ちなみに90年指数は79)。SAFはその原因に触れて,「スウェーデン輸出産業の生産コストの実質増と国際需要パターンの変動に対する適応能力の低下」(SAF1991:55)にあると分析している。
 ここまで見てくればもはや明らかなように,EFOモデルが予定していた国際的「競争」セクターである金属産業を賃上げパターン・セッターとする,しかもその生産性の上昇に見合った「隠健な」賃上げといった行動様式は70年代にはほとんど跡形もなく消え去った。名目賃金の上昇率は先の表1にあるような高率であったが,70-89年までのスウェーデン製造業の生産性伸び率は年平均で2.9%(主要先進国平均では4.2%)にとどまった。
表1 戦後スウェーデンの協定賃上げ率と賃金ドリフト:1946-91

 所得政策への道

 スウェーデン・モデルの「危機」を先取りして警鐘を鳴らしたかに見えるEFOモデルは,しかし70年代を通じてよく機能することがなかった。むしろ,その規範的な軌道から外れていったのが70年代であった。そうしてその逸脱は所得政策の導入という形でも現れた。公共部門の拡大が事実上賃金交渉に対する政府の「介入」を強めたという点についてはすでに述べた。
 所得政策の導入が公然と議論されたのは第1次石油危機の翌年,74年と75年にストックホルム郊外のハガ宮殿で行われた政労使の会議においてである。一方での組合による賃上げ要求の自粛,他方での所得税の減税というパッケージが政府から提案された。会議は「インフォーマルな合意」に達した。労組による賃上げ自粛,政府による所得税減税,そして企業に対する新たな課税(当初は従業員給与の1%相当分,やがて最高4%まで上昇)による国庫歳入減の補填という組み合わせであった(Olsson1990:33)。しかしこの「インフォーマルな合意」は最終的には不調に終わった。組合は賃金自粛の要求に応え切れなかったからである。そしてその結果が,すでに記したように75-76年のお大幅賃上げであった。こうして最初の所得政策導入の試みは失敗に終わった(Ahlen1989:340)。しかしこうした名目賃金の急激な上昇,他方でのインフレによる実質賃金の低下という紛れもない事実は,税制や社会保障制度に対する労使双方の関心を高めずにはおかなかった。やがて農産物価格,住宅価格や家賃などへとその関心は拡大していった。
 いくども繰り返された76-82年までの通貨切り下げはスウェーデン経済を立て直すどころかかえって混乱に陥れた。クローネの相次ぐ切り下げによって一方では短期的な経済ブームが起こり,それが使用者の経営革新インセンティブをそぐ結果になった。他方では,そのブームが労働力不足をあおって賃金上昇を招いたからである。
 事実上の所得政策は84-85年にかけて社民党のパルメ首相(86年2月に暗殺された)によって導入された。首相官邸ローゼンバットでの会議においてである。LOとPTK,SAFそれに政府代表による円卓会議が開かれた。今回提示されたパッケージの中身は10年前のハガ会議に比べてより包括的なものであり,政府の姿勢もより徹底したものであった。しかし政府の意図は必ずしも達成されなかった。とりわけ「前例のない」激しい長期ストが公共部門の組織労働者によって打ち抜かれたからである。「スウェーデンとの貿易が実質的に停止したほどであった」(Ahlen1989:341)。86年にも同様な事態が生じた。政府は民間賃金ドリフトを自動的に公務員にも上乗せ適用するというルールを排除できたが,多くの譲歩も余儀なくされた。その後も,89年には政府の税制改革提案を受けて「ボンマースビック討議」が開かれた。しかし総じていえは,80年代後半には政府の賃金交渉への直接的介入はむしろ後退した(Kjellberg1992:113)。
 その流れが一挙に反転するのは90年に入ってからのことである。きっかけは年率4%を超える物価上昇であった。この「4%」が意味していたのは,それを超えれば組合は89-90年協定について「再交渉」することができるということであった。政府は直ちにハガ宮殿に労使代表を集め,集権的交渉への復帰と賃上げ抑制的な2年間協定の締結を打診した。しかしSAFも金属産業の経営者団体VFもこれを拒否,それに代わってSAFが提案したのは2年間にわたる物価と賃金の同時凍結というもっとラディタルな内容であった。カールソン社民党政権はここに至ってスウェーデン労使関係史上最も徹底した形で賃金交渉に介入する準備に取りかかった。LOトップ・リーダーの賛成をとりつけたうえで政府は90年2月,2年間にわたる賃金凍結,スト禁止(山猫ストに対しては罰金増額),物価等の上限規制からなる方針を公にした。けれどもこの政府方針も一般組合員からの激しい反発にあって実行には至らなかった。翌3月レーンブルク委員会が組織された。政府の直接介入ではなしに,社会的パートナーシップを重視するスウェーデンの「伝統的」方法が採用された。使用者団体のSAFのほか,労働組合のLO,TCOそれにSACOからそれぞれの代表者1名が加わった4人委員会が構成された。9月になって同委員会は2年間の「安定協定」(レーンブルク協定とも呼ばれる)を個別の産業労使に提示した。当初PTK傘下のSIFやHTF(Handelsjanstemannaforbundet:Union of Commercial Salaried Employees)は「91年のローカル〔企業別〕交渉停止,92年賃上げからの賃金ドリフト〔補填分の〕削減」といった委員会提案に猛反発したが,SAFの姿勢は強固で結局これらPTK組合はローカル交渉を断念せざるを得なかった。金属産業連盟VFと金属労組との協定も,「労働組織の改革や生産性向上による企業レベルでの賃金増加は賃金ドリフトと見なされてはならない」という組合側を主張によって遅滞した。しかし最終的には前出のCFとLO左派の交通労連の2つを除いて,他のすべての労働組合がレーンブルク協定を受け入れた。
 「ポスト・レーンブルク委員会」の行方については,いまのところ何もいえない。しかしこのレーンブルク・アプローチはいくつかの点で注目に値する。第1に,それは政府の後押しで中央集権的な労使関係が再構築されたことを意味している。すぐ後でも触れるように,80年代のスウェーデン労使関係等もまた他の多くのヨーロッパ諸国(注50)と軌を一にしながら分権化の道を歩んできたことを思えば,この「逆転」(注51)現象は見逃せない。第2に,労使頂上団体の合意によって産業レベルのみならず企業レベルの賃金交渉も「一時停止」された。これは文字どおり,これまでその例を見ないほどに徹底した集権的な労使合意であるに違いない。したがって,たとえ一時的であれ,それは「超集権化(Super-centralization)」(Kjellberg1992:114)な労使関係の出現であった。第3に,レーンブルク委員会の使命とその構成メンバーからすると,ある意味ではこれこそ「真正のコーポラティズム的」労使関係といえなくもない。この「コーポラティズム的」な合意形成は-それがいかにスウェーデン・モデルと乖離するものであったとしても-,ラッシュ=アリーの「組織されない」資本主義(Lash1985;Lash and Urry1987)という将来展望(興味深いことに,彼らの格好な論拠はほかならぬスウェーデン・モデルの「崩壊」であった)とは相容れない,少なくともその有力な反証材料のひとつであることは明らかである。こうした動きを労使自治型の「伝統的」団体交渉パターンに対する政府の影響力の増大という「歴史的」文脈に位置づけようとする見方もある(cf.,Kjellberg1992:115f.)。
 とまれ,これら70年代に始まる所得政策的な動きは政府の賃金決定への実質的な「介入」を意味しており,その限りでスウェーデン・モデル本来の性格とは相容れないものであることは明らかである。

(注50) 代表的には,cf., Baglioni and Crouch eds. 1990: Ferner and Hyman eds. 1992.

(注51) 実際には,簡単に「逆転」ということができない。レーンブルク協定はローカルな企業レベルでの交渉も禁じていたのであって,したがって「経営者専決」という賃金交渉・決定の「超分権化(Super-decentralization)」という方向を示唆していたと理解することもできるからである。cf., Kjellberg 1992:114.
 水平的分裂・垂直的分権化・国際化-80年代からの基調

 このように,80年代の分権的労使関係へのとうとうとした流れはレーンブルク委員会によっていったん遮られた-少なくともそういう一面があることは否めない。では,その分権化の趨勢はいかなる背景から生み出されたのか。時間を10年ほどさかのぼって,80年の戦後スウェーデンにおける最大の「大争議」に注目する必要がある。
 その争議の背後には,すでに繰り返し指摘したように2つの労使関係面での構造的変化があった。1つはホワイトカラーおよび公共部門の組合勢力の拡大であり,もう1つはそれに伴うユニオン・ライバルリーの先鋭化であった。もはやLOはかつてのヘゲモニーを喪失しており,組合ブロック間には複雑に絡み合った協力と対立の関係が生まれていた。70年代にTCO加盟組合によって3つの賃金交渉カルテル(PTK,KTKそしてTCO-S)が創設されていたことからもその一端がうかがえよう。事情は使用者団体についても似通っていた(図2参照)。たとえば,使用者として政府を代表する国家公務員団体交渉委員会SAV(Statens Avtalsverk:National Collective Bargaining Office)は次第にその地位を高めていた。こうした構造的背景の下でインフレが昂進し,76年以降組合員の実質賃金は目減りしていった。起死回生の数度に及ぶ通貨切り下げ政策もかえってインフレをあおる結果となった。さらにそれを79年の第2次石油危機が追い討ちした。金属産業の国際競争力は目に見えて衰えた。70年代末からの急激な財政赤字を前にしてSAFはその赤字削減とインフレ収束のために一方では政府に対して公共支出の削減を提案し,他方では労働組合に対してついに賃金凍結という緊急方針を打ち出した。ユニオン・ライバルリー一色に彩られた統率のとれない集権的な労使関係をより分権的なものに転換し再編成していこうというのがSAFの「底意」であった(Martin1987:320-322;Kjellberg1992:104)。しかし,2週間にわたってスウェーデン経済をストップさせたこの80年5月の「まったく想像できないような」大争議は,いやがうえにも組合間(とりわけLOとPTK)の敵対感情を昂じさせた。69年と75年に続いてこの80年もまた(さらに84年にも89年にも),公共部門の組合が民間部門での賃金交渉に先んじたが(Lash1985:220,TCOでのインタビュー),それも激しい組合間の確執と敵対感情のひとつの現れであった。こうして70年代にはどうにか保たれていたLOとPTKの協力関係もこの大争議によって瓦解した。その後80年代を通じて,こうしたユニオン・ライバルリーはさらに激化した(Ahlen1989:333f; Kjellberg1992:118)。
図2 現代スウェーデンの賃金交渉テーブル
 こうして頂上団体とその周辺部分で水平的な分裂に拍車がかかっただけではなかった。この大争議を契機にして使用者側は分権的労使関係の構築という方向へ大きく歩み出した。そしてそのイニシアティブをとったのがSAF傘下最強の使用者団体であった金属産業経営者連盟(VF:Verkstadsforeningen)である。時に公共部門が先導するほどにまで水平的に分裂してしまった中央レベルの賃金交渉と,それがもたらす賃上げとインフレ昂進の悪性スパイラル,さらにそれによる金属産業を含むスウェーデン製造業の国際競争力の著しい衰退,政府の財政赤字が急膨張するさなかもはやこの「病理」に手をつけないではスウェーデン経済はいよいよ袋小路を迷走することになる-そういった強い懸念に基づいて,スウェーデン・モデルの行き詰まり状態を思い切って軌道修正しようという積極的反応が有力な使用者団体の間から出てきたのはむしろ自然なことであった。大手の金属企業,たとえばVolvo,LM Eriksson, Elektrolux, Saab-Scania, Aseaなどの企業は中央交渉を排した産業レベルの交渉を掲げ,さらに企業レベルでの賃金交渉に強い意欲を示した。実際には81年の交渉は従来のパターンどおり中央交渉がもたれたが,実態的にはSAFはVFのイニシアティブに従った。82年にはSAFの定款が改定され,分権的交渉への方向づけが明確にされた。そして83年にはVFは金属労組およびFIFとそれぞれ直接に(したがってLOやPTKの「調整」行動なしに)賃金交渉を行った。文字どおり,分権的交渉の復権であり再生であった。こうして,50年代後半からおよそ4半世紀にわたって存続してきた中央集権的な賃金交渉は基本的に終焉した。スウェーデン・モデルの崩壊と呼んで差し支えない大きな出来事であった。
 このようにスウェーデンの国際的に著名な自動車・電機企業は分権的交渉機構の構築に向けて強い意欲をあらわにした。その背景として改めて注目しておく必要があるのは,これら金属産業と大手企業が占めるスウェーデン経済におけるその大きな比重についてである。81年の場合,この産業の産出量全体の53%が輸出された。なかでも自動車・電機など機械工業が大きな割合(全輸出額の45.5%)を占めた。個別企業を例にとってみても,たとえばVolvoやElektroluxの81年の総生産高のうち,それぞれその77%,73%が輸出された(Lash1985:221)。一般的にいって,相対的に内需の小さな小国(あるいは中堅国家)においては一国経済の浮沈は貿易収支・経常収支という意味でこうした輸出産業の競争力に大きく依存している。そうである以上(この点をスウェーデン・モデル,狭くとってもEFOモデルの設計者たちは明確に認識していた),この「陰り」や衰退は政府や労働組合にとっても強い関心事たらざるを得なかった。
 ところで,この輸出依存という意味でのスウェーデン経済の「国際化」とは別に,もうひとつの国際化が80年代後半に目立って進んだ。端的にいって,上記スウェーデンの有力企業の多国籍化という現象である。85年以降,スウェーデンからの海外直接投資は著しい伸びを示した。その投資額は1985=100とすると,86年は1.7倍,88年が2.9倍,89年が4.0倍,そして90年には7.1倍という急増ぶりであった。「ドロールの戦略」と86年の単一欧州議定書締結に伴うEC市場統合といったプル要因もさることながら,国内的なプッシュ要因としては財政赤字による企業への増税,国債発行による金利上昇,さらに労働コスト増といった「悪条件」が働いていた(cf.,SAF1991:73)。これら「多国籍化した企業によってスウェーデン国内で販売された生産額は65-86年の20年ほどの間に半減した」(Kjellberg1992:92)。こうしたスウェーデン大手機械メーカーの多国籍企業化の流れとは対照的に,外国からのスウェーデン国内への直接投資はこの期間を通じて低迷し続けた。他の条件をカッコに入れても,いま触れたような高い税金,それに高い資本・労働コストを考えれば,「スウェーデンに出てきてくれる日本のメーカーなどないでしょう」というSAFのニールソン氏の言葉がいまも耳から離れない。
 この多国籍企業化という「国際化」の動きが大切なのは,多国籍化がたとえ逆説的にではあっても,「コーポラティズムにはある種のコミュニティ意識が欠かせない」という命題と深い関連をもっているからである。すなわち,スウェーデン・モデルはそれをネオ・コーポラティズムという術語の下に位置づけるであれ/あるいはないであれ,一国経済社会に関するその意味でナショナリスティックなモデルである点に変わりはない。歴史に照らして「コミュニティ意識」が国民社会をその単位として成り立ちがちであったという経緯を踏まえていえば,スウェーデン製造業を支える有力メーカーの多国籍企業化とはいったい何を意味しているのか。それは,スウェーデン・モデルの最も基本的な担い手である使用者(団体)の利害関心の矛先がいまや国境を超えて,その意味でナショナリスティックな性格を弱めてボーダーレス化しはじめたということにほかならない。それだけ使用者団体の国民経済社会に広がる「包括的」行動様式は抑えられ,その利益代表行動は「特殊利益」型に傾いていったようにも見える(もちろん,そうはいっても彼らの行動様式がすっかりその「包括性」を失ったというわけではない)。そういう構造的深部においてもスウェーデン・モデルの衰退は進行していた。

 今後の賃金政策-個人主義化と「連帯主義的労働政策」

 賃金構造パターンの変貌については,これまで述べたところで十分であろう。そこに示されているのは,ひとくちでいってスウェーデン・モデルの崩壊にほかならない。
 残された紙幅を使って,これからの賃金政策のありようについていくつか補足しておこう。まず,使用者側の賃金政策に関してはSAFの「個別賃金管理」という考え方に言及し,労働組合の存在それ自体を否定するという意味で「反組合的」ではない(注52)にしても,それは大なり小なりサッチャーライトであると記した。SAFの「90年代のビジョン」(SAF1990a)はその内容に立ち入って,さらに次のように説明している-すなわち,「賃金は従業員のパフォーマンスと達成された結果に対する報酬であり,また生産性向上に寄与するものでなければならない。個々人の働きに見合った賃金(Individual Wage Formation)という原則がすべての従業員に適用されるべきである。賃率と給与水準の決定は経営の仕事(Managerial Concern)である。組合との交渉と労働協約は個別産業や企業の必要に見合って適用されるものでなければならず,産業内でもまた産業間でもバラエティーに富んだものである必要がある」(SAF1990a:9)。そのうえで,具体的には賃金交渉の一層の分権化,労働協約の簡素化,争議行為に対する規制強化,賃金統計の簡素化(注53),賃金決定をめぐる企業の自由裁量幅の拡大などの必要を掲げている。ここに明示されている方向は,1つには企業内賃金交渉の拡大という意味での賃金交渉の一層の分権化であり,いま1つには賃金管理の「個人主義化」への傾きである。そこに浮き彫りされているのは個々の産業さらには企業であり,また従業員個々人の顔である。その風景は基本的なところで80年代のイギリスの経験と互いに深く共鳴し合っている(注54)。
 他方LOは,これまたすでに触れたようにいまもなおその「連帯主義的賃金政策」に固執している。そのうえで先にも引用したように,LOも「90年代は利己的でない知的で自立した『個人の時代』でなければならない」という。しかし,「個別賃金管理(Individual Wage Setting)と個々人の賃金引き上げ(Individual Wage Development)とは異なったものであることの認識が大切である」(LO1991b:17)。いったい,両者のどこに決定的な違いがあるのか。個々人の能力開発,責任を与えられた自律的な仕事ぶり,変化に富んだ仕事,ホワイトカラーとマニュアル・ワーカーの協力,フラットな組織,こういった点について両者の考え方に大きな違いは見られない。LOの観点からすれば,こうして個々人の技能・熟練をより高いものにしていけば,それが結果としてより高い賃金に結びつくという筋書きである。SAF,LOそしてTCOまで含めて,このもしそういてよければ「ポスト・フォーディズム」的な方針について基本的な対立は認められない。あえて相違点を強調していえば,LOは職務評価(Job Evaluation)による仕事の「客観的」な格づけを強調するのに対して,SAFは個々人の実際の職務遂行能力の違いといったものを賃金にはね返す必要があると考えている。当然,その評価・考課は「主観的」たらざるを得ない。LOはこの側面に対して基本的に反対している。しかしTCOは微妙な言い回しをしながらも実質上それを受け入れている(TCO1990:36)。
 とまれ,LOが「個人の時代」を展望し,個々人の能力開発を通じて賃金上昇を図っていこうという視点はなかなかに興味深い。それを大々的に提唱したのが金属労組の「連帯主義的労働政策」(Solidarisk arbetspolitik:Solidaristic Work Policy)である。ごく簡潔にその内容について触れておこう。この政策を最初に掲げた報告書が金属労組『よい仕事』(Metall, Det goda arbetet,1985:その英訳縮小版がMetall1987)であり,その延長線上で『よい仕事のための連帯主義的労働政策』(Metall, Solidarisk arbetspolitik for det goda arbetet,1989)が公にされた。80年代末にかけての動きである。その波紋はたちまち大きく広がっていった。88年にはLOの「デモクラシーと影響」委員会(DOL:L.ブロンバーク金属労組委員長)の報告を受けて自治体労働者(Kommunal)や小売業労働組合が,また翌89年にはTCOまでがこの連帯主義的労働政策に同調する方針を明らかにした。LOは91年の年次大会でそれを「将来の戦略」として位置づけた(Mahon1991:307)。
 この新構想の基本的な出発点にはある種の危機意識が働いていた-すなわち,70年代中期以降その国際競争力に大きな陰りを見せはじめたスウェーデン金属産業は,80年代に入っていよいよ厳しい国際競争にさらされている。海外直接投資もニュー・テクノロジーの発展も目ましい。そのさなかで生じている懸念のひとつは「労働の両極分解」という忌むべき現象である。それは職場社会のみならずスウェーデン社会にも大きな亀裂を生み出し,労働生活の質ばかりでなく賃金においても大きな格差を作り出している。それは連帯主義的賃金政策と相容れない。それでも実際には,「80年代を通じて製造業では『悪い』仕事が増え,『よい』仕事の数が減っている。『悪い』仕事は人的・社会的資源を損ない,人々は大きな負担を強いられている。(中略)産業の改革が必要である。そのためには企業が人間に『よい』仕事を与えるようにしなければならない。人的資源を大切にすることで企業も高率化し利潤も上がるといった条件を整えていかなければならない。産業の改革を通じてすべての人々が『よい』仕事に就くことができるようにすること,企業がその従業員に『よい』仕事を提供できるようにすること,これが連帯主義的労働政策である。(中略)スウェーデン産業の将来的発展は『よい』仕事の提供がその前提であり,そのうえに築かれるものでなければならない」(Metall1989:7-11)。こうして「よい」仕事の創出はミクロ・マクロ両レベルでスウェーデン経済の活性化につながるばかりではなく,さらに「伝統的」な連帯主義的賃金政策との関連においてもより高い賃金を保障し,同時に賃金格差の縮小にも貢献することができる。これが-80年代に入って公にされた経営独自の「新しい工場」プロジェクト報告に対する形で(注55)打ち出された-組合の手になるスウェーデン経済の再建と企業の再活性化に関する独自戦略のエッセンスであった。それはいわば「新スウェーデン・モデル」あるいは職場からのスウェーデン・モデルの再設計といった趣きさえもっている。
 では,「よい」仕事を実現させるための具体的な戦術は何か。85年に金属労組がその『「よい」仕事』のなかで掲げたのは次のような9つの原則であった。第1に「雇用の安定」(それが「フレキシビリティと変革への意欲の前提」である),第2に「成果の公正な配分」,第3に「企業の意思決定への参加」(そうでなければ,仕事は単に「金銭を得るための手段になってしまう」),第4に「協力のための作業組織づくり」,第5に「あらゆる職場に熟練者を」(すべての仕事は単調化・細分化を克服して「全体的」なものにならなければならない),第6に「職業教育は仕事の一部である」(つねに「新しい知識と経験」を求めていく必要がある),第7に「社会的要求としての労働時間〔の短縮〕」(要因を確保して時短を進め,個人の選択の自由を増大させよう),第8に「職場の平等」,そして第9に「健康で安全な職場」の確保-以上の9つの原則である(Metall1987〔1985〕:30-31;Metall1989:112-113)。
 ここに列挙された項目の文字面だけを見ていると,経営側の「新しい工場」プロジェクトとどこが違うのか,必ずしも明らかでない。そこで,両者の相違点を浮き立たせるために1,2の例を挙げておこう。たとえば,キャリア開発ということについて「連帯主義的労働政策」は次のように主張する-「キャリアを積むことは労働の発展〔「よい」仕事を創出すること〕に関する伝統的な方法である。オフィス・ワーカーにとってそれが唯一の地位向上(昇進)の手段であった。労働者〔マニュアル・ワーカー〕にとってもキャリアはついてまわる。特に鉄鋼産業の分野では労働者集団は年功,すなわち年齢と経験を基準にして管理されてきた。国際的に見てもこのシステムはかなり一般的なものであり,アメリカや日本ではキャリアの蓄積に関して年功序列が圧倒的な重みをもってきた。しかし3つの理由から,キャリアを積むことによって地位向上(昇進)を図るという方向は連帯主義的労働政策と調和しない。第1に,それはいまある仕事を「よい」仕事に変革していくことにはつながらない。労働の内容が変わるのは〔昇進した〕ひとりの人間だけである。第2に,キャリアを積むことはわれわれ相互の競争を生み出す。組合員が互いに対立する危険性が大きくなり,連帯と協力の基盤が失われる。第3に,労働の発展に関して全員に等しく公正な可能性が与えられるということはない。いま多くの企業が労働者〔マニュアル・ワーカー〕についてもキャリアの可能性を高めようとしている。しかしキャリアの可能性を高めることは職場組織の内部的改革要求を回避しようとする試みにほかならない。(中略)個々人の知識や経験が高まっていくにつれて作業内容は組織の下部に降りてくる。人間が地位間を〔上向〕移動することではなく,労働の中身を発展させ向上させることが大切である。これは労働と地位における発展の可能性と公正さをすべての労働者に保証することであり,職場の同僚との競争が生じないようにすることである」(Metall1989:168f.)。こうした議論の延長線上でさらに,「発展する作業組織」の構築をめざして,組織における意思決定段階の削減,作業グループを最小の機能単位とすること(それ以上に細分化しないこと),あらゆる段階に「公式の権限」(自主的に決定できる権限)を付与することななど,ここでも「9つの原則」が掲げられている(cf.,Metall1989:174)。
 いまひとつ,「多能工化」(Mangkunnight)に関しても,これは「われわれの組合員,特に反復的な重労働についている労働者に重要な変革をもたらす可能性もあるが,同時に労働内容や地位構造の変革につながるわけではない」(Metall1989:170)。上記のキャリアの発展よりは高い位置づけを与えられてはいるが,それは「固定した組織内部での労働の発展にとどまっている」と見なされている。

(注52) SAFのU.ニールソン氏とのインタビュー記録による。彼は「強く高い代表性をもった労働組合は経営者の最良の友」という諺にいくどか言及した。

(注53) TCO国際部のO.セデルマン(Soderman)氏は,インタビューのなかで「サンプル・サーベイによる克明な賃金統計はスウェーデンでは経営者によって作られている。政府はそれを買っているんです〔!?〕。そのため,そのデータは経営者に好都合なように作られている。これは問題です」と語っていた。

(注54) cf., 稲上 1990;Millward et al. 1992.

(注55) Brulin and Nilsson 1991:336f.

 個人主義か連帯主義か-ひとつのインタビュー調査

 いまはまだこういった「連帯主義的労働政策」の有効性について議論することはできない。しかし気掛かりな点のひとつは,強いてそれを単純化して言えば,経営側の「個人主義化」というマクロ趨勢認識に対して,たとえば職場における労働者同士の昇進競争の排除といった方針は(労働組合のいわばタテマエという水準を超えて)どれほど一般的に支持されうるものだろうかという点である。幸いここに,A.オルソンが行ったひとつのインタビュー調査(注56)がある。
 労働組合の賃金政策を念頭におきながら,あるべき賃上げ原則に関する6つの選択肢を設け,そのなかから「最も適切だと思う原則」「2番目に適切だと思う原則」,そして「最も好ましくないと思う原則」の3つを選んでもらうという方法をとっている。6つの原則とは,<1>「賃金格差を少なくする賃上げを」(連帯主義的賃金政策の1側面),<2>「すべての者に同一の賃上げ率を」(つまり現状維持の原則),<3>「責任の重い仕事に携わる者により高い賃上げを」(ホワイトカラー組合の賃金政策のひとつ),<4>「生産高率のよい者により高い賃上げを」(出来高給マニュアル・ワーカーや成果管理型のホワイトカラーによく当てはまる),<5>「学歴に見合った賃上げを」(SACO/SRの賃金政策),<6>「勤続年数に見合った賃上げを」(年功ルール)-以上の6つである。
 調査結果は次の表2のとおりであった。全体として見ると,「責任」ルールを重視する意見が最も多かった。LOメンバーでも29%にのぼった。ホワイトカラー系のTCOやSACO/SRメンバーの場合には過半数弱の者がそれを支持していた。それに引き換え,連帯主義的賃金政策のひとつの柱である「格差縮小」ルールを賃上げの最適ルールと見なす意見はLOメンバーでさえ2割にすぎない。他のホワイトカラー組合員についてはその支持率がもっと下がる。オルソンの解釈に従って,「責任」+「生産性」=格差拡大支持,「同一賃上げ率」+「格差縮小」=格差拡大不支持というように大括りに分類してみると,TCOやSACO/SRのホワイトカラー組合員の場合には格差拡大支持率がそれぞれ59%,58%に達している。さらに,マニュアル・ワーカーとホワイトカラーという区分に民間・公共部門別という分類軸をクロスさせて4つのカテゴリーを作り,その4分類別に格差拡大支持・不支持率をとってみると,民間部門に働くホワイトカラーの格差拡大支持率が71%と最も高く,逆に公共部門のマニュアル・ワーカーが34%と最も低いことなどが知られる。その逆もまた真である(Olsson1990:124-125)。
表2 賃上げの「最適準拠枠」に関する意見分布:加盟組合別
 こうした調査結果が間接的に示唆していることは,第1にLOがいまもなお掲げ続けている連帯主義的賃金政策はLOの一般組合員からでさえもはや支持されなくなっているということであり,第2にそうした「伝統的」な平等主義に対する違和感の高まりは仲間同士の競争排除といった上記の「労働の発展」にかかわる新政策(連帯主義的労働政策)と果たしてどこまで馴染むだろうかと言った率直な疑問であり,さらに第3に産業・職業構造の不可逆的な趨勢変化を踏まえていえば,仕事の質(「責任」の重さもその指標のひとつ)は言うまでもなく個人別の仕事の出来ばえ(「生産効率」もそのひとつの指標)の違いを賃上げに反映すべきだという意見がスウェーデンの組織労働者のなかでより大きな比重を占めるようになるかもしれない。
 ストックホルムの『アメリカ大使館報告』(1990)はこの点に関連して,「新しい『労働者の個人主義』(A New ‘Worker Individualism’)が台頭しているように思われる。(中略)LOは〔連帯主義的賃金政策を支える〕社会意識と平等主義といった理念になお固執しているが,しかしいまの組合員,とりわけ若者たちは一生懸命に働く者,よく訓練を受けた者がもっと物的にも報いられることを望んでいる」と最近の状況を伝えている(U.S.Department of Labor1990:5)。さらに加えて,これら若者たちが彼らの年長者のようには「労働組合にコミットしなくなっており,現代のように多国籍企業化した職場のなかで労働組合が真に彼らの利益に適った存在であるのかどうかについて懐疑的でもある。(中略)こうした新しい労働者の個人主義はもっとプレステージの高い仕事に就きたいといった形でも表明されている。若者を工場に引きつけ,引き止めておくことはいよいよ難しくなっている。経営者は彼らが企業内でもっとホワイトカラー的仕事,もっと技術者的な仕事,もっと挑戦的で責任ある仕事に就くことのできる機会を増やさなければならないようになっている」と分析している。『フィナンシャル・タイムズ』また,「職場のなかの新しい個人主義(A New Workplace Individualism)の台頭に伴って,いまや連帯の精神を見いだすことは容易でなくなっている。経営者もまた労働者もボーナス・インセンティブ,持ち株制度や利益分配制度,広範な社会的配慮に基づく賃金制度よりも仕事の実績に見合った賃金制度を好むようになっている。そうした動きがコーポラティズム的アプローチの後退につながることはほとんど避けがたい」(Financial Times,12 January1990)。端的にいって,表2に示された調査結果はこうした観察と親和的であるように思われる。
表2 賃上げの「最適準拠枠」に関する意見分布:加盟組合別

(注56) Olsson(1990:117)によれば,調査が行われたのは1984年,有効サンプル数は988であった。それ以上の詳細は明らかでない。

 連帯主義的労働政策と企業内労使関係

 最近に,金属労組の連帯主義的労働政策という新機軸が80年代になって顕著になったスウェーデン労使関係の分権化傾向あるいは企業内労使関係の「成熟」という方向といったいどう関連しているか,あるいはどう関連する可能性があるかについて触れておこう。
 TCO国際部のO.セデルマン(Olle Soderman)氏は,「いまでは多くの現業マニュアル・ワーカーがコンピューターと向かい合い,CNCプログラミングといった仕事をするようになっているんです。彼らをブルーカラーとホワイトカラーどちらの協定に入れたらよいのか。彼らはグレーゾーンにいるんです。〔こういう変化を背景にして〕われわれはABB社との間に,マニュアル・ワーカーとかホワイトカラーとかいうのでなしに,すべての従業員を包括する労働協約を結ぶべくいろいろと協議してきているんです。(中略)経営者のほうは,単一テーブル交渉(Single Table Bargaining)を望むようになっています。Volvoの会長などもそうです。〔さらに〕『組合も4つじゃなくて1つになってほしい』というような言い方をしています。そうするためには,ハーモナイゼーション〔つまり,マニュアル・ワーカーの雇用労働条件をホワイトカラーのそれと近づけながらその格差をなくしていくこと〕が欠かせないでしょう。変化は70年代の共同決定法によって起こりました。それによって,違った組合に加盟していても企業のなかで一緒にやっていくようになったんですから。構造的な変化〔ニュー・テクノロジーの進展もそのひとつ〕がその動きをさらに促しているように思います」。ここに示唆されている構造変化の筋書きは,第1にマニュアル・ワーカーの意識(新しい「労働者の個人主義」)において,またその労働内容(ニュー・テクノロジーの影響)において,さらにその雇用労働条件(「ハーモナイゼーション」)という点でマニュアル・ワーカーとホワイトカラーの距離は相対的に縮まり,その意味で「ブルーカラーのホワイトカラー化」(より正確にはそのグレーカラー化)が進んだということ,第2には70年代の共同決定法など新労働立法にも支えられて,こうした相対距離の縮小が企業内労使関係の「成熟」(たとえば単一テーブル交渉やシングル・ユニオン化)への動き(注57)を促したということである。
 肝心な問いは,先の金属労組やLOの「連帯主義的労働政策」がこうした流れとどう関連するかという点である。彼らの「労働の発展」プログラムがめざしているのは,上記のような「難点」を抱えながらも,基本的にはこの趨勢に逆らったものではなく,むしろ積極的にその流れをさらに前方へ推し進めようとするものであるように思われる。連帯主義的労働政策は何よりも職場からの「よい」仕事づくりの運動であり,それによって一方では当該企業のみならずスウェーデン産業の再活性化を図り,他方では個々人の労働生活の質を高め,併せて賃金の高位平準化をも達成しようとする企てである。したがって,大きな焦点が個々の企業と職場にあることは否定できない。そうである以上,その運動は「組合内部における分権化を促すのみならず,ローカル〔企業〕・レベルにおける組合間の協力関係の強化を意味している」(Mahon 1991:317)。確かに,「過去数年のうちに生じている賃金決定のありようと労働組織〔つまり「労働の発展」プログラムのこと〕を統合しようとする動き〔連帯主義的労働政策〕は組合内部における権力配分のあり方を中央レベルの交渉者から職場組織へ移し変えることになるだろう」(Kjellberg 1992:133)という見通しは意義深いものであるに違いない。それが,経営側の展望する分権化された労使関係とある程度まで共鳴し合うこともまた否定することができない。ひとくちでいえば,連帯主義的労働政策による労使関係の分権化という見通しであり,また企業内労使関係の「成熟」という展望である。
 こうして,まことに興味深いことに,この20年ほどの間に「頂上」部分ではユニオン・ライバルリーが激化して中央集権的な労使関係は衰弱したのではあるが,しかしそれとパラレルに-70年代の「民主化」要求とその成果でもある一連の新労働立法にも支えられて-,企業内労使関係の「成熟」という新潮流が生み出されつつあるように思われる。その到達点が「シングル・ユニオン化」かどうか,また「社会コーポラティズムから経営コーポラティズム(注58)へ」(Brulin and Nilsson 1991)であるかどうかはともかくも,その新潮流が労使双方によっていまある種のモメンタムを与えられはじめたことは間違いない。

(注57) 「製品市場の国際化」,さらには「経営者の連帯弛緩」によって突き動かされた「単一使用者協定」(Single-employer Agreement)の締結,全国的交渉構造の分散化,企業内労使関係の成熟化に向けた世界的傾向については,cf., Brown and Walsh 1992.

(注58) この「経営コーポラティズム」の典型は日本であると見なされている。cf., Brulin and Nilsson 1991:331.

 小 括

 SAF会長のU.ローリン(Ulf Laurin)は,最近『フィナンシャル・タイムズ』紙のインタビューに答えて-「国際的にも著名な賃金交渉に関するスウェーデン・モデルは死んだのです。これからは,賃金交渉でも多様なモデルが互いに並立していくというのが望ましいでしょう」(Financial Times, 11 November 1992)と語った。いったい,賃金決定に関するスウェーデン・モデルを殺したのは誰か,またその手続きはいかなるものであったのか。
 第1に,その中央集権的な賃金交渉は50年代後半からおよそ4半世紀にわたって存続した。それが崩れたのは83年以降のことである。金属産業をはじめとする使用者団体がそのリーダーシップをとった。産業別交渉さらには企業別交渉の充実という形で明確に分権的交渉への方向づけが行われた。その理由は大きく分けて2つ-1つには,EFOモデルに準拠したような「穏健で」適切な賃金交渉パターンはもはや頂上団体が水平的に分裂・対立したままの中央集権的な賃金交渉によっては達成することができなくなったこと,いま1つには国際競争力の維持,技術革新の促進,それに見合った新たな人事労務管理や労働組織の展開のためには個別の産業や企業の状況に適合的なよりフレキシブルな分権的労使関係を構築していく必要があると経営側が判断していたからである。したがって,80年代ヨーロッパを席巻したキーワード「フレキシビリティ」のみならず,分権的な労使関係構築への意欲もまた多くのスウェーデン使用者(団体)の心を強く捉えていたように思われる。
 LOとSAFによる安定した集権的な賃金交渉システム(その交渉結果は両者の「勧告」としてそれぞれ傘下団体に事実上の拘束力をもった)が確立し,文字どおりスウェーデン・モデルの「黄金時代」が出現したのは50年代後半から65年までの10年弱にすぎなかった。
 第2に,60年代の半ば以降になると,目に見えてホワイトカラーと公共部門の労働組合の発言力が増した。産業・職業構造の高度化,福祉国家の成熟,66年の公務員に対する交渉権・争議権の承認,さらにはマニュアル・ワーカーとホワイトカラーの利害関心をめぐる亀裂と反目といったことがその背景にあった。こうした新しい組合勢力の台頭はLO-SAFヘゲモニーに対する重大な脅威であり挑戦であった。中央レベルの賃金交渉は水平的に分裂し,LO-SAF体制に大きなひびが入った。69年(公式化は73年)にはPTKという民間ホワイトカラー・ユニオンによる賃金交渉カルテルが登場し,70年代にはさらに同種の2つの賃金交渉カルテルが出現した。こういった中央レベルでの水平的分裂は決して組合側のみに限った現象ではなかった。基本的には使用者側にも類似した動きを認めることができる。
 ホワイトカラー・ユニオンあるいは公共部門の組合は69年以降いくどとなく「伝統的」な賃上げパターン・セッターであった金属労組に先行して賃上げ交渉を行った。「セクター間クラッシュ」という性格を帯びたこうしたユニオン・ライバルリーは70年代以降いよいよ先鋭化し,スウェーデン・モデルを内側から着実に切り崩していった。EFOモデルはスウェーデン・モデルのこの危機的状況を先取りし,それに警鐘を鳴らすものであった。
 第3に,LO-SAFヘゲモニーが確立していた時代にもかなり大幅な賃金ドリフトが生じていた。その賃金ドリフトを公然と中央交渉の場で議論するようになったのも60年代後半のことである。連帯主義的賃金政策は,「低賃金」グループに対する「賃上げ補填保障」(賃上げスライド保障)をひとつのテコにして60年代後半から70年代中期にかけて大きな実績を上げた。マニュアル・ワーカー内部での賃金格差は明らかに縮小した。
 しかしそのことは,ホワイトカラーとマニュアル・ワーカーの賃金格差の縮小を意味しない。とういのも,前者はマニュアル・ワーカーとの賃金格差維持を当然視してもうひとつの賃上げスライド保障を経営側から勝ち取っていたからである。この2つのスライド保障が示唆するものは何か。端的にいってそれは賃金コストの上位平行移動であり,またユニオン・ライバルリーを背景にした賃上げ競争であった。
 第4に,「競争」セクター(その中核は機械工業をはじめとする金属産業)の生産性向上に見合った「穏健な」賃金上昇という構想は70年代に見事なまでに裏切られた。インフレ昂進と「賃金爆発」と実質賃金の低下がパラレルに進行し,スウェーデン製造業の国際競争力は70年代に目立って落ち込んだ。70年代後半のスウェーデン製造業の工業生産指数や雇用指数を見てみると,第1次石油危機前よりも明らかに下落している。それだけでなく国際輸出市場のなかでの占有率も低下した。いずれも,80年代初頭あるいは前半期までの動きである。それはまさに「国内製造業の衰退」と呼ぶにふさわしい。そうしたプロセスが進行していっているさなか,繰り返し触れたようなユニオン・ライバルリーに基づく激しい賃金競争とその結果としての大幅賃上げが行われていたということになる。この構図は,もうそれだけでスウェーデン・モデルの崩壊といって差し支えない。
 第5に,国家の賃金交渉への不介入という賃金交渉パターンに関するスウェーデン・モデルの重要な構成要素もまたこの70年代以降目立って風化した。スウェーデン公共部門の急膨張(それは国際比較的に見ていまも明らかに「肥大化」している)が事実上政府の賃金交渉への発言機会を増しただけではない。スウェーデン・モデルとは馴染まない所得政策が70年代中期の「賃金爆発」契機に導入が図られ,80年代半ば以降も繰り返し減税と賃上げ抑制のパッケージ政策が持ち出された。
 労使頂上団体トップによって構成される現在のレーンブルク委員会は政府任命という穏やかな形式をとってはいるが,内容的には所得政策のこのうえない担い手として登場しているように見えるし,いまスウェーデン社会に「真正のコーポラティズム的」体制が出現したということもできる。80年代になってはっきりと分権的労使関係という道を選択したSAFがなぜこの「超集権的」な労使関係に異を唱えないのかといえば,このレーンブルク協定がローカルな交渉をも停止し,その限りで賃金決定に関する使用者の自由裁量を増やすその意味で「超分権的」な(Super-decentralized)性格をもっているからであるように推察される。
 第6に,これからのスウェーデンの賃金交渉パターンはどうなっていくのか。それについて断定的なことは言えないが,はっきりしているのは使用者(団体)の意向であり,また労働組合の戦略である。SAFやその傘下の有力団体が展望しているのは産業別・企業別の交渉であり,また「個別賃金管理」への強い意欲であるといってよい。分権化と個人主義化という現代マクロ趨勢を凝視しながら,これまでの硬直的なスウェーデン・モデルを融解していこうとしている。その面持ちはもはやかつての「包括的」組織のそれではない。反組合主義(Anti-unionism)にまで傾斜してはいないけれども,そこには明らかにネオ・リベラリズムの雰囲気が漂っている。
 他方,LOはいまも連帯主義的賃金政策という「伝統的」な旗を掲げている。何か新しさがあるとすれば,その旧態依然とした目標実現のために視点を足元の職場に落とし,「連帯主義的労働政策」とうい新しい考え方を持ち出したという点にある。金属労組がそのリーダーシップをとって80年代後半からその動きが活発になった。それぞれの職場で「よい」仕事を生み出し,組織をよりフラットなものにし,安全な職場に自律的集団を育み,仲間同士の競争を排し,働くものの熟練を継続的に高めていこうとする取り組みであるといってよい。それが実現されれば,一方では労働の質が高められ(累積的には国際競争力をもった産業構造・企業群が育成され),他方では「よい」仕事に基づく高い賃金水準も享受できるようになるだろうというのがそのシナリオの骨組みである。
 興味深いのは,こうした連帯主義的労働政策の展開が結果として使用者側が意図する労使関係の「分散化(Fragmentation)」という方向と矛盾するのではなく,むしろその成熟をもたらす可能性が少なくないという点である。ローカルな交渉や職場レベルでの労使協議の充実といったことなしに連帯主義的労働政策を進めることなどできないだろうからである。その伏線として浮かび上がってくるのが,70年代に用意されていた企業内労使関係の充実に関する一連の労働立法である。事実,連帯主義的労働政策に具体化されている「労働の発展」プログラムは70年代の「労働の人間化」プロジェクトとの間には内在的な関連がある。
 いずれにせよ,こうした労使双方の政策に沿っていえば,少なくとも労使関係の分権化へのモメンタムを押しとどめることはできないだろうし,そのひとつの成果が企業内労使関係の「成熟」であることもまた否定できないように思われる。
 第7に,この将来展望に関連してもうひとつ,果たして連帯主義的賃金政策はどうなるだろうか。第1に,LO以外のTCOやSACO/SRといったホワイトカラー・ユニオンはこの「伝統的」政策に同調してはいない。むしろ実質上はSAFのいう「個別賃金管理」を受容してきているといってよい。これがひとつ。第2に,LOのメンバーの間でも連帯主義的賃金政策の支持者は決して多くなく,もはやそのマジュリティを占めてもいないということ,さらに第3に,平等主義と福祉国家イデオロギーに辟易した人々の台頭を目のあたりにするにつけ,「90年代は利己的でない知的で自立した『個人の時代』である」というLOの見方は,その実際において使用者(団体)の「個別賃金管理」といった政策とどこまで明確な距離を保ち,一線を画していくことができるか疑問なしとしない。

3 モデル崩壊の示唆

 サルチオバーデン協定に端を発しEFOモデルで一応の「完成」を見た,社会的パートナーシップ,積極的労働市場政策,「適切な」賃上げ交渉パターンという3つの柱からなるスウェーデン・モデルが第1次石油危機以降20年このかたどのような困難に直面し,いかなるプロセスをたどって崩壊したか-,この点についての叙述は以上で十分であるように思われる。
 しかし,改めて振り返ってみて,いったいスウェーデン・モデルはなぜ崩壊したのだろうか。さらに進んで,その崩壊は何を物語り,また何を示唆していると考えればよいか-こういったより基本的な問いが湧き上がってくる。

3.1 なぜ崩壊したのか

 一国工業社会モデル

 なぜ,スウェーデン・モデルは崩壊したのか。この問いに直截に答えることは必ずしも手易いことではない。しかし,モデル崩壊が何を示唆するかという第2の問いをも念頭に浮かべていえば,まずスウェーデン・モデルが工業社会の政治経済(Political Economy)モデルであったという点に着目する必要がある。そして「工業社会」という場合の「社会」とは言うまでもなく一国社会を意味しているから,より厳密には「一国工業社会モデル」と表現したほうがより適切かもしれない。
 ここで,スウェーデン・モデルが工業社会モデルであったということに大きな疑問はない。このモデルの基本的骨格はレーン-メイドナー・モデルによって与えられた。その設計者はほかでもないLOのエコノミストであった。当のLOは官民および産業分野を超えたマニュアル・ワーカーを組織する労働組合である。社会的パートナーシップはこのLOとそのカウンターパートであるSAFによって担われるべきものであった。あるべき賃上げ交渉パターンについていえば,民間製造業のなかでも機械工業を中心とした金属産業(労使)が賃上げパターン・セッターとなり,しかもその賃上げ水準は当該産業セクターの生産性伸び率に準拠すべきものであって,「保護」セクターはそのフォロアーとだけ位置づけられていた。積極的労働市場政策といい,連帯主義的賃金政策といい,それによってまず念頭に浮かべられていたのは現業マニュアル・ワーカーについてであった。ということになると,スウェーデン・モデルを一国工業社会モデルというよりも,「マニュアル・ワーカーのための一国工業社会モデル」といったほうがより正確になるだろう。

 モデル内在的な困難

 このように,スウェーデン・モデルをマニュアル・ワーカーのための一国工業社会モデルと定義してみると,たちまちそのモデルに内在的な困難(少なくともそのいくつもの契機)が浮かび上がる。第1に,ホワイトカラーの利害や理念をどこまでどのようにして代表しうるのか。第2に,商業や建設業,農業やサービス業さらに公共部門といった「保護」セクターの利害をいかに代表しどう相互調整しうるか。とりわけ,市場競争から迂遠な公共部門の利益代表・利害調整がどこまで可能か。第3に,製造業の国境を超えた活動と利害関心の高まり(多国籍企業化)にどう対処しうるか-といった基本的な問題群に思い至る。
 第1のホワイトカラーとの利害調整という問題は70年代に入ると著しく困難になった。PTKをはじめLOとは独立に3つの賃金交渉カルテルが組織された。しかし困難はこれに限らない。必ずしもLOの連帯主義的賃金政策に同調しないホワイトカラー・ユニオンはマニュアル・ワーカーとの賃金格差温存を期して,「LOの意図に反して」賃上げ補填保障(賃上げスライド保障)を要求しそれを勝ち取った。繰り返し指摘したように,70年代以降のスウェーデンにおける継続的な大幅賃上げはその重要な原因をこうしたユニオン・ライバルリーと賃上げ競争という構造に求めることができる。
 しかし,高度工業化が一国の職業構造におけるホワイトカラー層の増大を招くことはほとんど否定することができない。マニュアル・ワーカーの組合LOはホワイトカラーの利害関心を吸収することができず,かえってそれと対峙してジリジリとそのリーダーシップを喪失していった。スウェーデン・モデルの内在的困難のひとつは確かにここにあった。
 第2の「保護」セクター,なかでも「肥大化」する公共部門は一方で明らかに福祉水準の高度化に大いに貢献したけれども,他方でそれは着実にスウェーデン・モデルを蚕食していった。もともと「保護」セクターの肥大化などスウェーデン・モデルと相容れないものではあった。その「保護」セクターが先行して賃金交渉のテーブルに着くことも1,2回ではなかった。彼らもまた賃上げ補填保障を要求して大幅な賃上げをもたらした。さらに,こうした公共部門の拡大は政府の賃金決定への実質的「介入」を高めることになった。
 とはいえ,この公共部門の「肥大化」もまた福祉国家(完全雇用の維持と社会保障・福祉の充実)の成熟という政策シナリオを前提とする限り(そこに行き過ぎがなったにせよ),ほとんど避けがないことであった。
 公共部門の「肥大化」と「国内製造業の衰退」とが70年代に同時並行して進行したために,たちまち政府は貿易赤字と財政赤字とに直面しなければならなかった。国債発行によって金利は上がり,労働コストに加えて資本コストも高まった。76年から82年までの度重なるクローネ切り下げも効を奏さなかった。かえって製造業の経営革新は停滞し,インフレを増幅させた。このように,70年代のスウェーデン経済はいまから振り返ってみると,まことに惨憺たる状況にあった。LOもSAFも政府もそのリーダーシップを失っていた。スウェーデン経済はほとんど自らの動力ももたず,舵取りさえもいない漂流船にどこか似ていた。こうして70年代に,スウェーデン・モデルはひたすら崩壊の一途をたどった。
 第3に,スウェーデン・モデルは単に工業社会モデルであったという以上に一国の工業社会モデルであった。輸出に大きく依存する小国(スウェーデンもその例に漏れない)がその担い手たる製造業の国際競争力を失ったらどうなるか。スウェーデン・モデルにはそういった危機感があふれているといってもよい。しかし70年代には,実際にそういうことが起こってしまった。その過程で,製造業の多国籍化を促すような構図も出来上がっていった。スウェーデン国内での資本と労働コストはともに高まり,企業税制も企業経営にマイナス(つまり増税)の方向で改定された。その間も大手企業の輸出依存率はますます高まっていた。そうなれば,これら大手企業も厳しい国際競争にさらされている以上,国内生産に固執し続ける意味はなくなる。事実,80年代に入ると次第に海外直接投資は活発化し,その後半には著しい伸びを示した。有力なスウェーデン製造業の多国籍企業化であった。その分,彼らの利害関心はスウェーデンの国境を超えて出ることになった。この関心の地平の国境を超えた拡張は,LOのまなざしがなお基本的には国内に閉ざされているのとは鋭い対照をなしている。
 このように,スウェーデン・モデルの一方の基本的な担い手である有力な使用者(団体)の利害関心が市場の国際化が進むなかで自らの国際競争力にその関心を研ぎすましていくこと自体避けがたいことであった。そうだとすれば,その国際競争力の維持向上にマイナスに働くだろうスウェーデン・モデルに対して批判的たらざるを得ない。スウェーデン・モデルに取って代わるべく新たに構想された将来指針があのSAFの「90年代ビジョン」にほかならない。そこには個人主義化,分権化,国際化という「3つの発展傾向」が特筆大書されていた。それらいずれの趨勢もスウェーデン・モデルにとってそれぞれ侮ることのできない大きな脅威であるに違いなかった。
 以上要するに,ホワイトカラーの利益代表・利害調整において,また「保護」セクターの制御という点で,さらに製造業の国際競争力を傷つけない経済社会システムづくりという側面で,ことごとくスウェーデン・モデルは「失敗」した。そしてその構造的な原因というのであれば,一方においてスウェーデン・モデルが原理的にはマニュアル・ワーカーの利害関心に沿って構想された一国工業社会モデルであったということ,しかし他方では,現代マクロ趨勢とは「マニュアル・ワーカー」「一国」「工業社会」といったいずれのキーワードをもそれぞれに押し退け,相対化し衰弱させていくプロセスにほかならないという点に思い至らざるを得ない。つまり,スウェーデン・モデルの基本属性と現代のマクロ趨勢との間には大きな深い溝が横たわっていた。どこまで意図したかあるいは自覚し得たかはともかくも,LOもまたSAFもその溝を埋め切れなかった。ここに,スウェーデン・モデル崩壊の最も内在的かつ根本的な原因がある。その意味で,Ahlen(1989)の推論(ポスト工業化が現代の基本趨勢である以上,なかば自動的にスウェーデン・モデルは崩壊する)は注目に値する。しかし,かといってLash and Urry(1987)のように,現代の資本主義は「脱組織化(Disorganized)」されつつあり,その複合推力は高度工業化に伴う職業構造の変動であり,それをテコとした利益集団の多元化・分散化であり,脱-階級政治化と脱ネオ・コーポラティズム化であり,また経済国際化による「ナショナル・プロジェクト」の衰退であり,ナショナル・レベルの集権的労使関係の分解であり,さらにはポスト・モダニズムの台頭であり,分権的な「新しい社会運動」の隆起であるなどと単線的に主張できるとも思われない。有意義で魅力的な図式かもしれないが,ポスト工業化といい,市場の国際化といい,あるいはポスト・モダニズムといい,肝心な点はその水準と形態なのであり,それに関連づけて労使や政府といった主体の規範意識や選択を問わなければならない。

 国家不介入モデル・福祉国家・国際化

 スウェーデン・モデルの基本属性と現代マクロ趨勢という点に関連してさらに言及しておくべきことがある。そのひとつは,国家あるいは政府の位置づけについてである。社会的パートナーシップといい賃上げ交渉パターンといい,さらには積極的労働市場政策まで含めて(その設計と運用は政治労使代表からなる3者構成機関AMSとその下部機関によってきた),スウェーデン・モデルに落ちた政府の陰はもともと小さい。確かにこのモデルには,社会と国家の間に明確な一線を引いておこうという精神があふれている。
 けれども,このモデルはその大きな(唯一ではないにせよ)目標を福祉国家の構築に求めてきた。したがって結果として,それは福祉国家と名づけられた大きな国家をもたらす可能性が高い。端的にいって,「政府の陰の薄い」スウェーデン・モデルの目標が大きな(福祉)国家の建設とは矛盾ではないだろうか。70年代に製造業の雇用が大幅に縮減したとき公共部門の雇用は大きく伸びた。そのひとつの背景にあったのは一方では完全雇用の維持という考え方であり,他方では教育・福祉サービスの充実という方針であった。それは定義上,「保護」セクターの拡大につながる。政府もまた大きな存在となる。もしそれが一定の水準を超えて肥大すれば,その存在はそれ自体スウェーデン・モデルを否定することになりかねない。実際その危惧は的中し現実のものとなった。そうなればなったで今度は,福祉国家の「縮小」(民営化の推進であれ保障・福祉サービスの削減であれ)に向けた政府の権能が問題になる。こうして,いずれの局面においても政府の存在は大きなものたらざるを得ない。そしてスウェーデン・モデルが十分に機能し得ない場面になればなおさらのこと,所得政策の発動であり税制改革であれ,あるいは国債発行であれ通貨政策であれ,国際通商政策であれ外資の自由化であれ,どれをとっても政府の政策とリーダーシップが鋭く問われる事柄ばかりである。70年代以降この20年ほどのスウェーデン社会が経験してきたのはまさにこうした課題であり,それへの取り組みであった。スウェーデン・モデルの崩壊が進んだからである。
 こう見てくると,福祉国家の成熟が向かうであれ,またそれから「退却」するであれ,いずれの局面においても国内的に政府の働きが問われることになる。それに加えて市場の国際化ということになれば国際的にも国家(政府)の権能が大きくクローズアップされる。それもまた避けがたいことだといってよい。そう考えると,現代社会においては国家「不介入」モデルとしてのスウェーデン・モデルの構想そのもののなかにどこか不自然さと無理があるのではないかという仮説に思い至る。繰り返して言うが,一方でスウェーデン・モデルが順調に機能した場合でもその所産として「肥大化」した福祉国家(大きな政府)がもたらされる可能性が高いという意味において,また他方では福祉国家からの「退却」が政治課題となるような場面で問われるのは「小さな」政府のための「強い」政府であるに違いない。したがって,スウェーデン・モデルはうまく機能するであれ予定の軌道を逸脱するであれ,「大きな」あるいは「強い」政府を招致する可能性が高いということ,これがひとつ。いまひとつは,一国政府は国際社会とのインターフェイスにおいてその権能を拡張する傾きをもっているということである。たとえそれが,国家の「規模の適正化」(「大きな問題を処理するには小さすぎ,小さな問題を扱うには大きすぎる」)という問題を抱えているとしてもである。実際この20年ほどのうちに,国家間の相互依存関係は国際的な「ゼロ-サム経済化」によって一挙に高まった。
 要するに,福祉国家的文脈においてもまた国際的な相互依存関係の高まりという現代的コンテクストに照らしても国家(政府)の位置と役割はかえって大きく膨らむ可能性がある。もしそうだとすれば,国家不介入モデルに固執することには無理があると言わなければならない。

 集権的モデルと「民主化」

 もうひとつの論点は,スウェーデン・モデルが集権的なモデルであるという点にかかわりがある。すでに細かく述べたように,現実には70年代以降スウェーデンの賃金交渉もまた労使関係制度も次第に分権化への傾斜を深めていった。そしてそれがスウェーデン・モデル崩壊のひとつの証左となった。しかも70年代の労使関係制度の改変は,その実質において80年代後半に登場する連帯主義的労働政策,「労働の発展」プログラムと深いかかわりをもつものであった。
 ここで注目したいのは,70年代初頭の国際的な労働者参加運動の隆起やそのひとつの所産であった「労働の人間化」プロジェクト(その最初の国際会議は72年に開催されている)も,その背景に旧東側世界をも包み込むような「民主化」の大きなうねりがあったということである。後の表現でいえば,ポスト・テイラーリズム,ポスト・フォーディズムの先駆的な運動をそこに認めることができる。職場の一般労働者の仕事のみならず経営についてもその発言力を高め,制度的にもその機会を保障しようとする動きであった。その高い波頭はスウェーデンにも及び,サルチオバーデンの精神に反するような「経済民主主義」まで産み落とした。いま大切な点は70年代の新しい労働立法(共同決定法,労組職場代表法,労働安全代表者の権限強化など)といい,また「労働の人間化」プロジェクトといい,さらには80年代後半の「労働の発展」運動といい,それぞれに企業内労使関係の成熟を通じて労使関係の分権化を促したということである。したがって,分権化は使用者の一方的な思惑によってもたらされたものではなかった。その意味で,集権的モデルとしてのスウェーデン・モデルは明らかに「下から」の要求,職場の一般労働者の仕事や経営に対する発言力の高まりとそれを担保した新労働立法によって分権化されていった,少なくともそういう側面があることは否定できない。すでに触れた「個人主義化」という要因がその結果として多様化・個性化を増幅させながら,従来の「上から」の労働組合の画一的な統率力に対して拒否的に反応したこともまた想像に難くない。

3.2 いくつかの「管理」問題-モデル崩壊の示唆するもの

 スウェーデン・モデルは,このようにそのモデル内在的にいくつかの困難を抱えていた。それは何よりもマニュアル・ワーカーのための一国工業社会モデルであった。国家「不介入」を旨とした集権的モデルでもあった。しかしこれら基本属性と現代マクロ趨勢の間には無視することのできない大きな溝があった。したがって,スウェーデン・モデルの(崩壊ではなく)存続のためにはそれ相応の「自制」なり「修正」なりが必要であったように思われる。
 とまれ,スウェーデン・モデルの崩壊が語りかけているものは何か,それが示唆しているものは何か-そのいくつかを拾い出してみよう。少なくとも3つの「管理」問題,すなわち,利益代表管理,分配公正管理そして国際競争力管理といったテーマが浮かび上がる。

 利益代表管理

 スウェーデン・モデル崩壊のひとつの大きな原因は,LOがセクター横断的な,しかし基本的には民間部門のマニュアル・ワーカーの利益を代表する労働組合であって(このことはLOが「包括的」組織であることと必ずしも矛盾しない),そのためにホワイトカラーや公共部門の労組の利害とぶつかり相互の反目が増幅されユニオン・ライバルリーが結晶したということ,そしてそれが契機となって賃上げ競争が生じたということ-この労労対立の構造に求めることができる。
 しかしひとつの仮説としていえば,もしスウェーデンの労働組合の組織形態がマニュアル・ワーカーとホワイトカラーといった大職業別のものではなく,ブルーカラーとホワイトカラーの別なく産業別に組織さていたとしたら,どこの国でも随所に見いだせる産業別の「セクター間クラッシュ」は避けがたいとしても,それに加えてブルーカラーとホワイトカラーの利害対立がこれほどまでに鮮明になり増殖されることはなかったのではないかという思いが念頭を去らない。別な言い方をすれば,利益代表の機軸が産業(いわんや企業)ではなく職業に据えられているところにスウェーデン・モデルの著しい特徴がある。現実には産業セクター別の格差(さらには利害対立)が多種多様に存在することは避けがたいから,ブルーカラー・ホワイトカラー別に労働組合が組織されているということは利害の分裂・対立がさらにそれによって錯綜し,利益代表の構造が複雑になることを意味している。要するに,利益代表管理がより困難になるということにほかならない。
 SAFという使用者団体を一方においてみると,スウェーデンの頂上的労使関係が決して労使対称ではないということに改めて気づくだろう。SAFという使用者頂上団体はLOばかりでなくTCOやPTKともかかわる。つまり労使関係という舞台に限っていえば,使用者の頂上団体はひとつであるが労働組合のほうはマニュアル・ワーカーとホワイトカラーに分裂している。スウェーデン・モデルの「黄金時代」とは両者の対立が潜在的なものにとどまっていた時代のことである。しかし60年代後半にはホワイトカラー・公共部門の労働組合が自立しはじめ,70年代になるとLOとの反目が表面化し対立関係が構造化した。したがって,労働側がその利益代表管理に「失敗」したことがスウェーデン・モデルの崩壊につながったと言わなければならない。
 もう一点,現代的な利益代表(管理)のありようをめぐって触れておかねばならない点がある。それは,「マイノリティ」の利益代表といった問題を含めて,利害関係が著しく錯綜している現代社会にあって果たして使用者団体や労働組合が(頂上団体であるか「麓団体」であるかを問わず)どこまで正当かつ高い利益代表性をもち得るかということである。たとえばネオ・コーポラティズムが終焉した根拠に触れて,W.ストリークとP.シュミッターは「両極分解した社会的亀裂とアイデンティティというコーポラティズムの作業仮説はまことに英雄的な単純化以外の何者でもない」(Streeck and Schmitter 1991:147)と記している。「英雄的な単純化」であるかどうかはともかくも,一点突破型の「新しい社会運動」(環境やエスニシティ,ジェンダーや消費者といったカテゴリーに沿った運動)との利益「調整」が問われていることは否定できない。要するに,それぞれ「生産者」の組織である労使団体がこうした「新しい社会問題」に対して広く胸襟を開き,高い「包括性」と利益「調整」能力をどこまで発揮することができるか-この点が鋭く問われるだろう。もしこの力量に欠ければ,コーポラティズム型の利益代表構造・利益媒介行為といったものは「英雄的な単純化」というそしりを免れない。

 分配公正管理

 LOの連帯主義的賃金政策は産業セクター・企業横断的な「同一労働同一賃金」という考え方と高位平準化による賃金格差の縮小という2つの柱から成り立っていた。そこに誰しもある種の平等主義思想を見て取ることができる。この政策は一方で確かにマニュアル・ワーカー内部における賃金の高位平準化に貢献した。しかし他方で,ホワイトカラー組合の支持まで取りつけることはできなかった。LOの政策がLO外部にまでは広がらなかったといえばそれまでであるが,次第にその勢力を増しつつあったホワイトカラー組合の関心はむしろ「公正な格差」という点に向けられており,連帯主義的な平等思想とは明確な一線を画していた。それが70年代以降,賃上げ補填保障(賃上げスライド保障)という形でスウェーデンにおける大幅賃金上昇のバネとなった。しかし興味深いことに,80年代中期に行われた意識調査の結果はLOメンバーのなかでも連帯主義的賃金政策はせいぜい2割の支持率を得ていたにすぎないことを明らかにしている。「新しい『労働者の個人主義』」「職場のなかの新しい個人主義」の台頭という見方が現実的なものだとすれば,連帯主義(賃金政策であれ労働政策であれ)とそれがかもし出す平等主義という思想はもはやマニュアル・ワーカーの心さえ捉えがたくなっていたと見なければならない。平等主義とは異なる社会的資源・機会に関する新しい配分ルールが問われていたということだろう。
 もうひとつの分配問題はいま少し広い文脈にかかわっている。ほかでもないスウェーデン福祉国家のありようについてである。60年代以降のその「肥大化」現象に関しては繰り返し触れた。それは高水準の社会保障や福祉サービスのなかに,また公共部門の雇用増という形で具体化されたばかりではない。福祉国家を支える重税構造にも使用者に対する賃金以外の大きな労働コストにも,さらには国際的に見てかなり高率なアブセンティーイズム(SAF 1990c)といったもののなかにも現れている。そしていまその肥大化したスウェーデン福祉国家に大なたが振われようとしている。「ヨーロッパ水準」への平準化がその目安となっている。スウェーデン産業連盟(SIF:Sveriges Industriforbund)のM.マジョレンコ氏をはじめとして,「EC加盟がスウェーデン経済を救う切り札である」という話を随所で耳にした。
 そうはいっても,福祉国家の限りなき「退却」が支持されているというわけではない。80年代中期までの各国意識調査によれば,その重税にもかかわらず福祉国家はなお大方の支持を集めていた(cf., Kosonen 1987)。A.ハーシュマンのように,集合主義(Collectivism)と個人主義(Individualism)の振り子運動仮説に立脚して福祉国家の「退却」現象を解釈しようとする見方もある(cf., Hirschman 1982)。けれども,いまその動き(振り子)がどちらに向かって振れているかといえば,P.コソーネンと同じく,「集合主義から個人主義へ」のモメンタムが強まっていると言わなければならないだろう(cf., Kosonen 1987)。集合主義的で平等主義的でもあるような資源・機会配分ルールはひとまず後退し,それに代わってより個人主義的な業績主義がその相対比重を高めつつある。しかしなお,それは決して個人主義の「制覇」を意味しない。その新しい資源と機会配分ルールがいかなるものであるか,まだ誰も知らない。
 とまれ,それが連帯主義的で平等主義的なものでないことは事実の経緯に照らして明らかだろう。20年このかた,たとえ緩やかにであれ振り子は集合主義から個人主義の方向に向かって振れた。スウェーデン・モデルはこの流れに抵触し,その限りで分配公正管理に「失敗」した。80年代を通じてSAFをはじめスウェーデンの使用者団体は次第にこの点での方向転換を図り,その「90年代ビジョン」では明確に「個人主義化」という将来展望を打ち出した。それはスウェーデン・モデルへの決別の辞であった。

 国際競争力管理

 スウェーデン・モデルは,このように利益代表管理,分配公正管理に「失敗」しただけではない。もうひとつ肝心かなめな点で大きくつまずいた。それがスウェーデン・モデル崩壊の致命傷となった。
 もともとこのモデルは「競争」セクターであるスウェーデン製造業,とりわけ機械工業の国際競争力の維持向上という点に慎重すぎるほどの気配りをしていた。EFOモデルを見れば明らかなように,それが衰退したのでは元も子もないといった構造をこのスウェーデン・モデルはもっていた。しかし実際には,EFOモデルの警鐘乱打にもかかわらず,スウェーデン機械工業の国際競争力は70年代から80年代にかけて目立って衰えた。数度の通貨切り下げは経営革新を遅延させ,短期ブームによって労働力不足を誘発し賃金を高騰させ,そしてインフレを昂進した。国際競争力はいよいよ衰えた。こうした国際競争力の衰弱を伴うようなポスト工業化現象は「国内製造業の衰退」と呼ぶにふさわしい。スウェーデン経済はそれを70年代以降に経験した。国際競争に伍していくために有力メーカーの目は次第に海外に向けられ,やがて多国籍企業化への道を歩むことになった。高い労働コストと重い金利負担,さらに重税構造といったプッシュ要因に突き動かされた「国際化」であった。
 公共部門の肥大化,それと並行した国内製造業の衰退,こういった産業構造の出現は言うまでもなくスウェーデン・モデルの意図しない,むしろ全力を挙げて回避すべき構図であった。しかし現実には,スウェーデン・モデルは70年代にその国際競争力管理に「失敗」した。
 そうして大事な点は,ひとたびこうした国内製造業の衰退を経験した国民社会が成功裡に「再工業化」できた例をわれわれはいまだ知らないということである。レーガノミックスといいサッチャーリズムといい,政策思想としてならいざ知らず,こうした試みがそれぞれの国で成功したとは到底言うことができない。

 まとめ

 ネオ・コーポラティズムの「宗主国」と言われるスウェーデンについて,およそこの20年ほどのうちにスウェーデン・モデルが崩壊したという観察を最近よく目や耳にする。もしそれが事実だとすれば,いったいいつどのようにしてそういった崩壊現象が起きたのか。その点を確かめる必要に迫られた。というのも,日本についてであれば,第1次石油危機後ある種のネオ・コーポラティズム的な利益代表行動・マクロ政策決定機構が生み出され,いまではそれはかなり制度化されている。同じ時代,一方のスウェーデンでコーポラティズムが崩壊し,他方の日本ではそれが新たに生成し発展したということなのだろうか。もしそうだとすれば,両者のこうした違いはどこに淵源しているのか。さらに,スウェーデン・モデル崩壊の日本にとっての示唆は何か-こうした問題関心に強く刺激されたからである。以下,こうした問いを念頭におきながらこれまでの記述を簡潔に要約し,いくつかの結論を書き留めておこう。

1 まず,スウェーデン・モデルとは何か。歴史的に見ると,サルチオバーデン協定(1938)に始まり,第2次大戦後レーン-メイドナー・モデル(1951)によってその骨格を与えられ,EFOモデル(1970)によって一応の「完成」を見たマクロ経済社会に関する政策モデルということができる。内容的には,第1に強力な社会的パートナーシップ,第2に積極的労働市場政策,第3に穏健で「適切な」賃上げ交渉パターンという3つの構成要素から成り立っていた。このうち,第1の要素は高い組織率と強い統率力をもった「包括的」組織としての労使頂上団体,それが構築する合意形成重視の柔軟で協調的な中央集権的労使関係,さらに経済民主主義の回避といった下位要素から構成されている。また第2の積極的労働市場政策には労働需要に見合った職種転換や職業紹介・労働移動といった狭義のそれに加えて,さらに産業政策にかかわる広義のそれも含まれる。第3の「適切な」賃上げ交渉パターンは,連帯主義的賃金政策,パターン・セッターとしての金属産業,生産性上昇に見合った賃上げ行動,国家の賃金交渉へ不介入といった諸要素から成り立っている。
 しかしこのスウェーデン・モデルは,さらに別の観点から見れば,LOによって主導されたマニュアル・ワーカー中心の一国工業社会モデルという基本属性をもっていた。また,LOと社会民主党との「緊密で組織的な」ブロック関係まで視野に収めていえば,スウェーデン・モデルの基本的目標は類例のない福祉国家の構築におかれていたといってよい。

2 しかし,スウェーデン・モデルは70年代に入ると明らかに変調を来し,以後崩壊の一途をたどった。その萌芽は早くも60年代後半に現れていた。公務員への交渉権・争議権の全面付与がひとつのメルクマールであるが,ホワイトカラーと公共部門の労働組合の賃金交渉力が高まり,それに先立つLO-SAFヘゲモニー(LO-SAF枢軸体制)が瓦解しはじめたのである。そして70年代にはその動きが決定的となった。したがってスウェーデン・モデルの「黄金時代」といっても,それは50年代中期からわずか10年ほど続いたにすぎない。しかもその当時でさえ,大幅な賃金ドリフトが生じていた。
 EFOモデルはこうした危険な兆候に対して警鐘を鳴らすものであった。国民経済を競争セクターと保護セクターに2分し,そのうえで今後とも激しい国際競争にさらされるだろう金属産業が賃上げパターン・セッターとなること,その賃上げ水準は長期的に生産性上昇率に見合ったものであること,逆に「過剰な」賃上げは中長期的に物価,投資,国際競争力,雇用といった諸側面に悪循環を生み出す可能性があること,保護セクターの生産性向上がスウェーデン経済の安定と成長に欠かせないことなどが多くの事実発見とともに提唱された。けれども,事実の経緯はこのEFOモデルから大きく乖離していった。社会的パートナーシップという点でいえば,スウェーデン・モデルの生みの親であったLOの排他的代表性は70年代以降大きく揺らいだ。「利益代表管理」の失敗であった。それは原理的には,LOがその「包括的」組織としての性格づけにもかかわらず,主として民間マニュアル・ワーカーの労働組合であったというところに起因していた。増勢するホワイトカラーや公共部門の組合は70年代にはLOと一線を画して自らの賃金交渉カルテルを構築し,頂上的賃金交渉の水平的分裂を図った。マニュアル・ワーカーとホワイトカラーの賃金格差という点でも,ホワイトカラー組合はLOの連帯主義的賃金政策に与することなく格差維持の方針を掲げ,「賃上げ補填保障」を使用者に求めてそれを手に入れた。連帯主義的賃金政策はそれなりに効を奏してマニュアル・ワーカー内部での賃金格差を縮めたが,ホワイトカラーとの格差は変わることなく維持された。その結果は名目賃金の大幅増であった。早くも69年には,ホワイトカラー組合が金属労組に先駆けて賃上げ要求を提出するようになった。こうしたことは,構造的にはすべてユニオン・ライバルリーに基づくものであった。こういった軋轢と反目は従来のLOの排他的代表性を侵食し,賃上げ競争の格好のバネとなった。
 こうしたユニオン・ライバルリーの背後には,ホワイトカラー組合の連帯主義的賃金政策に対するぬぐいがたい違和感があった。分配公正をめぐるLOとTCOあるいはSACO/SR,もっと一般的にいえばマニュアル・ワーカーとホワイトカラーの利害関係の亀裂はついに修復されることがなかった。その意味で,スウェーデン・モデルは「分配公正管理」をめぐる組合間調整に失敗した。
 社会的パートナーシップの他の構成要素もまたこの70年代に大きく傷ついた。所得政策論議の台頭,肥大化した公共部門にかかわる賃上げ交渉,合意形成的アプローチとは異なる労働の人間化や労働者参加などを盛り込んだ新労働立法,さらにはサルチオバーデンの精神に抵触する経済民主主義(労働者基金)の動きなどが例証しているように,この時期,国家(政府)の役割は従前に比して目立って高まった。賃金交渉への国家不介入の原則がその実質においてかなり空洞化した。

3 同じ70年代,国内製造業の衰退という深刻な事態も生じた。ユニオン・ライバルリーによる賃金度リフトを含む賃上げスパイラルと悪性インフレ,「賃金爆発」と賃上げ規範の空文化,数次にわたる通貨の切り下げの深刻な悪影響(経営イノベーションの遅滞,短期的ブームによる労働力不足と名目大幅賃上げ,そしてインフレ昂進と実質賃金の悪化など),保護セクターの膨張と福祉国家の成熟に伴う実質的な企業増税,さらには高い資本コスト,こういった要因を背景にして,スウェーデン製造業の国際競争力は80年代前半期まで目立って衰退した。先に「国際競争力管理」の失敗と呼んだ現象である。市場の国際化がますます進むなかで,スウェーデン経済の競争セクターの国際競争力は大きく落ち込んだ。それはスウェーデン・モデルの致命傷となった。

4 いったい,狭義の積極的労働市場政策はこの「大混乱」の70年代にどれほど効果的に機能し得たのか(広義のそれがろくに機能しなかったことは国際製造業の衰退,公共部門の肥大化現象に照らして明白であろうう),それを経験的に確定することは難しい。それでも労働市場政策関連予算の支出内容を見てみると,第1次石油危機後の10年ほどのうちに「消極的」労働市場政策支出が3倍に膨れ上がり,他方リリーフ・ワークや障害者のための雇用創出への支出が減っていることが知られる。

5 社会的パートナーシップ,「適切な」賃上げ交渉パターンといういずれの観点から見ても,スウェーデン・モデルの大切な構成要素のひとつはその中央集権的な労使関係・賃金交渉にあった。しかし80年の戦後最大の「大争議」を経て,やがて使用者側は明確に分権的賃金交渉,企業内労使関係成熟への道を選択しはじめた。垂直的分権化への意思である。それがスウェーデン・モデルの放棄を意味することは言うまでもない。その決意はSAFの「90年代ビジョン」によってさらに揺るぎないものとなった。
 70年代の苦々しい経験を踏まえて,賃金決定は個別の産業・企業の状況,したがってその時々の市況や業績,生産性や技術変化,価格形成や競争関係などにフレキシブルに対応することができるバラエティに富んだものであり,個々人の仕事の出来栄えをも十分反映したものである必要がある-そうした状況を生み出すためには中央集権的な賃金交渉はまったく馴染まない,そういう結論に到達した。SAFの「個別賃金管理」という表現に刻印されているのは,端的にいって個別の企業と従業員個々人,つまり「企業」と「個人」という2文字であるといってよい。それは言うまでもなく,LOの連帯主義的賃金政策とは真っ向から対立する。
 こうして80年代に顕在化した労使関係分権化への流れは,しかし使用者の一方的なイニシアティブによって方向づけられたわけではなかった。というのも,70年代に導入されたいくつかの新労働立法は企業内労使関係の「充実」をもたらしたが,その背景には職場の一般労働者の「民主化」への要求が息づいていた。企業内労使関係の充実への動きは80年代後半に金属労組が打ち出した連帯主義的労働政策によっても増幅された。「よい」仕事はそれぞれの企業あるいは職場で作り込んでいくほかなく,そのためにはそれにふさわしいレベルと形態で労働者の発言力を高めていく必要があるからである。

6 SAFは上記の「ビジョン」のなかで個人主義化,分権化,国際化というスウェーデン・モデルを彩る精神とはむしろ対抗的な「3つの発展傾向」をくっきりと描き出し,さらに加えてサッチャーライトな面持ちをもって伝統的な3者構成主義をも否定し,積極的労働市場政策(狭義)の担い手であったAMS(全国労働市場庁)からの脱退まで宣言した。いまやSAFはかつての「包括的」組織としての性格さえ払拭しようとしているかに見える。LOがいまもなおその「伝統的」な観念と政策に執着しているのとは著しい対照を見せている。かつてスウェーデン・モデルを支えてきた労使頂上団体の見解は,いまではこうして大きくかけ離れてしまった。使用者団体の基本姿勢がこうしたものである限り,もはや旧来のスウェーデン・モデルの復活など思いもよらない。レーンブルク委員会の後にいったいどのような新機軸が打ち出されることになるか,いまは誰にも分からない。しかしそれがスウェーデン・モデルでないことだけは確かだろう。

7 このスウェーデン・モデルの終焉が示唆していることは何か。少なくとも,3つの「管理」問題を挙げることができる。第1に利益代表管理,第2に分配公正管理,第3に製造業を中心とした競争セクターの国際競争力管理という問題である。これらいずれの側面においてもスウェーデン・モデルは大きな困難を抱えた。最初の「利益代表管理」についていえば,民間マニュアル・ワーカーの利益代表に傾斜しがちであったLOはホワイトカラーや公共部門の労組と相容れないところがあった。産業セクター横断的にマニュアル・ワーカーとホワイトカラーといういわば職業大分類に沿って労働組合が組織されているというこの組織形態上の特徴は,他のスカンジナビア諸国においても例を見ない。それがひとつの災いとなって労働側の利益代表管理は支障を来した。高度工業化,さらにポスト工業化に伴う現代マクロ趨勢を考えれば,こうした調整なき組織分裂はいかにも時代遅れのものであった。70年代以降,スウェーデン労働戦線の足並みは大きく乱れた。労使協調路線のひび割れに先立つ労労対立であった。
 この利益代表管理という問題をもう少し一般化していえば,さらに多くの問題点が浮上する。なかでも重要なポイントのひとつは,いかに資本主義社会とはいえ,利益錯綜の著しい現代社会にあって果たして使用者団体や労働組合といった「生産者」組織がどこまで社会的な利益媒介構造の主役たり得るかという問題である。もしこの問いに否定的に答えるとすれば,それはそのままネオ・コーポラティズムの困難を指示することになるだろう。
 第2の分配公正管理にもこうした労労対立が投影されていた。LOの連帯主義的賃金政策はホワイトカラー組合の支持するところではなかった。マニュアル・ワーカーの平等主義に対して,ホワイトカラーは「公正な格差」維持という路線を選んだ。両者の亀裂は埋められなかった。所得の分配公正という点に限定しても,60年代以降のスウェーデン社会が経験したある意味でもっと大きな公正問題があった。それはスウェーデン・モデルの目標ともいえる福祉国家の成熟問題である。完全雇用の維持と潤沢な社会保障・福祉サービスの普遍主義的な供給,それが高福祉・高負担の構造を生み出すことは火を見るより明らかである。しかも,スウェーデン製造業の国際競争力が目立って衰えはじめた70年代においてもそれは遂行されねばならなかった。保護セクターは見る見る膨張し,名目賃金の大幅な伸びにもかわらずインフレ昂進によって実質賃金は落ち込んだ。こうした事態は言うまでもなくスウェーデン・モデルのめざすものではなかった。
 もちろん所得再分配以外にも,たとえば権力構造をめぐる分配公正管理を問うことができる。70年代になって明確になったLO-SAFヘゲモニーの喪失は,まずは頂上的労使関係における水平的分裂という形で現れたが,80年代にはそうした中央集権的な労使関係・賃金交渉のありようそのものが問われることになった。前者は頂上的労使関係における水平的な権力分配の問題であったが,後者ではそれがさらに垂直的権力配分の問題に深化した。
 第3の「国際競争力管理」の失敗については多言を要しない。利益代表管理,分配公正管理の失敗によって国際競争力管理もまた失敗に終わった。そしてそれがスウェーデン・モデルの致命傷となった。この「第3の失敗」が示唆している大事な点は,製造業を中心とした競争セクターの国際競争力が衰えはじめたとき,当該セクターはその競争力回復あるいは維持(再工業化)のためにその国の「政治経済」,ここでいえばスウェーデン・モデルをその根本から覆すような試みに着手することがあるということである。それほどまでに製造業の国際競争力がもつ意味は大きい。貿易収支といい国家財政といい,さらには通貨価値といい,ひいてはそれらの負の連鎖反応といい,もしその競争力に構造的な陰りが生じた場合にいかにその負の影響力が大きなものに膨れ上がっていくか-スウェーデン・モデルの崩壊はそのことを雄弁に物語っている。実際,70年代にスウェーデン製造業の国際競争力が衰退するという重大な事実があったればこそ,1つには労使関係の分権化や賃金管理(広くは人事労務管理)の個人主義化という動きが80年代になって一挙に表面化したのであり,いま1つには多国籍企業化という形で国際化の動きが急激に加速したものであった。そして大切な点であるが,この後者が示唆しているのは,一国の国境線の上に「包括的」組織の協調行動が重なったかつてのコーポラティスト的な構図が瓦解していくということであった。
 こうして第1次石油危機,およそ20年の歳月を費やしてスウェーデン・モデルは崩壊した。いまこの香り高く個性豊かなマクロ経済社会モデルはかつての自信と覇気を喪失し,ひたすら「ヨーロッパ化」へのいばらの道を歩みはじめたように思われる。



第2章 試練のなかのオーストリア・モデル

 はじめに

 ハンガリー,チェコ,スロバキア,ポーランドそして旧ユーゴスラビアといった旧東側世界との間に長い国境線をもつオーストリアは,シュミッター(Schmitter 1981)やレーンブルッフ(Lehmbruch 1982)もそう記しているように,スウェーデンと並ぶコーポラティズムの「古典的」な社会と見なされてきた。もちろん,スウェーデン・モデルに関するコルピ(Korpi 1983)の批判と同様に,たとえばマリン(Marin 1985,1987)をはじめとしてこういったオーストリア・モデルの理解については異論もある。しかしその呼称やレイベリングの適不適という問題を超えて,オーストリアが個性的な「経済社会的パートナーシップ」(Wirtschaft-und Sozialpartnerschaft)を長期にわたって堅持し,それがその政治経済の要諦としてきわめて重要な時に国会を上回るほどの役割を果たしてきたことについて疑問の余地はない。
 ところで,このオーストリア・モデルあるいはオーストリア・ケインズ主義に対する国際的関心が高まったのはスウェーデン・モデルに対してよりも遅く,第1次石油危機後の70年代後半になってからのことである(Mitter und Worgotter Hrsg. 1990:4f.; Walterskirchen 1991:1-2; Guger 1992:338)。そして80年代に入ると,このモデルに関する英文の著作が一斉に公刊されるようになった(OECD 1981; Arndt ed. 1982; Flanegan et al. 1983; Tomandl and Fuerboeck 1986; ILO 1986)。実際,第1次石油危機後の一時的な経済混乱にもかかわらず,70年代後半から80年代初めにかけてオーストリア経済はその低いインフレ率といい失業率といい,また高い経済成長率といい投資性向といい,さらには実質賃金上昇率といい,そのマクロ経済パフォーマンスという点ではOECD諸国のなかでも最も良好な水準を保ってきた(OECD 1981:183)。オーストリア経済は,第1次石油危機後のスタグフレーションからの回復プロセスにおいて財政および国際収支の赤字に悩まされたが,他の多くの先進諸国に比べてその立ち直りには目を見張るものがあった(OECD 1981; 内山 1989)。それを可能にしたオーストリア・ケインズ主義とはいったいいかなるものか。こういった文脈に沿って,この時期以降,中央ヨーロッパのこの小さな「中堅国家」に大きな関心が注がれるようになった。
 しかし皮肉なことに,こういった国際的な注目を集めるようになって間もなく,80年代に入ると次第にオーストリア・モデルは大きく変質しはじめた。たとえば失業率は目立って高まり,膨大な財政赤字の累積問題が表面化し,87年以降国有企業に対する補助金も大幅に削減された。巨大な持ち株会社である国有コングロマリットAustrian Industries(OIAG:Osterreichische Industrieverwaltungs AG)が再編され,その鉄鋼部門であるVoest Alpineの非効率に対する「大改造」(経営陣の大幅な入れ替えや従業員の4割削減など)が企てられ,2大銀行(CreditanstaltとLanderbank)や電力会社(Verbundgesellschaft)が民営化され,それぞれ国家の持ち株率が51%にまで引き下げられた。1989年にはEC加盟申請が行われ,それに伴う農業や流通産業の効率向上と補助金削減といった将来方針(国民の間にはEC加盟についていまも根強い反対論がある)が公然と掲げられた。また,冷戦構造の崩壊に伴う東欧世界からの移民・難民の大量流入がひとつの弾みとなって極右・自由党が大躍進するなど,オーストリアは政治的にもその不安定さを増した。ウィーンの街角に「外国野郎,出て行け!」(Auslander raus)といった落書きも目立つようになった(Financial Times, 9 October 1991)。90年代に入るとインフレは進み,失業率もさらに高水準に達した(図2参照)。
図2 労働市場指標・インフレ率の推移:1965-91
 こういった80年代後半以降の「大改造」や民営化,財政赤字削減などの試み,さらには経営パフォーマンスの低下傾向は,一方ではオーストリア・モデルの内的変質といってよい側面をもっているが,他方では怒濤の勢いで押し寄せるいく種類かの国際化の波にさらされて,あるいはそれを先取りしてのことであった。その変調は内容的にいってオーストリア・モデルの「後退」とでも呼ぶべき事態を示唆している。
 スウェーデン・モデルについてとは異なって,いまもオーストリア・モデルの「崩壊」という議論をほとんど目や耳にしない。しかしこれらいくつかの事実からもうかがえるように,80年代に入って-その明らかな予兆は70年代後半の第1次石油危機からの回復プロセスのなかにすでに認められた-オーストリア・モデルはある種の変調を来し「後退」しはじめたように思われる(cf., Walterskirchen 1991:9f.)。もしそうならば,その理由は何か。また,その理論的あるいは実践的含意はいかなるものか。こういった疑問を抱えてわれわれがハプスブルク家の古都・ウィーンを訪れたのは1992年3月下旬のことであった(注1)。

(注1) 1992年3月23日(月)から25日(水)までの3日間,スウェーデンで一連のインタビュー調査を行ったのは稲上毅とH.ウィッタカーの2人であり,訪問先と人物は23日が労働者会議所(OAKT:G. Chaloupek),24日が連邦経済会議所(BWK:M. Mayr,F.Bauer),オーストリア産業連盟連盟(VOI:W. Tritremmel),社会労働省(H. Hopflinger),25日が経済研究所(WIFO:F. Butschek, W. Pollan, G. N. Busch),高等科学研究所(IHS:A. Worgotter),社会福祉政策研究ヨーロッパ・センター(B. Marin)であった。OGB訪問も23日に予定されていたが,担当者の突然の「ブリュッセル(ETUC)主張」で取りやめとなった。
 この場を借りて,いろいろとお世話いただいた在オーストリア日本大使館の谷口博文一等書記官および日本労働研究機構の星野淳子氏に感謝の言葉を申し上げたい。
 なお,WIFOのW.ポランとは同年7月に東京で,また彼の同僚であるA.グーガーおよびW. Blaasには同年8月にウィーンでそれぞれ会うことができた。

1 オーストリア・モデル-個性的な経済社会理論

 いったい,オーストリア・モデルとはどんな個性をもった政治経済モデルなのか。まず,この点から始めよう。オーストリア・モデルとは言わず,オーストリア・ケインズ主義といった言い回しもある。さらに,上記のような経済社会的パートナーシップ(注2)といった表現も見いだされる。これら3つの用語は深い内在的なかかわりをもっており,時に互換的に使われたりもする。しかし必ずしも同一の内容を意味しない。いくつかの文献に当たって,それぞれの言葉の意味とその相互関連を明らかにしておこう。

(注2) 使用者(団体)は「社会的パートナーシップ」という表現を,OGBなど労働組合は「経済的パートナーシップ」という言い方を好むという記述(OECD 1981:29,ILO 1986:1)も見受けられるが,ここでは特にそれらを区別せずただ社会的パートナーシップと使う。

 総称としてのオーストリア・モデル

 これら3つの言い方のなかで最も曖昧なのが,オーストリア・モデルという表現である。それがオーストリア・ケインズ主義,社会的パートナーシップよりも広い意味内容を含んだ言葉として用いられるからである。これに比べれば,オーストリア・ケインズ主義や社会的パートナーシップのほうははるかにその定義がはっきりしている。
 オーストリア・モデルという言葉づかいが見られる文献をいくつか洗ってみよう。OECDによる「社会政権」(Gesellschaftspolitik:Integrated Social Policy)に関する国際比較プロジェクトのオーストリア報告書(OECD 1981)には,早くもオーストリア・モデルという言葉が登場する。その構成要素に触れて,第1に独特の混合経済(大企業と主要銀行の国営化,相対的に強い生協運動,有力な多国籍企業と膨大な小零細企業群など),第2に「円卓的」に制度化された社会的パートナーシップ,第3に社会的パートナーと政党(注3)との緊密な関係に基づく完全雇用や平等社会の実現といった社会的目標の共有(その歴史的背景にはプラグマティックな社会主義(注4),リベラリズムの豊かな伝統,そしてキリスト教的な社会教義といったものがある),第4に中央集権的な意思決定という4つの点を挙げ,社会的パートナーシップこそオーストリア・モデルの中心的特徴をなすと記したうえで,その社会的パートナーシップの歴史的形成プロセスや制度的形態について言及している(OECD 1981:156f., 161, 230-235)。確かに,この社会的パートナーシップをオーストリア・モデルと言い換えているようなケースも見受けられる(早い事例として,Klose 1970)。
 このオーストリア・モデルという言い方は他の文献にも登場する。たとえばILO調査団によるオーストリアの労働組合と労使関係に関する調査報告(ILO 1986:2)にも,また同じくILOの「失業と労働市場の柔軟性」シリーズのオーストリア篇(Warterskirchen 1991:Preface, 1)のなかにも,わずか数箇所ではあるがオーストリア・モデルという表現が見いだされる。しかし,このうち前者はオーストリア・モデルの定義について一切触れていない。また後者のヴァルタースキルヘン報告でも,「オーストリア・モデルといっても経済学者にはお馴染みのハイエクやフォン・ミーゼスなどの「オーストリア学派」とはまったく関係がない」と書いているほか,本文中にはオーストリア・モデルという言葉は登場しない(この後者の場合,オーストリア・ケインズ主義がオーストリア・モデルとほぼ等置されている)。同じオーストリア・モデルといっても,もっと別の用語法もある。たとえばTraxler(1992)は,その労使関係の柔軟性に関して,第1に80年代の政労使はこぞってオーストリア産業の国際競争力,経済パフォーマンスの維持に強い関心を注いだこと,第2に労務管理に関する経営者の自律性がその競争力の発展に寄与したこと,第3に企業外の労使が大きな権限をもっている点などに触れている。この用法では労使関係のオーストリア・モデルというニュアンスが強い。
 要するに,OECDの「社会政策」に関する報告書(OECD 1981)を除けば,オーストリア・モデルという言葉の意味は不鮮明であり,他のオーストリア・ケインズ主義や社会的パートナーシップほど多用されていない。それは時にオーストリア・ケインズ主義と互換的に使われたり,また社会的パートナーシップと等置されたりする。こういった事情を斟酌すれば,ここでオーストリア・モデルという言い回しをする場合,それはオーストリア・ケインズ主義や個性的な社会的パートナーシップを包含する一種の総称表現であると理解してよいだろう。

(注3) 多くの政変にもかかわらず,20世紀におけるオーストリアの政党構成はオーストリア・マルクス主義と親和的な社会(民主)党,キリスト教民主主義の系譜にある国民党,そしてドイツ系オーストリア人を支持母体とする右翼・自由党という3党あるいは「2.5党体制」を長期にわたって維持してきた。労働総同盟は社会党との間に特別の紐帯を形成してきたが,本文中でも触れているように,そこに「排他的」な政党支持関係はない。詳しくは,OECD 1981: Annex 1参照。

(注4) V.アドラー(Adler),O.バウアー(Bauer),K.レンナー(Renner),M.アドラー(Adler)などによって代表されるオーストリア・マルクス主義の「教育熱心で非暴力的,柔軟かつ実務的な」性格についてはcf.,OECD 1981:230-231;ILO 1986:11,16f.

 オーストリア・ケインズ主義-あるいは「ザイデル・モデル」

 総称としてのオーストリア・モデルということになると,そのモデルの核心をなすものは何かが問われよう。ここではとりあえず,上記のOECD(1981)の解釈とは異なるが,オーストリア・モデルの中心にオーストリア・ケインズ主義を据えてみる。もちろんその一部にかあるいは基礎に社会的パートナーシップをおく必要がある。それなしでは到底オーストリア・ケインズ主義など誕生し得なかった,といってよい。それにしても,なぜわざわざオーストリア・ケインズ主義と言うのだろうか。
 人口に膾炙した理解によれば,このオーストリア・ケインズ主義の創案者は第2次大戦後のオーストリア経済社会政策の運営にきわめて重要な役割を果たしてきたオーストリア経済研究所(WIFO:Osterreichisches Institut fur Wirtschaftsforschung),もし1人の固有名詞を挙げるとすれば,1946年から81年までその所長であったザイデル〔Hans Seidel〕であるといってよい。この点は,たとえば最近のミッター=ベルゲッター編『オーストリア・ケインズ主義』の副題が「H.ザイデル65歳記念論文集」と銘打たれていることからも容易にうかがえる。その編者序文には,「『オーストリア・ケインズ主義』という概念は,多様な解釈者たちがそこに異なった諸側面を見ているけれども,ハンス・ザイデルが創造した言葉である」と明記されている(Mitter und Worgotter Hrsg. 1990:2)。したがってオーストリア・ケインズ主義を-ちょうどスウェーデン・モデルがレーン-メイドナー・モデルなどと別称されているのと対応させていえば-「ザイデル・モデル」と呼んでも差し支えないだろう。
 では,ザイデルはオーストリア・ケインズ主義をどのように定義していたのか。彼はその著名な論文のなかでオーストリア・ケインズ主義の戦略に触れて,第1に経済成長と完全雇用の達成のための拡大的財政政策,第2にインフレ抑制のための硬貨政策(Hartwahrungspolitik),第3に賃金-物価スパイラルおよび国際収支の赤字を回避するための所得政策という3つの政策を挙げている(Seidel 1982:11f.)。同じWIFOのグーガーはこのザイデル・モデルを敷衍して,第1に賃金・物価の安定,国際競争力の維持を目的とした所得政策の展開をめざす自発的でインフォーマルな社会的パートナーシップ,第2に経済成長と雇用維持のための拡大的な財政政策,第3にインフレ抑制的な硬貨政策,第4に政策プライオリティにおける完全雇用と経済成長の最優先といった4つの要素を指摘している(Guger 1992:345)。ランデスマンはオーストリア・ケインズ主義の個性を「社会的パートナーシップによる完全雇用と硬貨政策によるインフレ回避」に求めている(Landesmann 1992:274)。またティチーによれば,「オーストリア・ケインズ主義」には2つの顕著な特徴が認められる。ひとつは硬貨政策と所得政策,投資拡大策による経済の長期安定重視という考え方,もうひとつは経済的な目標達成のために「想像外」の手段を動員するという点である(Tichy 1984:363f.; Walterskirchen 1991:3)。ティチーは特にこの後者を強調する。さらに内山(1989)は,オーストリア・ケインズ主義の「決定的な特徴」は「強い通貨」(硬貨)政策の採用にあると言い,その「独自性は所得政策と『強い通貨』政策の連動による相乗効果の発見にある」と指摘している。
 これらティチーやランデスマン,内山らのコメントは,なぜオーストリア・ケインズ主義といわれるのかという上記の問題意識を改めて刺激する。オーストリア・ケインズ主義もそれがケインズ主義である限り,経済成長と完全雇用のための財政政策がきわめて重要な位置を占めている。実際ザイデル自身記しているように,オーストリア・ケインズ主義もまた「公共的な需要管理」(offentliches Nachfragemanagement)政策である点に変わりはない。しかし,なぜ「オーストリア」という形容詞がついているのか。結論を先取りしていえば,完全雇用とインフレ抑制を同時に達成するための所得政策と通貨政策といった,ケインズ理論からは内在的に導き出せない2つの政策的要素がその大切な柱としていわば「実務的に」導入されていたからである。
 この点,もう少し解説が要るかもしれない(後の第4節参照)。一般的にいって,価格の安定は金融政策を通じて,また完全雇用は財政政策によって,さらに国際収支の改善は為替管理(通貨切り下げ)政策を通じて行われる。しかしこういった目的-手段関係もインフレが外国から輸入され,コスト上昇が外国から持ち込まれたのではうまく機能しない(Walterskirchen 1991:3)。実際,オーストリア経済は第1次石油危機に前後してそうした事態に直面した。まさにその時期,オーストリア・ケインズ主義の「実験」が行われ,そして一定の「成功」を収めた。それが引き金となって,冒頭にも記したようにオーストリア・ケインズ主義は大きな国際的関心を呼び起こした。ドイツ・マルクとリンクした通貨政策によって国内インフレを抑え,国際収支の均衡に対してネガティブに働く通貨政策(国際競争力の低下ポテンシャルをもつ)と拡大的な財政政策の影響を緩和するために社会的パートナーシップに基づいて所得政策が展開された。こうして物価の安定,雇用の維持そして国際収支の均衡から構成される「魔法の三角形」づくりが第1次石油危機後のオーストリアで企てられた。
 以上を踏まえていえば,オーストリア・ケインズ主義とは,政府の財政政策によって経済成長と完全雇用を維持し(狭義のケインズ主義的要素),社会的パートナーシップに基づく所得政策と通貨当局の硬貨政策によって物価の安定と国際収支の均衡を維持しようとする政治経済モデルのことである,と定義してよいだろう。それが実際に発動されたのは第1次石油危機後の70年代中期のことであった。したがってドイツ・マルクとリンクした通貨政策が採用されたのが73年のことであったという点まで考慮に入れていえば,こうした意味でのオーストリア・ケインズ主義の登場は時間的にはまことに新しく,実に70年代に入ってからのことであった。
 どちらが上位概念か-オーストリア・ケインズ主義と社会的パートナーシップ
 もうひとつの社会的パートナーシップについても触れておく必要がある。社会的パートナーシップが所得政策の担い手になっているという意味では,社会的パートナーシップはオーストリア・ケインズ主義の一構成要素にすぎないと見ることもできる。しかしすぐ後で詳しく見るように,社会的パートナーシップの果たしている機能は狭く所得政策に限定されるというわけではない(cf., OECD 1981)。そして物価賃金問題同権委員会の構成メンバーである「ビック・4」に着目すれば,その起源は優に19世紀にまでさかのぼる。実際,この社会的パートナーシップに関してOECDの経済年次報告はこう要約している-「社会的パートナーシップは所得政策へのアプローチではない。事実上それは経済社会政策のあらゆる側面にわたる政労使の制度化された協調的システムと理解しなければならない」(OECD 1988:69)。このうち,「所得政策へのアプローチではない」という記述は意味深長である。多元主義的で一時的な政治的交換といった文脈でオーストリアの所得政策を理解してはならないという意味がそこには込められている。もっと端的に,「スウェーデン・モデル」設計の立役者の1であったメイドナー自身がその調査に参加したOECDの「社会政策」国際比較プロジェクトの報告書は,「オーストリアの社会的パートナーシップの個性的なありようは『所得政策』の伝統的な形態とか,あるいは産業労使が互いの利益の違いを調整するために時に政府を巻き込んで行うようなフォーマルな協議(たとえば,1938年のスウェーデンにおけるサルチオバーデン協定がその例であるが)〔このカッコ内も原文〕と混同してはならない」(OECD 1981:23)と明快に言い切っている。
 こういった叙述を目の当たりにすると-つまり,形成史的には社会的パートナーシップが先行し,オーストリア・ケインズ主義の登場は1970年代になってからのことである。また社会的パートナーシップの機能には所得政策以上の働きが含まれる。しかし論理的には,オーストリア・ケインズ主義の所得政策という要素に関連づけて社会的パートナーシップを位置づけることができる-,いったい社会的パートナーシップとオーストリア・ケインズ主義とではどちらが上位概念なのか,分からなくなる。したがってまた,オーストリア・モデルの定義づけもなかなか容易でない。ここでは暫定的に,いずれが上位概念であるかという問いには即答を避けて(正反対の答え方ができるだろうから),オーストリア・モデルとは「社会的パートナーシップを基礎にしたオーストリア・ケインズ主義」と無造作に定義しておこう。このうち,オーストリア・ケインズ主義の中身についてはすでに述べた。そこで節を改めて,深く歴史に淵源するそれだけに個性的なオーストリアの社会的パートナーシップについていくつかの点に触れておこう。

2 社会的パートナーシップ

 個性へのまなざし-アングロ・サクソン的世界との対比

 オーストリアの社会的パートナーシップはスウェーデンやドイツのそれとはその性格が微妙に異なっている。ごく表面的な言い方をしても,オーストリアの社会的パートナーシップは他に比べてより濃密であり,またより深く制度化されている。したがってスウェーデンとオーストリアを比べた場合,同じコーポラティズムとはいってもそこにはローソンやサーボーンなども指摘しているように(Rowthorn 1992:125f.; Therborn 1992:33f.),たとえば産業秩序の形成において「闘争原則」と「合意原則」のいずれに比重がかかっているかといえば,オーストリアでは明らかに「合意原則」に傾斜しているといってよい。いま「闘争原則」をアングロ・サクソン風の個人主義的な市場競争と理解すれば,「合意原則」はさしずめ「社会的市場経済」(soziale Marktwirtschaft)重視ということになるだろう。市場メカニズムを「神聖視」するような見方はオーストリアには見られない(ILO 1986:33)。
 こうしたアングロ・サクソン世界とは異なった社会的土壌を理解するためには,さらに2大政党である社会民主党(旧社会党から90年5月に改名。日本社会党もその英語表記を同じように変えている)と国民党をとった場合,前者がオーストリア・マルクス主義の,また後者がキリスト教民主主義の強い影響下にあったということ,そしてそのオーストリア国民党が「ザルツブルク綱領」のなかで高々と掲げたのがほかならぬ「社会的市場経済」という基本方針であったということ(cf., OECD 1981、30, 204f.),したがって,両者がオーストリア・モデルあるいは社会的パートナーシップの形成という観点から見て一種の「執拗低音」(Basso ostinato)(注5)を奏でていたという点にも思いを致す必要があるだろう。
 オーストリアの社会的パートナーシップがもつ個性を正確に理解しようとすれば,どうしてもこういった固有の社会的土壌に目配りする必要がある。OECDの「社会政策」国際比較プロジェクト報告書は,先の引用に続けてこう記している-「オーストリアの制度は,オーストリア的な諸関係つまり会議所制度の伝統,民主主義的な諸制度が壊滅させられた占領と戦間期の多くの困難な経験,強靱な自発的結社,政党と結社の結びつき,そして戦争によって疲弊したオーストリア経済だ第2次大戦後の国際競争のなかを生き抜いていかねばならなかったという事情,それらによってはじめて説明することができる」(OECD 1981:23)。まさにそのとおりであろう。労働者会議所会議のチャローペックもまた,オーストリアの社会的パートナーシップについて,それが「厳密な意味での所得政策ではなく,長い歴史的伝統にねざした経済政策のほとんどすべての領域をカバーするシステム」であり,「経済主体の少ない,経済政治構造が包括的であるような小国にふさわしい」制度であって,「容易に他国に移転できるようなものではない」(Chaloupek 1991)と書き留めている。われわれとのインタビューのなかでも,「外国人にはなかなかうまく説明できないのがオーストリアの社会的パートナーシップなんです」と切り出したのが印象深かだった。
 その社会的パートナーシップを担う基軸的な制度が名高い物価賃金問題同権委員会であり,そのメンバー(「メンバーシップ」という言い方は当たらない)が政府のほか,「ビック・4」と呼ばれる経済会議所,労働総同盟(これら2つを「ビック・2」という),農業会議所,労働者会議所であることはよく知られている。しかしその構造や機能について述べる前に,もう少しこの社会的パートナーシップ形成の社会的土壌について書き足しておきたい。

(注5) この「執拗低音」という言葉は日本思想史家の丸山真男による。丸山「原型・古層・執拗低音-日本思想史方法論についての私の歩み」武田清子編『日本文化のかくれた形』(岩波書店 1984)所収。「全体構造としての(特殊性とは区別された意味での)固体性」を捉えるための概念であり,元来「執拗に繰り返される低音音型」という意味の音楽用語。

 起源と画期

 オーストリアにおける社会的パートナーシップの制度的確立はスウェーデン・モデルがそうであったように,第2次大戦後のことに属している。しかしそのルーツはどこにあるのか。マリンは「第2次大戦後にすべてが始まったという意見が多い。しかしその制度的起源は少なくとも19世紀半ばにまでさかのぼる」(Marin 1986:24)という。確かに,現在の経済会議所の前身は1848年(「3月革命」を想起せよ)に創設されている。フランツ・ヨーゼフ1世が即位した年の12月には「商工会議所の創設に関する暫定的規則」が定められ,翌49年にはウィーンに最初の商工会議所が設けられた。「上からの経済発展」のための機関という色彩が濃かった。そして67年には国会(Reichsrat)へ議員を送り込むまでの権利を商工会議所は手に入れた(BWK 1988:8)。他方,社会的パートナーシップのもう一方の担い手である労働組合の形成と発展についていえば,1876年に労働者による結社を禁止した法律が,また70年には労働者争議処罰法がそれぞれ廃止されている(ILO 1986:24)。しかし20世紀を迎えても3つの労働組合は互いに社会民主主義(オーストリア・マルクス主義),社会キリスト教主義,汎ゲルマン的国家主義を掲げてイデオロギー的に対立し合い,1920年まで経済会議所に匹敵する労働者会議所を作ることができなかった(Tomandl and Fuerboeck 1986:14)。
 オーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊して第1共和制に移行した第1次大戦後,社会的パートナーシップ構築に向けた第2の画期が訪れた。1918-19年のオーストリア革命によって19年には企業内従業員代表制度が新設され,翌20年には労働協約の法的拘束力が法認された。しかしここでの文脈上大切なのは20年には労働者会議所が,また22年には農業会議所が創設されたことである。いずれも強制加入制を敷く公法団体と位置づけられた。こうして使用者,労働者,農民は原則1人残らずそれぞれの会議所メンバーになることになった。「ギルド的」な(注6)「会議所国家」(Kammerstaat)への道が敷かれた。ナチスがオーストリアに侵攻する38年までの戦期間(1933-38年),キリスト教社会党のE.ドルフス首相(彼自身,ナチスの凶弾に倒れた)によって全政党は廃止,議会はおのずから閉鎖され(33年),カソリック的な職能身分団体原理に基づく権威主義的で独裁的な政治体制-それは中世に範を求める「身分国家」(Standestaat)であった-が出現した(OECD 1981、16,230; Tomandl and Fuerboeck 1986:15)。それは,オーストリア革命の成果を反古にして「古い」「国家」コーポラティズムを「上から」強権的に打ち立てようとする試みであった。
 こうした戦間期,さらに第2次大戦期のナチス占領に伴う困難な経験が戦後のオーストリア・モデルの彫琢にきわめて大きな影響を与えた。政治社会的対立と34年の内戦さらに民主的諸制度の崩壊といった経験を通じて,ドイツへの「併合」(Anschluss)ではなくオーストリアの「独立」確保と国内の「合意政治」の重要さを2つながら強く自覚され,それが第2次大戦後の非同盟中立の「小国」(Kleinstaat)政策を,「米ソ英仏の分割統治下での国土の分割阻止」を,さらに「占領軍による収用を歯止めするための」(注7)企業国有化政策を生み落とした。この第2次大戦を挟む大きな変化を,トラクスラーにならって社民勢力とキリスト教的保守主義勢力との「階級闘争から協調関係への転換」と見ることもできるだろう(Traxler 1992:272)。いずれにせよ,1970年まで戦後25年間も続いた社会党と国民党の連立政権も,また物価賃金問題同権委員会もこういった「協調」のひとつの現れであり所産であった。したがって,第3の画期を第2次大戦後の社会的パートナーシップの成熟期に求めるのが自然なことだろう。事実,ビック・2のひとつであるオーストリア労働総同盟が結成されたのも,また会議所制度が改編再興されたのも1945年のことであった。
 もうひとつ,社会的パートナーシップの社会的土壌というとき,キリスト教(カソリック)の平等主義的な「社会的市場経済」理論やオーストリア・マルクス主義の柔軟な現実主義といった思想的系譜と併せて,「優秀な」中央行政官僚制と「上からの改革」という歴史にも触れておく必要がある(cf., ILO 1986:33)。すなわち,マリア・テレジアの子であり啓蒙主義的な神聖ローマ帝国皇帝であったヨーゼフ2世(注8)の治下に形成された強力な中央集権的行政官僚制と「上からの改革」という伝統である(OECD 1981:16)。それは時にヨーゼフ主義思想と呼ばれる。「オーストリア・ハンガリー帝国の時代,社会的に最も尊敬されていたのが公務員であった」(ILO 1986:34)という記述も,こうした文脈に絡めて理解する必要がある。ここで深入りすることは適当ではないが,ネオ・コーポラティズムの把握によってこれら興味ある史実の示唆するところは(注9)少なくないように思われる。

(注6) 20世紀ファシズムが体現したよに,中世ギルドあるいはコルポラシオーンと呼ばれた職業共同体(精神)と「組合国家」(Stato Corporativo)あるいは「上からの」「古い」「国家」コーポラティズムの間には深い内在的な結びつきがある。この点について,邦文ではいまでも尾高邦雄『職業社会学』(岩波書店 1941:281f.)が有益である。さらにcf., Crouch and Dore 1990:3.

(注7) cf., Financial Times, 9 October 1991.

(注8) 1780年の母マリア・テレジアの没後,ヨーゼフ2世(在位:1765-90)は農奴開放令,修道院解散,農民保護のための土地税制の改革,貴族の特権排除,商工業の育成などの啓蒙主義的な諸改革と併せて,84年には中央集権的な行政官僚制の抜本的な整備充実に着手した。それらの画期的な試みは必ずしも成功したわけではないが,後世に大きな遺産を残した。

(注9) マクロ・コーポラティズムは新旧いずれであろうと,別の機会にも書き留めたように(稲上 1989:86, 254),「ナショナル・プロジェクト」という基本的性格をもっいる。したがってその形成と発展には,たとえば中央集権的な意思決定メカニズム,国家(国民社会)という枠内での「コミュニティ意識」(R.ドーア〔1991:28〕参照),それに見合った「包括的な」利益媒介主体と行動,頂上団体間の広い情報共有といったことが欠かせない。この点を念頭においてヨーゼフ主義思想というものを考えてみると,コーポラティズムのひとつのあり方としてファシズム型の国家コーポラティズムとは峻別された,いわば「行政コーポラティズム」とでも呼ぶべき一類型を想定することができる。その代表例がおそらく日本であろう。なお,オーストリアの政治経済に関する「テクノ・コーポラティズム」というマリンによる性格づけもこの点に照らして興味深い。cf., Marin 1987:63.

 準公的団体としての会議所

 ところで,社会的パートナーシップの中心的な担い手が「ビック・4」であることについては述べた。労働総同盟(OGB:Osterreichische Gewerkschaftsbund)を別にすれば,他の3つにはすべて「会議所」という名前がついている。経済会議所,労働者会議所,農業会議所の3つである。これら会議所がいかなる存在であるかについてはすでに邦文でも篠田(1987)などの克明な叙述がある。したがって,ここではその要点を記すだけで十分だろう。
 まず第1にこれら経済団体はすべて公法上の団体である。したがって,その組織構成や運営などは細かく法律によって定められている。第2に,このように公法団体である会議所は,一方で会員利害にかかわるすべての法案や条例案に対して立法・行政機関に意見具申する権利を有する反面(多様な「自律機能」),他方では資格認定や証明書発行など国家業務の一部を委託されている(「委託代理機能」)。そういった意味で,会議所は国家機関ではないが,「準公的」な自治団体という性格をもっている(ILO 1986:34)。この準公的な性格は,「会議所内部の特定集団の特殊利益を代表することはできず,つねに会議所内部の利益調整と公共の利益に対する配慮を義務づけられている」(篠田 1987:〔1〕19)というところに如実に現れている。第3にこれら会議所は強制加入(注10)の団体となっている。経済(職能)カテゴリーに沿って国民はいずれかの会議所に所属しなければならない。すでに触れた3つの会議所のほか,たとえば法律家会議所,医師会議所といった職能別の会議所がある。第4に会議所は労働組合と団体交渉を行って労働協約を締結する権限をもっている。たとえば,ビック・2と呼ばれる経済会議所と労働総同盟(正確には双方の下位単位)は後述のように毎年賃金引き上げ交渉を行って労働協約を結んでいる。

(注10) BWKのメール氏は,会議所が公法上の準公的団体として強制的メンバーシップを敷くことによって,「BWKは会員から自律的たり得るのだ」と語った。

 経済会議所

 ビック・2のうち,経済会議所についていえば,それは地域(タテ),産業(ヨコ)に沿って組織された2次元のマトリックス組織になっている。すなわち,連邦経済会議所の傘下に9つの地方(Lander)会議所があり,この地方レベルにも連邦レベルにも6つの産業セクションが区分されている。さらに各セクションには,呼び方こそ産業セクションと連邦・地方レベルによっていろいろであるが,いくつもの産業別団体(Fachverband)とか業種別グループ(Fachgruppen),あるいは連邦ギルド(Bundesinnungen)とか地方ギルド(Landesinnungen)などと呼ばれる産業セクションの下位ユニットガ設けられ,それぞれにタテの糸で連邦レベルと地方レベルが連携されるという構造になっている。いま連邦経済会議所をとると,産業セクションの下位ユニットとして合計130ほどのこういった業種別組織が包摂されている。そのうち,その起源を中世のギルドやコルポラシオーンにまでさかのぼることのできるものが少なくない(BWK 1988:4)。個別企業はその業種によって連邦および地方レベルの業種別組織(産業セクションの下位ユニット)に加わることになる。もし複数の業種にかかわっているような業態であれば,複数個の業種別組織に加盟する。ちなみに,6つの産業別セクションとは工業,商業,金融保険,運輸,観光そして小規模生産の6つである。
 この経済会議所が果たしている役割はまことに包括的である。物価賃金同権問題委員会をはじめとする各種の公的機関(それには対外通商委員会や社会保険協議会(注11),さらにGATTのような国際機関も含まれる)への参加や利益代表行動のほか,法律の定めるような会員間つまり産業・業種間の利害調整,会員利益のための立法および行政機関に対する法案などに関する専門的な意見表明・対案提出,労働組合との団体交渉,会員企業に対する各種の法律あるいは経営相談,情報提供などの広報活動,経済開発機構(WIFI)を中心とする高等職業訓練の実施と資格認定,オーストリア商標協会などを通じた品質改善向上や技術指導,国際貿易促進のための外国事務所(世界88箇所に及ぶ)の設置や見本市の開催など多種多様な活動を挙げることができる(BWKでのインタビュー記録,およびBWK 1988、9-18)。これらの諸活動のうちにはアングロサクソンや日本の商工会議所の役割と著しく異なる分野が見いだせるが,それはすべてオーストリアの「準公的」な会議所制度という性格に由来する。他の会議所と同じように総会は5年に1回,会議所運営のための経費は会員からの拠出によっている。
 いくつかの実態について触れておこう。経済会議所会員にはオーストリアに進出している多国籍企業,オーストリアの国営企業も含まれる。1988年現在の会員数は27万1,600,これらの企業に雇用されている者の合計はオーストリア雇用者全体の7割弱にのぼる。とはいえ,会員の圧倒的多数は中小企業によって占められる。大きな公共部門と膨大な中小企業(したがってまた民間「資本」の脆弱さ)の併存,これがオーストリア経済に最も基本的な性格のひとつである。確かに,スウェーデンとは異なって国際的に名の通ったオーストリアの大企業はと尋ねられてもほとんどの人が首をかしげるだろう。しかしこの「脆弱さ」こそがオーストリア連邦経済会議所をして「ヨーロッパで最も包括的な統率力をもち財政的にも人材面でも優れ,その政治力も強い使用者団体」たらしめている要因だと注目すべき見方がある(Traxler 1992:287)。9つのレント経済会議所と連邦経済会議所との権限配分はあたかもEC閣僚理事会と国家主権との関係がそうであるように,いわゆる「補完性」(Subsidiaritat)の原則(すなわち,レント経済会議所で決定あるいは処理し得ないケースや事項に限って連邦レベルに決定権がある)に基づいているが,現実の連邦経済会議所の権能はそれ以上のものになっている。そのひとつの理由として,歴代の連邦経済会議所会頭の顔触れを見てみると,「ルドルフ・ザリンガー(Rudolf Sallinger)氏やその前任2代の会頭がそうであったように,彼らは会頭職を退いた後に連邦政府の大蔵大臣に就任している」(ILO 1986:36)といった慣行を挙げることができる。もちろんそればかりではなく,「きわめて包括的かつ中央集権的なオーストリアの労働組合〔労働総同盟〕」という存在があって,それがビック・2のもう一方の頂上団体である連邦経済会議所を「成長」させたというシンメントリー効果も見逃せない。
 総計1,200にのぼるレント経済会議所の産業セクションの下位ユニットがその経済会議所の基礎的な組織単位である。会員の直接投票によるその代表選出の結果からすれば,経済会議所の政治的オリエンテーションに関して8割前後が国民党,2割前後が社会(民主)党支持といった分布になっている。こういった点も含めて,経済会議所にも会員間の利害対立がないわけではない。とりわけ産業セクター別の利害関係は必ずも一致しない。地方(レント)レベルを越えて連邦レベルになればなおさらである。しかし,その会員内部の利害調整が法律によって義務づけられている。この点に触れてBWKのメール氏は,「そのために多数決ルールに訴えるのではなく,協議を尽くしてできるだけ全会一致でものごとを決めていくようにしている」のだと説明してくれた。公式には会員の議決権は大きな企業でも小さな企業でも同じ1票であることがそれを強いているように思われる。
 とまれ,この経済会議所は,すでに記したその活動内容からも推測されるように,一方で経済団体(Trade Association)であり,他方では使用者団体(Employers’ Organization)という2面性をもっている。つまり,「準公的」な団体としていわば製品市場と労働市場の両面に同時にかかわりをもっている。この点に言及して,トラクスラーは「これがマクロ・コーポラティズム的な協調行動が可能となるひとつの重要な前提条件である」(Traxler 1992:289)という興味深い指摘を行っている。こういったところにも,経済会議所(会議所一般といってよい)の「包括的」組織としての性格が垣間見られる。

(注11) 制度の詳細については触れないが,オーストリアの社会保障制度はオーストリア総合社会保険機構(Hauptverband der Osterreichischen Sozialversicherungstrager)が中心となって国家(政府)から切り離した形で運用されている。cf., Soziale Sicherheit, vol. 42(1989).

 労働者会議所

 この経済会議所に比べれば,労働者会議所の組織構造ははるかに単純である。地方ごとに9つのラント労働者会議所が設けられ,連邦レベルにはそれらを束ねる形でオーストリア労働者会議所会議(OAKT:Osterreichischer Arbeiterkammertag.その業務はウィーン労働会議所が兼務)があるにすぎない。地方のレント労働者会議所には運営上マニュアル,ノン・マニュアル部門を設けているところもあるが,労働者会議所には経済会議所の産業セクションに匹敵するようなフォーマルな組織上の下位ユニットは存在しない。団体交渉機能をもたない点と併せて,この点は経済会議所と大いに異なる(Tomandl and Fuerboeck 1986:20)。強制加入のメンバーシップは,公務員(ただし郵便や鉄道などの現業職は会員),管理職および農林業に働くマニュアルとノン・マニュアルの労働者(彼らは別個に農業労働者会議所を作っている)などを除くすべての被用者である。現在の会員数は約250万人にのぼる。
 労働者会議所が担っている役割もまた経済会議所と同様にきわめて多岐にわたる。たとえば労働者憲章の制定,雇用保証や育児介護休暇などに関するロビー活動,若年労働者等に対する教育訓練プログラムの作成,ユニオン・リーダーの養成を含む職業訓練センターの運営,徒弟の技能検定試験,会員子弟の高等学術教育進学のための奨学金制度,物価賃金問題同権委員会活動を通じた物価抑制や税制改革,さらに広報活動を含む消費者保護の促進,オーストリア労働総同盟のための経済情勢等に関する恒常的な調査研究(労働総同盟会長であったA.ベンヤ〔Anton Benya〕の表現を用いれば,労働者会議所は労働組合の「科学装置」(注12),また組合の「兵站的支え」あるいは「兵器工場」と形容する者もいる),労働組合と緊密に連携した関連法案に関する意見具申(各級議会における法案上程に際して政府当局は関係会議所に事前にその意見を聴取しなければならない),労働裁判所や調停和解委員会,労使運営による社会保険協議会など各種公的機関に対する労働者代表の選出,個人に対する法律・税金問題などの相談業務,これら以外にもたとえばウィーン労働者会議所でいえば,在宅建設や区画整理,交通問題などに関する都市計画づくりへの参加活動などが含まれる。91年からは「労働者会議所法の一部が改正され,裁判所における係争に際して労働側を代表して労働者会議所(弁護士など)が出席できることになった」(OAKTのチャローペックとのインタビュー記録,さらにILO 1986:31f.)。これらのうち,この文章の関心事からすれば,この労働者会議所(会議)が労働総同盟の「兄弟組織」としていわばその「頭脳」の役割を果たしているという点にフォルテ記号を付しておこう。
 こういった簡単なデッサンからも推察できるように,労働者会議所には「優秀な人材」が数多く集まっている。実際,労働者会議所会議の機能を担っているウィーン労働者会議所は「およそ400人のスタッフを擁し,その4分の1が学位(博士号)取得者で占められる」(ILO 1986:32)。チャローペック経済部長によれば,「経済政策の専門家は労働総同盟には2-3人いるだけだが,ここには60-70人ものアカデミックな専門家がいる。弁護士や社会政策の専門家もかなりいる。これら専門家の存在という点は労働総同盟と大きく異なっている」と語った。
 この労働者会議所の会員にはマニュアルのみならずノン・マニュアルの労働者も含まれる(その正確な比率は分からないが,産業構造の変化に伴って次第に後者の比重が高まっている),強制加入である以上,イデオロギー的にもいろいろな考え方の人が同じ労働者会議所の会員になっている。決して一色にまとまっているわけではない。それでも5年に1回開かれる総会「代議員のすべてが組合メンバー」(労働総同盟の組織率は約6割)によって占められており,労働者会議所と労働総同盟との間の幹部役員の兼職率も際立って高い。こういった点でも労働者会議所と労働総同盟との依存関係が注目される。「無数の例が挙げられるが,たとえばA.チェッテル(Adolf Czettel)氏はウィーン労働者会議所会頭でありオーストリア労働者会議所会頭であり,同時にウィーン冶金・鉱業・エネルギー労働組合委員長でもある」(ILO 1986:32)。労働者会議所のイデオロギー的性格について総会代議員の政党支持別分布(1984年)を見てみると,6割が社会民主党,そして3割強が国民党となっている(Tomandl and Fuerboeck 1986:21)。社会(民主)党への傾斜が深いが,排他性は認められない。ここにも労働者会議所(会議所一般といってよい)の注目すべき「包括性」が認められる。

(注12) cf., ILO 1986:34.

 台頭する会議所制度への疑念-利益代表管理の検討課題

 このように,経済会議所であれ労働者会議所であれ,その内部に「小さな利害対立」を内包しながらも法律によって「会議所内部の特定集団の特定利益を代表することはできない」という縛りがかかっており,その意味で会議所は利益代表における「包括的」行動を義務づけられている。しかしそうなると,オーストリア・モデルあるいは社会的パートナーシップの今後のありようを見通すためにも欠かせないだろうひとつの検討課題が浮かび上がる。いったい実際の「包括的」行動の水準がどれほどのものか,という問いである。
 会議所会員間の「特殊的」利益が表面化すれば,会議所内部においてさえ「包括的」行動は後退する(逆も真である)。同じ経済会議所といっても,その組織形態が示しているように地方(レント)や産業セクションの利害対立があって不思議はない。激しい環境変動の時代であればなおさらである。利益媒介行動モデルとしてのネオ・コーポラティズムは「英雄的な単純化」を行っていると痛烈に言い放ったストリークとシュミッターの指摘(Streeck and Schmitter 1991)を想起するならば一層のこと,経済会議所は産業「セクター間クラッシュ」からどれほど自由であろうか。その場合の産業セクター区分はもちろん多様であって,たとえば公共部門と民間部門,大企業と中小企業,多国籍企業と国内企業といったものばかりでなく,EFOモデル風にいえば競争セクターと保護セクターといった分類も重要である。経済会議所とは別に農業会議所もある。物価賃金問題同権委員会の調整機能がどれほどのものか,改めてそういった問いが浮上する。これらの大事な論点についてはのちに賃金交渉などを検討するなかで詰めてみたい。事実,「国民党の支持母体である農業(農民)とビジネスとの間には,EC加盟問題も含めてこれまでにもいろいろな対立があり,現在ではほとんど共通項などなくなっている」と言ったのはひとり労働者会議所のチャローペックだけではなかった。
 しかしこうしたセクター間の利害対立,別の言い方をすれば「利益代表管理」の巧拙といった事柄は,ひとり経済会議所のみならず労働者会議所にも当てはまる。なかでも注目したいのがマニュアルとノン・マニュアルとの利害対立についてである。いまのところ労働者会議所にはこれら下位利益を表明するためのフォーマルな機関は存在しない。それでもチャローペックは,強制的会員制と「マイノリティ」の利益代表に関するわれわれの質問に答えて,「いまの社会的パートナーシップによってはマイノリティの利益が反映されないのではないかといった批判もあるが,私はそう思っていない。強者が弱者に無理強いするといったイメージで社会的パートナーシップを見てはならない。もちろん社会的パートナーシップも問題を抱えている。教育水準の高い人々は何事についても批判的なところがあって,集団的に下された判断だというだけでそれを受け入れたくないという気持ちが働くようだ。少数派という意味でいうと,このところ大きく得票率を増やしている自由党(注13)なども会議所の強制的メンバーシップについて批判的だし,グリーン・パーティーは社会的パートナーシップの工業化思想(Industrialism)に反対しています。もっとも,その議席数は8つ,投票率も4%止まりですが」と語った。このうち,「教育水準の高い人々」とは言うまでもなくノン・マニュアルの人たちを指している。別の機会に同氏は,「最近になってAK(労働者会議所)にかなり批判が高まってきていることも事実である。いくつかの理由がある。1つはメンバーシップの強制加入と会費納入の義務化の問題,もう1つは社会的発展と社会の多様化に伴って30年前に比べてブルーカラーあるいはプロレタリアートと呼ばれる層が小さくなり,逆にホワイトカラーが非常に大きくなったことにより,何事によらず批判的な声を上げるホワイトカラーの不満が何となくくすぶっている。全体として価値観が多様化したということでしょう」(全労済 1991:84-85)と述べていた。
 要するに,ホワイトカラーの増加と教育水準の高度化,グリーン・パーティーなどマイノリティの台頭を背景にして価値観の多様化が進み,利害対立がそれだけ先鋭化し,集合主義的なアプローチに対する批判が勢いを得(それだけ「個人主義化」の動きに弾みがつき),会議所の強制的メンバーシップに対する批判もまた強まっているというように最近の動きを捉えることができる。上記の「セクター間クラッシュ」についてと同様,これらの点に関しても,B.マリンとのインタビューやトラクスラーの行論(Traxler 1992)も踏まえながらのちに検討を加えてみよう。それにしても,こういった傾向がさらに進めば,その先に開けてくるだろう情景は明らかにオーストリア・モデルの「崩壊」といったものであるように思われる。

 労働総同盟

 ところで,これら経済会議所と労働者会議所はすでに触れたように公法上の自治団体であり,そうしたものとして「準公的」な性格をもっている。しかし利益代表あるいは利益媒介構造という点でいうと,オーストリアにもこれら会議所とは別に私法上の経済あるいは労働団体が存在する。たとえばオーストリア労働総同盟がそうであり,オーストリア産業連盟(VOI:Vereinigung Ostereichischer Industrieller)がそうである。そしてこれらの私法上の任意団体は会議所とそれぞれに密接な関係を保っている。したがって,その関係を抜きにして会議所の働きを正確に理解することはできない。そこでごく簡潔にでも,これら2つの私法上の団体のプロフィールについて触れておこう。
 まず,労働総同盟(OGB)を取り上げよう。すでに述べたように,労働総同盟ができたのは1945年,これによって長く分裂していた労働戦線は統一され,オーストリアに世界屈指の強力なナショナルセンターが出現した。それ以前の組合組織はクラフトと政治的イデオロギーによって分裂していたが,この統一を契機にいまでは合計15(78年以前は16)の産業別組合が労働総同盟の構成組合になっている(表1参照)。しかし,この産業別の組織編成という原則に反する唯一の例外として民間ホワイトカラーを広くカバーする組合がある。オーストリアでは,いまも労使関係法および社会保障法の位置づけがブルーカラーとホワイトカラーでは異なっているためである(Pollan 1992:3; Tomandl and Fuerboeck 1986:31-34)。国家公務員や地方公務員について団結権,交渉権,争議権の一切の制約はなく,オーストリアの雇用者全体に占める労働組合員数は90年で164万人,その組織率は89年で57.5%になっている。組織率は1955年(67.5%)以降緩やかな低下傾向をたどっているが,この20年ほどをとるとほとんど変わっていない。なお,それぞれの組合には地方(Lander),地域(Bezirke)レベルに下位組織が設けられている。
表1 OGBメンバー15組合の組合員数と協約締結数
 では,肝心の労働総同盟と15の組合との関係はどうなっているのか。総同盟の運営規則によれば15組合は総同盟の「支部」扱いとなっており,したがって労働総同盟は連合体(Confederation)ではない。法的な権限を与えられているのは唯一この労働総同盟(OGB)のみである。団体交渉を行うのは確かにそれぞれの組合であるが,しかし協約締結権をもっているのは総同盟である。それに加えて,15組合の財源とフルタイム・スタッフはすべて総同盟の手中にある。イソップ物語風にいえば,総同盟が「最大の取り分」(Lion’s Share)を取り,残りが15の「支部」に交付される(注14)。こういった現実に照らして,「オーストリア総同盟は他の市場経済国家のいかなる労働組合に比べても最も中央集権化した組織であるという鮮明な印象を受けた」(ILO 1986:28)という記述も決して事実を誇張したものとは思われない。同じような理解はほかにも見いだせる(Flanegan et al. 1983:52; Katzenstein 1984:61)。このILO報告書はさらに続けて,「こういった中央集権的な性格は特定の強力なリーダーシップをもった人物が労働総同盟の会長を長期にわたって務めてきたという事実によって一層強められた」と記し,総同盟結成時から亡くなる59年まで会長職にあったJ.ベーム(Johann Bohm)や,63年以降20年以上もその要職にあった先のA.ベンヤの名前を挙げている。
 オーストリアでは,スウェーデンにおけるLOとTCOの確執といったユニオン・ライバルリーはないのだろうか。結論的にいえば,皆無ではないが(第5節参照),いままでのところそういった反目や抗争は目立たない。その理由として,1つには同一の労働組合のなかに異質な労働者グループと多様な利害関係が包括されていること(つまり,内的な凝集性の弱さ),もう1つは労働総同盟の強力な中央集権的リーダーシップとその調整能力を挙げることができる。このうち,第1の側面について2つのことに触れておこう。1つは同一組合内部における労働協約締結数を見てみると(表1),食品産業が157,民間ホワイトカラー組合が108,建築業・木製品製造業が88といった数にのぼっている。それが示唆しているのは,端的にいって個別組合の「内的な凝集性の弱さ」である(Pollan 1992:3; Flanegan et al. 1983:51-52)。もう1つ,15の組合の役員選挙に注目したい。それはきわめて特異な方法によっている。どのレベルについても,「国政選挙と同じ方式を踏襲し,政党フラクションごとに役員候補をリストアップし,組合員(正確には「従業員」という言い方が正しい〔引用者〕)はその候補者個人に投票するのではなしに政党に投票し,その得票比率によって組合執行部の構成が決まる」(全労済 1991:78)といったやり方をとっている。政党別得票率に基づく比例代表制によって組合役員が選出される。しかし「特異な」のはこの点に限らない。この選挙単位が企業の従業員代表組織(Betriebsrat)にあるからである。つまり各政党フラクションは従業員の支持を求めて闘い,その従業員代表選挙の結果によって労働組合の政党別役員構成が決まるというわけである(Traxler 1992:281)。従業員代表組織は労働組合とは互いに独立した存在(注15)であるという点を考えれば,オーストリアのこの制度はいかにも変則的である。こうなっているのは,「オーストリアでは他の多くの国とは逆に,従業員代表組織の外に組合役員(the Unionised Personnel)がいるといった事態を法律も労働協約も一切認めていない」(ILO 1986:66)からである。そのため非組合員が組合役員を選出するとか,その反対に従業員代表組織がない零細企業に働いている組合員は自らの組合の役員選挙に参加できないといった奇妙なケースも生じている(注16)。ここに認められる社会工学は,ある種の「二重写し」の相殺的技法と呼んでもよいものである。これによって社会分化と下位ユニットの自律性とが縄を合うようにして前方に進んでいくことを歯止めしている。いずれにせよ,こうした形で選挙された組合の中央執行委員は多くの場合に社会(民主)党がマジョリティを占めている。しかし,それは他党派に対する排他性を意味しない。労働総同盟は社会(民主)党の強力な支持母体ではあるが,同党からは自立しており,他党派の活動も完全に保証されている。ここにも(会議所制度もそうであるが),異質な対立的要素を排除することなく相殺するようにして包み込んで「総合化」するといった独特の社会工学的な技法が生かされている。それによって部分の「内的な凝縮性」の鈍化に歯止めがかけられていると見てよいだろう。
 このようにして,個別組合の内的な凝縮性の弱さが一方にあり,他方には国際的にもほとんど比肩するもののない強力で中央集権的な労働総同盟のリーダーシップによってユニオン・ライバルリーはこれまでのところ成功裡に抑えられ,排除されてきたように思われる。

(注13) 1986年の総選挙での得票率は9.7%であったが,91年には17.6%に躍進した。逆に国民党は41.3%から32.1%へと大きく後退した。

(注14) 財政的にいうと,80年代にはわずか16%が各産業別組合(「支部」)に交付されていたにすぎない。cf., Traxler 1992:278.

(注15) オーストリアの従業員代表組織(Betriebsrat)の法的性格については,cf., Tomandl and Foerboeck 1986; Tomandl and Winkler eds., 1990.

(注16) 従業員代表(Works Councillor)の選挙は5年ごと,その9割が組合メンバー,もっといえば組合役員によって占められている。組合役員は従業員代表でなければならないとフォーマルに規定している組合も少なくない。したがって実質上,職場における組合機能を担っているのが従業員代表(組織)であるといってよい。別の言い方をすれば,オーストリアではいわゆるショップ・スチュワードは存在しない。cf., Traxler 1992:281.

 オーストリア産業連盟

 経営側の任意団体の代表格といってよいのがオーストリア産業連盟(VOI)である。この連盟はその機能という点で,労働総同盟に対して労働者会議所が担っている役割と相通じるところがある。しかし労働者会議所とは異なっていわゆるビック・4には入っていない。経済会議所と労働総同盟のビック・2が労働協約締結権を排他的に独占し,「法律上は連盟も団体交渉権をもっているが,それまで一度も行使したことがない」(連盟の社会政策課長W.トリトレッメル(Wolfgang Tritremmel)博士からの聴き取り)からだと考えられる。
 連盟のメンバーシップは企業,経営者団体さらに個人にまで広がっている。国有企業は除かれるが(冒頭で触れたOIAG企業でなければ可),その経営者は個人資格でメンバーになっていることが少なくない。現在同連盟にはオーストリア企業の約7割(雇用労働者ベースでは8割)が加盟している(ILO 1986:37)。産業という点では何も製造業に限らない。商業もあれば金融保険業,サービス業なども含まれる。比較的大きな企業が多いが,「昨年(91年)からは小さな企業も入るようになった」。その内部組織の成り立ちは経済会議所とは異なっている。原則1つのラントに1つの地方組織があるが,経済会議所のように6つの産業セクションがあるというわけではない。この点では労働者会議所と同じである。
 経済会議所と産業連盟との関係は,すでに述べたようにある程度まで労働総同盟と労働者会議所のそれに似ている。1つには経済会議所の役員と産業連盟役員との兼務が目立つ。無数の例があるが,連盟でのインタビュー記録によれば,たとえば「産業連盟の社会政策委員会議長が連邦経済会議所の労働法委員会の委員長であるとか,あるいはウィーン産業連盟会長がウィーン経済会議所の工業セクションのトップであったりする」。もう1つ,経済会議所の「シンクタンク的」あるいは「タスク・フォース的」な役割を産業連盟が果たしている。連盟は確かに社会的パートナーシップの公式なメンバーとはいえないが,「それにも一定の役割は果たしている。各種の審議会に代表を出しているし,同権委員会での実質審議という点では,たとえば経済政策懇談会や経済社会諮問委員会で年金制度改正や男女雇用平等に関して突っ込んだ政策論議を行う際にもかなり重要な役割を担っている」と聞かされた。
 以上の記述によって,ビッグ・4のうち,農業会議所を除く経済会議所,労働者会議所,労働総同盟のプロフィールといくつかの2者関係が明らかになった。しかしより包括的な相互行為のネットワークがある。物価賃金問題同権委員会を中心とした社会的パートナーシップがそれである。しかしそれに立ち入る前に,ここでこの節の議論について小さなまとめを書き留めておこう。

 小 括

 オーストリアに社会的パートナーシップが確立するのは第2次大戦後,それも50年代後半になってからのことである。ビッグ・2のひとつである労働総同盟が誕生したのも,また会議所制度が改革復興されたのも終戦の1945年のことであった。下部機関として物価小委員会をもった物価賃金問題同権委員会が創設されたのは57年,賃金小委員会は62年,経済社会諮問委員会ができたのはさらに遅れて63年のことであった。しかしオーストリアの社会的パートナーシップを内在的に理解しようとするのであれば,OECD(1981)やILO(1986)もそう試みたように歴史をさかのぼってその個性の把握に努める必要がある。
 第1に強調しなければならないのは,それを単純に一種の所得政策であるとか多元主義的で一時的な政治的交換と捉えてはならないという点である。ストリークとシュミッターは,「第4の」社会秩序モデル(コミュニティ,市場,国家・官僚組織の3つと区別された秩序類型)として「コーポラティズム的で結社的」(Corporatist-associative)な類型を構想し,それを「包括的な社会的あるいは政治的な『体制』と理解してはならない」と書いた(Streeck and Schmitter 1985:28)。しかしオーストリアの社会的パートナーシップに関する限り,それはまさにそうした「体制」そのものであった。それは所得政策を超えた政労使による包括的で協調的な深く制度化された政策決定システムであるといってよい。
 第2に,そういった「体制」は言うまでもなく一朝一夕に出来上がったものではない。制度面では何よりも会議所制度が注目される。その起源は少なくとも19世紀にさかのぼる。さらにそのギルド的伝統までも考慮に入れるのであれば,一挙に中世にまでタイムスリップしなければならない。現在の会議所制度に近いものは第1共和制のなかで作り上げられたが,この会議所制度はドイツやベルギーに類似のものが見られるものの,アングロ・サクソン世界の商工会議所とはかなり異質な存在と見なければならない。それは公法上の自治団体としていまも経済カテゴリー別の強制加入制を敷き,準公的な結社としてオルソン的意味での「包括的な」行動様式を課されている。会員の利益増大のみを図るような「特殊的」利益団体行動は抑制され,内部の利益調整と併せてそれを公共利益とも調整しなければならない-,これが会議所のあるべき姿と見なされている。
 こうした会議所の準公的な団体という性格が最もよく現れているのが,1つには関連法案に関する政府との「事前協議」といってもよい意見具申の権限付与であり,もうひとつが強制的メンバーシップと会員に対する会費納入の義務づけである。
 第3に,思想面でいえば,ひとつにはキリスト教民主主義の「社会的市場経済」重視という考え方,またオーストリア・マルクス主義の穏健な改革思想,これら両者にとって奏でられている執拗低音,さらにヨーゼフ主義的な「上からの改革」重視と中央行政官僚制への信頼といった要素もまた,それぞれに社会的パートナーシップの形成に重要な役割を果たしてきた。
 第4に,第1共和制によって生み落とされた労働者会議所や農業会議所,そして従業員代表組織や労働協約の法的拘束力付与といった法制は30年代の権威主義的な国家コーポラティズムの台頭とその後のナチス支配によって葬り去られた。しかしその困難な経験が飛躍台となって第2次大戦後の社会的パートナーシップへの道が大きく切り開かれた。
 第5に,オーストリア・モデルあるいはその社会的パートナーシップを支えているものには会議所制度のような公法上の準公的な団体のほか,たとえば労働総同盟や産業連盟といった私法上の重要な任意団体がある。戦後になって誕生した前者の総同盟はオーストリアの唯一のナショナルセンターとして排他的に労働協約締結権を独占しているばかりでなく,15の産業別「支部」に対して財政や専任スタッフの提供といった面でも絶大な影響力をもっており,その中央集権的な権能は国際的に見てほとんど比肩すべきものがない。
 これまでのところ,スウェーデンに見られたようなこれら15組合(「支部」)相互間の対立や紛争は顕在化していない。それぞれの組合がその内部に異質な労働者グループや利害関係を抱え,その意味で利益代表性における「内的な凝集性の弱さ」をもっていること,それにも増して上記総同盟の強力なリーダーシップがユニオン・ライバルリーを有効に歯止めしてきた。
 第6に,労働総同盟の団体交渉機能を補っているのが,労働者会議所のもつ調査研究機能でありその分厚いスタッフである。端的にいって,労働者会議所は総同盟にとっての「兵器工場」でありまた「頭脳」である。双方のトップリーダー層の兼任関係によって両者の「兄弟組織」としての結びつきは一層強められている。
 まったく同じことが,経済会議所と産業連盟の関係についてもいうことができる。違いといえば,「シンクタンク的」役割を担っているのが労働側では公法上の団体である労働者会議所であるのに対して,経営側では私法上の任意団体である産業連盟になっているという点である。
 第7に,政党とこれら諸団体との結びつきという点では,労働総同盟が社会(民主)党の強力な支持母体として同党との間に特別に太いパイプをもっている。労働者会議所との間についても実質上それに近い関係を認めることができる。しかし労働組合の場合にも労働者会議所に関してもフォーマルには政党との間に明確な一線(相互の自律性)が引かれており,他党派の活動は完全に保証されている。
 第8に,スウェーデンとは異なって,上のようにオーストリアにおけるユニオン・ライバルリーは目立たない。またビック・2である労使頂上団体(労働総同盟と連邦経済会議所)はその中央集権度といい,その「科学装置」との連携プレーといい,またトップリーダーの兼任関係といい,まさに見事な対称性を見せている。それは両者の安定した関係のあかしでもある。
 しかし詳しくは後述するように,こうした安定性とは逆にオーストリア・モデルあるいはその社会的パートナーシップに対する軽視できない懸念材料も出てきている。それは特に会議所制度に対する疑念となって着実に膨張しつつあるように思われる。経済会議所についてはたとえば経済の国際化に伴う産業「セクター間クラッシュ」という形で,また労働者会議所については個人主義化したホワイトカラーや高学歴者の増加を背景とする会議所の強制的メンバーシップに対する批判として,さらに社会的パートナーシップがマイノリティの利益(たとえば,グリーン・パーティーであれば社会的パートナーシップの工業化思想そのものと相容れない)をどこまで代表できるのかといった疑問も提出されるようになった(注17)。
 これらの小括を踏まえて,社会的パートナーシップの実態に迫ってみよう。まず,物価賃金問題同権委員会に照明を当てる。

(注17) 社会的パートナーシップといえば,ふつうその担い手は労働組合と使用者団体と理解されている。しかしその労使によって果たしてマイノリティの利害がよく代表され得るのかどうかという「利益代表管理」をめぐる重要な問題点については,ヨーロッパ・ワイドの問題としてEC本部でのインタビューでも耳にした。稲上=ウィッタカー「European Social Dimesionに関するインタビュー・メモ」『ネオ・コーポラティズムの国際比較』(日本労働研究機構 1992),pp. 48-49.

3 物価賃金問題同権委員会-社会的パートナーシップの中軸制度

 物価賃金問題同権委員会を欠いてはオーストリアの社会的パートナーシップはないといっても過言ではない。しかし「外部の観察者にはほとんど信じがたい」ことであるが,この委員会は「きわめてインフォーマルな」ものであり,たとえば「この委員会がどこにあるのか分からない。決まった会議の場所もなければ電話番号も見当たらない。独自の財源もなければ委員会に関する規則もない。構成メンバーを記したものもないし,協定や議事録のたぐいも残されていない」(Marin 1985:110)。同じことを,OGBの経済顧問は「法的な観点からすれば,同権委員会は存在しない」(ILO 1986:58)と述べている。もちろん実際には,マリン自身の研究が明らかにしているように(cf., Marin 1982),事務局もあれば議事録も作成されている。彼のいわんとするところは,要するに,この同権委員会のもつ高い機密性とインフォーマルな性格についてである。それにしても,これほどに徹底した「組織なきインフォーマルな制度」がオーストリア・モデルあるいは社会的パートナーシップの骨格をなしているとは確かに外部の者には信じがたい。

 制度的プロフィール

 同権委員会についても先の会議所制度についてと同様にすでに2-3の邦文(注18)による詳しい紹介が行われている。したがってここでは,後の議論に必要な限りでその制度的輪郭にふれておけばよいだろう。
 同権委員会の創設は57年のこと,その主要な構成主体は経済会議所(BWK),労働総同盟(OGB),労働者会議所(OAKT),農業会議所(LWK)のビッグ・4のほか政府,研究機関などが含まれる。それでも,おおまかには政労使の3者構成といってよい。総会は首相あるいは内部大臣が主宰し,原則として毎月1回開かれる。3名の閣僚(通産大臣,社会行政大臣そして農業大臣)に加えてビッグ・4の代表者が参加する。発足時の下部機関は物価小委員会のみであったが,5年後には賃金小委員会が,翌63年には経済社会諮問委員会が設けられた。その後も68年に経済政策懇談会が,70年からはビッグ・4のトップリーダーによる会長予備会談も始まった(図1)。こうした組織的拡張が示唆しているのは,ひとことでいえば同権委員会の役割変化を伴う機能拡大であるといってよい(ILO 1986:58; Chaloupek 1991)。当初の物価問題から経済社会政策全般にまでその取り扱い事項が拡大されていった。
図1 オーストリアの社会的パートナーシップ
 総会を含むこれら諸機関のうち,議決を行うのは総会と物価小委員会それに賃金小委員会の3つである。会長予備会談は総会に先立つ事実上の議決機関といった性格をもっているが(そこではビッグ・2の意向が強く反映される),形式的な議決機関と呼ぶことはできない。これら4つのいずれについてもその構成メンバーはビッグ・4と政府閣僚(委員会によって参加者が変わる。たとえば物価小委員会であれば大蔵大臣と通産大臣というように)である。現実には「会議所などと同じように,これら総会や小委員会の議決も多数決にはよらず満場一致というやり方をとっている」が,議決権という点でいえばそれがあるのは原則としてビッグ・4に限られる(物価小委員会は例外であって,そこでは上記2名の大臣も含まれる)。しかしこの物価小委員会を除く他の議決機関,すなわち総会と賃金小委員会においては,この4半世紀以上にわたって政府は意図して「オブザーバー参加」という立場を堅持してきた。66年の「大連合」の崩壊がその契機となった。それが政治勢力の浮沈を超えて同権委員会を存続させる巧妙な手法でもあった(cf., ILO 1986:59)。

(注18) 篠田(1987,1990),内山(1987,1988)などが代表的なものの一部。

 経済社会諮問委員会

 63年に創設された経済社会諮問委員会は経済政策懇談会と同様に議決機関ではない。しかし,その役割を決して低く見積もってはならない。「同権委員会のなかでは諮問委員会がいろいろ重要なアドバイスをしてきているが,物価小委員会の役割はそう大きなものではなくなった」というたぐいの発言を耳にしたのは連邦経済会議所においてだけではなかった。チャローペークもまた,「いまでは,物価のコントロールという役割は当初のような重みを失っている。そればかりではなく,経済社会諮問委員会は経済社会政策にかかわるほとんどの問題を扱うようになり,それぞれの分野で政策的な調査研究や提言活動を行っている」と書いている(Chaloupek 1991)。
 この諮問委員会は同権委員会に対して高い自律性を保ち,必要に応じていくつもの作業委員会や小委員会を組織し,多くの外部の専門家を動員することができる。この諮問委員会には,政府またはビッグ・4(多くの場合ビッグ・2)から付託された諮問事項に関して調査研究を行うだけでなく,それに基づいてビッグ・4の納得がいく「共通勧告」を行わなければならない。この諮問委員会がもつ高い自律性と「二重機能」を知るうえで役に立つ最近のひとつの事例として-,80年代後半にオーストリアにおける包括的な労働時間の短縮とそれに関する提言について同権委員会(実質的にはビッグ・2のトップ)から諮問を受けた。提出された報告書はしかしオーストリアにおける時短の必要を包括的に論じる代わりに,時短交渉の可能性を各ブランチ(産業)の労使にゆだねるべきだと勧告したケースがある。諮問委員会での調査研究が進み事実が明らかになるに従って,もし包括的な提言をすればかえって多くの異論が噴出するに違いない。それならば,むしろそうした総論を避けてそれぞれの産業労使に時短の可能性を模索してもらうのが賢明な選択だろう,というのがこの報告書の結論であった。この例にも見られるように,事実発見と実践的な政策づくりという2つの役割がこの諮問委員会には託されている。ILOの報告書はこの点を捉えて,それこそ「まさにオーストリア的な解決法の典型」(ILO 1986:61)と言い切っている。篠田(1987〔2〕)もまた,マリンの叙述(Marin 1982)に基づいて,この諮問委員会のもつ「利益調整と科学的調査・分析という緊張した二重機能」に触れ,それによって「真理の独占」状態が生み出されていると記している。
 すでに見たように,各会議所はその法制上当該事項についての意見具申や代案提出の権限をもっている。政府との間に実質上の「事前協議」も行っている。しかしそれらと引き比べて,この諮問委員会に何ら遜色は認められない。政府あるいはビッグ・4(もっと詰めればビッグ・2)からの諮問に応えて,実態的にはビッグ・4の専門スタッフが中心になって諮問委員会の名の下に「共同調査」を行い,かつビッグ・4が了承することのできる「共同勧告」を行っている。諮問事項のなかには時に予算案の検討といったことまでも含まれる。端的にいって,諮問委員会の活動は「ビッグ・4による包括的な共同研究と共同勧告」といってよい。そのひとつの結果が諮問委員会による「真理の独占」といった事態である。
 もうひとつ,この諮問委員会活動について見落とせない点がある。それは,もともと本諮問委員会が作られたとき,その任務に触れて「安定した成長,通貨価値の安定,完全雇用」という目標が掲げられ,その達成のため事実に則って政府の経済政策に対してしかるべき勧告を行うことと明記されていたからである。特に注意を喚起しておきたいのは,3つの目標のひとつに「通貨価値の安定」が組み込まれていることである。それが示唆しているのは,端的にいってオーストリア・ケインズ主義(拡大的財政政策,所得政策そして通貨政策というポリシー・ミックス)の目標が事実上ここに掲げられているということであり,したがってまたこの諮問委員会の設置によって戦後オーストリアにおける社会的パートナーシップの安定的な制度化がほぼ完成の域に達したということができるように思われる。仮に上記3つの目標にインフレ抑制まで含めた政策目標とその達成手段とを図式的に組み合わせてみれば,第1に拡大的財政政策による「安定成長と完全雇用」,第2に通貨政策による「通貨価値の安定」,第3に物価小委員会と賃金小委員会活動を媒介した所得政策による「インフレ抑制」というふうになるだろう。ザイデル・モデルまではあと一息である。

 同権委員会の誕生

 それにしても,戦後なぜ同権委員会といったものが作られたのか。物価小委員会と賃金小委員会の活動内容について簡単に触れる前に,ここで大急ぎで同権委員会の誕生の経緯を振り返っておこう。
 第2次大戦後のオーストリアを覆っていた大きなコンセンサスといえば,それは4カ国占領軍に対しては一致団結して事に当たり万が一にもドイツのように分割統治されることがあってはならないということであった。政党間の「大連合」はこの国民的合意を何より雄弁に物語っていた。そして,「1955年の国家条約によって勝ち取られた政治的・領土的統一はすべてのオーストリアの人々によって『大連合』の成功によってもたらされたものと見なされた」(ILO1986:55)。
 ところで,終戦直後のオーストリア経済もまた大混乱の渦中にあった。消費者物価上昇率を調べてみると,物価凍結の解かれた1947年が対前年比で103.2%,48年が52.4%,49年が28.1%,50年が13.1%,51年が27.8%,そして52年でも17.0%というひどいものであった。この累積効果はまことに絶大で,1946=100.0としたときの52年の指数は優に6倍を超えていた。この高騰ぶりは敗戦国ドイツやイタリアをはるかにしのぎ,まさに「うなぎ昇り」の勢いであった(Butschek 1985:115, 230)。同じく1946=100.0とした場合,ドイツ(ザールランド,ベルリンを除く)の物価上昇指数は52年でも1.4倍,イタリアでも2倍といった水準にとどまっていたから,いかに戦後オーストリアの物価上昇が「爆発的なインフレ」であったかが知られよう。したがって当然,このすさまじい物価上昇にどう歯止めをかけるかが国民的な焦眉の課題となった。この間,46年には政府と労使同数代表による中央賃金委員会が,また翌47年には3大会議所および労働総同盟(つまりビッグ・4)の協力の下に経済委員会が設置された。いずれも法律上の機関ではなかったが,前者は「国民経済的な観点から見て可能でありかつ望ましい」物価上昇とそれに見合った賃金引き上げを,また後者は物価・賃金の安定とそれに関する政府に対する政策提案を旨とするものであった。そしてこの経済委員会活動を通じて,51年までの間ビッグ・4による前後5回に及ぶ賃金・物価協定(Lohn- und Preisabkommen)が結ばれた。その結果は必ずしも芳しいものではなかったが,「インフレ抑制に一定の成果を上げた」(ILO 1986:56)と言われている。
 しかし50年代に入ると,「新たな物価爆発」が生じた。それへの対処方法は「まさにオーストリア的であった」。ビッグ・4は経済委員会に変わって経済管理委員会(首相が議長,ビッグ・4のほか国立銀行総裁,閣僚が構成メンバー)を設けることに合意した。省庁横断的な一種の統制経済の執行にその法的根拠が与えられた。ところが,翌52年にこの経済管理委員会は最高裁判所によって違憲と裁定されてしまった。それでも中央集権的な方法で物価と賃金の安定を図っていくべきだという考え方について政府にもまたビッグ・4にも揺らぎはなかった。違憲判決が教えたことは,それを「インフォーマルに」やる必要があるということであった。折しも総同盟はひとつの厄介な問題を抱えていた。食糧品価格の高騰に直面して一部の組合が賃金調整といった考え方に強く反発していたからである。このとき,ベーム総同盟会長が何といって一般組合員を説得したかに触れてILO報告書はこう記している-「いまは国立銀行事務総長の要職にあるが,当時は労働総同盟の若きエコノミストであったH.キーツル氏(H.Kiezl)はわれわれ(ILO調査団)にこう語った。総同盟会長であり,また社会的パートナーシップ間の協力関係維持について熱狂的な支持者であったJ.ベーム氏は多くの職場を訪れて一般組合員に賃金調整と穏やかな賃上げの必要について説明して回ったんです。私も彼に付いて行きましたが,議論のやり取りといったらそれは激しいものでした。彼は組合リーダーとしてまた政治家としてのすべての力量を注いで,組合の賃金政策の集権化について一般組合員が支持してくれるよう懸命に説得していました」(ILO 1986:57)。当時のベーム会長の賃金政策に触れて,「59年に亡くなるまで総同盟会長であった故J.ベーム氏は,労働組合運動というものは国民経済の発展にきわめて大きな責任をもっており,したがってその賃金政策は組合の交渉力だけではなく社会全体のより広い必要を考慮に入れたものでなければならないと信じていた」(Proksch 1961:234)といった記述も見いだせる。この「ベームの信念」は見落とせない。文字どおり,「包括的」利益団体としてのオーストリア労働総同盟の面目躍如たるところである。
 50年代の半ばになると,次第に「ノーマルな市場条件が再生した」(Chaloupek 1991)。しかしいったん落ち着きはじめた物価は55年になるとまたまた急騰した。それを56年11月に勃発したハンガリー動乱が追い討ちした。インフレ抑制のため,上記の経済委員会が再開されねばならなかった。翌56年には内部に小委員会が設置され,物価動向の計測と抑制政策がその業務とされた。そしてそれから半年後の57年3月,J.ラープ首相(Julius Raab:連邦経済会議所会頭であった人物)と労働総同盟ベーム会長との共同イニシアティブ(より正確には(注19),労働総同盟のイニシアティブ)によって同権委員会が創設された。それは「1年間の暫定機関」として出発した。先の違憲判決の教訓を生かして,同権委員会はまったくヴォランタリーな「制度なき組織」として誕生した。本節の冒頭に記したように,いまもこの点について基本的な変化は見られない。
 このように,まずは第2次大戦後の狂乱的なインフレと国民経済の「大混乱」をいかに克服して国民経済の再建を図るか,中期的には経済社会諮問委員会の目標として掲げられた「安定した経済成長,〔インフレ抑制のための〕通貨価値の安定,完全雇用」をいかにして達成するか,そういった国民的な課題を広く深く共有するビッグ・4と政府によって同権委員会は生み落とされた。それは歴史に淵源するオーストリアの個性を土台とし,戦間期の呻吟難苦の経験によって誘発された強烈な「コミュニティ意識」の産物でもあった。

(注19) 同権委員会創設のイニシアティブは,まずは労働総同盟がとったといってもよいかもしれない。その間の詳細ないきさつについては,cf., Proksch 1961:236f.

 物価小委員会-なぜ価格コントロールなのか

 こうして誕生した同権委員会はその当初から下部機関として物価小委員会を擁していた。この小委員会の開かれるのはふつう連邦経済会議所においてであり,議長も連邦経済会議所会頭が務める慣行になっている。物価のコントロールがこの小委員会の基本的な任務である。商品価格を引き上げたいと思う企業あるいは業界代表はこの小委員会に必要なデータを添えてその旨を申し出,それを受けた小委員会事務局によるスクリーニング等を経て「満場一致」の原則によって値上げを許可するかどうかが決められる。という仕組みになっている。ここで見逃せない点のひとつは,労働者会議所および総同盟の代表が「消費者利益の代弁者」(ILO 1986:60)として行動するという点である。この小委員会で合意し得なかった場合あるいは「12%を超える大幅な値上げ申請」については同権委員会にその決定がゆだねられる(より詳しい手続きについては,Marin 1982; ILO 1986:59f.; 篠田 1987〔2〕 :51参照)。
 いまでも「すべての生産物の約50%ほどが政府によって価格コントロールされている」。そのなかには,「パンとか薬品,タバコ,肉,ミルク,トウモロコシ,電力・ガスや鉄道料金など」が含まれる。これらの価格コントロールのすべてがこの物価小委員会によって行われるのではない。輸入品は物価小委員会の取り扱い品目ではないし,所管省庁の直接コントロールによっているものも少なくない。しかし総じていえば,物価小委員会による物価コントロールは,「値上げ時期を遅らせるとか値上げ率を下げるとか,あるいは値上げを認めないとかいったやり方で」戦後オーストリア経済の物価安定に大きく貢献してきた(ILO 1986:59-60)。
 それにしても,なぜ物価のコントロールなのか。この点に触れたチャローペックの説明はなかなかに興味深い。少し長いが引用してみよう-「『物価の安定』といっても,何もインフレ・ゼロを意味しない。ドイツや他の西欧隣国などオーストリアの競争国のインフレ率を上回らない限りでの平均的な物価上昇ということである。それが政策目標とされた。その目標達成の方法は原則的には2つ,供給〔企業〕サイドの競争力を強めることによってか,あるいは[製品]価格のコントロールによってかである。しかし小さな国では,その多くの市場において競合する企業の数が少ないために競争関係は有効に働かない。かといって,輸入を増やして即座に外国企業との競争にさらすというわけにもいかなかった。つまり,徐々に[オーストリア企業の国際]競争力を強めていくしかない以上,インフレ抑制のためには価格のコントロールをするしかない。具体的にはもし企業あるいは業界がその製品価格を値上げしたいというのならば,それが正当なものであることを同権委員会あるいは物価小委員会に示さねばならない,という後者の方法によることになった。原則として企業は年に一度,製品価格の上昇を認めてもらおうと同権委員会に出向いたものだ。果たしてその値上げ申請に十分な根拠があるのかどうか,克明に調べられた。生産性の上昇も考慮に入れられた。こうしたシステムがそれとしてうまく機能するためには,中間財を含むすべての主要製品セクターがこのシステムの下に包括されねばならない。そして労働者会議所と労働総同盟が消費者の利益を代表する。もし価格を低めに抑えられるならば,貨幣購買力を確保することができる。したがって,こういった物価コントロールは間接的には賃上げ圧力を押し下げる働きをもっていた」(Chaloupek 1991:6-7)。
 このように,市場競争による間接的な物価の鎮静化(安定)という手法ではなく,価格の直接的コントロールといったラディカルな方法が採用されたのは,「小さな国では,多くの市場において競合する企業の数が少ない」からであり,また中小企業が圧倒的に多いオーストリア経済にあって国際競争力を備えた企業もまたきわめて少なかったからである(輸入によって物価が下がっても,企業の倒産と失業がその代償であっては何の意味もない)。要するに,当時のオーストリア経済を考えれば市場メカニズムは機能しないか,あるいは機能させられない。したがって,物価の安定は社会的パートナーシップによる物価コントロールという直接的な方法に訴えるしかなかった。これが,なぜ物価コントロールなのかという問いに対する答えであった。輸入規制的という意味で「閉ざされた」,そして「幼稚な」スモール・ビジネスが横溢する国民経済というものがその選択の前提にあったということ,もうひとつ,こうしたインフレ率の低下によって期待されていたのがほかならぬ穏健な賃上げであったという点も忘れないようにしよう。
 賃金小委員会
 ということからも示唆されるように,賃金小委員会といってもその機能は物価コントロールのための物価小委員会に比べてはるかに間接的で制限的なものであった。賃金小委員会の直接の仕事といえば,毎年の賃金交渉に際してガイドラインを出すことでもなければまた賃金調整を行うことでもない。ただひとつ,新協約締結のための賃金交渉に入ってよいかどうかについて判断を下すことだけであった。発足当初から現在に至るまで,基本的にはそれ以外のことに一切かかわっていない。繰り返して言うが,「団体[賃金]交渉プロセスにおける同権委員会と賃金小委員会の役割はきわめて慎重で控えめなものである。ふつう1年の労働協約の有効期間が切れたとき,労使が新たな協約交渉に入ってよいかどうかについて,同権委員会の同意を得なければならない。交渉が妥結したとき,その結果は委員会に知らされねばならない。これによっていかなる交渉が行われているか,またその結果がどうなったかについて労使双方のみならず重要な社会的パートナーは完璧な情報を手にすることができる」(Chaloupek 1991:7)ということになる。
 多くの場合,その賃金交渉開始の要請は労働組合の下部組織,具体的には地方レベルか産業レベルから出てくる。労働総同盟を通じてその要請が賃金小委員会に提出される。そしてそうした要請が出てくるのに先立って,総同盟内部で団体交渉委員会-グーガー(注20)やヴァルタースキルヘン(注21)も述べているように,その権能を過大視してはならないが-によって組合間の賃上げ要求に関するある程度の調整が行われている。
 いくつかのヒアリング結果を総合する限り,第1に交渉開始の要請が認められなかったというケースはこれまでにない。しかし第2に,「たとえば1967,68年それに78年などがそうだったが,より穏健な賃上げをといった含みで交渉時期を多少とも遅らせた(交渉開始の許可を出さなかった)」とういことはある。第3に,「コスト上昇という意味で同権委員会が関心を寄せているのはブランチ[産業]としての賃金上昇についてであって,個別企業における付加的な賃金上昇,つまり賃金ドリフトに関してではない。このことは,60年代前半に完全雇用が達成され労働力不足が生じるようになって以来,賃金コスト・プッシュ・インフレを抑えるという意味で同権委員会のきわめて重要な関心事となった」(Chaloupek 1991:6-7)。

(注20) cf., Guger 1990〔1992〕:11-12.
(注21) cf., Walterskirchen 1991:49-50.

 小 括

 ここでも,物価賃金問題同権委員会についていくつかの要約を書き留めておくのが好都合であろう。
 第1に,高い機密性とインフォーマリティによって覆われた,社会的パートナーシップの中軸制度としての物価賃金問題同権委員会の誕生は,戦間期の困難な経験と第2次大戦後のオーストリア経済を考えてみれば決して不自然なことではなかった。戦後オーストリア社会を襲った脅威的な「物価爆発」をいかにして早期に終息させるか,また多くの「幼稚」産業を抱えながらいかにして国民経済を安定的軌道に乗せるか-この喫緊な課題を政労使は深く共有していたからである。実際,同権委員会に先立って類似した機能をもったいくつかの委員会が作られていた。
 第2に,同権委員会はいまその内部に物価小委員会(1957),賃金小委員会(1962)そして経済社会諮問委員会(1963)という3つの下位委員会をもっている。この順序で各委員会は作られたが,そのこと自体,同権委員会の機能が時代とともに変化してきたことを物語っている。最初は圧倒的な比重をもっていた物価小委員会(したがって,物価安定が最優先の課題であった)も70年代に入ると次第にその役割は後退しはじめた。そして,いまでは「もはや物価[安定]など重要な問題ではない」(連邦経済会議所でのインタビュー記録)と言われるほどになった。それに代わって,60年代になると労働力不足をひとつの背景にしてコスト・プッシュ・インフレの可能性といった観点に沿った賃上げ問題への関心が,さらには中長期的な経済社会政策への関心が研ぎすまされていった。それに伴って賃金小委員会や経済社会諮問委員会はその相対的な重みを増していった。
 第3に,総会やその準備機関である会長予備会談(1970)はもちろんのこと,これら小委員会もすべてその実質的な構成主体はビッグ・4(なかでも連邦経済会議所と労働総同盟のビッグ・2)であり,それに政府閣僚が「オブザーバー参加」するといった基本的性格をもっている。決定(それが行われるのはフォーマルには総会,物価小委員会それに賃金小委員会のみ)は満場一致をその原則としている。
 第4に,同権委員会と同時に発足した物価小委員会は終戦後の上記「物価爆発」を抑えるために作られた。業者から申し出のあった値上げが妥当なものであるかどうかを審議して決定するのがその役割であった。総じてその機能は良好で,戦後オーストリア経済における物価安定に大きく寄与した。
 なぜ,物価安定がこういった「物価審査」といったある意味でラディカルな方法によらねばならなかったのか。端的にいって,ひとつにはそれぞれの製品分野別に見たとき市場競争メカニズムが働くほどの企業数が国内にはなかったからであり,いまひとつには,かといって製品輸入によって外国企業との直接的な競争にさらすこともできなかったからである。
 第5に,物価が安定すれば,それだけ賃上げ圧力を押し下げることができる。そういう論理も働いたのであろうが,同権委員会の賃金決定へのかかわり方は「慎重で控えめなもの」であった。それはいまも変わらない。賃金小委員会とはいっても,その役割は値上げの許認可権をもつ物価小委員会とは比肩すべくもない。唯一,労使当事者が新たな賃金交渉に入ってもよいかどうかについて判断を下すことができるにすぎない。
 第6に,いよいよ大きな機能をもちはじめた経済社会諮問委員会について興味を引かれる点のひとつは外部資源の動員も含めてそれが高い自律性をもっていることであるが,いまひとつ,それが調査研究機能と併せて政策提言機能を2つながら兼備し,一方では「真理の独占」状態を作り出しながら,他方ではビッグ・4が合意し得る政策形成をめざして強い政策調整能力をもっていることである。さらに第3点として,その設置目的(つまり,安定した成長,通貨価値の安定,完全雇用の3つ)からもうかがえるように,この諮問委員会の創設によって事実上「ザイデル・モデル」の骨格が描き出されたといえるのであって,その意味でこの経済社会諮問委員会の登場によってオーストリア・モデルあるいは社会的パートナーシップは完成の域に達したといってよいように思われる。
 したがって,こうした理解に立脚すれば残された検討課題が何であるかはもはや明確であろう。時代と領域を区分けしながらオーストリア・モデルが実際によく機能し得たのかどうかについて検証してみよう。

4 第1次石油危機とオーストリア・ケインズ主義

 この文章の関心は,冒頭にも述べたように80年代以降のオーストリア・モデルにある。しかしオーストリア・ケインズ主義が国際的に注目されるようになった契機は第1次石油危機のオーストリア経済の「見事な」立ち直りにあった。しかも,その回復プロセスのなかにザイデル・モデル内在的なある種の問題と困難も見え隠れしていた。そうだとすればなおさらのこと,70年代半ばに大きな威力を発揮したこのオーストリア・ケインズ主義について一瞥を与えておく必要があろう。

 70年代のマクロ経済パフォーマンス-「危機のなかの完全雇用」

 いくつかのマクロ経済指標の動きを拾い出してみよう(図2)。1970年のオーストリアの1人当たり国内総生産(GDP)はOECD諸国平均よりも5%,また西ドイツよりも20%も低かった。しかし73-79年の実質国内総生産はOECDの平均伸び率1.8%よりも高く,75年のマイナス成長にもかかわらず3.0%という水準に達した。その結果85年には,1人当たりGDPはOECD平均よりも10%高く,西ドイツとの格差も12%にまで縮まった(cf., Guger 1992:340)。
図2 労働市場指標・インフレ率の推移:1965-91
 ところで,第1次石油危機後の不況と雇用情勢の悪化に対してオーストリア政府は完全雇用の維持を最優先課題として掲げ,インフラ整備と投資誘発のため企業減税や低利融資,補助金支出など大規模な景気拡大政策をとった。この完全雇用の維持ということがいったい当時どれほどの重みをもっていたかは,B.クライスキー(Bruno Kreisky)首相が「1人の失業者は10億シリングの国債よりももっと厄介だ」と語ったことからも容易に知られよう。いずれにせよ,その政策はケインズ主義的な財政政策による拡大的な総需要管理といってよい。その結果,70年代中期以降80年代にかけて就業者数も継続的に増加傾向をたどり,第1次石油危機後の外国人労働者の締め出し政策や時短政策などと相まって失業率は70年代を通じて1.7%という国際的に見てきわめて低い水準にとどまった(注22)。それでもインフレ率は70年代前半には目立って高まった。特に第1次石油危機直後の74年には9.5%,翌75年には8.4%の大幅な上昇となった。しかし70年代後半には物価動向は鎮静化し,70年代のインフレ率は年平均6.1%という水準で収束した。賃金動向については物価が74-75年にかけて急上昇したため75年には「賃金爆発」が起こっている。しかし物価と賃金のスパイラル現象は労働組合の「賃金自粛」によって抑制された。後述のように,ここにオーストリアの所得政策の成果を見て取ることができる。70年代を通じたオーストリアにおける1人当たり実質賃金は次第に低下したが,それでも平均して3%の伸び率を示した(cf., OECD 1981,1982; Butschek 1985; Walterskirchen 1991; Guger 1992)。
 70年代のオーストリアのマクロ経済パフォーマンスという点でいえば,しかしこういった国際比較的に見た好材料(高い経済成長率,低いインフレ率と失業率,着実な実質賃金の上昇,GNP比での高い投資水準など)ばかりに目を奪われてはならない。というのも,上記の拡大的な財政政策は70年代を通じて一方で「保護セクター」である公共部門における雇用機会を拡大させ,他方では政府の財政赤字を膨大なものに押し上げた。GDPに占める財政赤字は74-77年の短期間のうちにGDPの3.5%にまで増大し,それ以降長期にわたってオーストリア政府を悩ませることになる。そればかりでない。75年度以後は経常収支も悪化しはじめ,その赤字幅は74-77年の期間でGDPの2.4%に達した(Walterskirchen 1991:11)。さらに,オーストリア製造業の国際競争力(OECD 1993a:81f.)も第1次石油危機後の数年間で目立って後退した。
 したがって,こういったプラス・マイナスを総合していえば,WIFOのF.ブッチェック教授がインタビューのなかでもそう語ったように,「危機のなかの完全雇用」(Vollbeschaftigung in der Krise)といった呼び方が馴染むだすう。この明暗から目を反らせてはならない。

(注22) 70年代後半のオーストリアで失業率が低かった理由には,こうした公共部門における雇用拡大といったことのほか,外国人(基本的には出稼ぎ型)労働力の締め出し,早期引退政策,時短などさまざまな要因が働いていた。なおこの点で,オーストリアにおける積極的労働市場政策(69年導入)の果たした役割は小さい。cf., Biffl et al. 1987;内山 1989:386(第7表)。

 硬貨政策

 ところですでに書いたように,輸入製品の価格コントロールについては物価小委員会の権限外事項であった。しかし厄介なことに,「70年代諸島からのインフレの主たる原因はこの輸入価格の上昇」(Walterskirchen 1991:47)に移っていた。オーストリアは67年までにEFTA諸国との間に関税障壁を取り除き,さらに72年には他のEFTAメンバーに先んじてECとの間に「中間的」な自由貿易協定を結んでいた(OECD 1993a:58f.)。それは貿易拡大に大きく貢献し,財・サービスの輸出はGNPの40%以上にのぼった。いまや「物価が国内的なコストによって決定される程度はいよいよ少なくなっていた」(Chaloupek 1991:10)。こうして,経済の国際化プロセスを通じて高いインフレ率もまた輸入品とともに外国から輸入されるようになった。そうなると,物価の安定のためには輸入価格を安定させなければならない。どうしたらよいか。輸入価格の安定には硬貨政策がよい。ヨーロッパの基軸通貨たるドイツ・マルクにオーストリア・シリングを連動させるという方法である。ひと言でいえば,インフレ抑制のための硬貨政策といってよい。それがよく機能してインフレが抑えられるという保証がなければ,なかなか思い切った拡大的な財政政策に訴えることもできない。言い換えれば,硬貨政策(の功奏)が拡大的な財政政策の前提条件であった。
 通常であれば,価格の安定は金融政策によっている。しかしオーストリアのような「小さな開放経済」という条件に加えてインフレの主な原因が輸入価格の高騰に移行するといった状況に直面して,オーストリアは70年代になって物価の安定は硬貨政策を通じて,また経常収支の改善は所得政策によって達成するという方針を掲げた(Guger 1992:354)。基本的に大切な点であるが,こうした硬貨政策が意味しているのは経常収支の改善のために通貨政策を発動しないという点である。スウェーデンはその輸出競争力の向上と経常収支改善をめざして70年中期から80年代初期にかけて数度の大幅なクローネ切り下げを行ったが,オーストリアの硬貨政策はそうした退路を断った。オーストリアの事実上の硬貨政策はブレトン・ウッズ体制が崩壊した1973年にまでさかのぼることができる(OECD 1993a:64)。フォーマルには76年になってドイツ・マルクへの連結が決定させた。
 大事な点の第2は,その結果,シリングの実質上の大幅な切り上げが生じたということである。コルクマンによれば,「〔74年から87年までの間に〕オーストリア・シリングは実質30%も切り上げられ,そのために単位労働コストも20%上昇した」(Korkman 1992:292)。また,OECDの年次経済報告も同じ点に触れて,「オーストリア・シリングは71年から91年までの間,アメリカ・ドル表示の名目年率で平均で4%,実質平均でも2%〔したがって,この20年間で40%〕という長期にわたる通貨切り上げを経験した」(OECD 1993a:64)と記している。ということになれば,第3に,この硬貨政策はオーストリアの経常収支勘定と国際競争力を損なう方向に働くということになる。実際,上で言及した70年代中期以降のマクロ経済パフォーマンスの負の側面にはそういった影響が現れていた。
 第4に注目したいのは,こうした硬貨政策が労働総同盟によって提唱されたという点である。というのも,硬貨政策によって輸入品価格の上昇を抑えられれば,それが労働組合の穏健な賃上げ要求を行う場合の一般組合員に対す格好の口実となり得たからである(cf., Guger 1992:354)。さらに加えて,OECD年次経済報告は次のような興味深い記述を残している-「国際競争力への関心が組合をして硬貨政策を提唱せしめ,経営者をして原理的にそれを受容せしめた」(OECD 1982:26)と。硬貨政策が通貨の切り上げをもたらすという限り,この叙述は必ずしも説得的ではない。しかし「通貨の安定が国際競争力の強化につながる」という側面に強いアクセントを置く限り,ひとつの見方であるに違いない。実際,オーストリアの物価上昇率が他のいかなる国よりも低いことによって生じる利点が,硬貨政策に伴うマイナス効果(たとえば,シリング高による輸出競争力の低下)を埋め合わせるにはしばらくの時間が必要であった。
 このように,効果政策は一方でインフレ抑制という機能をもっていたが,他方では経常収支や国際競争力にマイナスの影響を及ぼす可能性があった。ではこの70年代,オーストリア・ケインズ主義の第3の柱である所得政策はいかなる位置を占めていたのだろうか。

 所得政策

 一般的にいっても,所得政策の実際に迫るためには労働組合の賃金政策や団体交渉などについて詳しく検討してみなければならない(第5節)。特にオーストリアの場合にはなおさらである。というのは,第1に,オーストリアの所得政策の最も基本的な特徴は,ポランらの克明な研究が明らかにしているように,「他の諸国における所得政策とは異なって,常に社会的パートナーシップという制度的枠組みのなかで労働組合が自主規制するという形をとってきた」(Pollan 1987:19)という点にあるからである。しかし第2に,なぜ労働組合の賃上げ自粛なのか。ヴァルタースキルヘンは,ポランと同じ内容を指して「賃着と物価との下降的なスパイラル」(Walterskirchen 1991:50)と巧みに表現したが,ここにその答えが示唆されている。一方で,インフレ率が低ければ実質賃金が問題である限り高い名目賃上げは必要でない。言い換えれば,低めの賃上げの第1の必要条件はインフレ抑制である。実際,60年代までは同権委員会の物価小委員会活動を通じて,それ以後については上記の硬貨政策によって政労使はインフレ抑制に懸念であった。他方,賃金コスト・プッシュ・インフレ回避に大切なのは生産性上昇に見合った賃上げである。生産性向上とリンクした賃上げは,これがインフレを誘発しない「穏健な」賃上げ行動の基本ルールである。もちろん,この賃金コスト・プッシュ・インフレの回避は「オーストリアにおける物価-賃金政策の狙い」そのものであった(OECD 1988:71)。労働組合を含むオーストリアの社会的パートナーシップが戦後一貫していかにインフレ抑制を重視してきたかという点は,なぜ同権委員会が作られたかという点に絡めてすでに述べたとおりである。第3に,したがってまたオーストリアの所得政策がよく機能したかどうかは賃金関数の説明変数としてインフレ率や生産性上昇率をとったとき,そのパラメータが大きな説明力をもつかどうかにかかっている。これらインフレ率や生産性上昇率によって賃金関数がかなり説明できるとすれば,オーストリアの賃上げはその所得政策に見合った形で実行されたということになる。興味深いことに,1960年以降の4半世紀について製造業の賃金関数(75年の「賃金爆発」はダミー処理)を計測したポランの研究によれば,「1960-85年の製造業セクターにおける協約賃上げ率を分析してみると,インフレ率と生産性上昇率の2つが賃金上昇率の決定要因であったことが分かる」(Pollan 1987:19)。この計測結果(注23)はオーストリアにおける長期にわたる所得政策の「成功」を証拠立てている。
 要するに,経済成長も完全雇用も重要であるに違いない。しかし,インフレを誘発したのでは元も子もない。インフレは極力抑制しなければならない。インフレ率が低ければ賃上げは低くても構わない。インフレは抑えたい。そのためには生産性上昇率に見合った賃上げが欠かせない。これが戦後オーストリア社会の強い合意であり,社会的パートナーによって共有された政策目標であり,またその実現手段であった。
 さらに,低いインフレ率がもたらすだろう良循環の輪を広げていけば-たとえば,インフレ率が低ければ,必要なときに拡大的な財政政策に訴えることができる。インフレ率が低ければ,物価と賃金の上昇的スパイラルを避けることができる。したがってまた,インフレ率が低ければ,それだけ国際競争力の維持向上に貢献できる。こうして,物価の安定,雇用の維持,国際収支の均衡という「魔法の三角形」を作り出すことができるかもしれない。こういった意味で,まさにインフレの抑制はオーストリア・ケインズ主義あるいは社会的パートナーシップの隅の首石的な存在となっていた。

(注23) この引用に次いで,ポランは-オーストリアの賃金関数はこれらインフレ率や生産性上昇といった基本的な説明要因のほか,労働市場要因(失業率),社会的パートナーの経済成長予測(期待),経常収支バランス(労働組合が国際競争力の変動に感応的である証拠)という3変数の説明力も無視できないと分析している。なお,ヴァルタースキルヘンはインフレ率の説明力を強調している。cf.,Pollan 1987:19-20; Walterskirchen 1991:50.

 小 括

 第1次石油危機とオーストリア・ケインズ主義について,いくつかの要点を記せば次のようになるだろう。
 第1に,オーストリア経済の国際化に伴って,さらには原油価格の高騰によって70年代前半には戦後オーストリア経済の長期にわたる懸念材料であったインフレの主原因が「外国から輸入される」という事態が生まれた。このインフレを抑えないでは拡大的な財政政策もうまく機能しない。では,輸入品価格の上昇をどう抑えるか。この問いに対する答えが,事実上ブレトン・ウッズ体制の崩壊(1973)とともに動き出した硬貨政策であった。通貨安定による(輸入)物価の安定,インフレ抑制という考え方である。それはまた,国際経常収支の改善のために通貨切り下げは行わないという方針が打ち出されたことも間接的に物語っていた。
 第2に,しかしこの硬貨政策にはそれ内在的な問題点もあった。そのひとつが通貨切り上げ(シリング高)であり,もうひとつがそれに伴う国際競争力の後退と国際経常収支の悪化であった。事実,70年代後半にオーストリア経済はこれら2つの問題に直面した。では,このマイナス面をどうふさいだらよいか。端的にいって,硬貨政策と所得政策の相乗効果によってインフレを抑えられるならば,戦略資源は相対的に安価で外国から輸入することができ,また賃金コストの高騰も抑えられるだろう。そうなれば次第に国際競争力は高まり,経常収支も改善されていくのではないかといった見取図が思い描かれていた。
 第3に,第1次石油危機による不況と雇用不安の増大に対して,政労使が共有した政策はケインズ風の拡大的な財政政策による総需要管理であった。その発動は,すでに触れたようにその前提(あるいは並行政策)として硬貨政策と所得政策による内外インフレ材料の除去を伴うものでなければならなかった。
 この拡大的な財政政策(企業減税,低利融資,補助金など)によって,一方で雇用機会は確保されたが,他方でその負債も大きく膨れ上がった。問題のひとつは「保護セクター」である公共部門の肥大化であり,もうひとつが財政赤字の拡大であった。それらは大きな負債として80年代にまで引き継がれた。
 第4に,このように硬貨政策にも拡大的な財政政策にもそれぞれのプラスとマイナスがあった。これに対して,オーストリア・ケインズ主義の第3の柱である所得政策は取り立てて大きな問題点を抱えることなく,その意味で「成功裡」に実行された。
 オーストリアにおける所得政策の最も基本的な特徴は,それが労働組合による賃上げ自粛という形で行われた点にある。なぜ,労働組合による自主規制なのか。これまで触れた点に限っていえば(国際競争力の改善という他の理由にはついては後述する),ひとつには終戦から数年間のあの脅威(驚異)的な「物価爆発」をはじめ,その後も繰り返しオーストリア経済を襲った深刻なインフレーションを思い起こす必要があろうし,いまひとつにはその経験を踏まえて「与党」たる労働組合のみならず広くオーストリアの政労使がいかにインフレ抑制という政策課題を重視していたかを知る必要があろう。労働組合としても,賃金コスト・プッシュ・インフレを避けるためには生産性上昇率に見合った賃上げが望ましい。もしインフレ率が低ければ,賃上げ率が低くても不都合はない。インフレ率が低ければ,その限りで拡大的な財政政策に訴えやすい。インフレ率が低ければ,国際競争力の維持向上にもまた国際経常収支の改善にも寄与することができる-といった良循環の政策思想をオーストリア・ケインズ主義のなかに見て取ることができる。その意味で,オーストリア・ケインズ主義の要諦はこのインフレ抑制にあるときっても過言ではない。
 実際,60年から4半世紀にわたる製造業の協約賃上げ率を取り上げた賃金関数の計測結果によれば,賃上げ率は生産性向上率とインフレ率という2つの変数によってかなりな程度説明することができる。したがってその限りで,所得政策は「成功」したといってよい。

5 団体交渉と賃金決定

 このように,70年代の所得政策は一応の「成功」を収めた。その政策は繰り返し言うように,他の多くの事例とは異なって労働組合の賃上げ自粛行動によっている。そうだとすれば,その自粛行動のプロセスやメカニズムにどういった特徴が認められるか。具体的には,たとえば組合の賃金政策とその変遷,賃上げ要求の準拠枠,パターン・セッターと賃上げ波及などについて問う必要があるだろう。これらに関連して,いままでのところはあまり目立たないように見えるユニオン・ライバルリーが今後顕在化する可能性はないのか。また,この自粛行動のひとつの側面である生産性に見合った賃上げという場合,それは賃金ドリフトの発生とどう関係しているのか。さらに,もし賃金ドリフトが許容されるとすれば,果たしてスウェーデン風の連帯主義的賃金政策はオーストリアではどういう位置づけを与えられているのか,こういった一連の問いがたちまち湧出する。

 組合の賃金政策

 すでに見たように,同権委員会賃金小委員会の賃金交渉へのかかわり方はきわめて慎重かつ控えめなものであった。直後には,組合側から出てくる新協約締結のための賃金交渉開始の要求に対して「スタートの旗を振るだけだ」といっても間違いではない。そうであればあるほど,いったい労働組合がいかなる賃金政策をもっているかが問われよう。この点,労働総同盟の初代会長であり59年に亡くなったベーム氏が,かつて「賃金政策は組合の交渉力ではなく,社会全体のより広い必要を考慮に入れたものでなければならない」と語っていたこと(第3節),また労働総同盟がインフレ(賃金コスト・プッシュ・インフレ)の回避を重視し,そのためには生産性上昇に見合った賃上げ行動が大切であると考えていた点にも触れておいた(第4節)。この労働組合の賃金政策について,いま少し書き足しておこう。
 まず第1に,こうした基本的な性格づけにもかかわらず,時代によって労働総同盟の賃金政策は微妙に変化している。1950-60年代にかけての賃金政策の基本は「長期的な生産性向上に方向づけられた賃上げ」におかれていた。その政策は時に(スウェーデンの「積極的労働市場政策」にならって)「積極的賃金政策」と呼ばれる。景気上昇局面では穏やかな賃上げを,しかし景気後退局面においては高めの賃上げを獲得することによって消費者の購買力を高めようとする狙いがそこには込められていた。(cf., Pollan 1987:3; OECD 1988:71; Guger 1992:350)。けれども70年代にかかると,賃上げに関する「ベンヤ方式(Benya Formula)が登場した。それには2つの背景があった。67年不況と国際経常収支の悪化である。経済の国際化とともにインフレの主たる原因が輸入品価格の上昇に移行しつつあった当時,とりわけこの経常収支の悪化は組合の賃金政策に強いインパクトを与えた。このベンヤ方式とは,生産性上昇率が平均5%であった当時の経験を踏まえて,長期的な実質賃金の上昇率は毎年3%とし,それ以上の賃上げ分については賃金ドリフトによって獲得するというものであった(Walterskirchen 1991:8)。その政策効果は一方における労働組合の賃上げ自粛であり,他方では生産性向上分の余力を企業の投資に振り向けるというものであった。もはや国際経常収支の動向(経常赤字)への配慮なしに国内景気を刺激するといった「積極的賃金政策」は現実に馴染まないものになっていた。「かつての積極的賃金政策は次第に放棄され,それに代わって貿易輸出入への配慮さらには短期的な経済情勢も組合の賃金要求に重要な役割を果たすようになった」(Pollan 1987:3-4)。労働総同盟トップリーダーの関心の準拠枠は,こうして次第に「国内時間軸から国際空間軸へ」と移行していった。いったい,「経常収支にいかなる影響を与えるかということが労働組合の賃金要求のより重要な準拠枠となった」(Guger 1992:350)。こうした考え方は,大幅な貿易赤字が出て小幅な賃上げを余儀なくされた77年以降,一層鮮明になった。その狙いは2つで,ひとつは国内需要を抑えて輸入を減らすこと,もうひとつが国際競争力の改善であった(Pollan 1987:4)。したがって輸入削減によるインフレの抑制,さらに国際競争力の向上(企業の投資促進)と輸入削減による国際経常収支の改善という2つの目標を掲げながら,労働組合が賃金自粛に乗り出したという構図がここに浮かび上がる。インフレ抑制と併せて,国際競争力の改善という点にいかに労働組合が意を用いていたかが知られよう。80年代特にその後半になるとこういった国際競争力への配慮は一層強まり,また失業率の上昇,生産性上昇率の低迷,インフレ率の低さなどによって80年代後半の賃上げ率は70年代に比べてさらに穏やかなものとなった(Pollan 1992:15.図2参照)。
図2 労働市場指標・インフレ率の推移:1965-91
 第2に注目したいのは,オーストリアの「連帯主義的賃金政策」についてである。チャローペックは労働総同盟の賃金政策の一要素として,「生産性志向的」「一般的な経済情勢への配慮」と併せて,「連帯主義的」な性格を挙げていた。それは「いかなる産業(つまり,生産性の高いセクターか低いセクターか,競争セクターか保護セクターか,民家企業か国有企業かといった違いを超えて)に働いていようと,すべての労働者は中長期的には同じ賃金上昇を享受すべきである」という原則のことを意味する(Chaloupek 1991:7-8)。より正確には,中長期的に見て産業セクター横断的に中央協約賃金の上昇率を同じものにしていくという方針のことである。したがって,ひとつにはそれはスウェーデン型のラディカルな「連帯主義的賃金政策」とは異なる。そんなことをすれば,「低賃金産業の国際競争力を傷つけることになる」(Walterskirchen 1991:55)と組合は考えていたからである。もうひとつ,所得の再分配政策といった意図はこの労働総同盟の連帯主義的賃金政策には盛られていなかった。所得の再分配問題は賃金政策ではなく,もっぱら税制と社会保障政策の問題と理解されていたからである(Walterskirchen 1991:50;Guger 1992:350)。
 この連帯主義的賃金政策については,82年に労働総同盟「左派」を構成する民間ホワイトカラー労働組合(Gewerkschaft der Privatangestellen),特にその17ブランチのうちの製造業部門がスウェーデン型の連帯主義的賃金政策の導入を提唱したことがきっかけとなって,金属労組を中心とするベンヤ会長率いる「主流派」との間に論争が展開された。しかしその結論は旧来の賃金政策が再確認されたばかりでなく,さらに中央協約賃金交渉に関するこれまでの連帯主義的賃金政策まで放棄されることになってしまった。第10回の労働総同盟大会(1983)での決定であった。週労働時間の短縮を産業セクター別に行うことになり,それが直接のきっかけとなって従来の連帯主義的な賃金決定に楔が打ち込まれた。それ以後,産業セクター間の賃金格差は中央協約賃金だけでなく賃金ドリフトまで含めて一層広がった。

 賃金交渉の機構とプロセス

 オーストリア労働総同盟が国際的に見ても優れて中央集権的な強力なリーダーシップをもっていたという点については第2節で述べた。労働協約の排他的な締結権といい,各組合の財政掌握といい,また専任スタッフの処遇といい,傘下「支部組合」への配置といい,その権限はまことに大きい。しかしそうだからといって,ここから一直線に「中央集権的」な賃金交渉という像を思い浮かべてよいかといえば,必ずしもそうではない。オーストリアに「全国的な賃金交渉」(National Wage Round)があるかと問われれば,その答えは「ノー」であるというのが,たとえばポランの見方である(Pollan 1992:5)。この点に関連して,かつてあの「ベンヤ方式」を提唱した労働総同盟のベンヤ会長はこう書いた-「その賃金政策については,当該産業がおかれている経済機会によって制約を受けるにせよ,個々の組合が自律性をもっている。労働総同盟が特定のガイドラインを出すといっこことはない。もちろん連帯主義的賃金政策に沿って,組合間の賃上げが似通った水準に落ち着くということは大いにあり得ることだ」(Arbeit und Wirtschaft, vol. 7 no. 9, 1981,S. 34. cf., Pollan 1992:note 9)。確かにフォーマルな意味で毎年賃上げガイドラインが発表されるかといえば,そういうことはない(注24)。しかし,表2から知られることは66年(はじめて全国ワイドの賃上げ率が計算された年)から85年までの約20年間について,主要産業の協約賃上げ率がほとんど同じだったということであり,その限りで「60年代後半から80年代半ばまでは,オーストリアの賃金決定は『あたかも』賃上げガイドラインがあり,それに沿って中央集権的な賃金交渉が行われてきたかのような印象を与える」(Pollan 1992:7)。実際83年までであれば,上記のように連帯主義的賃金政策が機能していた。また労働総同盟の団体交渉委員会を通じて組合間の賃上げ要求の調整もある程度行われていた。しかしすぐ後でも触れるように,それ以降,一般的にいって賃金交渉機構はより「分権化」し,産業間の賃金格差は広がり,賃上げ水準そのものもより穏やかなものとなった。
表2 中央協約平均賃上げ率の推移:1966-76,1976-85
 ところで,いったい賃金交渉の単位はいくつあるのか。また,そのパターン・セッターとなっているのはどの産業なのか。まず,50年代から60年代前半までの第1期は,1年間を通じて賃金交渉が行われていた。その当時,金属労組や建設労組がいまそうであるような先導的な役割を担うということはなかった。賃金協約の期間についてもばらつきがあって,1年もあれば3年というものもあった。現在のような交渉パターンが出現するのは60年代の後半になってからのことである。最初は建設労組が,やがて金属労組が毎年の賃上げ交渉でリーディングな役割を果たすようになった。そしてその賃金政策も初期の「積極的賃金政策」から脱却し,次第にインフレ抑制と国際競争力の維持という2つのマクロ経済効果に労働組合の強い関心が注がれるようになった。もっとも,パターン・セッターや波及メカニズムなど決定交渉パターンという点でいえば,その明確な輪郭が浮き彫りされるようになったのはせいぜいこの10年ほどのことである(cf., Pollan 1992:4)。
 いまでは,秋(11月)と春(5月)の2つの時期に分けかれて賃金交渉が行われている。秋闘は9月末から始まり,その交渉イニシアティブは金属機械工業と鉱業のブルーカラー労働者を組織する金属労組(Gewerkschaft Metall-Bergbau-Energie)がとっている。およそ1カ月後したがって10月末に妥結する(ケースが多い)。この賃金交渉の結果を受けて,1カ月遅れで小零細規模の金属労働者が交渉に入り,さらにそれを金属産業のホワイトカラー労働者が追う場合が多い。そしてその後に小零細産業のホワイトカラー労働者の交渉が続く。一方,公共部門の4つの組合(国家公務員労組,地方公務員労組,鉄道労組そして郵政労組)も10~11月には交渉を始める。ほぼ時期を同じくして商業(卸小売業)のホワイトカラーとブルーカラーの組合も交渉に入る。銀行業の組合がこの秋闘では最後の交渉グループで,年明け1月から交渉を行うことが多い。この秋闘でも明確なパターン・セッターが確立しているとは言いがたい。しかし,金属労組が賃上げ要求でもまた妥結水準の設定という点でも他の産業労使に対して大きな影響力をもっている。
 これに対して,4月から6月に及ぶ春闘では建設業の労組と化学労組,それに繊維労組といったところがその中心部隊になっている。交渉単位は,たとえば商業(卸小売業)や建設セクター,さらに公共部門の労働組合(国家公務員労組,地方公務員労組そして鉄道労組)がそうであるように,合同交渉委員会を組織するということになれば労働側のテーブルはひとつに統一される。商業についていえば,ブルーカラー労働者を組織している商業・交通運輸労組とホワイトカラーを組織している民間ホワイトカラー労組(商業ブランチ)が一緒になって統一交渉のテーブルに着く。またこれ以外にも,たとえば建設業と木材製造業などの関連産業の場合がそうであるように,ある交渉単位(建設業)の妥結内容が他の交渉単位に準用されるようなケースについても統一交渉が行われる(Pollan 1992:5f.; Walterskirchen 1991:49f.さらにポラン,チャローペックなどとのインタビュー記録)。
 他方,賃金交渉委員会の使用者側メンバーは,たとえば鉱業・鉄鋼連盟(Fachverband der Bergwerke und eisenerzeugenden Industrie)とか金属工業連盟(Fachverband der Metallindustrie),電気・電子工業連盟(Fachverband der Elektro-und Elektronikindustrie)とかの産業別の使用者団体(Fachverband:連邦経済会議所の6つの「産業セクション」よりもその括りが小さい)がその単位となっている。しかし労働側が統一交渉組織を作っているように,使用者側でも同じようなことが行われており,したがって締結された団体協約を見てみると,たとえば労働側は1つの労組,使用者団体は複数といった形になっている。
 ひとつの具体例を挙げてみると,1991年11月に締結された鉄鋼・金属線品工業団体協約(Kollektivvertrag fur die eissn-und metallerzeugende und verarbeitende lndustrie)の場合,労働側は金属労組のみ,しかし使用者側は上記3つの産業別使用者団体に加えて,ガス・熱供給業産業連盟,車両・船舶・航空機工業連盟など合計8つの使用者団体がこの統一的団体協約を締結している。そしてこの産業横断的な広い協約単位共通に-もっとも企業内の「従業員代表組織の合意に基づいて賃金グループを拡大したり,最低時間賃金を引き上げたりすることができる」と記されているが-,8つの賃金グループ(技術者,最高熟練工から実務的専門教育未受講者まで)ごとにその最低時間賃金(Mindeststundenlohn)を116.60シリングから68.90シリングまで定められている(上記 Kollektivvertrag, S. 32)。これは産業横断的な最低時間賃金の改定であるが,しかしこれと併せて見落とせないのが企業レベルにおける「実質賃金の引き上げ」(1 st-Lohn-Erhohung)に関する協定である。本協約の付録2には,その第1条で「企業の従業員の実質時間賃金は,見習工を除いて〔最低〕4.8%引き上げる」と協約されている(a.a.O.,S. 56)。
 この引用文にさらに表3まで含めていえば,第1に(大)産別交渉で決められる賃金が2種類であるような産業が存在する。この引用の事例はそれに当たるが,しかし商業等についてはそうでない(表3参照)。2つである場合,そのひとつは当該産業の最低賃金,もうひとつが実質賃金の最低引き上げ率である。この最低賃金の上昇率は計算上ふつう実質賃金[最低]引き上げ率よりも1-2%高めになる(cf., Walterskirchen 1991:50)。第2に,最低賃金が産業別に協約されるということは賃金ドリフトの存在が予定されているということを意味している。上の実質賃金[最低]引き上げ率はその賃金ドリフトの「ミニマム基準」を協定したものである(cf., OECD 1988:71)。確かに,「賃金ドリフトへのかなりの圧力がこの交渉機構のなかにビルトインされている」。実際,この産別交渉によって決まる最低賃金は,内容的に見れば,「限界的な企業でも支払うことのできる賃上げ額」といってよい(OECD ibid.)。事実,多くの従業員が産業別に決められた最低賃金以上の給与を受け取っている。
表3 1990年賃金交渉ラウンド

(注24) OGBの経済顧問であるH.キーンツル(Kienzl)によれば,OGBが公式な賃上げガイドラインなど出さずにやってきた主たる理由は,もしガイドラインなど出せばそうした基準が賃上げ「最低ライン」と見なされ,その結果「組合間の不健全な賃上げ競争」を生じる可能性を懸念したためだという。cf., Pollan 1992:6.

 賃金ドリフト

 では,いったいどれほどの賃金ドリフトが生じているのか。事柄の性格上,賃金ドリフトは同一産業をとっても企業ごとに異なったものとなりやすい。したがって正確なところは分からない。賃金ドリフトに関する調査研究も少ない。いま産業別協約賃金(最低賃金)と実質賃金との差で賃金ドリフトを表すとすれば,90年の製造業ブルーカラーの賃金ドリフトは平均で26%,そのうちでも鉄鋼業が最も大きくて47%,食品製造業が少なくて11%となっている。70年代や80年代前半の製造業全体では3割以上もの賃金ドリフトが生じていた。他方,同じ製造業でもホワイトカラーの場合には,1990年現在の賃金ドリフトは平均で25%,協約賃金のままで働いている(その意味で賃金ドリフトあるいは上乗せ賃金がない)製造業ホワイトカラーは全体の5-10%程度になるだろうと推計されている(Pollan 1992:7-8)。
 企業(特に大企業)レベルで従業員代表組織が経営側と賃金の上積みについて交渉した結果がこの賃金ドリフトにほかならない。その場合,職種等による中央協約賃金に同率を乗じてそれぞれの賃金上乗せが行われるため,賃金格差は縮まらない。技能レベルごとの格差はかなり厳密に温存させられるといってよい。先にスウェーデン型の連帯主義的賃金政策はオーストリアには認められないと記したが,ここにもそのひとつの顔がのぞいている。
 もちろん法的にいえば,73年12月の集団的労働関係法改正によって従業員代表組織の権限は大幅に拡大されたにもかかわらず,賃金交渉を行う権限は与えられてはいない(cf., ILO 1986:67; Tomandl and Fuerboeck 1986:43)。しかし実態は,企業レベルにおける従業員代表組織と経営との間で多くの賃金協約が結ばれている。それがいわゆる「自由な企業協約」(freie Betriebsvereinbarungen)と呼ばれるものである。上のトマンドルらもまた,この点を捉えて「法律を無視した行為ではあるが,ほとんどの大企業は職場での協議を通じて新たに修正または導入した賃金テーブルをもっている」(Tomandl and Foerboeck 1986:44)と明記している。
 中央労働協約を締結する労働組合としては,一般的にいってこういった賃金ドリフトの発生を否定的,批判的に捉えるものだろう。しかしオーストリアにおける実際は必ずしもそうではない。上記の引用のように,金属労組といった主導的な組合が企業レベルで生じる賃金ドリフトの「ミニマム基準」を中央レベルで協約するといった事例が決して少なくない(前掲表3参照)。こうした協約を最初に締結したのも金属労組であるが(1959年のこと),いまでは製造業一般(ホワイトカラーも含む)にまで広がっている。したがって,賃金ドリフトは最終的には企業レベルの従業員代表組織と経営側との交渉によって決められるものではあるが,その「前提」(賃金ドリフトの「ミニマム基準」)を産業別労使が中央交渉で協定するといったやり方が少なくとも製造業ではかなり一般化している。
 ポランによれば,賃金ドリフトはこのように大手製造業で目立つとはいえ,他の産業においても見受けられる。たとえば,建設業がそうである。しかしその方法は製造業に比較してはるかに不安定であり,ドリフトの振幅も経済環境や労働市場などの変化によって大きく左右される。概していえば,従業員代表組織の設置も義務づけられていないような(従業員規模5人以下の)零細企業が大多数を占めている産業セクターでは,賃金ドリフトはあまり認められず,中央協約賃金(最低賃金)の引き上げがすべてだといってよいほどの大きな比重を占めている。
表3 1990年賃金交渉ラウンド
 最後に,ようやくにしてオーストリア産業連盟(VOI)で入手し得たデータを図3として掲げておこう。全産業計の中央協約賃金(KV-Gehalter)と実質給与(Effektiv-Gehalter)の格差に関する過去20年ほどのデータである。これによれば,確かに70年代のほうがドリフト率が多少高いけれども,むしろ長期にわたって25%前後のかなり安定した水準で推移している点が注目される。
図3 協約賃金と実質支払い賃金とのギャップ:1970-91年・全産業

 賃金格差とフレキシビリティ

 もう一点,賃金格差とフレキシビリティについて触れておこう。まず,賃金格差に関連して,繰り返し述べたようにスウェーデン型の連帯主義的賃金政策はオーストリア労働総同盟のとるところではなかった。表4はそのひとつの傍証である。賃金所得の第1および第10・十分位がそれぞれに所得総額に占めている比率を76年と86年について比較したこのデータによれば,賃金格差は拡大も縮小もしていないことが知られる。
表4 賃金所得格差の推移:1976-86
 もう少し細かく見てみよう。たとえば,産業別の賃金格差がどうか。労働組合には格差縮小といった考え方は基本的にない(Walterskirchen 1991:55)。中央協約賃金の一律引き上げ,端的にいってこれがオーストリアの連帯主義的賃金政策というものである。産業セクター間の賃金格差は変えずに,格差の伸縮は企業レベルでの賃金ドリフトにゆだねる(そうすれば,賃金コスト・プッシュ・インフレは避けられる)という考え方が強い。ローソンによれば,80年代のオーストリアの産業間賃金格差はヨーロッパのなかでも最も大きく,国際的に見てこれを上回るのはわずかに日本,アメリカそしてカナダだけである(Rowthorn 1992:91f.;Pollan 1992:13, Table 5)。また,グーガーによれば,オーストリアにおける産業別賃金格差は長期的に拡大傾向にある。各時点での全産業平均=100.0として,1961年から87年までの石油精製業(最も賃金が高い)および衣服製造業(最も賃金が低い)の賃金をとってみると,1961年の政務精製業=128.7,衣服製造業=76.7であったものが,87年ではそれぞれ173.4,55.4というように格差が拡大している(Guger 1989:186; Walterskirchen 1991:55)。
 こういった産業間の賃金格差は70年代の末から目立つようになり,80年代中期以降より顕著になった(Pollan 1992:13, 18f. 表5参照)。労働時間短縮の産業間の跛行性-85年以降,オーストリアでは時短が進んだ。金属労働者や製造業ホワイトカラーの週標準労働時間は86年11月あるいは87年1月から40時間が38.5時間に短縮されたが,たとえば小零細企業の金属労働者や商業部門では89年初めまでその導入が遅れた。時短がこうした産業セクター別に進められたことと併せて,それがしばしば労働慣行の「柔軟化」を伴うものであった点にも注目しよう-まで含めていえば,産業間の労働条件格差はさらに広がる。ここで見逃せないのは,産業平均よりもその賃金がかなり高い(賃金のみならず時短でも他産業に先行した)金属産業や機械工業あるいは化学産業(具体的にはたとえば鉄鋼業や石油精製業など)ではその経営実態はまさにこの時期大きな危機に瀕していたのであるが(第6節),それにもかかわらず産業間比較という点ではこれら産業セクターがますます高い労働条件を享受するという形で拡大していったという点である。一方で小零細企業が大きな比重を占める他産業の賃金上昇の足枷となりながら,他方では政府から莫大な補助金を引き出して自らの労働条件の維持向上には余念がなかった,という構図が浮かび上がる。
表5 産業間賃金格差の推移:1961-1987
 なぜ,こんな「奇妙」なことが起こったのか。これらの産業セクターを組織している組合のリーダーシップ,さらには国有企業の従業員代表組織のトップ・リーダーが強い力をもっていたことは確かである。しかも,これらの産業のほとんどが公共部門にくくられる。トラクスラーもいうように,オーストリアの労使関係を長く牛耳ってきたのは国有・公営企業のそれであった(Traxler 1992:287)。結局,80年代になって直面した公共部門の経営危機にも-80年代の後半には,冒頭にも触れたようにその「大改造」が着手され,次第にかつての労使関係上のリーダーシップも失いはじめたが-まずは,政府から巨額の補助金を引き出すことによってその相対的に高い労働条件をさらに高めようと試みた,と理解することができる。そうなると,こうした産業間の賃金格差の拡大を一般的には産業調整の随伴現象と捉えがちであるが,果たしてそれでよいのかどうかという問題が浮上する(これについて次節で検討を加えてみよう)。
 いずれにせよ,80年代後半になって産業間の賃金格差が大きくなった。それが示唆していたのは賃金決定の実質上の「分権化」である。そしてその分権化は,80年代中期以降の産業別の「時短とフレキシビリティ・パッケージ」協約締結(Traxler 1992:295)という動きのなかで一層弾みがついた。
 オーストリア経済の最も基本的な特徴,つまり膨大な民間小零細企業と公共部門としての基幹産業という図柄を思い浮かべれば,この産業間格差の拡大が(さらに賃金ドリフトまで考慮に入れればなおさらのこと),しばしば企業間の賃金格差の拡大を伴うものであったことがうかがえよう。事実,企業規模と所得格差との間には強い正の相関関係が認められる。86年に行われた労働社会省調査によれば,従業員規模500人以上の企業と4人以下の企業を比べた場合,日本ほどではないが前者の平均賃金は男子で2割,女子で3割ほど後者よりも高かった(cf., Walterskirchen 1991:57)。また,ブルーカラーとホワイトカラーの賃金格差はこの4半世紀を通じて時系列的には安定しているが,スカジナビア諸国やドイツなどに比べて,6対10とかなり大きい。さらに89年4月現在の熟練度の違いによるブルーカラー労働者間の賃金格差はオーストリアで73%(ドイツでは81%)であった(Guger 1989:186)。
 ところで,もうひとつの賃金フレキシビリティについてはどういうことがいえるか。結論的にいえば,名目でもまた実質でもオーストリアの賃金フレキシビリティは国際的に見て高い。実際,いくつかの賃金関数の計測結果が示していることのひとつは,オーストリアはいまもフィリップス曲線が基本的に成り立っている数少ない国のひとつであるということである。名目賃金の失業率弾性値は日本に近く,かつOECD諸国のなかでも最も高い部類に属する(Guger 1992:350-352; Biffl et al. 1987:Appendix Tables 5,6; OECD 1990:37)。その弾性値はむしろ80年代になって高まった。国有企業の危機によって金属労組の交渉力とリーダーシップに陰りが出たからである。
 企業レベルにおける賃金フレキシビリティは上記の賃金ドリフトに深い関連がある。それに直結している企業の賃金管理の性格という点でいえば,とりわけ大企業において協調的な労使関係の下で経営側が強い労務管理イニシアティブをもっており,たとえば基本賃金の決定について,その固定部分と業績リンク部分のうち,特にホワイトカラーについて後者の割合が高くなる傾向にあるといわれる。それは,年功(Senioritat)に代わって業績が個別賃金決定の主要な尺度になることを意味している。こういった個別賃金の「業績主義化」あるいは「故人主義化」と並行して,一部の外資系大企業を中心にして(たとえばGMのAspern工場),80年代中期以降になって従業員代表組織(実質的には金属労組など)の協力を得た新たな職場組織の再設計,品質管理グループの導入,いわゆるハーモナイゼーションの促進など人的資源管理(HRM)の「実験」も行われるようになった。さらには,大きな国際的な潮流を反映して,労働時間の短縮と併せてその柔軟化を図るなど既存の労働法規を緩和するような動きも見られる(cf., Traxler 1992:290-291)。こうした試みをいまの時点で過大視することはできないが,EC加盟申請(1989)やEEA(European Economic Area)の出現(1993)によって代表されるようなオーストリア経済の国際化(まずは「ヨーロッパ化」)への動きは80年代後半から現在まで急速に活発化してきており(OECD 1993a:58f.),今後より大きな意義をもつことになるだろう。そして,こういった国際化の動向は激しい国際競争にさらされている産業セクター(「競争セクター」)と「保護セクター」との産業間の軋轢,つまり「セクター間クラッシュ」を呼び覚まし(cf., Traxler ibid.),引いてはユニオン・ライバルリーといった問題の新たな発火点になるかもしれない。

 小 括

 オーストリアにおける賃金決定の成り立ちとその変遷,さらにその含意について簡単にまとめておこう。
 第1に,70年代のオーストリアにおける所得政策の「成功」は労働組合の賃金自粛に負っていたが,それを支えてきた組合の賃金政策はその「包括的」利益代表行動という基本特性を維持しながらも,70年代に入って注目すべき変化を経験した。50-60年代の賃金政策を特徴づけていたのは「積極的賃金政策」であり,長期的な生産性上昇に方向づけられていた。しかし,70年代には「ベンヤ方式」と呼ばれる考え方が登場した。マクロ生産性の伸び率が年平均5%であるとして,そのうちの実質3%を賃上げに回し,残りは企業の投資に振り向けるというものであった。そこに示唆されていたのは,ひとつには国際経常収支の悪化を踏まえた労働組合によるオーストリア製造業の国際競争力に関する強い懸念であり,また個別産業あるいは企業の生産性の伸びに見合った賃金ドリフトの発生という政策であった。
 この後者の生産性の伸びに見合った個別産業あるいは企業ベースでの賃金ドリフトの承認という考え方は,別な言い方をすれば,オーストリアにおける連帯主義的賃金政策のありようをよく表現している。というのは,中央協約賃金を同率で引き上げていくという以上の意味はそこには込められていなかったからである。したがって,それが文字どおり実行されたとしてもその結果は賃金格差の温存であって,決して格差縮小にはつながらない。スウェーデン(LO)型の連帯主義的賃金政策とは異なって,オーストリア労働総同盟の連帯主義的賃金政策には所得の再配分効果など託されていなかったし,また低賃金産業の国際競争力を損なってはならないという組合の考え方があった。しかし,その連帯主義的賃金政策も83年の労働総同盟の第10回大会において放棄された。以後,産業別の賃金格差はそれまで以上に広がった。
 第2に,この賃金ドリフトに関連してオーストリアの賃金交渉機構についていえば,ひとつには産業別の中央協約賃金をめぐる交渉があり,もうひとつにはそれを受けた企業レベルでの上積み(賃金ドリフト)交渉がある。このうち,前者は「限界企業の支払い能力」に見合ったいわば産業別の最低賃金に関する交渉を意味し,また後者は企業内の従業員代表組織(Betriebsrat)と個別企業との賃金ドリフトに関する交渉を指している。法律上はいまでもこの後者の交渉は認められていないが,実態的には十分定着している。こうした企業別の上積み交渉が行われているのは大きな企業においてであり,小さな企業が圧倒的な比重を占める産業セクターではそういった交渉は行われない。したがってその場合であれば,中央レベルでの協約賃上げがそのまま実質賃上げということになる。
 金属労組がそうであるように,製造業を中心にして産業別中央交渉で企業レベルでの賃金ドリフトについてその「ミニマム基準」を交渉し決定するといった事例が見られる。
 第3に,大産別労使によるいまの賃上げ交渉は年2回に分けて行われている。11月が山場となる秋闘と明けて5月がピークとなる春闘である。労働総同盟が毎年賃上げのガイドラインといったものを出しているわけではない。また,秋闘における金属労組の相場形成力,春闘における建設労組や化学労組などの影響力が注目されるが,フォーマルな意味でのパターン・セッターは確立していない。それでも,80年代の中頃までの20年ほどの期間については,あたかも賃上げガイドラインに沿って中央集権的な産業別賃金交渉が行われてきたかのような印象を与える。それほどに中央協約賃金の上昇率は産業間で平準化していた。しかし80年代の中期以降,産業間の賃金格差は広がった。
 第4に,オーストリアの場合,賃金ドリフトは中央協約賃金(産業別最低賃金)と実質賃金との差を意味する。時期的に多少の変動はあるが,全産業的に見るとこのドリフト幅は長期にわたっておよそ20%前後の水準でかなり安定的に推移してきた。
 第5に,賃金格差の実態を見てみると,産業間でも職種間でもまた企業規模間でも,国際的に見てオーストリアの賃金格差は大きい。このうち,特に産業間の賃金格差は70年代末から目立ちはじめ,繰り返し言うように80年代の後半以降一層顕著になった。賃金の高い産業グループには公共部門にくくられる基幹的な製造業が多い。それらは80年代中期までに経営危機を経験し膨大な政府補助金に依存してそれを乗り切ったところが少なくない。一方では「大改革」を行いながら,他方では特権的な労働条件を享受し続けようとした。それは「分配結託」というにふさわしい。
 第6に,こういった産業間の賃金格差の拡大は,賃金交渉の実質的な「分権化」を示唆していた。その分権化は,80年代の中期以降目立つようになった産業別の「時短と労働のフレキシビリティ・パッケージ」協約締結という企てのなかで一層弾みがついた。
 第7に,賃金関数の計測結果によれば,1つには,名目であれ実質であれ,いまもなおオーストリア経済についてフィリップス曲線が成り立っている。名目賃金の失業率弾性値はOECD諸国のなかでも最も高い部類に入る。2つには,80年代中期までの4半世紀についていうと,製造業の協定賃上げ率は生産性向上率およびインフレ率の2変数によってかなりな程度説明できる。したがって,それは労働組合の賃金政策の基本的な「成功」を示唆しているだけでなく,同時にオーストリアの相対的に高い賃金フレキシビリティを論拠づけてもいる。
 第8に,この賃金フレキシビリティは,最近特にホワイトカラーに対する「業績主義的」「個人主義的」な人事管理の浸透によって増幅されている。協調的な企業内労使関係を背景にしながら,いま多国籍企業の経営イニシアティブによって新たな職場組織づくりや「柔軟な働き方」の設計などいくつもの実験が進められている。「ヨーロッパ化」という大きな時代趨勢のなかで既成の労働法規の柔軟化も始まった。今後,こうしたうねりはさらに高まることが予想される。

6 オーストリア・モデルの試練

 1980年代の前半,H.アンドロッシュ(Hannes Androsch)の後を襲って大蔵大臣に就任したH.ザルヒャー(Herbert Salcher)は「オーストリア・ケインズ主義をオーストリア・プラグマティズムに転換する」(Walterskirchen 1991:9)と宣言した。それはオーストリア・モデルの困難とその修正を見事に言い表している。基本的には,現在まで硬貨政策は維持され,労働組合の賃金自粛による所得政策もなお健在である。その意味でオーストリア・ケインズ主義の2つの柱はいまも生きている。しかしケインズ主義の真骨頂たる拡大的な財政政策というもうひとつの柱は83年に基本的に取り除かれた。したがって,オーストリア・ケインズ主義をオーストリア・プラグマティズムと書き換えたいのは理に適っている。それにしても,どうしてこういうことになったのか。また,後者のオーストリア・プラグマティズムとはいかなるものか-,この文章の冒頭で触れた問題意識にさかのぼってこれらの点に迫ってみたい。

 「成功」の負債

 第1次石油危機後の不況と雇用不安に対して,オーストリア政府と社会的パートナーシップは企業減税や低利融資,補助金支出などケインズ的な財政政策による総需要拡大という道を選んだ。それらの複合効果によって経済成長を下支えし完全雇用を維持することが最優先の課題と見なされた。硬貨政策や所得政策の発動と相まって,70年代後半には物価水準は落ち着き,失業率は70年代を通じてきわめて低い水準で推移した。しかし,それは「危機のなかの完全雇用」に違いなかった。この時期のオーストリア経済の国際的に見た高い成長率,低い失業率とインフレ率,着実な実質賃金の上昇,GNP比の高い投資比率などの「好材料」の裏面には,実は多くの負債リストが書き込まれていたからである。
 たとえば,景気後退局面におけるこういった拡大的な財政政策が膨大な財政負担を生み出し,景気浮揚に伴う税収等の歳入増によって弁済されない限りそれが大きな財政赤字を結果することは火を見るより明らかであった。事実,政府負債は70年代後半に一挙に膨張した。また,雇用拡大といってもそれが目立ったのは公共部門においてであった。それが財政赤字に拍車をかけたことは言うまでもない。さらに失業率の低下とはいっても,その中身をよく観察してみると,出稼ぎ型労働力が多かった外国人労働者の締め出しや時短の促進,あるいは高齢者に対する早期引退政策など,スウェーデンの積極的労働市場政策とはまさに対照的な「消極的」労働市場政策が大きくあずかって力があった。
 通貨の安定による物価安定あるいはインフレ抑制をその狙いとし硬貨政策は効果的ではあったが,他方それは実質上のシリングの切り上げを意味していた。それが国際競争力の後退と経常収支の悪化をもたらすことは避けがたい。実際,70年代の後半にはそういう状況が出現した。ということになると,せっかく物価は落ち着き,失業率が下がってもオーストリアのような「小さな開放経済」国家がもし国際競争力に劣り,その結果国際収支も悪化するということになれば,やがては物価や雇用情勢にも重大な影響が及ぶことになり,それこそ「死活問題」(OECD 1988:57)である。
 こうした事態は,要するにオーストリア・ケインズ主義の「成功」の代償あるいは負債と表現してよいだろう(cf., Muller 1988:104)。「負債」がなかったのは,ひとり労働組合の賃金自粛による所得政策だけであった。

 ケインズ主義の放棄

 このように,「80年代にはオーストリア・ケインズ主義は衰弱した」(Walterskirchen 1991:9)。その衰えは,第2次石油危機への対応プロセスのなかに鮮明に描き出された。「ザイデル・モデル」のザイデルその人が分析しているように,第1次石油危機と第2次石油危機とでは,その後の経済政策についてもパフォーマンスという点でも大きな食い違いが見られた(Seidel 1987)。表6を見れば,一目瞭然となろう。「74-77年」と第2次石油危機直後の「80-83年」について,GDP比財政赤字,実質通貨供給,実質内需,GDP比国際経常収支,GDP,雇用,失業率といった7つのマクロ経済指標をとってみると,いずれに関しても両者の間に目立った違いが認められる。それは質的な落差といってよい。第1次石油危機後に比べれば,内需の著しい縮小と財政支出の削減,雇用の減少と失業率の上昇,通貨供給量の激減と経常収支の改善などの動きが見て取れる。すべての「出発点は,明らかに70年代末の政府の憂うべき大きな負債にあった」(Walterskirchen 1991:10)。その負債は高金利を誘発した(Guger 1992:353)。その高利がまた財政赤字を追い討ちするといった悪循環が生じていた。もはや,第1次石油危機後の対応は踏襲されなかった。今回は完全雇用のために拡大的な財政政策に訴えるといった道はとられなかった。それは明らかに基本政策の変更を意味していた。オーストリア・ケインズ主義の「ケインズ主義」的要素が払拭された。その選択は,ネオ・リベラリズムの着実な「浸透」(Muller 1988:104)をうかがわせる83年の社会党の絶対多数の喪失と連立政権の樹立によって決定的となった。完全雇用をめざすケインズ主義的な総需要管理に代わって,すでに新たな大きな政策課題が浮き彫りにされていた。喫緊の政策課題は,政府主導の成長による完全雇用から財政赤字の削減とその一環でもある公共部門の産業調整問題へと大きくシフトしはじめた。
表6 第1次-第2次石油危機後のマクロ経済パフォーマンス
 こうして,80年代前半のオーストリアでひとつには優先的なマクロ政策課題の変更に伴って,オーストリア・ケインズ主義の3つの基柱のうち拡大的な財政政策が事実上放棄されたということ,しかも,その変更と放棄は70年代後半の「成功」の負債であったということ,これら2つの点をともに見失ってはならない。
 国有企業の危機と「特権」
 いくどか指摘したように,大きな公共部門の存在がオーストリア経済の最も基本的な特徴のひとつとなっていた。郵政,通信,電力,ガス,石油精製,石炭鉱業,鉄道,航空,自動車製造,鉄鋼という合計10産業に関する国有化率を国際比較した80年データによれば,オーストリアはこれらすべての産業について国有化率が「75%以上」となっており,主要先進工業国はもちろんのことインドやメキシコ,ブラジルなどと比べても最も高い国有化率を示していた(Vickers and Wright 1988:11)。のちに,『フィナンシャル・タイムズ』紙がオーストリアを資本主義のなかの「最後の『国家主義的国家』(Statist Country)」と形容したのもこの国有化率を見れば十分うなずける(Financial Tomes, 9 October 1991)。銀行や保険業といった産業についてもその国有化率は高かったから(Traxler 1992:287),こういった産業分野まで含めれば,「産業国有化・国家」オーストリアという性格はもっと鮮明なものになるだろう。そして,こうした基幹産業の国有化政策が第2次大戦後の4カ国占領軍による生産設備(いわゆる「ドイツ」財産)収用を阻止するための手段であったという重要な歴史的事実については,すでに第2節でも言及しておいた。その性格は55年に旧ソ連邦の管理していた企業資産(USIA-Betriebe)が返還されたとき,なお一層強まった。
 70年代の雇用機会の増大はそのかなりの部分が教育や福祉,医療や保健サービス,さらにOIAGを中心とする基幹的な国有企業群の拡大によって担われた(cf., Walterskirchen 1991:18,22; Traxler 1992:286)。80年代初頭の時点で,これら国有企業の従業員総数は製造業について全体の約2割にのぼり,これに国家所有の銀行が管理していた製造業まで含めればその比率は25-30%にも達した。そればかりではない。当時の金属・機会工業に働く全従業員のうち,その約半数は国有企業かあるいは国有銀行の管理企業かのいずれかに雇用されていた(Pollan 1992:15, note 32)。
 しかし文脈上ここで特に注目したいのは,70年代末から80年代初頭にかけて多くの国有企業が経営危機に直面したという事実である。70年代にはまだ利益を出す国有企業も少なくなかった。OIAGの枠内で,それが他企業の欠損分の穴埋めに振り向けられた。そうした事情が大きく変わったのは79年以降のことである。膨大な欠損はそれ以降毎年政府の手によって補填されねばならなかった。79年以降90年までに630億オーストリア・シリングがOIAGにつぎ込まれた。これに2大銀行CreditanstaltとLanderbank関連の補填金140億シリングを加えると,実に総額770億シリングもの莫大な金が政府から国有企業に注ぎ込まれたことになる(Muller 1988:105)。
 いったい国有企業の役割とは何か,が問われただけではない。70年代に目立って改善されたこれら国有企業に働く人々の「特権的」なフリンジ・ベネフィット(たとえば,53歳で直前給与の8割もの年金がついて辞められる)の見通しも取り沙汰されるようになった。ポランによれば,70年代のこの「改善」(特権付与)について国有企業の経営者のなかには不熱心な者もいた。しかしその当時,「大手国有企業の従業員代表組織(議長)の発言力はきわめて強大なもので,かれらが首相や閣僚などに接近してその意向を実現させることは決して難しいことではなかった」らしい。もしその意向を拒否すれば,首相でさえ「政治家としてのその後のキャリアの妨げになる」ほどのものであった(Pollan 1992:16)。フリンジ・ベネフィットの見直しが実際に行われるようになったのはようやく80年代も後半になってからのことである。こうした「エピソード」が示唆しているのは-たとえば,90年でさえ製造業ブルーカラーの賃金ドリフトが鉄鋼業(Voest鉄鋼)では実に47%にのぼっていたこと,あるいは80年代後半の経営危機のさなかにあって政府から膨大な補助金を引き出すことによって自らの高い労働条件を維持しようとした国有企業の従業員代表組織といった事実まで思い起こすならば-,一方では特権的な国有企業などを中心とした賃金交渉あるいは労使関係の「分権化」とそれに伴う産業間の労働条件格差の拡大ということであるが(したがって,この格差拡大は産業構造調整を促したかどうかについて大きな疑問が残る),他方では世論の批判的な吟味にさらされない密室における賃金・労働時間やフリンジ・ベネフットなど労働条件の改善をめぐる「政治化」の進行ということであった。
 しかし,経営危機に伴ってそうした特権や密室政治化がひとたび公然となったとき,厳しい社会的糾弾の対象となることは避けがたい。80年代の中頃,折しも政治支出削減の「倹約プログラム」(Sparprogramm)によって公務員の給与引き上げや年金水準が抑制され,婚姻・出生手当も減額され,それと並行して国民の社会保険料負担の増額が行われた(Walterskirchen 1991:14,65f.詳しくはSoziale Sicherheit, vol. 42, 1989 参照)。その結果,72年には月例賃金の26%であった社会保険料負担率が87年には34%まで上昇し,従業員1人当たりの実質賃金も,1976=100.0としたとき,87年の指数もまったく同一水準にとどまりほとんど改善されなかった。そうしたなかでの「特権」の露見であったから,もはやその温存など不可能なことであった。

 産業構造調整と民営化

 それにしても,なぜ国有企業の経営危機が生じたのか。70年代までの経営行動が雇用機会の保証のみならず「特権的」労働条件の提供にもつながっていたというすでに指摘した側面は見逃せない。しかし別な理由もある。たとえば原油の思惑買いによる負債,外国投資・経営多角化での「つまずき」(Muller 1988:105),さらに必要な「構造調整」に手が着けられなかったというもっと基本的な問題もある。実際これら国有企業では自律的かつ自主的な経営革新や技術進歩への努力など希薄であったし,その動機づけも弱かった。国有企業の経営関心は伝統的に内向きであった。民間の中小企業セクターに見られた国際競争への関心は国有企業のものではなかった。オーストリア国有企業は長期にわたって多国籍戦略にほとんど無関心であったし,「西ヨーロッパの東の辺境」ウィーンをヨーロッパの中枢拠点と定めてオーストリアに進出してくる多国籍企業などまだまだ少なかった(Walterskirchen 1991:13)。ということになれば,「独占的」「特権的」な国有企業における目立った賃上げや労働時間の短縮は決して高い生産性向上や経営効率の成果ではなかったと推論しても差し支えないだろう。むしろ,生産性向上や経営効果とは切り離された形で高い労働条件が「政治的」に維持されてきたといってよい。まさに労働条件の産業間格差拡大と産業調整遅滞の「併存」(Guger 1992:358)というのが偽らざる現実であった(注25)。したがって,前節末尾で触れた賃金関数についての議論,つまりインフレ率,生産性上昇率そして失業率に感応的なオーストリアの賃金決定という計測結果も,時期的に80年代中期までについてのことであり,しかもデータ・ベースが製造業の中央協約賃金に限定されていたという点に改めて注意しなければならない。
 こうして,マクロ経済パフォーマンスという点でオーストリア・モデルの「成功」が色あせ,それに加えて国有企業の経営危機の実態が明らかになるに従って,国有企業のイメージは急速に悪化していった。国有企業に対する政府からの資金援助に「賛成」という人の割合は81年にはまだオーストリア国民の75%を占めていた。しかしその比率は82年には69%,83年7月には60%,同年10月には44%に急落,86年には40%まで下がっていた。賛否の比率が逆転したのは83年10月のことである。また,国有企業の民営化についても,79年に「いくつかの国有企業は民営化すべきだ」という意見に賛成した人は全体の17%にすぎなかったが,86年にはその割合は一挙に63%にまで跳ね上がった(Muller 1988:106)。86年の総選挙に前後して,政労使のこの国有企業の民営化に関する具体案(注26)づくりはかなりの煮詰りを見せた。労働総同盟も渋々ながらそれに応じざるを得なかった。その主な内容を挙げると,OIAG傘下で最優良の石油精製会社OMV,上記2大銀行や電力会社Verbundgesellschaftの民営化(いずも政府出資率を51%まで下げる),そのほかSiemens Austriaやオーストリア航空などについても政府出資率を引き下げることなどが決められた。しかしその実行となると,87年10月の株価の大暴落(「ブラック・マンデー」)の影響もあって必ずしも計画どおりには進められなかった(cf., Muller 1988:112)。そのうえ,政府所有株式の「放出」とはいっても,その買い手は同じ国有企業であったりもした。たとえばタバコ専売公社,Chemic Linz AGのプラスティック部門,それにOMVの場合もそうであった。実際,「民営化」の基本方針のひとつとして労働総同盟は,「売り出された株式が外国資本の手に落ちない」ようにすべきだという考え方を打ち出していたが,こうした国有企業内での株券の「たらい回し」が民営化の実態の一部であったことは否めない。したがって,『フィナンシャル・タイムズ』紙による「国有化からナショナリズムへ」(From Nationalization to Nationalism)という表現は言い得て妙であった(Financial Times,9 October 1991)。
 しかしそういった「限界」はあったにせよ,重大な「実験」が行われたことは確かだった。これら一連の民営化とともに,国有企業に対する補助金カット,不採算部門の縮小や移管,経営者の入れ替え,従業員数の大幅な削減などの試みも着手された。そのなかでも「最大」のものがこの文章の冒頭でも触れたOIAGの鉄鋼部門であるVoest Alpineのケースであった。それによって,旧経営陣45人のうち3-4人を除くすべてが更迭された。不採算部門の売却などリストラも行われ,その従業員数も85年から5年間のうちに10万5,000人から4万人が減耗された。その結果,85年に140億シリングの赤字を計上していた同社は,90年には30億シリングの黒字を出すまでになった。政府の負債は減り(80年代中期にGDPの5%に達していた財政赤字を92年までに2.5%まで削減するという計画が立てられていた),財政事情も着実に改善されはじめた(OECD 1993a:36f.)。国有企業の雇用者数は早期引退政策などを通じて目立って減少した。さらに,経済の国際化をにらんだ産業調整と経営刷新にも一定の弾みがついた。この80年代,確かに政労使はオーストリア産業の国際競争力への関心を先鋭化させた。
 もちろん,これによって問題が解決したわけではなかった。87年1月の社会党と国民党の「大連立綱領」(Arbeitsubereinkommen der grossen Koalition)には3つの政策的目標が掲げられていた。EC加盟,財政立て直し,そして国有企業の再建の3つである。これらのうち,多少の見通しがついていたのは財政立て直しだけであった。EC加盟問題は多くの問題を内包したまったくの新たな課題であったし,国有企業の再建についても事態を到底楽観視することなどできなかった。上記のVoest Alpineの「実験」はまずは成功したかに見えたが,その「成功」(黒字の計上)がたちまち「それ以上にやる緊急性を打ち消してしまった。経営者はもっと手易い経営改善策,たとえば企業の買収に走った」(Financial Times, 9 October 1991)。実際,「(国有企業の総合的持ち株会社)OIAGにおける新製品あるいは新たな生産工程開発をめぐる失敗はまさに途方もないものだった」(Walterskirchen 1991:122)といわれる。
 以上要するに,第1に,80年代になって噴出したのは端的にいってオーストリア・ケインズ主義の負債であり,またその清算であった。最優先課題としての完全雇用のため拡大的な財政政策が生み落としたもの,それが膨大な財政赤字さらには国有企業の放漫経営と経営危機という大きな負債にほかならない。その負債をあがなうため,まずケインズ主義が放棄され,ついで2つながら危機に陥っていた財政および国有企業の再建が焦眉の課題となった。国有企業への経済的支援は大幅に抑制され,その雇用機会は削減され,さらに特権的なフリンジ・ベネフィットにも排除の手が伸びた。いくつかの国有企業について民営化が進められ,一部ではあっても経営刷新も試みられた。
 第2に,この国有企業の放漫経営と特権的労働条件のコンプレックスが示唆していたのは,オルソン風にいえば,国有企業における「分配結託」(Distributional Coalition)という厄介な問題(注27)であり,同時に国際競争力の後退という事柄でもあった。利益代表管理という点でも分配公正管理から見ても,また国際競争力管理という観点からしてもそれは到底見過ごすことのできない大きな問題であった。
 第3に,国有企業の経営危機がなぜ生じたのか。もちろん理由はひとつではない。鉄鋼であれば80年代後半の国際的な鉄鋼不況といった要因もあった。しかし最も基本的な原因が「オンブにダッコ」の経営体質と自助努力の弱さ,内向きで進取の気性に欠ける経営者,停滞する技術革新といった一連の要因にあることは想像に難くない。輸出製造業に占めるハイテク製品の比率やGDPに占める研究開発投資といった点でオーストリアは国際的に見劣りがする(表7)。「オーストリア・ケインズ主義の主要な欠陥は経済構造政策の欠如にある」(Walterskirchen 1991:123)とか,硬貨政策がかえって「産業のフレキシビリティ」を損なった(Korkman 1992:292),産業間の大きな賃金格差が「資源配分の不効率」をもたらした(Guger 1992:355),さらには「先端産業分野における多国籍企業と群小の国内中小企業の併存が『日本株式会社』とか『スウェーデン株式会社』風の産業政策の発展を困難にした」(Landesmann 1992:252)とかいった叙述を見逃すことはできない。オーストリア産業政策などといってみても,基本のところは投資減税とか低利融資保証とかいった特に資本集約的な産業における間接的な投資誘導政策の域を出なかった。
表7 ハイテク製品の対輸出比率および研究開発費の対GDP比率:国際比較
 第4に,87年の連立政権は財政および国有企業の再建という課題に加えて,EC加盟などをはじめオーストリア経済社会の国際化(ヨーロッパ化)という重要な懸案を抱えることになった。このEC加盟から導き出されるだろう新たな政策課題がどれほど長いリストになるか,まだ分からない。しかしその国際化が,これまでにも増して国内産業間の保護主義や「分配結託」といった問題を含む「セクター間クラッシュ」を誘発する可能性がある。
 たとえば,農業をとってみよう。これまでオーストリアの農産物価格はEC水準より平均30%も高い。オーストリアではEC水準よりも潤沢な輸出補助金を出している(年間120億シリング)。さらに価格補助金も年間230億シリングにのぼる。農産物加工業は巨大なRaiffesen Co-opによって事実上支配されている。ミルク・カルテルのためにオーストリア人はドイツ人よりも年間30億シリングも多く負担している(もし市場開放すれば,年間10-15億シリングの節約になる)-こういったことがしばしば指摘されてきた。政府さらには社会的パートナーシップによる各種の保護規制,それによる市場競争からの隔離,高い農産物価格と脆弱な農業経営の温存といったひとつの完結した保護の構図を変えていくことは,これまでの失敗の経験(農業会議所や農業団体の激しいロビーイングによってつぶされてきた)に照らしても決して容易なことではない。エコロジストによる「市場化」反対(注28)もある。農民ばかりでなく,医師や歯科医,弁護士や薬剤師といった都市自営業もまたEC加盟に強い懸念をもっている。マリンもまた,冷戦崩壊後,旧東側諸国からの不法就労者を含む外国人の大量流入(注29)をめぐって産業間さらには労使間の意見対立が表面化していることをインタビューのなかで強調していた。
 こういったことからも十分示唆されるような産業間の利害対立は,EC加盟など経済の国際化の進展によってこれまで以上に増幅される可能性がある。果たして「伝統的」な社会的パートナーシップはよくそれを抑制できるだろうか。
 これからの社会的パートナーシップ-その柔軟性と困難
 インタビュー記録をひもとく限りでも,この社会的パートナーシップの柔軟な環境適応力をめぐって意見は大きく2つに分かれている。一方には,その長期にわたる安定性を強調する見方がある。代表的には,たとえばOAKTのチャローペックの意見である。彼によれば,「もちろん社会的パートナーシップも完全なものではない。しかし,そのインフォーマルな性格を駆使していつも改善してきた。4つの団体(ビック・4)の間で対立もある。しかし妥協と合意形成への努力を怠ることはなかった。総じていえば,現行システムへの関係者の評価は高い。見通し得る将来においても,このシステムを大切にしていくことになるだろう」と語った。オーストリア産業連盟のメール氏もまた,「使用者側から見て,社会的パートナーシップについてもまた団体交渉システムについても,賃金自粛といった要請を別にすれば特にいま問題を感じていない」という。フレキシブルな環境適応能力,貧欲なまでのプラグマティズム,「それこそオーストリア的だ」というポランの言葉も忘れない。しかし第2節でも触れたように,そのチャローペックでさえホワイトカラーの増加や教育水準の高度化を契機にして価値観の多様化が進み,たとえば会議所制度の強制的メンバーシップといった点に社会的な批判が高まっている最近の状況に言及していた。
 この社会的パートナーシップの将来に関してマリンの懸念は見逃せない。上記のようなブラック・マーケットを含む外国人就労問題をめぐる産業・労使間の対立,産業あるいは職業間の賃金格差の拡大によって誘発された緊張,国有企業の「分配結託」批判,それに続く「大改造」と民営化によって生じた外部的批判と内部的失望,そうした社会不安による投票行動の変質(棄権や極右への投票),戦後の分割統治の危機も経済的混乱も知らない若者たちの登場と彼らによる社会的パートナーシップに対する無関心やその「脱神聖化」,社会(民主)党の「脱イデオロギー化」(「もはや,かれらは民営化に反対しない。むしろ州の保守党政府のほうが反対している」),スキャンダルをめぐる極右,エコロジスト,コミュニスト,リベラルな知識人などからの非難などについて言及したうえで,マリンはさらに次のように続けた-「制度的に見れば,そう簡単に社会的パートナーシップが崩れるとは思えない。しかし,もしいま国民投票で決めるとしたら,経済会議所だって労働者会議所だって現行のような強制的メンバーシップなど支持されないだろう。その強制的メンバーシップが変わったら,それこそ社会的パートナーシップは確実に崩壊してしまう。実際,いまの時代精神(Zeitgeist)といえば,集合主義とか連帯主義といったものではない。敵は個人主義化なのだろう。これから起こっていくだろうし,私個人(B.マリン)としてもそうすべきだと思っているのは,社会的パートナーシップのもつ『帝国主義』を抑制していくことだ。なんでもかんでも社会的パートナーシップの領域のなかに取り込んで生産主義的な価値観(Productionisy Values)によってそれを処理していこうという考え方は変えていかなければならない。たとえば,教育改革などは社会的パートナーシップ(同権委員会)の枠外で取り扱うのがよい。また,エコロジスト的観点からすれば,社会的パートナーシップの工業化思想(Industrialism)も問題だろう」。
 こういったマリンの現状理解は,ある程度までトラクスラーの将来展望とも重なっている。後者は,社会的パートナーシップのいくつかの不安定材料として,たとえば東ヨーロッパ世界からの外国人労働者の大量流入,80年代中期以降の産業別の時短と労働のフレキシビリティ・パッケージ協約の締結とそれが促した労使関係の「分権化」(トラクスラーは「将来,もっとその傾向に拍車がかかるだろう」と見ている),国有企業の危機と民営化,国際競争の激化と財政赤字の削減,最優先課題としての完全雇用の放棄,これらの結果としての失業率の増加さらには規定緩和,輸入製品の増加と同権委員会による価格政策の「空洞化」,そしてサービス経済化とホワイトカラー化に伴う価値観の「個人主義化」,それによる会議所制度の強制的メンバーシップへの批判と反発(特に若者,女性そしてホワイトカラー)といった諸要因を挙げている。しかしなかでもより深刻なのは,個人主義化と国際化という2つの現代マクロ趨勢であるとトラクスラーは言う。「オーストリア人の66%が会議所制度の強制的メンバーシップに反対であるといった調査結果(Der Standard, 17 September 1990)に接すると,政党は会議所メンバーシップに関する強制原則など止めるべきだという巷の声に耳を傾けざるを得ないことになるだろう」(Traxler 1992:197)。
 この個人主義化と同時に,国際化がもたらす社会的パートナーシップに対する長期的な脅威も見落とせない。オーストリアがECに加盟するかどうかにかかわりなく,その経済の国際化は避けがたい。そうなれば,オーストリアの産業はこれまでにも増して激しい国際競争にさらされることになる。80年代を通じて,合併や民営化などによってその経済的比重を高めてきたオーストリアの民間大企業(注30)は今後その重要性を増しながら,さらにその国際競争力を強化していく必要に迫られている。その利害関心の境界線は国境を超え,企業の自立性あるいは「労働側への依存」も他のヨーロッパ諸国と見合ったものになっていくだろう。そうなれば,「オーストリアのマクロ・コーポラティズムやそのシステムのなかでの労働側の重要な役割に期待しなければならない理由も,それだけ薄らぐことになる」(Traxler 1992:296)というのが彼の推論である。したがってまたこのトラクスラーも,「G.ストリークと同じように,私(B.マリン)もオーストリアの政治経済はどこまでもというわけではないが,マクロよりはミクロあるいはメゾ・コーポラティズムに傾斜していくのではないか」という将来見通しをマリンとともに共有しているように思われる。以上から示唆されるのは,一方では分権化への傾斜であり,またメゾ・コーポラティズムとセクター間クラッシュの顕在化といったものであるが,他方では国際化に伴う民間大企業の利害関心の「越境」であり,またそれに伴うマクロ・コーポラティズムの「後退」であって,国際化のとうとうとした流れがこうした変化を構造的に促しているという構図が悠然と浮かび上がる。

(注25) かつてティチーも,「もし長期的に見てオーストリア・ケインズ主義が失敗するとすれば,それはその産業政策が旧式で時代遅れな産業構造を存続させてきたためだということになるだろう」と書いた。cf., Tichy 1984:382.

(注26) 民営化論争の具体的な内容については,cf., Muller 1988:106f.

(注27) こういった「分配結託」はなにも国有企業のみに起こったことではなかった。たとえば,食品製造業とその労働組合,さらに農民の間にも同種の現象が見られた。cf.,Guger 1992:355.

(注28) エコロジストの場合,ことえば「経済活動以上の存在」としての農業という捉え方になる。農業の生き残りというテーマは,他の多くのヨーロッパ諸国と同じように,生活様式全体の維持という問題とし受け止められている。山岳地方の農民は「景観の保護者」であるといった理解がここから生まれる。

(注29) 歴史的にもオーストリアは外国人労働者の就労に対して最も寛大な国のひとつであった。90年代初頭には,外務省事務次官T.クライスティルが「年間3万人ぐらいは受け入れ可能だろう」と発言していたほどである。他方では,自由党の躍進をはじめゼノフォービアあるいは排他的運動の高まりいも見られた。そうかといえば,経済界のリーダーの間には「移民歓迎」といた根強い見方もある。単に安価な外国人労働力の調達というだけでなく,低い出生率に対する懸念もあるといわれる。
 ところで,この93年夏から外国人滞在法が改正され,査証取得が従前に比して目立って難しくなった。事実上の外国人締め出しが始まったといってよい。

(注30) 79年と88年のオーストリアの大企業100社をとってその雇用率を比較してみると,国内民間企業が17.4%から25.7%へ,外資系民間企業が19.4%から25.8%へ,国有・公営企業が62.2%から47.4%へというように変わっている。cf.,Traxler 1992:288, Table 8.6.

 小 括

 このように,本節の前半では70年代のオーストリア・ケインズ主義がもたらした「負債」(つまり,完全雇用維持のための拡大的財政政策,国有企業の「分配結託」と経営革新の遅滞,膨大な財政赤字の累積など)と80年代になってからのその「清算」について触れた。
 硬貨政策と労働組合の賃金自粛による所得政策は2つながら継承されたが,オーストリア・ケインズ主義のもうひとつの重要な柱であった拡大的な財政政策は最優先課題としての完全雇用の維持という政策目標とともに放棄された。その限りで,オーストリア・ケインズ主義は変質した。もしケインズ主義というところにアクセントをつけていうのであれば,その固有の要素は排除された。「オーストリア・ケインズ主義からオーストリア・プラグマティズムへ」と言われるゆえんである。
 その後半では,オーストリア・ケインズ主義の基礎にある社会的パートナーシップの変容とその可能性について言及した。つづめて言えば,ひとつは経済の国際化(EC加盟申請やEEAの形成,東欧世界などからの外国人労働者の大量流入など)によって,もうひとつは個人主義化という現代マクロ趨勢によってこれまで堅牢を誇ってきたオーストリアの社会的パートナーシップが今後次第に弱まっていく可能性があることについて示唆した。EC加盟といい,膨大な外国人労働者のときに不法な流入といい,80年代になって成長しはじめた民間大企業の利害関心の国境線を超えた拡張といい,いずれもこれまで以上にオーストリアの産業セクター間クラッシュを促す可能性をもっている。そうなれば,それだけマクロ・コーポラティズムへの求心力は弱まろう。また,個人主義化のうねりは社会的パートナーシップに内在的な「生産主義的」性格への違和感を高め,同時にその社会的パートナーシップの中軸装置である会議所制度の強制的メンバーシップに対しても明確な批判意識を募らせている。もしそのメンバーシップが強制から自由加入に移行するといったことにでもなれば,それはひとり会議所制度の根幹を揺さぶるばかりでなく,社会的パートナーシップそのものの基盤を覆すことにもなろう。そうなれば,それは定義上オーストリア・モデルの崩壊というほかない。
 そういった方向に沿って変化と水準とが将来どれほどのものになるか,いまは誰にも分からない。しかし,オーストリア・モデルが大きな歴史的試練のなかにあることは誰の目にも明らかだ。3日間の短な滞在を終えてウィーンを発つとき,いくつものニッチ・インダストリーの群像やシュテファンツ・プラッツのなかの東ヨーロッパ世界に連なるマルティ・エスニックな言語・身体空間とともに,われわれの脳裏にはそういう印象が深く沈殿した。

 まとめ

 節目ごとにいくつもの小括を書き留めておいたから,改めてそれらをここで繰り返す必要はないだろう。以下,いくつかの要約と併せてそこから導き出すことのできる含意について触れておこう。

1 第1次石油危機後の70年代,オーストリア・モデルに国際的な注目が集まるようになった。その理由は明確だった。低いインフレ率と失業率,そして国際経常収支の均衡という「魔法の三角形」が見事に出来上がったというわけにはいかないが,国際的に見てそのマクロ経済パフォーマンスには確かに目を見張るものがあったからである。オーストリア・ケインズ主義という政策体系がその「成功」にあずかって力があった。いったい,そればどんな内容をもった政策なのか-80年代になって矢継ぎ早やに公刊されたオーストリア・モデルに関する書物に目を通しているとそう感じさせられる。アングロ・サクソンの世界からするある種のエキゾティックな好奇心も加わって,オーストリア・モデルへの国際的関心が一挙に高まった。

2 オーストリア・モデルをここでは,その「個性的な社会的パートナーシップを基礎にしたオーストリア・ケインズ主義」と定義した。オーストリア・ケインズ主義という言葉はWIFOのH.ザイデル教授の創案になる。その意味でザイデル・モデルと呼ぶこともできる。1970年代になって登場し実行された政策体系である。内容的には,拡大的な財政政策,硬貨政策それに所得政策の3つから成り立っている。経済成長と完全雇用のための拡大的財政政策による総需要管理,通貨および輸入価格の安定によるインフレ抑制の方法としての硬貨政策,物価安定を背景とする穏健な賃上げによる賃金コスト・ブッシュ・インフレ回避としての所得政策,それらの相乗効果としての国際経常収支の均衡維持という理論図式が仮定されていた。
 もっとも,この政策体系をオーストリア・ケインズ主義と呼ぶことについては専門家の間にも異論がある。物価安定のための硬貨政策や所得政策という内容はふつう伝統的なケインズ政策メニューと馴染まないと見なされているからである。国際経常収支の悪化に対する通貨切り下げといった考え方もこのオーストリア・ケインズ主義では採用されていない。理論内在的な困難としては大きな財政負担の発生がひとつ,もうひとつは「相乗効果としての国際経常収支の均衡」という希望についての懸念がある。特にこの後者に関連して,硬貨政策は通貨切り上げ(シリング高)による輸出競争力の低下と経常収支の悪化をもたらす可能性がある。それを相殺するためには,価格競争力という側面では硬貨政策による輸入価格の安定と所得政策によるコスト抑制によって価格競争力の比較優位を保たねばならない。また非価格競争力という点ではたとえばニッチ・インダストリー(マリンは国際旅行やスキー産業,音楽観光などを挙げていた)の成長と発展が欠かせない。
 それにしても,なぜ硬貨政策なのか。60年代から70年代初めにかけてオーストリアではインフレが進み,その理由の大半が輸入価格の上昇にあったからである。したがって,その輸入価格を抑制できなければ国内のインフレは収まらない。そして輸入価格の安定を図るためには硬貨政策に訴える必要があったと理解することができる。
 このように,オーストリア・ケインズ主義の「オーストリア」の部分を強調していくと,硬貨政策といい所得政策といい,いずれも物価の安定とインフレ抑制というところにその大きな特徴がある。このことは,「なぜ物価の安定なのか」という問いも含めて,オーストリア・モデル理解の最も重要な手掛かりを与えている。オーストリア・ケインズ主義の要諦はこの物価安定とインフレ抑制にあると記したゆえんである。

3 オーストリア・ケインズ主義の基礎にあるのが社会的パートナーシップである。それを所得政策の別称とかアングロ・サクソン的な「社会契約」などと不用意に同一視してはならない。社会的パートナーシップは所得政策を包含する,しかしそれよりもはるかに広い政策領域をカバーする持続的で体制的なシステムといわなければならない。
 オーストリアの社会的パートナーシップは第2次大戦後に確立した。しかしその生成と発展には,実に長い時間と多くの国民的困難を経験しなければならなかった。会議所制度であれば,経済会議所の前身は1848年のブルジョワ革命直後にできている。しかしその源流をたどるというのであれば,たちまち遠く中世にまでさかのぼらねばならない。第1共和制による労働者会議所や農業会議所の新設,30年代の上からの「会議所国家」の登場とナチズム支配,さらに終戦後の国土分割の危機(回避),労働総同盟と連立政権の成立といった幾多の国民的な困難を踏まえて,その貴重な経験の上に構築されたのがオーストリアの社会的パートナーシップであった。
 そうしてその思想的な土壌というのであれば,国民党に親和的なカソリックの平等主義的な「社会的市場経済」という考え方,穏健で実務的なオーストリア・マルクス主義,さらにはヨーゼフ主義思想と呼ばれる優秀な中央行政官僚制と「上からの改革」思想などにも目配りしなければならない。

4 このオーストリアの社会的パートナーシップの中軸的制度は準公的な団体であり強制的なメンバーシップを敷く会議所(とりわけ経済会議所,労働者会議所そして農業会議所)に労働総同盟を加えたビッグ・4,および政府もオブザーバー参加して構成している「インフォーマルで機密性の高い」物価賃金問題同権委員会(1957年創設)に求めることができる。ビッグ・4のうち,経済会議所と労働総同盟を指してビッグ・2という。官民の別なく企業あるいは勤労者を組織し,団体交渉の担い手となっている。それぞれに産業連盟あるいは労働者会議所といったブレーン組織をもち,互いに深い連携プレーを行っている。
 同権委員会にはいくつかの下部機関が設けられている。発足当初からあった物価小委員会,その後60年代になってできた賃金小委員会,経済社会諮問委員会,経済政策懇談会などである。実態に関する共同の調査研究と政策立案,時間をかけた合意形成と妥協,満場一致による意思決定といったやり方がその運用ルールになっている。これらのなかで許認可権をもつのは物価小委員会と賃金小委員会であるが,後者は当該労使が新たな賃金交渉を始める際にゴー・サインを出すだけであって直接に賃金交渉にかかわるわけではない。これら下部機関の重要度も時間の経緯とともに変わってきた。マクロな政策課題が時代とともに変化してきたからである。いまでは物価小委員会の比重はかなり小さくなり,代わって経済社会諮問委員会や経済政策懇談会といった機関の役割が大きくなっている。
 ところで,なぜ物価賃金問題同権委員会なのか,なぜ物価小委員会だけが同権委員会と同時にスタートしたのか。もっといえば,なぜ同権委員会による物価の安定(物価統制)なのか。それに答えるためには,一方で第2次大戦後の脅威(驚異)的な「物価爆発」に注目しなければならないし,他方ではオーストリア経済の基本的な特徴を理解する必要がある。戦後オーストリアの物価上昇率は敗戦国ドイツやイタリアに比べてもまことに異常であった。その爆発的インフレをどう抑えられるか,これが戦後オーストリア経済復興の鍵であった。方法は大きく分けて2つ,ひとつは市場競争に依存する方法,もうひとつが直接的な物価コントロールである。しかしこのうち前者の手段は,「多くの市場において競合する企業の数が少ないため,競争関係は有効に機能しない」と考えられたし,かといって「輸入を増やして即座に外国企業との競争にさらす」というわけにもいかなかった。群小の小零細民間企業と基幹産業の国有化(その「国有化」政策が占領軍の資産収用に備えた対抗策であったという重要な点は見逃せない),この現在にまで続くオーストリア経済の基本的な特徴を考えれば,疲弊し切った終戦直後の経済情勢まで含めればなおさらのこと,とても前者の手段に訴えて物価の安定を図ることなど不可能であった。こうして,より直接的な物価コントロールという方法が選ばれた。
 興味深いことに,もし上記のようにオーストリア・ケインズ主義の個性が硬貨政策と所得政策によるインフレ抑制にあったと考えると,ビッグ・4と連立政権によって物価の安定を図るという点で,戦後初期の経済政策(ビック・4か参加した経済委員会や賃金・物価協定など)から同権委員会の誕生に至る動きはオーストリア・ケインズ主義といわば一直線で結ぶことができる,ということになる。そういえば,オーストリア・ケインズ主義の3つの政策と経済社会諮問委員会がその発足に当たって掲げた3つの目標(安定成長,通貨安定そして完全雇用)との間にも強い類縁性と「執拗低音」を聴き取ることができる。そういった意味で,確かにオーストリア・ケインズ主義は70年代になって登場したのではあるが,それは突然出現したような物ではなく,終戦直後の時代に直線的にさかのぼることのできる連続性をもっている。要するに,オーストリア・ケインズ主義は突然変異ではなく,戦後の経済進化の所産であった。

5 そのオーストリア・ケインズ主義は第1次石油危機に際して一定の注目すべき成果を上げた。マクロ経済パフォーマンスは,低いインフレ率と失業率,着実な実質賃金の上昇,GNP比での高い投資水準など国際比較的に見ていくつもの好材料を示していた。
 しかし,オーストリア・ケインズ主義の「成功」には大きな負債が伴っていた。製造業の国際競争力低下,経常収支の悪化,国有企業の放漫経営と経営危機,緊急対応としての膨大な補助金支出と忌むべき労働「特権」の発生(つまり「分配結託」,したがってまた分配公正管理の失敗),これらすべての帰結でもあった巨大な財政赤字の急激な累積などがそれである。拡大的財政政策と硬貨政策は確かに完全雇用水準の維持に貢献し,硬貨政策は物価の安定に寄与した。けれどもその代償がこれら膨大な負債の山であった。
 いまになって考えてみれば,オーストリア・ケインズ主義による「魔法の三角形」の実現など至難の業であった。国際経常収支の均衡維持など到底実現されるはずもなかった。基幹産業のほとんどは戦後「戦略的」に国有化され,そき経営実態といえば非競争的な国内市場によって事実上保護され,経営革新と技術進歩への制度的インセンティブにも欠けていたからである。物資・エネルギーと「特権的」な雇用機会の非競争的な安定供給,これがその主たる任務だったといっても過言ではない。
 ここから示唆されるのは次のことである。すなわち,オーストリア・ケインズ主義の致命的といってよい欠陥は「経済構造政策の欠如」(ヴァルタースキルヘン)あるいは「資源配分の不効率」(グーガー),言い換えれば産業政策の不在にあったといってもよいだろうという点である。もう少し一般化していえば,「小さな開放経済」が国際化していくとき,もし「資源配分の不効率」に手を染めることができず,製造業を中心とした国際競争力管理に失敗するならば,その結果はその国民社会に個性的な政治経済モデルの放棄ということにならざるを得ない,ということであるように思われる。
 とまれ,70年代の重い負債は80年代に引き継がれ,オーストリア・ケインズ主義の放棄という形で清算されねばならなかった。

6 それらに比べれば,それ固有の負債などほとんどなかったという意味でも,オーストリア・ケインズ主義の所得政策は見事な「成功」を収めたように見える。その顕著な特徴は,「包括的」利益代表行動の担い手である労働組合の賃金政策とそれに基づく穏健な賃上げあるいは自粛行動というところにあった。その代表例のひとつが70年代に提唱された賃上げに関するベンヤ方式である。穏やかな賃上げ(賃上げ自粛)と国際競争力維持のための企業投資優先という考え方がそこには盛られていた。
 労働総同盟の70年代から80年代初めにかけての賃金政策といえば,このベンヤ方式を別にしても,第1に生産性上昇率とインフレ率に見合ったフレキシブルな賃上げということがあり,第2には中央協約賃金引き上げ率の同一化という限りでの(スウェーデン型とは異質な)連帯主義的賃金政策があった。もちろん,労働総同盟が排他的な協約締結権をもってはいたが,賃上げに当たって明示的なガイドラインなどは出さず,産業別の賃金交渉に一切の権限がゆだねられていた。それでも,80年代前半までの約4半世紀にわたるオーストリア製造業の中央協約賃上げ率の動向を見てみると,あたかも明確なガイドラインが存在しそれに沿って連帯主義的賃金政策が実行されてきたかのような印象を与える。事態が大きく変化するのは,その後80年代の後半になってからのことである。それ以降,団体交渉はより分権化し産業間の賃金格差も拡大した。
 ところで,上記の第1および第2の要素をその背後から結びつけているきわめて重要な第3の要素に賃金ドリフトがある。それは大きな企業を中心にしていまも深く制度化されており,従業員代表組織(Betriebsrat)がその法的制約にもかかわらず企業レベルでの賃金上乗せ交渉を行っている。そこには,中央協約賃上げは当該産業の小零細の限界的企業でも受け入れられる程度の産業別最賃(引き上げ)を決めるものであり,それ以上の賃上げは企業の生産性向上に見合って個別企業ごとに交渉して上乗せすればよい,またそうしなければ限界的産業の国際競争力を保つことなどできない,という労働総同盟の基本方針が浮き彫りされている。先のベンヤ方式まで含めて,その成果はともかくも労働総同盟がオーストリア産業の国際競争力確保についてかなり強い関心を払ってきていたことが知られよう。
 この賃金ドリフト率は産業によっても時期によっても異なるが,長期的にはおよそ25%前後の水準にある。それが産業間あるいは産業内でより大きなものになれば,それを賃金交渉の実質的な「分権化」と見てよいだろう。その動きは産業別の労働時間短縮と労働の柔軟化パッケージ交渉の進展と相まって,80年代後半になって一層弾みがついた。

7 このように,オーストリア・ケインズ主義の3つの政策的基柱のうち,所得政策はかなりの「成功」を収めたものの,拡大的な財政政策と硬貨政策はその大きな負債を80年代に持ち越すことになった。
 いったいその結果何が起こったかといえば,端的にいってそれは「オーストリア・ケインズ主義からオーストリア・プラグマティズムへ」の劇的といってよい転換であった。83年の連立政権以降,最優先課題としての完全雇用という年来の方針のみならず,そのための拡大的な財政政策による総需要管理という発想も基本的に捨てられた。ケインズ主義的要素の放棄である。それに代わって,財政および国有企業の再建,さらにオーストリア経済の国際化という目標が掲げられた。財政再建計画や「倹約プログラム」が作られ,公務員給与の抑制,社会保障制度の改定(給付水準の据え置きや引き下げと保険料の増額など)といったことに加えて,国有企業への補助金停止,民営化と資産売却,経営者の刷新,そして従業員規模の大幅な削減などが企てられ,それぞれ一定の「成果」を上げた。

8 このように,80年代にはオーストリア・ケインズ主義は放棄され,経済の国際化を含む新たな政策課題が掲げられた。では,そのオーストリア・ケインズ主義の基礎にある社会的パートナーシップのほうはどうか。もしそこまで大きなひびが入っているとしたら,それこそオーストリア・モデルの終焉というほかない。
 オーストリア・モデルのあり方を大きく変えていく可能性をもった構造的な力は少なくとも2つ,ひとつは個人主義化,もうひとつは国際化の影響であるように思われる。産業職業構造のサービス経済化や学歴水準の高度化,福祉国家の見通しや国有企業の民営化,法的あるいは行政的な規制緩和,さらに企業における業績主義的処遇の浸透などはこれまでに比べて個人主義化の力を高めるのではないか。もしそうなれば,人々の価値観はこれまで以上に多様化する。工業化あるいは生産主義的な価値優先に対する異議申し立てが増幅されて不思議はないし,一律強制的な行動を押しつけとして排除しようとする力が働くことにもなろう。いずれの場合も,その勢いがさらに強まればオーストリアの「伝統的」な社会的パートナーシップにとっては重大な挑戦となり,また脅威となるに違いない。社会的パートナーシップは準公的な権限付与と強制的メンバーシップから成り立っている会議所制度に大きく依存しているが,個人主義化は強制的メンバーシップのみならず,EC加盟を含む生産主義的な社会的パートナーシップのありようとも必ずしも整合しない。実際,世論調査の結果による限り会議所の強制的メンバーシップに対する違和感は強く,すでに過半数に達している。
 もうひとつの国際化がもたらすだろう軋轢もかなりのもであるように推察される。EC加盟をめぐる産業間の利害対立(先鋭化)という事例ひとつをとってみても,農業や商工自営の利害と市場の国際化あるいは規制緩和といった政策とは互いに相容れない。競争セクターと保護セクターをはじめ,80年代後半に生じた産業間の賃上げや時短など労働条件格差の拡大を素地とした産業セクター間クラッシュの勢いがさらに強まることが考えられる。外国人労働者の受け入れについても,基本的には同じことがいえる。要するに,ビッグ・2(経済会議所と労働総同盟)という産業セクターを超えた労使頂上団体の協調的な合意形成システムに対して,いまその台頭してきているのは産業別の労使利害の共有であり,別の目で見れば産業間における労使利害の不一致である。したがって図式的にいえば,労使利害の共有関係(単位)は産業を超えたナショナルなレベルからそれぞれの産業セクター・レベルに下降してきている。その限りで,産業間の労労対立あるいは使使対立がこれまでにも増して鮮明に浮き彫りされる可能性がある。マクロ・コーポラティズムからメゾ・コーポラティズムへといった見方も,こういった利益代表関係の性格変化を表現したものと見ることができる。
 しかし,新たな労使関係の展開がそうであるように,国内におけるマクロからメゾへの利害共有単位の下降あるいは分解(労使関係でいえば,その「分権化」)と併せて,多国籍企業の発達とその利害関心の国境を超えた広がりという動きも見落とせない。遅ればせながら,オーストリアでもいまようやくそうした歯車が動きはじめたように見える。それが勢いよく回り出せば,その先に見えてくるだろう風景は「ナショナル・プロジェクトとしてのネオ・コーポラティズム」の困難あるいは後退といったものだろう。スウェーデンの使用者団体SAFの政策が明示しているように,国際化には確かにそういう側面が含まれている。
 このように,いまオーストリアの社会的パートナーシップも個人主義化と国際化という大きな時代の波に洗われており,その浸食力いかんではその目立った衰弱も十分に考えられる。試練のなかのオーストリア・モデルと表現したゆえんである。

9 これら個人主義化や国際化によって誘導されはじめた変化は,端的にいって利益代表管理の再設計と呼んでよいだろう。今後,旧来の社会的パートナーシップはマイノリティの利害関心と理念をどこまでその内部に吸収していくことができるだろうか。多様化する価値観をどこまで許容することができるか。また,産業間の利害対立をどこまで調整していくことが可能か。
 オーストリア・ケインズ主義のつまずきの石は,詰まるところ国際競争力管理に失敗したことにあった。それだけでなく,経済成長と完全雇用の維持という大義名文の下で国有企業で生じた「分配結託」は分配公正管理の挫折を何よりも雄弁に物語っていた。このように考えれば,オーストリア・モデルがいま試練のなかにあるという場合,それが問われているのは少なくともこれら3つの管理問題に対して明快説得力ある回答を提出することができるかどうかということであるように思われる。



第3章 ドイツ・モデルの適応力と困難

 はじめに

 オットー・ビスマルクの治世,ワイマール共和制に次いでドイツがヨーロッパ世界の安定的秩序の支柱となるかもしれない「第3」のチャンスがいま訪れた-そう書き出したのは新生ドイツ誕生の日,1990年10月3日の『フィナンシャル・タイムズ』紙の社説であった。一方にEC市場統合の行方を展望し,他方に冷戦構造の崩壊を見据えての文章であった。その日,第2次大戦の最大遺物のひとつであり,また冷戦構造の象徴でもあった東西ドイツの分裂に終止符が打たれた。「40年にわたる辛い分裂の時代を経て,いまわが母国ドイツは統一された。果たしてこれに勝る喜びがあろうか。けれどもわれわれの前にはいばらの道程が大きく広がっている。統一に伴う経済的困難は見通される将来において必ずや解決されるだろう。しかしその課題に挑戦すべく,いまわれわれに求められているのは強い連帯の精神である」-ヘルムート・コールは政治的熱狂に酔いしれる国民にこう呼びかけた。そこからも予感させられるように,ベルリンの壁が崩れて西ドイツの人々が「幸福感(ユーフォリア)」に浸っていたのはわずか数週間,東ドイツでさえ数カ月のことであった。その後には,もはや歓喜のナショナリズムは消えていた。思えば,「統一」とはいってもそれは新しい国家の誕生といったものではなく,旧東ドイツの5つの州と東ベルリンが旧西ドイツに「統合」されていくことを意味していた。政治的熱狂といいまた経済的困難というのも,まずは東ドイツが西ドイツに統合されることによって生じる現象にほかならない。やがて重苦しい現実が次から次へとむき出しになり,「こんなはずではなかった」という声が東からも西からも挙がるようになった。こういったいくつものアンビバレンスを予感してであろうか,『フィナンシャル・タイムズ』紙の「ドイツ」特集号(Financial Times, 29 October 1990)はディケンズ『二都物語』の劈頭におかれた次の引用で始まっていた-それはおよそ善き時代でもあれば,およそ悪しき時代でもあった。知恵の時代であるとともに愚痴の時代でもあった。信念の時代でもあれば,不信の時代でもあった。光明の時でもあれば,暗黒の時でもあった。希望の春でもあれば,絶望の冬でもあった。(中野好夫訳)。
 ドイツは,「もうひとつの統合」を担っていた。「単一欧州議定書」(1986)に基づく92年末までのヨーロッパ市場統合とその後のマーストリヒト条約によって描き出された新たな経済・政治統合がそれである。93年10月12日の連邦憲法裁判所によるマーストリヒト条約違憲訴訟(緑の党や極右・共和党が原告)に関する合憲判決を最後に,ついに11月1日,当初の予定から10カ月遅れてマーストリヒト条約は発効した。その間いくつものつまずきの石が露出した。しかし長引く不況のなかで国益最優先という傾向に弾みがつき,新たな統合へのモメンタムはひどく衰えていた。デンマークにおける第1回条約批准の失敗(92年6月),92年秋に一挙に表面化した欧州為替相場安定制度(Exchange Rate Mechanism)の混乱と単一通貨構想からの大きな離反,旧ユーゴスラビア内戦調停活動における蹉跌など,「統合」機運はすっかりなえていた。
 いまドイツは,誇張なしに歴史的といってよいこれら2つの「統合」問題に直面し,その二重の困難を乗り越えようとしている。しかし,こうした試練はこれまで戦後ドイツの経済発展の大きな礎となってきた合意政治や協調的労使関係を含む賃金決定のありようにいかなる影響を与えているだろうか。その盤石の制度装置はしなやかな可塑性を発揮してよくこの大きな試練を克服するだろうか。
 いま脳裏を過ぎるのは統一ブーム後の顕著な経済後退,東ドイツでの失業と倒産・工場閉鎖,底なし沼のような東ドイツへの経済援助と先行きの見えない経済復興,フォルクスワーゲンやダイムラー・ベンツ,BMWなど自動車産業をはじめとする大規模な雇用削減計画,「日本化」するかに見えるドイツ自動車産業(注1),外国直接投資の飛躍的な増大,難民を含む外国人労働者の大量流入とネオ・ナチ的排斥運動の高まり,Gesamtmetallによる賃金パリティ協約破棄とIG Metallによる東ドイツ地域での60年ぶりのストライキ(93年5月)といったことばかなではない。93年9月3日,コール首相は『レックスロット報告』(注2)を片手にしながらドイツ国民に次のように訴えた。今後のドイツの経済改革と国際競争力維持のためには,いまこそ「ドイツ人1人ひとりがこれまでの生活態度やものの見方を再点検し,社会的な優先課題が何であるかについて考え直さなければならない。(中略)どう考えても,30歳で職業人となり60歳で引退するといった生活スタイルは人生80年時代には馴染まない。かつてドイツ的な徳目とされた公共的な精神,連帯,技術革新に前向きな勤勉の精神はひどく衰えている。戦後のドイツ復興を担った人々は彼らの権利ばかり主張したのではなかった。その義務の遂行にも忠実であった」(Financial Times, 3 September 1993)。具体的には,「過大な」社会保障制度の改革を中心に,「脆弱な」教育制度や「過剰」で「賃金決定が硬直的な」公務員制度などを規制緩和と民営化といった方向に沿って改善していこうというのがコールの呼びかけの主な内容であった。
 このように国際競争力の後退と回復,ドイツ的な徳目(勤勉と連帯,公共精神)の衰弱と再興,さらに福祉国家の抑制とネオ・リベラリズム的あるいはサッチャー主義的な政策的オリエンテーションを目の当たりにするにつけ,先に掲げた問いが一層膨らんでいく。果たしてドイツ・モデルは健在か。ドイツは2つの歴史的な「統合」を担い切れるのか。

(注1) たとえば,廣江(1993),近藤(1993)を見よ。WZBのU.ユルゲンスもまたインタビューのなかでこの点に触れていた。

(注2) この『レックスロット報告』は93年9月に連邦議会に提出された。それが提唱しているのは,第1に東西ドイツにおける500万人の雇用創出と長期構造失業の縮小,第2に政府支出とりわけ社会保障関連支出の抑制,第3に先進国中最短の(生涯)労働時間の反転,第4に政府資金の研究開発投資拡大と競争力のない産業セクターへの補助金削減,第5に行政効率の改善,第6によりラディカルな高齢化政策,第7により実務的な職業教育訓練政策への転換などである。この『報告』の底に横たわっているのはドイツ製造業の国際競争力の現状と将来に対する強い危機意識であるように思われる。cf., Financial Times, 25 October 1993.

1 ドイツ・モデルとは

1.1 ネオ・コーポラティズムという文脈

 ドイツの労使関係や職業訓練といった特定領域に限っていえば,いずれについても「二重システム」ということが言われる。それらを指してドイツ・モデルということはやさしい。しかし,「スウェーデン・モデル」とか「オーストリア・ケインズ主義」とかと同じような鮮明度をもった個性的なマクロ政治経済システムがドイツに存在するのかと問われれば,おそらくその答えは否定的なものになるだろう。

 ドイツ・モデル

 それでも,そうしたマクロな政治経済のありように照準を合わせてドイツ・モデルということが言われない(なかった)かといえば,必ずしもそうではない。第2次大戦後の経済再建はひとつの「奇跡」と呼ばれたが,それは強い国民社会的な紐帯に負うところが少なくなかった。その強い紐帯に人々の目が集まった。70年代の経済的混乱に際してドイツ政治経済が示した優れた適応力は「ドイツ・モデル」(Modell Deutschland)という表現を生み落とした(cf., Markovits ed. 1982)。その時期に一方で「協調行動」は融解したが(注3),国際市場におけるドイツの競争力維持に向けて政治家や行政官僚制を含めて利益団体間の包括的な強力関係のネットワークが編み上げられていった。しかしその実績に対する国際的な称賛とドイツの自負は,80年代に入って急速にしぼんでいった。マクロ経済パフォーマンスに大きな陰りが見えはじめたからである。『シュピーゲル』誌(25 Marz, 1 April 1985)は「ドイツ経済の動脈硬化症」を取り上げて2回の特集を組んだ。ところが80年代後半になると,再度その評価は逆転した。たとえばP.ドラッカーは,『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙(6 March 1986)に「われわれはドイツ人から何を学び得るか」という論文を寄稿した(cf., Katzenstein 1989; Esser and Fach 1989)。こういった浮沈を経験しながらも,しかし広範な社会的合意形成メカニズムとその機能を捉えてドイツ・モデルということが言われるようになった。

(注3) 使用者団体が連邦憲法裁判所に「共同決定法は憲法違反である」として提訴したために労働組合は「協調行動」から離反した。しかしそれは「象徴的な抗議行動以上のものではなく,賃金決定メカニズムのありように対して深い影響を及ぼすようなものではなかった」(Soskice 1990a:44)。

 準公的制度

 この点に関連して思い起こされるのが,P.カッツェンシュタインによる「準公的な制度」(Parapublic Institutions)についての言及である。彼によれば,ニュー・テクノロジーと企業レベルにおける新たな労働組織の構築,環境主義の台頭に象徴される「新しい社会運動」の挑戦と「消費政治」の模索,国際経済化に伴う新たな政治課題への対応といった3層構造的な同時変化にもかかわらず,80年代のドイツ政治社会(カッツェンシュタインはそれを「第3共和制」(注4)と呼んでいる)が比較的安定的であり得たひとつの理由は,「準公的な制度」とその調整能力にある。そしてその諸制度には,たとえば「商工会議所や職能団体制度」(それらはオーストリアの場合と同様に19世紀以前にその起源をもつ)といったものばかりでなく,「民間福祉団体や教会,職業訓練制度や社会保障基金のほか,5賢人委員会といったもの」までが含まれる。それらのすべてが「公的セクターと民間セクターとを強力に結びつけ,その強靱な働きによって〔ドイツ〕社会の秩序と安定をもたらした」。これら準公的な制度はひとつの巨大な「緩衝器」として,「国家による一般的な支援を得ながら,ドイツにおける公共政策の形成と実行を円滑なものにしている」。こう書いたうえでカッツェンシュタインは,さらに次のように記している-「多くのアメリカ人にとってみれば,こうした準公的な制度は社会的自発性と企業家的な自助努力の精神を窒息させるものと映るだろう。しかし西ドイツにおける政治説得を担う指導的人物にとっては,それらはリスクを減らし,専門的知識を増やし,情報の共有を促すものである。それなしでは将来の事態など予測し得ない重要なチャンネルである」(Katzenstein 1989:12, 332f.)。このように,カッツェンシュタインが準公的制度と呼んでいるのは公共政策をめぐる社会的合意形成装置とその機能にほかならない。

(注4) cf., Katzenstein 1989:7f.

 合意+コーポラティズム=経済的達成

 このカッツェンシュタインの叙述は,アングロ・サクソン世界とは異なる歴史的・社会的伝統をもつドイツ社会制度の「準公的」性格を強調しているという点で興味深いだけでなく,さらに進んで,「イデオロギー的合意+政治的コーポラティズム=経済的達成」というH.ウィレンスキーやブルーノ=サックス(Wilensky 1981; Bruno and Sachs 1985)にも通じる図式を示唆している。
 鉄鋼業を中心に産業近代化の「危機管理」を分析したエッサー=ファッハによれば,危機管理のドイツ・モデルは3つの要因,すなわち,第1に「ドイツの産業政策は国際競争力の維持向上に方向づけられた」ものとして,政府や使用者団体,労働組合などすべての関係者の合意に基づくものであること,第2にはコーポラティズム,つまり「世界市場に適応していく方法とステップについても関係者すべての同意を得たもの」であること,第3にその成果である「経済成長は,シュンペーター的意味での『創造的破壊』を可能あるいは促進し,または要請する」ものであること-以上3つの要因を挙げている(Esser and Fach 1989:247)。ドイツにおけるすべての産業近代化政策がこの図式と方法によって行われたわけではない(注5)という大切な点を見失ってはならないし,また産業近代化における危機管理という主題に特化しているが,「ドイツ・モデル」の隅の首石的な例証と見ることもできよう。
 この理解に従えば,マクロ政治経済モデルとしてのドイツ・モデルとは,要するに「合意+コーポラティズム=経済達成」という方程式によって簡潔に表現することができる。

(注5) Esser and Fach 1989:246f.

 「社会的次元」と企業家精神-2つの補足

 この図式について,さらに2つの点を補足しておこう。ひとつは,この「合意」と「コーポラティズム」的意思決定によって「〔衰退産業の〕近代化政策を実行に移す場合,その速度はひとり経済計算ばかりではなく,十分な社会的配慮に基づくものでなければならない」(Esser and Fach 1989:224)。別な言い方をすれば,「近代化はその犠牲が公正かつ適切にあがなわれるとき,最も円滑に実行される」という社会的了解が成り立っているあるいは前提されているという点である。経済計算と社会的配慮の両輪という構図は,あの「ドロールの戦略」(注6)を彷彿とさせるばかりでなく(「社会的次元」に「社会的配慮」という言葉を重ねてほしい),もう少し拡張していえば「社会的市場経済」(soziale Marktwirtschaft)という言葉に無理なくたどりつく。
 もうひとつは,エッサー=ファッハが「この方程式は旺盛な『企業家精神』-それこそ,西ドイツ・モデルの他に置き換えられない本質的な特徴である-というものを前提にしている」と書いている点であり,また「西ドイツ・モデルについての〔高い〕国際的な評価いは〔ハイテク産業ばかりでなく〕『錆びついた』古い産業にも依存している」(Esser and Fach 1989:221,228-229)と述べていたことである。彼らが注目しているのは言うまでもなく「手工業」(Handwerk)(注7)を中心とするスモール・ビジネスについてである。日本に関してと同様,これらのスモール・ビジネスなしにドイツの製造業の強い国際競争力を理解することはできない。言い換えれば,ドイツ手工業の衰退はその製造業全体に致命的な影響を与える可能性がある。しかし文脈上,こうした一般的な側面とともに見落とせないのが手工業(団体:Handwerkorganization)が担っているその人的資源開発・供給機能についてである。マイスター資格取得による自営業主への道,また徒弟訓練後のジャニーマン資格取得による大企業への転職行動など,まさに「手工業の組織とイデオロギーの中枢にあるものといえば,それは職業訓練である。文化社会学者ならば,ドイツの手工業システムを特徴づけてルター的な職業観念(それは個人的および社会的アイデンティティのあかしに違いない一連の高度な熟練によって指示される)を制度的に象徴するものと見るだろう」(Streeck 1992:132)からである。この手工業の組織化もまた二重システムとなっており,そのひとつが商工会議所(ドイツでもオーストリアと同じく強制的メンバーシップが敷かれている)であり,もうひとつが使用者団体として団体交渉機能(注8)をもつ任意加盟制のギルドである。いまから10年ほど前の数字になるが,83年には6,202の手工業ギルドが存在した(詳しくは,Streeck 1992参照)。これら手工業団体は,カッツェンシュタイン自らそう記しているように,まさにドイツの代表的な「準公的制度」といってよいだろう。

(注6) 「ドロールの戦略」については,稲上(1992a)参照。

(注7) この手工業(Handwerk)とは,英語でいう‘Artisan’あるいはクラフツマン(職人)に近いものであるが正確な対応物はない。そのありようは1953年の手工業法(Gesetz zur Ordung des Handwerk)によって規制されている。まずは「法的な概念」であるこの手工業の中身についてはこの法律によって125以上の職業(すべて職業資格を要する)が例示されている。しかし「動態的な手工業概念」という言葉もあるほどに境界線は流動的である。平均従業員数は8人(83年調査)であるが,必ずしもその人数が手工業の尺度となってはいない。職業参入障壁と市場独占の「手工業特権」(Handwerksprivileg)を享受する一方,重要な人的資源供給源として,また「中産階級」の背骨あるいは国民社会の「安定装置」として重要な役割を果たしてきたという理解が多い。たとえば,cf., Streeck 1992〔1989〕:108f.

(注8) この団体交渉機能に関するW.ストリークの記述によれば,「手工業の賃金水準は工業(industrie)と大きな隔たりはない。しかし労働時間はかなり違っている。たとえば84年の金属産業における週35時間という時短協定は手工業には適用されていない」(Streeck 1992:119)。

 もうひとつの用例-「緩やかなネオ・コーポラティズム」

 マクロ政治経済モデルという意味でドイツ・モデルということが言われる場合,広範な社会的合意形成メカニズム,そのプロセスで重要な役割を果たす多彩な準公的制度,「合意+コーポラティズム=経済達成」という図式,そこに織り込まれている国際競争力の維持向上,旺盛な「企業家精神」と手工業,天職観念(労働倫理の強さ)と人的資源開発あるいは職業訓練機能,さらに経済的効率と社会的配慮(「社会的次元」)の均衡維持といった価値志向などを指摘することができる。
 もうひとつの用例について触れておこう。カッツェンシュタインは,ドイツ政治社会に関するある書評論文のなかで,かつてドイツ・モデルについて次のように書いた。-フランスのようなラディカルな労働運動はない(ドイツの組織労働者は連立政権の一部を構成する)。また,日本のような独断的な国家官僚制もない(ドイツの中央官僚は指導的な政治家を脅かすほどの存在ではないし,ドイツの地方分権化は日本より進んでいる)。アメリカやイギリスのようにドイツの国家と社会,工業と金融は乖離していない。イタリアのように,政治家が共産党の存在にかこつけて経済や行政官僚制を利用するといったこともない。これらの大きな先進工業社会に比べれば,「スウェーデンやスイス,オーストリアといったヨーロッパの先進的中堅国家のほうがドイツ・モデルにずっと近い。これらの国は,西ドイツと同じく政治的安定と経済的繁栄を結びつけることにかなりな程度成功し,また西ドイツと同様に資本主義的経済のなかで重要な制度的改革を成し遂げた。さらに,選挙での競争を否定することなく広範なエリート間の協力関係を構築してきたという点でも,これらの国々は西ドイツとよく似ている」(Katzenstein 1980:590)。こう記してから彼は,資本主義の自由主義的・国家主義的形態という2つの類型に加えて,「西ドイツや緩やかなネオ・コーポラティズム的構造」(the Loose Neocorporatist Structures of the Federal Republic)という第3の類型を挙げ,「国家主義的な政党制度におけるエリート間の,あるいは労使という社会的パートナーシップ間の協力関係の構築という図式を提示することによって西ドイツは長い伝統をもつ中央ヨーロッパの政治文化に貢献した」(Katzenstein ibid.)と書き足した。
 さらに,ネオ・コーポラティズムの「相対的に分権化された」形態でもあるこの「緩やかなネオ・コーポラティズム」(注9)を体現する西ドイツ経済は,日本を除く「他の大きな先進工業国」(このなかにはアメリカやイギリスのみならず,フランスやイタリアも含まれる)とは異なって,優れたパフォーマンスを示している-80年代の初め,カッツェンシュタインはこう書くことを忘れなかった。
 要するに,ここに示唆されている事柄は,「合意+コーポラティズム=経済達成」という先の図式と基本的に一致する。したがって,カッツェンシュタインに沿っていえば,「準公的制度」に支えられた分権的で「緩やかなネオ・コーポラティズム」による国際的に優れたマクロ経済パフォーマンスの達成,これこそドイツ・モデルの精髄ということになるだろう。そしてここで見落としてならないのが,ネオ・コーポラティズムという言葉を用いて西ドイツの政治経済を形容する際に,慎重に「緩やかな」とか「分権化した」とかいった限定づけを行っている点である。そういえば,あの「協調行動」(konzertierte Aktion)を含む60年代,70年代のドイツの政労使関係を言い表そうとしてO.ヤーコビらもまた,「穏健なマクロ・コーポラティズム」(Moderate Macrocorporatism)という表現を用いていたことが思い起こされる(Jacobi et al. 1992:238)。

(注9) かつて稲上(1988)は,偶然のことではあるがこの「緩やかなネオ・コーポラティズム」とまったく同じ表現を使って日本に台頭しつつあった新たな政治経済パターンを記述しようとしたことがある。

 有意義な準拠枠

 80年代に入って退潮しはじめたとはいえ,なおネオ・コーポラティズムという文脈に沿って現代ドイツの政治経済を論じる意味は十分あるように思われる。1,2のインタビュー記録を紹介しておこう。
 ドイツ経済研究書(IDW)(注10)のC.シュナーベルは,われわれとのインタビューのなかで,またネオ・コーポラティズムに関する最近の論文(Schnabel 1992,1993)においてカームフォース=ドリフィルの「コブ型理論」(Calmfors and Driffill 1988)を実証的に批判しながら,「われわれはコーポラティズム的な社会構造をもっている。その構成主体の間にはいろいろ対立もある。しかし労働市場の主体〔労使中央団体〕が深くかかわって国内的な調整を行っていくという方法は,新たに統合された〔ドイツ〕国民経済の経済的成功にきわめて大きな意義をもっている」と繰り返し強調した。
 また,同じIDWの所長であり,かつて5賢人委員会のメンバーでもあったG.フェルス教授(Gerhard Fels)は,「ドイツのコーポラティズムはオーストリアのそれとあまり違わない。1918年11月にまで戻る必要があるが,当時の革命的雰囲気のなかでF.ツゥーセン(Fritz Thussen)という指導的な企業家とレギン(Legin)という金属産業労働組合のリーダーとがツゥーセン=レギン協定というものを結んだ。これがドイツにおけるコーポラティズムの誕生を告げることになった。これによって経営者はその企業レベルから社会政策〔的課題:内容的には,たとえば「産業平和と生産増強」〕にアプローチし,また賃金交渉については企業レベルを超えたところで労使の自由な意思に基づいて決めなければならないということになった」。フェルスのこの説明を聞いていて,あるいは彼の場合,コーポラティズム(Corporatism)と労使協調主義(Cooperativism)とが二重写しになって理解されているようにも思われたが(そして,それはそれで間違いではないが),同時に「個別の経営者が企業レベルにあって社会政策的目標に見合った行動をとる」とういう意味での(あえていえば「真正」の)ミクロ・コーポラティズムの要素にも触れていた点にわれわれは興味を覚えた。

(注10) IDW(Institut der deutschen Wirtschaft)の主要な資本出資者は使用者団体である。

 コーポラティズム指標から見たドイツ

 ここで,ひとつの表を掲げておこう(表1)。コーポラティズムの操作的定義についてはいくつもの試みがある(注11)。代表的なものには,たとえばシュミッター(Schmitter 1981),ブルーノ=サックス(Bruno and Sachs 1985)あるいはクロウチ(Crouch 1985),タランテリ(Tarantelli 1986),カームフォース=ドリフィル(Calmfors and Driffill 1988),レイプハルト=クレパス(Lijphart and Crepaz 1991)などがある(本書,下平論文参照)。このうち最後のものは既存の12の計測事例を独自な手法によって合成したものである。クロウチ指標やタランテリ指標によれば,ドイツはオーストリアに次いで2番目に高い位置づけを与えられている。しかし他の計測では中位あるいは中の上に格づけされている。
表1 コーポラティズム指標による各国ランキング-いくつかの試み
 日本やスイスほどではないが(図1),ドイツについてもコーポラティズム指標の作り方,実勢評価,計測期間などによってその計測結果は違ってくる。シュミッターの社会コーポラティズム指標は労働組合の集権度と独占度の合成スコア(Scmitter 1981:294),ブルーノ=サックス指標あるいはクロウチ指標(注12)は賃金決定に対する頂上組合の影響力,使用者の調整行動,職場での組合影響力,企業内での従業員代表組織の有無という4つの尺度の合成スコア(Bruno and Sachs 1985:224f.),またタランテリ指標は次のような8つの尺度(5段階)の合成スコア(Tarantelli 1986:7-8.第1に労使頂上団体のイデオロギー的共鳴度とマクロ政策形成参加度,第2に団体交渉の集権度,第3に団体交渉の対労働者カバリッジ,第4に労働協約の有効期間,第5に労働協約更新の同時生,第6にパターン・セッター的労働協約の影響度,第7に労働争議の規制度,第8に賃金協定の物価インデクセーション度),さらにカームフォース=ドリフィル指標は産業レベル労使団体内部での調整行動水準,労使頂上団体数と内部での協調度の合成スコア(Calmfors and Driffill 1988:53)によってそれぞれ計測している。
図1 コーポラティズム指標による計測結果の差異-18カ国の位置づけ
 これらの指標づくりのうち,いずれが優れているかについてこけで論じる暇はない。それよりも肝心な点は,ひとつには,コーポラティズム指標の作り方と計測方法によってはドイツの政治経済はかなり高い位置にランクづけされるということであり,もうひとつには,こういった国際比較には指標づくりとともに実勢評価という厄介な問題が伴うという点である。とりわけ,調整行動の水準とか協調度とかいった点の判定は制度的尺度とは異なってきわめてデリケートな事柄であり,時代によってもその水準はかなり変化する。そうであればなおさらのこと,冒頭に記したような大きな歴史的出来事に直面していまドイツの政治経済(大なり小なりコーポラティズム的であった),狭くはその労使関係と賃金決定はどのような性格変化を経験しつつあるのか,この点を明らかにしてみたい-そういった思いに駆られて,われわれがドイツを訪れたのは93年3月下旬のことであった(注13)。

(注11) ネオ・コーポラティズムに関する計測事例の収集として,たとえばレイプハルトら(Lijphart and Crepaz 1992)やC.クロウチ(Crouch 1993)のほか,本書所収の下平論文を見よ。

(注12) ブルーノ=サックス(Bruno and Sachs 1985)はコーポラティズム指標という点ですべてをクロウチ指標に負っていた。cf., Bruno and Sachs 1985:224-5, Crouch 1993:12f.

(注13) 訪問先は3月23日がOTV(Stuttgart:H.-J.プルグリム氏),24日午前がGesamtmetall(Koln: V. F.フォン・ヴァンゲンハイム氏),24日午後がIDW(Koln: G.フェルス,C.シュナーベル氏),25日がDGB(Dusseldorf: D.ペルナー,R. ビスピインク-ヘリミッヒ氏),26日がIG Metall(Frankfurt:R.クールマン氏),そして29日がWZB(Berlin: D.ソスキス,U.ユルゲンス,K.シェーマン氏)であった。稲上毅とH.ウィッタカーのほか,日本労働研究機構の星野淳子も調査に参加した。なお,在ケルン日本大使館の草野隆彦一等書記官には現地機関との厄介な連絡調整等を引き受けていただいた。特に記して謝意を表したい。

 小 括

 ここで,これまでの議論に一区切りをつけておこう。
 第1に,スウェーデン・モデルとかオーストリア・ケインズ主義とかいったものと同じ鮮明さをもったマクロ政治経済モデルが果たしてドイツにあるのかといえば,おそらくそうではないだろう。
 第2に,しかし,マクロ政治経済モデルとしてのドイツ・モデルという言い方ができないわけでは必ずしもない。いくつかの用語法を重ねていってみると,たとえば広範な社会的合意形成メカニズム,その意思疎通と専門的な情報共有に大きな役割を果たしている多彩な準公的制度,これらによる「合意+コーポラティズム=経済達成」という目的論的図式,その前提とも内容ともなっている旺盛な企業家精神と手工業の伝統,国際競争力の維持向上,経済的効率と社会的次元の両立,さらには分権的で「緩やかなネオ・コーポラティズム」といった諸要素を挙げることができる。上記2つの個性的なモデルに比べてその明瞭に劣るとはいえ,そしてそれだけにあまりにも包括的な内容を含み込んでいるが,これをマクロ政治経済のドイツ・モデルと呼ぶことにしたい。
 もしこのドイツ・モデルをひと言で表現しようとすれば,準公的制度による広範な社会的合意形成と分権的で「緩やかなネオ・コーポラティズム」とを駆使して社会的次元と両立し得る経済的効率を達成しようとするマクロ政治経済モデル,ということができよう。
 第3に,このドイツ・モデルは,アングロ・サクソン世界における政治経済モデルとはその類型を異にするようなものであり,それでいて少なくとも80年代には国際的に見て優れた経済パフォーマンスを示した。

1.2 労使関係のドイツ・モデル

 いくつかの見解

 マクロ政治経済モデルとしてのドイツ・モデルの中心部分には労使という社会的パートナーが位置しており,その労使関係を抜きにしてこのドイツ・モデルを語ることはできない(cf., Auer, forthcoming)。K.コッホは,「西ドイツの輸出製品がもつ強い国際競争力,そのハイテク・プロフィール,そしてコスト制御の能力」を指してドイツ・モデルと呼び,これを支えているのもののひとつが「独特な仕方でよく調整された賃金決定方式である」(Koch 1992:16)と書いている。この小さな文章の主たる関心もまた,巨視的なドイツ・モデルそのものというよりも(その持続と変容について検討するにはなお多くの準備が必要であり,観察の時期も選ばなければならない),労使関係や賃金決定というアリーナに登場する限りでの政治経済モデルとしてのドイツ・モデルの可塑性や適応力に注がれている。
 そこで,労使関係という特定領域に限って,そのドイツ・モデル(マクロ政治経済モデルとは区別された「労使関係のドイツ・モデル」)を検討の俎上に載せることにしよう。
 1,2の事例を引くことから始めたい。たとえばO.ヤーコビらは労使関係のドイツ・モデルについて次の4つの構成要素を挙げている(Jacobi et al.1992)。第1の最も重要な要素がワイマール時代にまでさかのぼることのできる「利益表明の二重構造」である。企業外で行われる団体交渉と従業員代表組織を通じた企業内での利益表明という組み合わせがそれである。労働組合と使用者団体がその団体交渉によって取り扱う事項は「より一般的かつ数量的な」ものであり,それに対して従業員代表組織が会社と協議するのは「より特化した質的な」案件であることが多い。前者ではストライキやロックアウトに訴えて労使それぞれがその利害を主張することができる。しかし,後者での合法的手段は平和的協議と労働裁判所への訴訟に限られている。このように,利益表明の二重構造の下でその様式(主体と場面,取り扱い事項と方法)が明確に線引きされている。もっとも,その実態となると両者は密接な関係を保っており,たとえば労働組合は従業員代表に対する専門的な情報提供や教育訓練に熱心だし(注14),従業員代表はそのほとんどが労働組合員あるいは組合役員によって占められている(注15)。両者の間に軋轢のあることも見逃せないが,まずは両者の相互補完関係に注目する必要がある。その補完性は72年の経営組織法の改正によって強化された。使用者団体と個別の経営者の関係についても同様のことがいえる。第2に,詳細な労使関係法制に如実に現れている「法定主義」という特徴を指摘しなければならない。それは一般に「労働関係の法定主義」(Verrechtlichung der Arbeitsbeziehung)といわれる。第3に,その法制の一部でもあるが,労働組合や従業員代表組織のもつ「包括的代表性」という点が見落とせない。たとえば,ドイツでは労働組合が締結した労働協約はひとり組合員だけでなく当該労働者のすべてをカバーするという意味で労働者の利益を包括的に代表することができる。それは「労働協約の一般的拘束力規定」(Allgemeinverbindlichungserklarung eines Tarifvertrages)と呼ばれる。同じことは,従業員代表組織と会社との協約についてもいうことができる。したがって,それは当該従業員すべての利益を代表する。もっとも使用者の場合には,この「拘束力」は法律によってではなく強い組織力にその根拠をもっている。第4に,よく調整された集権的な産業あるいはセクター別交渉という特徴がある。労働組合の組織原理は,クラフトや職業別といったものではなく産業別の「単一組合」(Einheitsgewerkschaft)になっている。それによって,たとえばマニュアル,ノン・マニュアルといった職業別組織原理を採用しているスウェーデンにおけるLOとTCOの確執といったユニオン・ライバルリーを避けることができる。労使の集権的な調整行動という側面については後に詳述する。要するに,労使関係制度の二重構造,法定主義,労働協約・従業員代表組織の包括的拘束力,集権的で調整的な産業別あるいはセクター別団体交渉という4つをヤーコビらは労使関係のドイツ・モデルの構成要素として挙げている。最も一般的な見解といってよいだろう。
 K.ウィリアムズもまた,その金属産業を対象にした職場労使関係の英独比較調査のなかでドイツ・モデルという言葉を使っている。必ずしも明確な定義づけを行っているわけではないが,ひとつにはイギリス的労使関係の「任意主義的」「分権的」「対立的」といった特徴に対して,ドイツの「法定主義的」「集権的」「協調的」といった性格づけをしたうえで,特に労使関係制度における二重代表制(労働組合と従業員代表組織)という点に触れ,それが象徴している法定主義と労働協約等の一般的拘束力といった点を捉えて「協調的な憲法主義」(Cooperative Constitutionalism)という言葉を用い,それによってドイツ的労使関係の基本的特徴としている。これに関連して,さらにサッチャー政権の「市場至上主義」とコール連立政権の「社会的市場経済」重視という保守主義の類型的な違いにも言及し,マクロ政治経済モデルにかかわる両国の差異にまで立ち入っていた(Williams 1988:22-25, 104f., 120)。ドイツ的な労使関係という点でいえば,内容的に上のヤーコビらの見方とほとんど同じだといってよい。
 P.アウアーは,ドイツ労使関係の最も基本的な特性を「共同決定」に求めている。51年の石炭鉄鋼産業共同決定法(モンタン共同決定法),72年の改正経営組織法,そして76年の共同決定法という3種類の「共同決定」に関する法律に基づいて(その意味での法定主義),職場レベル(注16),経営レベル,企業レベル(監査役会への労働者参加)での共同決定が法制化されている。その起源は先のフェルスもいうようにワイマール憲法にまでさかのぼる。アウアーが強調するこうした「共同決定」という性格づけは,内容的にはウィリアムズの「協調的な憲法主義」の中身,あるいはヤーコビらのいう「法定主義」の内容を具体的に表現したものと理解することができる。興味深いのは,上記のカッツェンシュタインと同じく彼もまた,「労働組合が社会保障の『自主管理』組織,国の雇用サービスや職業訓練機関に参加している」という意味での「企業を超えた共同決定」(uberbetriebliche Mitbestimmung)あるいは「広義の共同決定」という経験的事実の存在に大方の注意を促し,狭義の共同決定(ドイツ的労使関係の法的・制度的特徴)が「ドイツの社会経済『モデル』の成功の基柱となってきた」と見なしている点である(Auer, forthcoming)。
 もうひとつ,G.ストリークが行った西ドイツ自動車産業の労使関係研究(Streeck 1984a)に触れておこう。というのも,ネオ・コーポラティズム研究に先鞭をつけたP.シュミッターの古典的論文(Schmitter 1974)やM.オルソンによる経済発展と利益表明構造に関する理論(Olson 1982)を準拠枠にしながら,70年代の4つの労使関係上の出来事(75年のVolkswagen社での大量レイオフ,76年の同社によるアメリカでの組立て工場建設,70年代後半の雇用および残業をめぐるVolkswagenとOpel社での労使協議)を素材にして,ストリークはドイツの労使関係を「コーポラティズム的」であり,「イギリスから見ればきわめて『包括的』な性格をもったもの」であると結論づけていたからである。労使関係のドイツ・モデルの理解にとってこの議論も欠かせない。経済危機や停滞がもたらすかもしれないネオ・コーポラティズム切り崩しの可能性を思い描きながら,なおストリークは「もし西ドイツでネオ・リベラリズム的な制度改正が生じるとすれば,早い時点で72年の改正経営組織法と76年の共同決定法の改正が必要になるだろう。けれども,そういった重要な制度変更はこの国の社会的・政治的な基本合意を大きな危険にさらし,その結果が予測できないようなきわめて深刻な政治的葛藤を招く恐れがある」(Streeck 1984a:154)と見ていた。実際,80年代を通じてネオ・リベラリズムへの傾斜度は次第に深まったとはいえ,それによってヤーコビらやウィリアムズが指摘したようなドイツ的な特徴が基本的に変化したわけではなかった。

(注14) かつてストリークは挑発的な「経営エゴイズム」あるいは労使関係の「日本化」仮説を提起した際(Streeck 1984b:310),労働組合は従業員代表組織の「サービス機関」になるかもしれないと書いた。

(注15) 90年の従業員代表委員の選挙結果によれば,その76%がDGB傘下の組合メンバーであったcf., Auer, forthcoming.

(注16) この職場レベルの参加に法的根拠を与えたのは72年改正経営組織法の第90-91条である。たとえば,二神 1982:117f.参照。

 挑発的な将来展望

 しかしここで,この70年代の西ドイツ自動車産業の労使関係に関するイギリスとの国際比較を強く念頭においた「コーポラティズム的」という特徴づけと併せて,同じストリークによる同じ年に発表されたもうひとつの議論(Streeck 1984b)に一暼を与えておきたい。それは以下の議論のひとつの重要な伏線にもなっている。
 「もうひとつの議論」とは,ネオ・コーポラティズム的という労使関係のドイツ・モデルの変質あるいは「切り崩し」の可能性に深いかかわりがある。端的にいって,ドイツの「労使関係の二重構造」のありようをめぐって,経済危機と失業増加さらに従業員代表組織の権限強化に伴って産業別労使関係の相対的な比重が低まり,代わって「企業別組合主義が台頭する」というシナリオが展望されていた。別な言い方をすれば,従業員代表組織による「経営エゴイズム」(Betriebsegoismus)の発達(注17)を大きなテコとして,「ドイツ労使関係の漸進的な『日本化』」(この表現はストリークのもの)が進むのではないかという将来見通し-より具体的には(「脱コーポラティズム化」じも「ネオ・リベラリズム」の制覇でもなく),たとえば激しい国際競争にさらされている大企業を単位にした個別経営と「定着した」従業員による「生産性連合」(Productivity Coalitions)の構築(注18),まさにドイツの労使関係の「脱〔マクロ〕コーポラティズム化」(Post-〔macro〕Corporatism)と「新しい亀裂」(注19)の拡大という将来展望をストリークは高い蓋然性をもって描き出した(Streeck 1984b:306-307,309,313)。このストリークの「挑発的」なシナリオはこの章の以下の議論のみならず,本書全体にも深いかかわりをもっている。

(注17) 二神 1982:22f.また,この仮説に対する批判的なコメントとして,Thelen 1991:148f., Kern and Sabel 1991:386f., Jacobi et al.1992:262f.

(注18) ニュー・テクノロジーに伴うフレキシブルな労働組織の成熟と世界市場化が分権的な労使関係の発展を促すというのがヴィンドルフの推論である。もともとの意味は企業の「生産ゲマインシャフト化」ということであり,類似語として‘micro-corporatism’とか‘co-operative alliances’あるいは‘syndicalisme d’enterprise’とか‘accordo di produttuivita’などがあるとされる。cf., Windolf 1989:3.

(注19) ストリークは「5つの亀裂」に言及し,またR.ドーアは日本に関してこうした亀裂の可能性を示唆した(cf., Streeck 1984b, Dore 1990:59-60)。その亀裂が意味するひとつの重要な文脈はJ.H.ゴールドフープがいう「デュアリズム」(Goldthorpe 1984)であるに違いない。この点については,本書所収のウィッタカー=稲上論文を参照されたい。

 暫定的な定義

 議論が脇道に外れた。急いで本論に戻ろう。労使関係のドイツ・モデルをどう定義するかが問題であった。インタビューでのフェルスの発言,ヤーコビらのポピュラーな見解,アウアーによる特徴づけ,ウィリアムズやストリークによる労使関係の英独比較の結論などを踏まえて,ここではそれを次のように定義しておこう。すなわち,(イ)労使関係の二重構造,(ロ)憲法的法定主義,(ハ)「包括的」な利益表明行動に基づく集権的かつ協調的あるいは共同決定的な労使関係-,労使関係のドイツ・モデルはこれら3つの構成要素から成り立っていると考える。
 このうち,(イ)労使関係の二重構造というのは,すでに見たように一方における産業あるいはセクター別・地域別団体交渉と他方における企業内労使協議という労使関係の法的・制度的フレームワークのことを意味している。現行ドイツの労使関係法制は,組合員と従業員という二面性あるいはその集合的表現である労働組合と従業員代表組織を互いに空間的にも機能的にも区分けし,労使紛争を企業外に封印するとともに企業内に産業平和と協調的労使関係をもたらし,そうすることによって勤労者の「二重利益」をそれぞれに代表させようとしている。この法的な枠組みは70年代の改正経営組織法や共同決定法によって基本的な骨格を与えられたが,その起源は少なくとも第1次大戦後のワイマール時代にまでさかのぼる。その意味で,この労使関係の二重構造はすでに4分の3世紀もの歴史をもっている。日本の企業別労使関係について「生産で協力し分配で争う」関係などといわれることがあるが,ドイツではその協力と闘争のアリーナを空間的にセグメントし,かつそれぞれに従業員と労働者という「ホモ・ソシオロジクス」を当てはめるという原則を立ててきた。
 また,(ロ)憲法的法定主義というのは産業・地域レベルで結ばれる労働協約の一般的な法的拘束力ばかりでなく,その協約の遵守がいわば「憲法的正義」と見なされており,当事者の一方的な事由によって勝手に破棄することなどできないということを意味している。
 さらに,(ハ)の要素のうち,「包括的」な利益表明行動という言い方はM.オルソンの用語にならっている。成員とその団体が自らの「特殊的」な利益の実現をめざして他の同様な団体と政治的市場のなかで競争あるいは闘争し(したがってそこから,株主本位主義によって媒介された「新古典派的な個人主義と対立的労使関係の結合」という興味深い図柄が浮かび上がる),その結果として多元主義的にものごとが決まっていくというアングロ・サクソン的な利益代表行動と,ここでいうドイツ・モデルとは鋭い対照をなしている。それは,たとえば労働組合の賃上げ行動のなかに典型的に表現されている。ドイツの労働組合もまた,ある種の「コミュニティ意識」と協調的な精神をもって全体社会(国民社会)のために貢献しようとするのであって,その場合には短期的な自己利益の「自粛」もいとわないといった行動様式が生まれよう。こうしたことが無理なく行われるためには労使の頂上団体間のイデオロギー的あるいは経済的な利害関係に大きな懸隔がなく,頂上団体による集権的な統率力とリーダーシップが有効に発揮され,労使間の協調的な調整行動が成り立っていなければならない。ストリークが「コーポラティズム的」という言葉で表現しようとしたものである。
 もっとも,この(ハ)の「集権的かつ協調的あるいは共同決定的な労使関係」という定義づけのうち,「協調的あるいは共同決定的な労使関係」の成り立つ水準あるいはレベルが問題である。もしそれが企業レベルで成り立つということになれば,それだけ「集権的」という性格は弱まるに違いない。モデルとしては,マクロでもミクロでも「協調的あるいは共同決定的な労使関係」というものが予定されているが,「労使関係の二重構造」は条件次第ではかえってモデル内在的な困難を誘発する可能性をもっている。すでに触れた「経営エゴイズム」の台頭などはその格好の例解となるだろう。
 したがって,ドイツ・モデルがなお健在であるかどうかを検証しようというのであれば,たとえば,第1に,労使頂上団体はそれぞれによくそのリーダーシップを発揮して集権的な代表性を確保し得ているかどうか。第2に,産業あるいはセクター別・地域別の団体交渉とりわけ賃金交渉がよく機能しているかどうか。別な言い方をすれば,賃金交渉はどれほどの集権度を保っているか(逆に,賃金決定は事実上どれほど企業内に分権化されているか)。第3に,賃上げ要求基準づくりやその妥結水準などに照らして,労使の利益代表行動がどれほどの「包括性」をもっているか。第4に,締結された労働あるいは賃金協約は一般的な法的拘束力(その適用範囲)という点ばかりでなく,「憲法的正義」を体現するものとして労使双方によってどこまで遵守されているか-,こういったいくつもの点を確かめてみなければならない。

 マクロ政治経済モデルと労使関係モデル

 以上要するに,これまで2つのドイツ・モデルについて触れた。1つはマクロ政治経済モデルとしてのドイツ・モデルである。社会的にもまた研究者間においても必ずしも鮮明なイメージが共有されているわけではないが,(イ)多彩な「準公的」制度を媒介にした広範な社会的合意形成メカニズム,(ロ)「合意+コーポラティズム=経済的達成」という図式,(ハ)その経済的達成の内容でもありまた相対化のバネともなっている旺盛な企業家精神と手工業の伝統継承,労働倫理と人的資源開発重視,国際競争力の維持向上,経済効率と社会的次元との両立,分権的で「緩やかなネオ・コーポラティズム」といった諸要素を挙げることができる。
 もうひとつが労使関係のドイツ・モデルである。これについても,(イ)労使関係の二重構造,(ロ)憲法的法定主義,(ハ)労使頂上団体の「包括的」な利益表明行動に基づく集権的かつ協調的あるいは共同決定的な労使関係という3つの要素を指摘することができる。このうち,(ハ)の「協調的あるいは共同決定的な労使関係」がどの程度にどのレベルで成熟するかによって「集権的」な労使関係は脅威にさらされ,労使関係の二重構造が予定している産業あるいはセクター別・地域別の団体交渉と企業内における労使協議の相互補完性にも重大な懸念の生じる可能性がある。
 マクロ政治経済モデルの肝心な支柱はそれを労使関係のドイツ・モデルに求めることができる。一方において,後者なしでは前者も瓦解しかねない。他方,前者によって後者は規定されている-そういった相互依存関係を認めることができる。以下では,何よりも賃金交渉と賃金決定という素材とアリーナに沿って労使関係のドイツ・モデルの持続と変容について検討を加え,それを踏まえてマクロ政治経済モデルとしてのドイツ・モデルの帰趨についても考えてみたい。

2 賃金決定メカニズム

 なぜ賃金交渉か

 ドイツの賃金決定もまた,第1に国家の不介入という基本原則の上に成り立っている。しかしオーストリア・モデルの所得政策ほどでなくとも,そしてあの「協調行動」の時代とは異なっているとはいえ,いまもなお微妙なグレーゾーンが存在する。D.ソスキスのいう「柔軟な調整システム」(Soskice 1990a, 1990b)が注目される。それがまた,カッツェンシュタインにならっていえば「緩やかなネオ・コーポラティズム」の所在を指し示している。第2に,Volks-wagen社(注20)や石油産業といった例外を別にすれば,ドイツの賃金交渉は企業内では行われない原則になっている。確かに法制上,従業員代表組織は賃上げ交渉を行う権能を与えられてはいない。しかしオーストリアほど露骨でなくとも,事実上ドイツの従業員代表組織もまた賃上げ「第2のラウンド」の担い手となっているケースが少なくない。産業あるいはセクター別・地域別の交渉が賃上げ最低基準を決めているにすぎないという事実を考えれば,たの「逸脱」行動はごく自然な帰結といってよいだろう。この企業レベルでの交渉が他の「質的」な協議も含めて大きな比重をもつようになれば,どうしても産業別・地域別交渉の意義は低くなる。
 これら2つの点に思いを致すならば,賃金決定メカニズムの分析がひとり労使関係のドイツ・モデルのみならず,マクロ政治経済モデルと労使関係モデルの関連を実態的に説き明かすためのこのうえない橋頭堡となっていることが知られよう。しかしそれに先立って,ごく簡単にでも80年代の労使団体のありようについて触れておくのがよいだろう。

(注20) Volkswagen社が「例外」であるのは,第2次大戦後しばらく同社が国営企業であったためであるといわれる。cf.,Streeck 1984b:46f.

2.1 80年代ドイツの労働組合と使用者団体-伝統への挑戦

 ベルリンの壁が崩れて

 冒頭に記したように,ドイツの「再統一」といってもその実態は旧西ドイツに旧東ドイツが「併合」されていくことを意味していた。労働法制のみならず,労働組合組織についても同様であった。したがって基本的には,労使関係のドイツ・モデルが西から東へ移転されようとしたのだといってよい。その移転は公式には90年7月1日から始まった。しかし,旧東ドイツの労働者によって長らく「社会統一党(SED)への『伝導装置』にすぎないと見なされてきた自由ドイツ労働総同盟(FDGB)に対する不信感はまことに根深いものであった」から,旧幹部の排除と新たな組合役員の登用も欠かせないことであった(Bispinck 1993:4)。産業別労働組合という組織形態も東に移転されたが,産業別デマーケーションは西ドイツと異なっている場合が少なくなかったから,「併合」の困難は想像をはるかに超えていた。
 その西ドイツには,DGB(Deutscher Gewerkschaftsbund),DAG(Deutsche Angestelltensbund),DBB(Deutscher Beamtenbund),さらにCGD(Christlicher Gewerkschaftsbund)という4つのナショナルセンターがあった(いまも変わらない)。90年現在における旧西ドイツに限った各労働組合のメンバーは,それぞれ798.8万人,57.3万人,79.9万人,30.9万人であった。後3者を合わせても170万人弱であってDGBの2割にすぎない。それほどにDGBは大きい。これら4つのうち,DGBは16の産業別組合から構成され,またDAGは8つの職業グループからなる職業別組合である。さらにDBBは州・連邦政府の公務員を組織している。このように労働組合の組織原理は必ずしも一通りでないが(注21),DGBが基本的労働条件の決定に圧倒的な影響力をもってきた。そのDGBの優位はドイツ再統一によって一層強まった。90年9月には東ドイツのFDGBが解散,DGB傘下の産業別組合がそれぞれに新たな組織化に乗り出したからである。その結果,東ドイツから新たに380万人の組合員がDGBに加わった。91年12月現在のDGBの組合員数は1,190万人に達し,ドイツ全体での組織率も35.8%に上昇した(東ドイツでは52%)(注22)。それでもなお事態が流動的であることに変わりはなかった。たとえばIG Metallの場合,「再統一前には270万人であった組合員数が統一によって360万人にまで増えた。しかしその後の旧東ドイツ地域での企業倒産や大量失業など産業空洞化が進み,組合員も20万人ほど減ってしまった。いまは340万人といったところだ。失業してもわれわれの組合員であり続ける者が多いが,それでもまだ組合員数は減少するだろう」とIG MetallのR.クールマンは語った。

(注21) もちろん,ユニオン・ライバルリーや組合統合問題がないわけでない。cf.,EIRR,no.218(March 1992).

(注22) 西ドイツにおける組合組織率(非農業ベース)の基本動向は70年代が上昇,80年代が安定ということができる。国際比較を含めてBlanchflower and Freeman 1990:35参照。

 「伝統的」労働組合への挑戦

 賃金パリティ交渉などこれら西ドイツへの平準化あるいは「併合」問題についてはのちに詳しく取り上げることにして,ここではまず80年代の西ドイツ労働組合に関心を注いでみよう。
 80年代のDGBはその政治的パートナーであった社会民主党(SPD)が82年以降長期にわたって野党に下ることになったこと,また失業率の上昇など経済環境の悪化によってその交渉上の地位を次第に低下させたように思われる(Jacobi et al. 1990:134,141)。しかしそればかりではなかった。組織力といった点での後退こそ見られなかったが,DGBのメンバー構成を見てみると,製造業から多様なサービス業へ,ブルーカラーから多彩なホワイトカラーへとその比重を変え,ケルン=シューマン(Kern and Schumann 1984, 1989)が抽出した知的で柔軟な「新型の熟練労働者」も着実に増えていった。彼らはもはやゴールドソープら(Goldthorpe et al. 1968-69)が描き出した「手段主義的」な労働志向をもった「豊かな労働者」ではなかった。女性やパートタイム労働者の増加も目立った。それらがそれまでの労働組合に突きつけていた構造的問題のひとつは,いわば組織労働者の類型とその組み合わせが多様化あるいは異質化したため,「共通規則」の締結によって労働条件の高位平準化を図るといった「伝統的」アプローチが次第に成り立たなくなってきたということである。たとえば,先のフェルス教授とシュナーベル氏は異口同音に,「労働組合もまた個人主義化の影響を受けている。いまどき労働組合員になるなんてあまりパッとしない,といった見方が強いでしょう。だからこれからは組合組織率だって下がるかもしれない。組合もそれを知っていろいろ努力しているようだが,ホワイトカラーや女性労働者が増えているのに組合の構造や運営はどうも60年代のままではないか。パートタイム労働者で組合員になっているのはわずか全体の9%にすぎない」。IG Metallのクールマンもまた,若者たちを組織化することの困難とIG Metallがさらされている新たな政策課題(「92年のベルリン大会で大いに議論された」という)の中心的テーマのひとつとしてエコロジーや新たな労働組織の再設計といった問題があることに触れていた。「従業員代表組織だって,もっと若者たちと新しい時代のテーマに目を向けて変わっていかなければならない」と語っていたのが印象的であった。興味深いことであるが,これらと類似の状況と動きが同時期の日本でも生じていた。企業別組合による「ユニオン・アイデンティティ」再構築の取り組みがそれであった(注23)。
 こうした産業職業構造の変化と大衆の分解,「柔軟な企業」の生成と労働市場の細分化,新型の知的熟練労働者の出現といったことによって惹起された「伝統的」労働組合の困難は,さらに経営側の人的資源管理(HRM)の浸透によって一層拍車がかかった。QCサークルを含む経営主導の従業員参加プログラムも80年代に目立って増えた(注24)。70年代の「協調行動」や経済民主主義的な動きによって象徴された労働組合の「攻勢」は姿を潜め,それに代わって「新しい現実主義」が勢いを得た(cf., Jacobi et al. 1990:133, 149f.)。中核的労働者の企業内への「取り込み」,時短協議や「質的」な交渉案件の増加などと並行して,従前に比べて企業別労使関係の成熟が見られたのもこの80年代のことであった。
 このような変質の道筋はDGBの行動綱領の改定プロセスからも見て取れる。第2次大戦後の1949年に創設されたDGBは,これまでに3種類の行動綱領を作成してきた。最初のものは49年のミュンヘン綱領,2回目が63年の第1次デュッセルドルフ・プログラム,第3回目が81年の第2次デュッセルドルフ・プログラムである。このうち最初のものは基幹産業の国有化など社会主義的色調の濃いものであったが,第1次デュッセルドルフ・プログラムによってその反資本主義的な性格は払拭され,SPDのゴッデスバーグ宣言(1959)を受けてケインズ主義的なものに書き換えられた。まさに「大転換」であった。さらに第2次デュッセルドルフ・プログラムでは,その延長線上に立って完全雇用の達成を最優先課題としながらも経済成長や所得・資産の平等化といったスローガンは後退し,代わってエコロジーやポスト・フォーディズム的関心が強調されるようになった。SPDとの「伝統的」な協力関係も80年代に次第に弱まっていった。その理由のひとつとして「新しい社会運動」の台頭を挙げることができる。
 このようにこの文章の最初に掲げた2つの「統合」問題とは別に,すでに80年代のドイツ労働組合もまた一連の構造変化の大きな波にさらされていた。それを一般的にいえば,ニュー・テクロノジーの衝撃と経済関係の国際化,国際競争力の維持向上への関心の高まり,伝統的な労働者文化と社会主義イデオロギーの風化,「新しい社会運動」の台頭と価値意識をめぐるポスト・モダニズムへの傾斜,産業職業構造のサービス化と女性化,ケインズ的福祉国家の困難と個人主義化の浸透などと表現してよいだろう。それらは大なり小なり,大衆的で「伝統的」な組合運動に見直しを迫るものであった。

(注23) たとえば,稲上=川喜多編(1988)など参照。

(注24) cf.,Jacobi et al.1990:133,Table 5.2.

 『労働協約改革2000』

 必ずしも包括的な反応とはいえないが,IG Metallの「討論のための提言」文書であり,80年代にピークを迎えた時短闘争(週35時間労働制の確立)に代わって「90年代の新たな優先課題」を提起した『労働協約改革2000』(IG Metall 1991)を繙いてみると,こうした構造問題の一部に触れた次のような記述を見いだすことができる。第1に,いまや「労働と技術の激しい変化にさらされて…(中略)古い境界線は消え,新たな要求が生じている。これまでとは異なった労働者編成や労働者意識が将来に向けた協約政策の条件となっている。労働者と職員の区別はいよいよ時代遅れなものとなっており,彼らの意識は職業的資格,参加,自己表現(Gestaltung)といった事柄に向いている」(ibid.:7-8)。このように,これまでの時短闘争とは異なって改めて仕事の世界における「労働生活の質」向上に関心が注がれており,そうした文脈に沿って労働者意識の変質やハーモナイゼーションに言及している点が注目される。第2に,この引用のすぐ後に,さらに「それが著しい自己中心主義,激しい競争,連帯の欠如として現れることもある」という文章が続く。参加と自己表現,別な箇所の言い方によれば「個性と創造性」の個人主義が忌むべき赤裸々な自己中心主義と排他的な競争意識に結びつくこともあり得る,と書かれている点が見落とせない。スウェーデンのLOによる「90年代は利己的でない知的で自立した『個人の時代』でなければならない」という宣言,またTCOによる「将来の競争力にとってより決定的なのは個々人の知識でありまた参加である。その意味で従業員の能力開発と労働組織化能力の方法がいよいよ重要になるだろう」といった記述を彷彿とさせる(本書,第1章参照)。第3に「労働エコロジー」という言葉が登場し,それとともにいくどとなく女性労働者への特別の目配りが行われているのが印象的である。すでに触れたような構造的な地殻変動に対する部分的ではあるがひとつの回答として,この『労働協約改革2000』は注目に値する。

 産業別組合・IG Metall

 もっとも,変化の側面ばかりに気を取られて,労使関係のドイツ・モデルが崩壊したなどと不用意に憶断してはならない。実際,DGB傘下の産業別組合は「労働協約の一般的拘束力」にも支えられながら,いまもなお強大な影響力をもっている。91年12月現在でいえば,IG Metall(金属,362.4万人),OTV(公務・交通,213.8万人),IG Chemie(科学,87.7万人),IG Bau-Steine-Erden(建設,77.7万人),HBV(商業・金融保険,73.7万人),DPG(郵政,61.2万人)などがDGBの主要な産業別組合である(IG Metall 1992:17)。93年春の賃金パリティ交渉のいきさつも加わってであろう,「IG Chemieは穏健だが,IG Metallはイデオロギー的だ。アドルノの弟子たちの『68年世代』がリーダーシップをとっている」といった話を使用者側のインフォーマントからいくどか耳にした(注25)。しかしDGBの産業別組合間に基本的なイデオロギー的対立関係は見られない。そして基本的労働条件の決定という点では,最大の戦略産業といってよい自動車や電機,機械工業などを組織しているIG Metallと公務・交通産業の組合であるOTV,それにIG Chemieの影響力が強い。P.ロビンソンはそれらを「DGBの3つの中軸組合」と表現した(Robinson 1989b:38)。なかでもIG Metallのイニシアティブが民間セクターにおいて長く優位してきたといってよい。
 これら産業別組合の政策と執行部は通常3-4年に一度の大会で決定あるいは選出される。執行部の中核が組合規模に比して少数の専従役員によって占められ,そのためミヘルスの「寡頭制の鉄則」が働きやすいといった指摘がある。たとえば,ランク・アンド・ファイルの一般組合員からの要求を「中立化」(実質的な希釈化)することなしには政府や使用者団体との協調的な交渉協議は難しいといった理解もある(Jacobi et al. 1992:234)。
 いまIG Metall(前身は1891年創設のDMV,1949年に再建)についていえば,最高決議機関である大会は3年に1回の開催,執行委員会は会長1名,副会長1名,執行委員8名(以上が専従)のほか,19名の名誉委員(非専従)によって構成されている。その下に全国9つの地方本部と地本大会(毎年開催)があり,さらに支部組織が設けられている。この大産別組織であるIG Metallがカバーする産業分野は広い範囲にわたり,使用者団体のGesamtmetallに対応して鉄鋼,自動車,電機・電子,造船,機械金属,航空機製造など13産業が包括されている。IG Metallが締結する労働協約はその種類にもよるが(注26),基本的単位は次の2つの軸から構成されている。
 1つは鉄鋼業を除く金属産業全体,鉄鋼業,および手工業(Handwerk)の3つの産業区分であり,いま1つが合計21(ベルリンには旧西ベルリンと旧東ベルリンという2つの協約地域がおかれている)の地域区分である。このうち,鉄鋼業の地域区分は2つ(ノルトライン・ヴェストファーレンとザールランド),また手工業は金属手工業,自動車関連手工業,電機手工業,板金・配管手工業,金属組立(仕上げ・鋳造)手工業など数多くの産業小分類に地域割りがクロスするといった形をとっているため,21地域×3業種=61協定といったような簡単なものではないが,基本は3つの産業分類と21の地域分類から成り立っている。

(注25) 70年代中期以降のIG Chemieの「穏健化」については,cf.,Markovits 1986:313f.

(注26) 大別すると,ドイツには3種類の労働協約がある。第1は毎年締結される賃金協約(Lohnabkommen),第2はその賃金枠組み協約(Lohnrahmenabkommen),第3に包括的労働協約(Manteltarifvertrag)の3つである。このうち第2のタイプは賃金構造や支払い原則に関する協約であり,また第3のものは労働時間や休日休暇,雇用条件などに関する協約である。これらはすべて産業(地域)別のミニマム水準を定めたものであり,個別企業においてそれに自由に上乗せ(下回ってはならないが)することができる。

 使用者団体-Gesamtmetallのケース

 労使関係のドイツ・モデルとりわけその集権度について語るためには,使用者団体の強い結束力に触れなければならない。大別すると,ドイツには次の3つの類型の使用者団体がある。第1に強制的メンバーシップをもちかつ多くの準公的役割,たとえば取引慣行規制,職業訓練および職業資格認定を担っている商工会議所(DIHTが頂上団体),第2にドイツ工業連盟(BDI)をその頂上団体とする各種の産業別・地域別業種団体,第3に労働組合との交渉機能を担うGesamtmetallのような経営者団体の3つである。そしてこれら3種類の使用者団体は,労働組合でいえばDGBに対応するBDAに加盟している。ただし,このBDAに参加していないひとつの重要な例外がある。それがドイツ鉄鋼連盟である。IG Metallの労働協約締結の産業別単位が小零細の各種手工業とは別に,金属セクターと鉄鋼業に分かれているのもそのためである。
 これらのうち,文脈上重要なのが第3類型の経営者団体である。IG Metallの交渉相手であるGesamtmetallに注目するのが自然だろう。前身組織は1890年に創設されているが,いまのGesamtmetallは1949年に再建された。現在の会員企業数は13業種の8,300社,旧東ドイツを含む15の地域別組織をもつ。したがってIG Metallの労働協約単位よりもやや粗目の地域割りになっている。会員企業はすべてその地域組織に加盟する。この会員企業数に基づく当該産業の組織率は1985年で55%,その雇用者総数は訳300万人,金属産業労働者の75%にのぼると推計される。一般的にいえば,Gesamtmetallの会員でない企業は狭く小零細企業に限られる(Gesamtmetall 1992:8; Jacobi et al. 1992:237)。
 このGesamtmetallには9つの常設委員会があり,そのなかには団体交渉政策委員会,調整交渉審議会,企業内賃金問題委員会,職業訓練委員会,経済政策委員会などが設けられている。このうち調整交渉審議会は,「Gesamtemetallの最大の業務は賃金交渉における調整にある」という自己規定に基づいて年数前に正式に作られた。確かに,いまも団体交渉と労働協約の締結権(Tarifhohheit)は原則的にGesamtmetallの15地域組織が保持している。しかし「協調行動」の時代がそうであったように,これら地域組織がその交渉権と協約締結権をGesamtmetallに委譲することもある。そういう事態が生じる主たる契機は交渉相手であるIG Metallがより集権的な行動方針を掲げたような場合である。ふつうにはIG Metallも地域交渉を選んでいる。そのほうが組合にとって有利である(地域・業種格差の活用や争議資金の節約)と見なされているからである。こうした組合の戦術には対抗して工夫されたのが上記のGesamtmetallの調整交渉審議会にほかならない。80年代末のことであった。その審議会は15の地域組織のトップとGesamtmetall事務局スタッフによって構成され,賃金交渉に当たってはこの審議会で了解し得る「モデル協定」の締結がめざされる。いったんそれが労使間で合意されれば,他の地域でもできる限りそれを踏襲するという戦術である(Gesamtmetallでのインタビュー記録,およびGesamtmetall 1992:12)。
 重要な亀裂か-もうひとつの「日本化」のバネ
 このように,正確な国際比較こそ難しいが,他のヨーロッパ諸国に比べてドイツの使用者団体は相対的に強い団結力を誇ってきた(Robinson 1989b; EIRR, no. 221〔1992〕; Koch 1992; Jacobi et al. 1992)。しかし80年代以降,Gesamtmetallの調整交渉審議会の創設といった動きからも示唆されるように,ドイツの団体交渉制度と大企業労使主導の労働条件決定に対するスモール・ビジネスからの批判が強まっているように思われる。その意味で,使用者の連帯精神に重要な亀裂が走りはじめたのかもしれない。
 それを告げる最近の注目すべき出来事のひとつが北部ドイツ(旧西ドイツ)の中小零細企業主の団体ASU(Arbeitsgemeinschaft Selbststandiger Unternehmer)が公表した『責任ある賃金政策』(Januar 1992)という文書である。そこには,5つの提言が盛られたいた。第1に「企業別交渉」の充実(betriebsnahe Tarifpolitik)という考え方が打ち出された。産業別協定はせいぜい枠組み協定とし,企業・事業所レベルの交渉で具体的な詰めを行うべきだという内容である。それは先行事例にならって,「ヴェッツラーレ・モデル」(Wetzlarer Model)と呼ばれた。第2に,労働時間についても同じような意味で「柔軟な労働時間」の導入が重要であるとしている。第3に,中長期的には企業別協定(Betriebsvereinbarungen)の締結とそのための法改正を伴う従業員代表組織の機能拡充の必要を訴えている。第4に,現行の「従業員好意原則」(Gunstigkeitsprinzip),つまり従業員にとって好都合だと判断された場合に限って産業別・地域別協約を緩めることができるという原則の運用ルールに関して,その「好都合」か否かの判断を当該現場にゆだねるのが望ましいと提言している。第5に,使用者側の交渉政策の決定に当たっては使用者団体すべての構成員の機密投票によってその採否を決めるべきであると訴えている。同様の主張はドイツ卸売・外国商組合(BGA)によっても行われている。
 こうした小零細企業主の不満はこれまでにも少なくなかったが(注27),その直後の契機となったのが80年代の労働時間短縮交渉とその帰結であった。大企業はシフト制などの導入によって時短要求に応えることができた(89年現在で従業員規模1,000以上の工場の62%でシフト制が実施されている)。しかし中小企業の圧倒的部分ではその導入が困難である(たとえば,従業員規模20~49人の工場の94.2%が89年時点でも1シフト制になっている)。そのため,「時短はそのまま操業時間の短縮になってしまう」とい不満が高まった。こうしたスモール・ビジネスによる大企業労使の「交渉カルテル」に対する不満と批判は90年代に入ってからの「過剰な」賃上げによってさらに増幅された。「小零細企業では大企業に比べて労働集約性がより高いうえ,そのコスト上昇を取引価格に反映しようとしてもそれは大企業によって拒否された」といった経験を踏まえてのことであった。(Gesamtmetallの専務理事D.キルヒナーもまた,「91年の7%という賃上げは高すぎた。それがわれわれの組織〔Gesamtmetall〕内部に大きな緊張をもたらした」という点を認めていた。
 上記ASUの提案の趣旨は明瞭であって,要するにセクターや地域,企業規模やコスト構造といったことを無視した大企業労使による全国一律の「交渉カルテル」に対してそれを「現場」の実情に見合って柔軟化すべきだという主張である。こうした動きが見逃せないのは,第1に,今後さらにこうした批判が強まっていけば,それはひとり使用者団体の「伝統的」な連帯関係を弱めるだけでなく,労使関係のドイツ・モデル崩壊の引き金にもなりかねないように思われるからである。第2に,このASUの主張を文字どおりに理解すれば,それはすでに言及しておいたストリークによる「ドイツ労使関係の漸進的な『日本化』という挑発的なシナリオとよく共鳴する。そして第3に,したがって肝心なことは,この「日本化」というひとつの将来展望が一方では大企業の「経営エゴイズム」の成熟を通じて,他方では小零細企業による大企業労使の「交渉カルテル」批判という形をとって互いに増幅しながらその勢いを増していくかもしれないという点である。こからは,労使関係のドイツ・モデルが大企業(多国籍企業を含む巨大企業といったほうが適切だろう)と小零細企業の両端から揺さぶりをかけられて融解していく,というひとつの変革の透視図が浮かび上がる。

 苦労する企業家精神

 ここでごく簡潔にでも,そのスモール・ビジネスの困難について補足しておこう。先にマクロ政治経済モデルのひとつの要素として旺盛な企業家精神と手工業の伝統継承という点に触れておいたが,92年後半以降の不況によって,たとえばこれまでドイツの経済的に最も恵まれてきたバーデン・ヴュルテンベルグの中小企業が大きな苦境に立たされている。これまでシュトゥットガルトを本拠地とするダイムラー・ベンツやポルシェの背後には「頑固一徹」(Tuftler)と呼ばれる企業家精神に長けた数多くの「冒険者」たちが群居してきた。彼らこそ旧ヴュルテンベルグ・スヴァビアの「中産階級」(Mittelstand)を代表する人々であり,ダイムラー・ベンツやポルシェ,ボッシュといった国際的に著名な大企業そのものがこれら「技術的に優れた冒険者」たち(C. Dornier, G. Daimler, C. Benz, F. PorscheそしてR. Boschなど)によって生み出されたものであった。シュトゥットガルトとその周辺にはいまも多くの部品供給業者や小さな工作機械メーカーが群集している。
 しかし大型不況のあおりを受けて,ダイムラー・ベンツをはじめ地元大企業は外国への直接投資を増やし,ドイツ国内の大幅な人員削減に乗り出した。それもあってこれら群小のアントレプレヌアはいま大きな構造的圧力にさらされている。Price Waterhouse社は,「ドイツ自動車産業関連の部品供給業者3,000社のうち,生き残れるのは500社ぐらいだろう」と予測している。また,シュトゥットガルト近辺の工作機械メーカーに対する注文は「3年前に比べて7割もダウンしている」。その理由は,「旧ソヴィエトや東ヨーロッパ各国からの受注が激減しているところに加えて,いまの大きな世界同時不況,さらにドイツ・マルク高によって追い討ちされている」ためであるらしい(Financial Times, 25 October 1993; Cooke et al. 1993,さらにGesamtmetall,IDWでのインタビュー記録)。
 Gesamtmetallの見解
 ところで,上記のようなASUの批判と提言に対して,いったい労使団体はそれそれどのような対応をしているのか。まず,GesamtmetallのH-J.ゴッツスコール会長は『ハンデルスブラット』紙のインタビューに答えて,「地域や産業,工場規模などによって異なった団体交渉を行うといった考えはまったくない。(中略)ただし,もう少し「自由な」協約〔Gesamtmetallもまた「オープン協約」という表現に反対しているので言い方が違っている〕が必要ではないかという点について理解はしている」(Handelsblatt 6-7, Dezember 1991)と語った。基本的には「ノー!」という態度である。われわれが会ったGesamtmetallの国際部次長のエコノミスト,V.フォン・ヴァンゲンハイム氏も,「ASUの提言はひとつのアイデアだが,いいもんじゃないね。われわれGesamtmetallとしては,とにかく産業あるいはセクター別のミニマム賃金の決定という考え方である」と言い切った。しかしこの点と併せて,ゴッツスコールが「大企業のほうにも賃上げが高すぎるといった不満がある。それもあって,たとえばドイツIBMといった有力な多国籍企業がGesamtmetallから脱退しようとしている」と述べていたのが見落とせない。上記の透視図に親和的なひとつの素材がここに顔をのぞかせているからである。

(注27) cf.,EIRR,no.221(June 1992):12f.

 IG Metallの姿勢-馴染みの論点

 では,労働組合の反応はどうか。ASUが提唱した「企業別交渉」という構想は労働組合にとって馴染みの深い論点であった。というのも,60年代から70年代の初めにかけて,ひとつにはIG Metall執行部のなかでこの企業別交渉をめぐって意見の対立と抗争があり,また60年代末には折からの「協調行動」に反対する鉄鋼労働者などによって交渉分権化の主張が行われ,大きな論争を巻き起こしたことがあったからである。
 60年代初め,IG Metallの事務局長であったF.サルム(Frinz Salm)は目覚ましい経済発展のなかで広く普及している賃金ドリフトを「オープン条項」(企業レベルの交渉でその内容が決められるものであり,争議手段に訴えることができる)という形で協約のなかに取り込むこと(注28)が望ましいという意味で,またこうした分権化によってローカルな組合運動が活性化されるだろうという意味で企業別交渉(betriebsnahe Tarifpolitik)の必要を訴えていた。しかしその構想は具体化されず,彼は63年にその職を去った。そして65年には,この論争に決着をつけるように「オープン条項」の締結のために組合はストライキ行動に訴えることはしないという内容の執行委員会決定が下された。それは,「企業別交渉を否定するにも等しい」決断であった(Thelen 1991:90)。
 その決定にもかかわらず,しかし今度は職場の一般組合員から企業別交渉を求める声が急速な盛り上がりを見せた。69年の自然発生的なストライキがひとつの契機となった。一方には協調行動に沿った穏健な賃上げを志向するIG Metall執行部に対する職場一般組合員の反発があり,他方では使用者側が労働協約更新に関するネガティブな態度を崩さなかったために両者が相乗し合い,ついに69年9月2日にドルトムントの鉄鋼労働者の間から自然発生的なストライキが始まった。その波紋は瞬く間に広がり,最終的には9万8,000人の金属産業労働者が職場を放棄するまでに大規模化した。それでも平和条項に拘束されていたIG Metall執行部はそのストライキに対して公然と支持表明をすることはできなかった。その結果,69年の組合大会では職場組合代表や従業員代表組織のリーダーたちの間からこうした執行部の態度に対する激しい批判が浴びせられ,併せて「あまりに集権的で秘密主義的でさえある」団体交渉制度の改革を迫る声も高まった。時あたかも,大学紛争とニューレフト運動の最盛期であったことが思い起こされる。71年の大会でもこの企業別交渉というテーマが大きく取り上げられた。ケルンのフォード工場からの代議員は,「もう15年間もIG Metallの大会は企業別交渉を追求するという決議を採択してきた。しかし,なぜその決議は一度も実行されないのか!」と強い不満を表明した(Thelen 1991:92)。それでも結局,企業別交渉を制度化しようとするすべて提案のはこの71年大会でも否決された。組合執行部の見解はこの点では揺るぎないものであった。このように,ランク・アンド・ファイルの一般組合員あるいは従業員の発言力を高めようとする新たな「民主化」のうねりは,すでに触れた経営組織法の改正(1972)や共同決定法(1976)によって「大きな成果」を上げたが,IG Metallの交渉権限の分権化という側面では見るべきものはなかった。
 こうした経験も踏まえてであろう,上記のスモール・ビジネス団体ASUからの企業別交渉の制度化という提案に対してIG Metallもまた否定的な姿勢を崩していない。「各企業で労組が個別に賃金交渉を行うことになれば産業別の全体としての統一が崩れてしまう」からである(DGB経済社会研究所でのインタビュー記録)。
 しかしなお,この「否定的な姿勢」は企業レベルにおける協議交渉の比重が実質上高まっていくことまで否定しているようには思えない。というのも,先の『労働協約改革2000』を注意深く読んでみると,たとえば「新しい技術と労働観念の普及は企業によって大いに異なっている」とか,「〔新しい〕具体的な協約案の作成にあたってはそれぞれの地域的条件を考慮しなければならない。いわゆる『先行妥結』(Pilotabschlusse)を丸ごと引き写すようなことはほとんど不可能であろう」(IG Metall 1991:13, 62)などと記しており,企業・職場や地域別の差異に注意を促し,そのうえで企業内の従業員代表組織(Betriebsrat)や労使対等委員会(paritatische Kommission)の大幅な権限拡大,ひいては「当該労働者の介入と自由裁量」あるいは「意義申し立て権」の承認まで主張しているからである。それが「経営エゴイズム」増幅の手段にはならないまでも,しかしその実行を通じて事実上企業や職場レベルにおける協議交渉の比重を高める可能性は少なくないように思われる。

(注28) この「オープン協約」があれば,経営組織法とは独立に企業内でもその組合代表が賃金交渉を行うことが(したがってまた争議に訴えることも)できる。Thelen 1991:90.

 小 括

 簡単にと断りながらつい深入りしてしまったが,ドイツ再統一後の合意政治と賃金決定について検討するためには,80年代の旧西ドイツの労働組合と使用者団体に一瞥を与えておく必要があった。
 第1に,いまもなおドイツには圧倒的な組織力と交渉力をもつDGBのほかに,DAG,DBBそしてCGDといったナショナルセンターがある。このうちDGBは,職業やクラフトではなく産業をその組織化単位とする16の産業別組合によって構成されている。そのなかには公共部門の組合のみならず,大産別組織としていくつかの産業にまたがる,たとえばIG Metallのような組合に含まれる。しかしこれらDGB以外の組合は,職業別あるいはセクター別さらにはイデオロギー的な差異にこだわっている。その限りで,ドイツ労働組合の組織原理がすべて産業別になっているというわけではない。DGBの加盟組合間の吸収合併だけでなく(たとえば89年に印刷業労組がIG Mediaと合併し,DGB加盟産別数は17から16になった),DGB傘下のHBVとDBBというナショナルセンターの合併についても取り沙汰されている。
 ちなみに,ここでもっと時間の地平を長くとってナチス台頭以前の状況まで視野に収めていうのであれば,ドイツ労働組合の組織化原理は職業あるいはクラフト別から産業別へというように,第2次大戦後その比重を移してきた点が注目される。組織労働者の利益代表ルール,言い換えれば労働組合の組織形態という意味でいうと,本書で取り上げたなかには一方にスウェーデンのような職業別組織があり,他方には日本や韓国のような企業別組織がある。そして両者の中間にドイツやオーストリアのような産業別組織があるという示唆的な構図が浮かび上がる。労働者の集合的な利害関心がどのように束ねられるか,どこに利益共有(対立)の分水嶺を設けるかという点で,この組織形態の基本モデルについての理解は意義深いものであるに違いない。
 第2に,80年代といわず広く第2次大戦後をとってみても,16あるいは17の産業別組合による緩やかな連合体としてのDGBという基本的性格に大きな変化はなかった。
 しかし80年代を通じて,製造業からサービス業へ,マニュアル・ワーカーからプロフェッショナルを含むホワイトカラーへと産業職業構造の比重が変わり,それと並行して女性やパートタイム労働者が増え,さらにマイクロエレクトロニクス技術や情報化の進展に伴って新型の知的熟練労働者の必要が高まり,熾烈な国際競争に直面した企業は「人的資源管理」(HRM)の手法や日本的生産システムの導入にも乗り出した。J.アトキンソン風の「柔軟な企業」モデルあるいは「労働市場の柔軟化」(機能的柔軟性,数量的柔軟性,金銭的柔軟性そして距離化の戦略という4要素から構成される)といった方向に沿った経営戦略の煮詰まりは,そのままで『労働協約改革2000』の支持するところとはならない。しかし両者の間には一見するよりもはるかに多くの共通項が含まれている。その項目には,たとえば新たな労働組織の再設計,技術変化に伴う新たな職業訓練や職務の格づけ,チーム・ワーキング,QCサークルといった参加活動,パートタイム雇用や女性労働者への多面的な支援,時短とフレックスタイムの導入といったいわば職場の「質的」な問題を数多く含まれている。総じて組織労働者の類型は多様化し,そのニーズは異質化したということであって,それらを中央集権的な団体交渉のみによって充足することなど到底考えられない。要するに,組織労働者類型の多様化とニーズの異質化,それをひとつの契機とした企業内協議交渉の比重増大(その限りでの労使関係の分権化)という2つの基本的趨勢に注目する必要があるだろう。したがって,こうして80年代にクローズアップされた動きはウェップ的「共通規則」と集権的な方法による平等化志向の「伝統的」な組合運動とは異質なものであり,むしろそれに挑戦状を突きつけるものであった。そしてこうした労働組合の困難は82年以降の社会民主党の野党化,80年代の大量失業の発生など経済環境の悪化によってさらに追い討ちされることになった。
 第3に,こういった変化が示唆しているのは,すでに触れたもののほか,「伝統的」な労働者文化と社会主義イデオロギーの風化,フェミニズムやエコロジー運動などによって代表される「新しい社会運動」と価値意識をめぐるポスト・モダニズム(注29)の台頭,さらにケインズ主義的な福祉国家への抑制と個人主義化といった諸項目であるように思われる。いずれもが「伝統的」労働組合にとって馴染みの薄い,あるいは対立的な内容である。「伝統への挑戦」と記したのはそのためであった。
 第4に,構造的な問題に直面していたのはひとり労働組合だけではなかった。使用者団体もまた,少なくとも2つの側面で厄介な問題を抱えていた。いまIG Metallとともにドイツ労使関係の最も基本的な担い手となってきたGesamtmetallについていえば,一方ではスモール・ビジネスから,他方ではドイツIBMのような多国籍企業を含む巨大企業からの「構造的」といってよい揺さぶりにさらされていたからである。その限りで,ドイツ使用者団体の「鉄の団結」に小さなしかし重要な亀裂が走ったといってよい。
 このうち前者については,ASUから「企業別交渉」の充実という構想が提出された。産業別交渉はせいぜい「枠組み協定」とするにとどめ,できるだけ企業レベルでの協議交渉に自由裁量を与えるべきだというのがその基本的な趣旨であった。84年の時短協約やその後の「中小企業の実情を無視した」賃上げはスモール・ビジネスの世界から見れば,大企業労使による「交渉カルテル」と映じた。こうしうた動きもあって,Gesamtmetallは80年代末にその内部に「最大業務である賃金調整のため」に調整交渉審議会を新設しなければならなかった。また,後者には2つの内容が含まれていた。その1つは前節で言及した大企業労使による「経営エゴイズム」(企業内労使関係の充実)であり,もう1つがドイツIBMがGesamtmetallから脱退するといった形で(注30)表面化する可能性がある使用者団体の強い調整能力の後退である。もし後者の経営エゴイズムの台頭をG.ストリークにならって「ドイツ労使関係の漸進的な『日本化』というのであれば,前者のスモール・ビジネスからの「分権化」要求は,企業規模や地域格差によるヒエラルキー的秩序(労働市場の細分化と労働条件のスペクトラム構造)を帰結するだろうという意味で「もうひとつの『日本化』」と表現して差し支えないだろう。この「日本化」といったジャーゴンはともかくも,先に労使関係のドイツ・モデルが多国籍企業を含む巨大企業と小零細企業の両端かは揺さぶりかけられていると書いたゆえんである。
 いまのところ,Gesamtmetallは(またIG Metallも)労使関係の「日本化」について否定的な考え方を表明しているが,もしこれら2つの「日本化」の流れが今後さらに大きな勢いを得るならば,それは労使関係のドイツ・モデルの基本的な変容を誘発することになりかねない。
 第5に,マクロ政治経済モデルとしてのドイツ・モデルに関連していえば,とりわけ90年代になって企業家精神に長けた「中産階級」のアントレプレヌアたちが,旧ソヴィエトや東欧世界からの注文の激減,マルク高,大企業の国際立地戦略の展開(外国直接投資の増加と国内雇用の削減),世界同時不況などのあおりを受けていま大きな苦境に立たされている。
 以上要するに,IG MetallとGesamtmetallをその中心的な担い手とする労使関係のドイツ・モデルは80年代においてもなお基本的に健在であり,法制度上も重要な変更(注31)が加えられることはなかった。協調的あるいは共同決定的な労使関係という点ばかりでなく,集権的な労使関係という側面でもその性格に重大な変化は見られなかった。
 しかしこの基本的な持続の側面と併せて,その「伝統への挑戦」が労使いずれの団体に対してもその内部から行われたという大切な点を見過してはならない。そこに露見しているのは,上記の例示からも容易に知られるように,避けて通ることのできない構造的な問題であるように思われるからである。

(注29) 「ポスト・モダニズム」というジャーゴンについては,たとえばN.K. Denzin, Images of Postmodern Society, London:Sage,1991,S. Best and D. Keller, Postmodern Theory: Critical Interrogations, London: MacMillan, 1991., S. Crook, J. Pakulski and M. Waters, Postmodernization, London: Sage, 1992など有益である。

(注30) ASUは提言に対する反応次第では脱会戦術もいとわないとしている。cf., EIRR, no. 221(June 1992):14.

(注31) 1988年の管理職代表委員会法(Sprecherausschuβgesetz)によって管理職にも「経営参加」に関する一定の権限が新たに付与された。

2.2 賃金決定メカニズム

 さて,賃金決定メカニズムの理解がこの文章の関心事に照らして格好の橋頭堡となる点についてはすでに記しておいた。
 90年代のドイツにおける賃金決定とりわけ東西ドイツの賃金パリティ交渉をめぐる紛争とその処理については後に譲り,これまでのドイツ(旧西ドイツ)における賃金決定機構の特徴について検討してみよう。

 基礎的な検討項目

 第1に,労使の利益代表行動の「包括性」を理解するうえで欠かせないのが,いったい賃上げ要求づくりとその準拠枠がいかなるものかという点である。この項目には,労働組合による賃上げ要求づくりの尺度が何であるか,その賃上げ基準づくりに「第3者機関」がいかなる役目を担い,実際どれほどの影響力をもっているか,さらにその点を含めて情報共有と社会的合意形成がどれほど達成されているかなどについて問う必要がある。第2に,賃上げパターン・セッターとそのリーダーシップについて問わなければならない。その場合,第1点と同様に,たとえば「EFOモデル」がひとつの分析の準拠枠とされてよいだろう。第3に,企業レベルにおける実質的な賃金決定がいかなる比重をもっているのかについても考えてみる必要がある。それによって労使関係の実態的な集権度,言い換えればドイツにおける労使関係の二重構造の実際ひいては経営エゴイズムの浸透ぶりを浮き彫りにすることができるだろう。

 5賢人委員会+6大経済研究所-代表的な準公的制度

 D.ソスキスもいうように,あの「協調行動」の時代(1967-77)が終わっても-その理由は賃金交渉とは無関係のものであった(注32)-,ドイツの賃金決定は国民経済的な広がりをもった高い水準の調整行動を実現してきた(Soskice 1990a:44)。その調整行動を理解するためのひとつの手掛かりは,たとえばドイツの賃金交渉が実質的には「きわめて多くのインフォーマルな討論から始まる」という事実に求めることができる(G.フェルス教授とのインタビュー記録)。それに関連して2種類の機関が注目される。1つは6大経済研究所(以下,6大研と呼ぶ),もう1つが5賢人委員会である。そのいずれもがP.カッツェンシュタインのいう「準公的制度」といってよい。このうち,6大研は賃金交渉に先立って景気動向と経済政策に関する共同の経済報告書も発表し(正確には春と秋の年2回),さらに5賢人委員会はその共同報告を踏まえながら毎年11月15日に経済状況と経済見通しに関する包括的な『経済鑑定書』(Jahresgutachten)を公表することになっている。しかも,そのなかで賃上げ水準に関する社会的勧告を行うことが慣例化している。これらの共同報告や鑑定をその重要な準拠枠としながら,DGBおよびBDAといった労使頂上団体や各産業の労使団体は,時に政府やドイツ連邦銀行まで巻き込みながら-というのは,たとえば政府についていえば『経済鑑定書』に関しては法律に基づいて,また共同報告に対しては慣例として政府として所信まるいはコメントを公表することになっている-,労使を中心にして「きわめて多くのインフォーマルな討論」が行われている。その討論の輪はこうした社会的な広がりをもっているが,しかしあくまでIG MetallおよびGesamtmetallの内部,さらに両者間の討論が中心でありかつ主導的でもある(Soskice ibid.)。彼らがドイツにおける賃金交渉のパターン・セッターとしての役割を担ってきたからである。
 ところで,これら2種類の機関について多少の説明が要るだろう。まずドイツ連邦経済省についていえば,政府の要請に応じて勧告や答申等を提出する審議会や諮問委員会といったものは基本的に存在していない(注33)。その点はオーストリアや日本とは異なる。しかし皆無かというとそうではない。そのひとつが経済鑑定人委員会(Sachverstandigenrat zur Begutachtung der gesamtwirtschaftlichen Entwicklung),いわゆる5賢人委員会(Funfweisenrat)と呼ばれるものである。根拠法は63年の経済鑑定人委員会設置法と67年の経済安定成長促進法の2つであり,64年に創設された。設置法(第1条2項)によれば,5賢人委員会は「経済学上の特別な学識と経験を有する5人の学者によって構成される」ことになっている。現在の5賢人は,H.ハックス委員長(ケルン大学教授)のほか,R.ペッフェコーフェン(マインツ大学教授),R.ポール(ハーゲン通信大学教授),J.ドンゲス(ケルン大学教授),H.ジーベルト(キール大学教授)の5名である。その任命は連邦政府の指名に基づいて大統領が行い,その任期は5年となっている。なお,この5賢人委員会には8人の研究者と10人の事務官からなるスタッフ組織が置かれている。この委員会は上記のように毎年11月中旬いに連邦政府に『経済鑑定書』を提出し,その内容は社会的にも広く公表されている。政府はこれに対して「8週間以内に」,具体的には翌年1月に発表される連邦経済省の『年次経済報告』のなかでこの『鑑定書』に対する政府としての所信を明らかにしなければならない。そのほか,5賢人委員会は-その目的は市場経済という枠組みのなかで持続的かつ適度な経済成長を維持しつつ,物価の安定,高い雇用水準,対外経済上の均衡をいかにして達成するかに関する調査研究とその結果の報告にあり(設置法,第2条),したがって,市場経済下での「魔法の三角形」の達成がその狙い-,その独自の判断に基づいてあるいは政府からの要請によって特別の経済報告を提出することもできる。委員会は必要に応じて所管大臣や連邦銀行総裁の意見を聴することができるし,特に経済大臣は委員会からの質問に回答しなければならない(同法,第5条)。
 もうひとつの6大経済研究所とは,キール大学国際経済研究所(キール),HWWA経済研究所(ハンブルク),IFO経済研究所(ミュンヘン),DIWドイツ経済研究所(ベルリン),RWI経済研究所(エッセン)の5つに,93年から新たに旧東ドイツのハレ経済研究所(ハレ)が加わった。それぞれにその所在する各州政府および連邦経済省からの財政的支援が行われており,経済省はこれら経済研究書に対して調査研究等を依頼することができる。そのため,92年度ではそれぞれ4,130万マルク,1,500万マルクの予算を計上している。すでに触れたように,これら6大研は春秋の2回にわたって「共同経済報告」(秋は10月)を作成しているが,それとは別にそれぞれの研究所がこの共同報告に2-3カ月ほど先立って独自の経済分析や経済見通しを公表している。この共同報告に加えて,いまの6大研には旧東ドイツ経済動向と民営化過程に関する定期報告,旧ソビエト・東欧諸国経済と経済改革の現状に関する定期報告などが委嘱されている。5賢人委員会とは異なって,これら6大研の運営や人事に政府がかかわることはない。
 2つの機関のプロフィールについては以上で十分であろうが,文脈上大切な点は,これら6大研による経済分析と経済見通しがそれぞれ毎年6-7月から公にされはじめ,10月には共同経済報告が提出され,さらにそれらを踏まえて5賢人委員会による『経済鑑定書』が作成され,しかもそのなかで来るべき賃金ラウンドに関する「勧告」まで行われるという慣行が定着していることである。たとえば『経済鑑定書1992-93』を開いてみると,第1編「経済情勢」,第2編「1993年経済成長見通し」,第3編「1993年経済政策」,第4編「マーストリヒト後のヨーロッパ経済政策」という4編構成となっており,その第3編の第2部3章で賃金政策に言及している。93年に関する景気後退と失業者増加という見通しの下で93年の平均賃上げ率は4%程度と見込まれるが,政府の公共支出削減,連邦銀行の金利引き下げと併せて,雇用に十分配慮した賃上げの抑制が望ましい旨勧告されている(Jahresgutachten, 1992/93, S.42)。先のフェルス教授によれば,この賃上げ水準についての5賢人委員会の勧告は,「インフレを避けるとか雇用維持といった配慮からいつでも低めの勧告を行ってきた。たとえば3%程度の数字を〔勧告として〕出しても実際には5%ぐらいで落ち着くだろうといった見通しをもっていた。企業レベルでの賃金ドリフトを考えねばならなかった」からである。
 もうひとつ,93-94年版の『経済鑑定書』は,たとえば次のように記している-94年の西ドイツ経済はゼロ成長,失業者数は現状よりもさらに50万人追加されて400万人にのぼり,工業投資も停滞するだろう。94年1月からの石油税導入と社会保険・年金保険料の引き上げはさらなる景気後退に結びつく可能性がある。政府がとるべき政策としては,公共支出の持続的抑制と97年からの法人税の引き下げを含む税制改革がそのひとつである。労働組合の時短による失業救済という政策提案は実効性に乏しい。賃金抑制は今後も重要な政策的目標であるとも書かれている。記者会見の席上,ハックス委員長はさらに現行の産業別賃金決定機構に触れ,「個別企業での解決に道を開くべきだ」と語った(Financial Times, 15-16 November 1993)。
 いずれにしても文脈上肝心なことは,ソスキスもフェルスもまたコックもそう書いているように,ドイツの賃金交渉のいわば「第1ステップ」(Koch 1992, iii)がこうした準公的機関による賃上げ環境に関する情勢分析(「穏健な賃上げ」示唆的な内容が多い)に始まり,それを重要な準拠枠としてインフォーマル・フォーラムが数多く構築され,その結果かなりの広さと深さで当事者間の情報共有が図られていくという慣行が出来上がっていることである。ドイツにおける賃金決定メカニズムの最も基本的な特徴のひとつがここにある。

(注32) cf., Soskice 1990a:44;Jacobi et al. 1992:239.

(注33) それでも5賢人委員会と6大研のほか,恋慕鵜経済大臣学術委員会(Wissenschaftlicher Beirat beim Bundesminister fur Wirtschaft)まで含めると3つの準公的機関がある。この点の確認については草野隆彦氏をわずらわした。

 連邦銀行の役割-反インフレと「安定政策」の権威

 これら5賢人委員会や6大研とは同列に論じられないが,賃金交渉の行方にいまも大きな影響力をもっているのがドイツ連邦銀行(Bundesbank)である。一挙に協調行動の時代にさかのぼることになるが,66年の戦後最初の本格的不況に直面した当時,政労使3者に連邦銀行を加えた4者は賃上げガイドラインの導入に踏み切った(注34)。この「協調行動」と呼ばれる政策の真髄に触れて社民党のK.シラー蔵相(Karl Schiller)は,「協調行動の目的は特定の財・サービス価格や賃金について協議することではない。そうではなくて当事者間の相互理解の促進,とりわけ個別の利益集団と経済的必要の「充足の〕間には一定の限界があるという認識と理解を共有するところにある」(Koch 1992:18)と語った。まさに社会的合意形成あるいは合意政治の構築がその目標とされた。そしてその精神は協調行動の時代後にも長く引き継がれることになった。
 ところで,連邦銀行は1957年の創設以来一貫して反インフレ政策を高々と掲げてきた。フィナンシャル・タイムズ紙のD.マーシュによれば,「戦後の6人の連邦銀行総裁-すなわちW.Vocke, K.Blessing, K.Klasen, O.Emminger, K.O.PohlそしてH.Schlesingerはいずれ劣らぬ個性的な人物たちである。(中略)しかし連邦銀行はこれらの人物をその制度的権力の下におくだけ十分に強力であった。制度が彼らを鋳型にはめた」(Marsh 1992:44)。その「伝統的」な鋳型が反インフレ政策にほかならない。連邦銀行の創設に当たって,当時のアデナウアー首相は「通貨の安定的保全は市場経済を維持していくための第一義的な条件である」と宣言し,エアハルト蔵相は「通貨の安定は『基本的人権』の一部を構成する」とまで言い放った。また先のK.シラー蔵相は後に「通貨の安定がすべてではないが,その安定なしにはすべてが台なしになる」と断言した(Marsh 1992:33)。
 「帝王のごとき」(フェルス教授のことば)連邦銀行に担われたこのドイツ・マルク「安定政策」(Stabilitatspolitik)の伝統はいまもなお健在である。93年10月1日,コール首相をはじめ主要各国の中央銀行総裁,ドイツ財界人など750人を一堂に会してフランクフルトのパルム・ハウスで行われたドイツ連邦銀行新総裁の就任講演のなかでH.ティトメイヤーはこう訴えかけた-いまも「連邦銀行の中心的で最も重要な仕事はドイツ・マルクの安定性を維持することにある。これは法律上の要請であるだけでなく,わたくしの個人的信念でもある。その金利政策がもつ国際的インプリケーションについての配慮を欠いてはならないが,かといっていま連邦銀行がヨーロッパ中央銀行として行動しなければならないということではない。これは決して利己的なエゴイズムではない。むしろ,その逆である。将来ともヨーロッパは安定したドイツ通貨を,そして政府的にも経済的にも安定したドイツを必要とするだろう」(Financial Times, 2-3 October 1993)。また前総裁のシュレジンガーはその退任講演において,「ドイツ・マルクの安定政策はドイツ的な強迫観念といったものではない。それは政治的・社会的な安定,個人の自由と社会的正義の保障装置であり,東西ドイツのこのうえなき懸け橋となるものである」と語った。ここには,ヨーロッパ連合の生成とドイツ連邦銀行の新たな役割といった論争的なテーマが見え隠れしているが,それによって「安定政策」の伝統は微動だにしていない。
 実際,戦後ドイツの経済的安定が合意形成的な賃上げ交渉とともに政府から「独立した」(注35)連邦銀行によるインフレ抑制的な金融・為替政策に負うところいかに少なくないか,といった発言をわれわれは訪独中にいくどとなく耳にした。連邦銀行は,事実いつでも「穏健な賃上げ」に強い期待を表明してきた。いまでは2週間に1回の頻度で開かれている連邦銀行理事会(16人構成:4人の大学教授,3人の州政府大蔵大臣経験者などを含む)はその都度,当面の金利政策の妥当性について協議し,もし賃金コスト・プッシュ・インフレの懸念があるといったことになれば,直ちに連邦銀行は「過剰な」賃上げ要求を掲げる労働組合に対してその旨警告を発する。たとえば93年1月末,連邦銀行のシュレジンガー総裁は「過剰な賃上げが公定歩合の引き下げ〔という国際的要請に応えること〕の妨げになっている」と強い調子で労組を牽制した(Finacial Times, 27 January 1993)。連邦銀行はいざとなればいつでもインフレおよび国際競争力の後退を抑制するための高金利政策という「伝家の宝刀」に訴えることができる(DGB経済社会研究所のR.ビスピンク-ヘルミッヒとのインタビュー記録,さらにcf., Koch 1992:18f.参照)。
 以上要するに,第1に,6大研と5賢人委員会および連邦銀行といった政府から「独立」した準公的あるいは公的機関がそれぞれの仕方でドイツの賃金決定について重要な影響力を行使している。第2に,その内容はまず来るべき賃上げをめぐる経済環境に関する正確な事実認識を提供しつつ討論のフォーラムを形成し,その結果を広く社会的に共有していくことにある。第3に,それと併せて5賢人委員会はフォーマルな仕方で,また連邦銀行は適宣あるべき賃金水準あるいは賃上げについてその見解を明らかにし,大方控えめで穏健な賃上げを勧告あるいは要請している。第4に,その際に5賢人委員会とりわけ連邦銀行の伝統的関心はインフレ抑制さらにドイツ製造業の国際競争力維持という点に向けられている。

(注34) 当時の賃上げガイドラインと実勢との関係については,cf., Thelen 1991:86f.

(注35) 連邦銀行の政府からの「独立性」の最近の事例として,たとえば88年の欧州通貨連合(EMU)構想に対する異論,91年のK.O.ペール総裁の辞任劇,92-93年にかけて問題化したERMにかかわる連邦銀行の「伝統的」な高金利政策などを挙げることができる。cf., Financial Times, 1 October 1993.

 労働組合の賃上げ要求-その準拠枠

 こうしたいわば前哨戦があって,本格的な賃金交渉が始まる。使用者団体は5賢人委員会からの勧告が「大方穏当」であることもあって,それを受け入れるかどうか労使関係配慮も含めて生じ得る効果についてよく勘案し決めることが少なくない(cf., Koch 1992:17)。しかしDGBはスタッフの充実した経済社会研究所を擁し,経済社会環境に関する独自の調査研究を行っている。したがって,労働組合は上記の各種経済報告や勧告,要請といったものを無視することはしないが,かといって鵜呑みにするわけでもない。
 いったい,どのような基準に従って労働組合は賃上げ要求づくりを行っているのか。この点,たとえばソスキスは,パターン・セッター役を演じてきたIG Metallに注目しながら次のように分析している-自動車や鉄鋼を含むドイツ金属産業における名目賃金の上昇がその国際競争力を傷つけることがないかどうかという点にIG Metallは強い関心を寄せている。特に3つの要素に対する賃金上昇の影響が重視されている。第1にドイツ金属産業のマルク建て単位労働コスト,第2にマルク建ての非労働コスト,第3に名目的な通貨交換率への影響である。そのため,Gesamtmetallなど使用者団体との間で世界の金属産業の製品価格とドイツからの輸出動向について,また成長見通しや生産性上昇率に関して突っ込んだ意見・情報交換を行っている。「通貨交換率が不変であり,かつ名目的な非単位労働コストの上昇率が決まるとすれば,許容しうる名目上の賃上げ率はどれほどのものか」というようにIG Metallの関心の所在を定式化することができる(Soskice 1990a:45)。
 こうした労働組合の賃上げ要求に関する基本姿勢,すなわち国際競争力の維持と許容し得る賃上げ水準の探求という基本的な態度といったものもまた,ドイツにおける賃金決定メカニズムを特色づける最も大切な要素のひとつである。
 しかし,通貨交換率は不変という想定は馴染まない。実際,連邦銀行はもしインフレ率が高まれば通貨交換率を引き上げる。つまりマルク高政策に訴えるだろうという見通しを労使双方は共有している。すでに触れたように,インフレ抑制による国際競争力の維持という連邦銀行の伝統的関心に揺らぎはない。したがってこの連邦銀行の行動様式を踏まえていえば,ドイツ金属産業がその国際競争力を失うことなく賃上げを行うためには,詰まるところインフレ率プラス労働生産性上昇率といった水準から大きくかけ離れてはならないということになる。これがひとつ。もうひとつの大切な点は,こうした金属産業における賃金決定のもつ波及力あるいは影響力の大きさについてである。これは一方では賃上げパターン・セッターをめぐる事柄であり,他方では企業内での「第2ラウンド」の問題であるといってよい。というのも,仮に金属産業が上記のようなEFOモデル準拠的ともいえる賃上げ行動様式に収まったとしても,ドイツ全体の賃上げ相場形成力において金属産業が劣り,あるいは/さらに企業内交渉によって大幅な2次的賃上げが行われるとすれば,いま記した図式によるインフレ率の抑制,国際競争力(対外経済均衡)の確保,雇用維持の同時的(「魔法の三角形」の)達成という意味での「理性的」な賃上げ行動という想定は大きく崩れてしまうからである。
 これら2つの問い,つまりパターン・セッターと企業内での「第2ラウンド」については後述することにして,労働組合の具体的な行動に当たってみよう。DGB経済社会研究所のD.ペルナーとR.ビスピンク-ヘルミッヒによれば,「労働組合としてはインフレ率,生産性上昇率,それと分配公正といった3つの要因を考慮して賃上げ要求づくりを行っている。公共部門については生産性上昇率ではなくGNP成長率を考えている。公共部門の組合(注36),具体的にはoTVが他の〔民間〕部門の賃上げを上回るといったことは批判的な目で見られがちである。『彼らは厳しい国際競争にはさらされず,雇用機会は安定しているじゃないか』,したがって多少の賃金格差はあっても仕方がないのではないかといった社会的通念が広く浸透している。公共部門については,教師は別格で総じて尊敬されてもいるが,『あいつらはハード・ワークってどんなものか分かっちゃいない』といったジョークがあるくらいだ」と語った。この公共部門は後衛に,という考え方はひとり労働組合の内部だけでなく,すぐ後で触れるようにGesamtmetallのような使用者団体の主張でもある。
 これら3要素について,IG Metallでもまったく同じ話を聞いた。R.クールマンは「われわれは3つの要因を見ている。ひとつはインフレ率,ふたつには生産性上昇率,それと労働分配率〔の改善〕です。たとえばインフレ率が3.5%,生産性上昇率が1.5%だとすると,もし労働分配率の向上を考慮しないというのであれば5%の賃上げ要求ということになる」。そう言ってクールマンが見せてくれたIG Metallの内部資料(1992年交渉ラウンド・ザールラント地区:9%賃上げ要求の経済的基礎〔Tarifrunde 1992 Tarifgebiet Saarland:Wirtschaftliche Begrundung der Tarifforderung von 9%〕には,その説明どおり賃上げ要求づくり(Finanzierungskomponenten)としては第1に生産性,第2に物価,第3に分配率(Umverteilungskomponente)という3項目に沿った分析と記述があり,結論として1.5-2.0%の生産性上昇率,4-4.5%の物価上昇率,そして3%の分配率向上分としたうえで,IG Metall〔全体〕としての9%という賃上げ要求は十分にリーズナブルでありかつ達成可能であると記されていた。
 以上から知られるのは,第1に,労働組合としてはインフレ率,生産性上昇率,労働分配率向上という3つの要素に基づいてその賃上げ要求づくりを行っているということ,第2に,その背景にはドイツ金属産業(「競争セクター」)の国際競争力の確保,それによる雇用・労働条件の維持改善といった問題意識が強く働いており,その限りでドイツ労働組合の賃上げ要求は使用者はもちろん政府や連邦銀行の基本政策とも十分共鳴し得るものであり,そうした意味で「包括的」性格をもっているといってよい。そうであればこそ,労使の社会的パートナーシップも成り立つのだろう。第3に,次項のパターン・セッターにも関連するが,「保護セクター」である公共部門労組の賃上げ要求は「競争セクター」である,例えばIG Metallのそれを上回ることは望ましくないといったEFOモデル風の了解が使用者団体のみならず組合内部でも出来上がっているということである。




 パターン・セッター

 ドイツの産業別賃金交渉は日本の春闘のようにシンクロナイズされていない。毎秋,1年の協約期間(が圧倒的に多い)が切れたところから交渉が始まり,おおよそ翌春には一巡して終わるといったサイクルを描いている。パターン・セッターを明らかにするためには,こうした時間軸を考慮に入れた産業間の賃上げ波及メカニズムについての理解が欠かせない。しかしそればかりでなく,たとえば同じIG Metallをとってもその交渉が地域別に行われる以上,同一組合内でその地域間波及メカニズムがどうなっているかに着目する必要もある。そういう意味でもパターン・セッターを問うことができる。それらを明らかにすることによってはじめて,ドイツ賃金決定における高度の「調整行動」,別な言い方をすれば,深い情報共有と広い合意形成に基づく「包括的」な賃金決定メカニズムの実態に迫ることができる。それによって,「2万もある労働協約は互いにひどく似通っている」というフェルス教授の発言の意味も分かるだろう。
 このうち,第1の産業間賃金波及という意味でのパターン・セッターは誰か。インタビュー記録からいくつか紹介してみよう。ひとつはGesamtmetallのエコノミスト・V.ヴァンゲンハイムのものである。彼はこう語った-「金属,化学そして公共部門[OTV]の労働者が力をもっている。しかしわれわれ〔Gesamtmetall〕としてはOTVが賃上げのリーダーシップをもつべきではないと考えている。彼らは保護セクターにほかならない。彼らは雇用のリスクを負っていないからだ。しかし時折その軌道から外れてしまう。それを最初に経験したのが1974年だった。ガス,電力それに道路清掃の労働者がストライキに突入,政治的に難しい状況に直面していたブラント〔首相〕は彼らの14%の賃上げ要求を飲んでしまった。組合間のライバル意識もあってだろうが,それを見て金属労働者が黙っていなかった。もっと高い賃上げを要求していた。最終的に,われわれはその要求に妥協せざるを得なかった。その後,われわれはこうした事態が再発することのないよう心掛けてきた。(中略)それでも,OTVがストライキに入った昨年〔1992年〕そういった場面にもう一度遭遇した。今度はしかしコールが『オーケー,やってみなさい』という強硬姿勢に出た。町にはゴミの山ができた。でも折れたのは彼女〔OTV委員長のM.ウルフ-マティエス〕のほうだった。彼女は多くの信頼を失った。マスコミ報道も世論も,民間産業が厳しい情勢にあるときに公共部門の組合がストライキだなんて許されないといった意見に大きく傾いた。(中略)ところで,例年の経験でいえば2月には金属労働者が妥結。その協約は実質的に12月まで有効,その後に次年度の交渉が始まるといったやり方になっている。妥結の順番だけでいえば,化学労働者や公共部門,時に銀行が早いことだってある」。ここからうかがえることは,第1に規範的に望ましいパターン・セッターは金属産業と見なされているが,実際には必ずしもそうなっていない(いなかった)こと。しかし第2に,それが公共部門のOTVであってはならないとGesamtmetallも考えており,その意味で労使ともどもEFOモデルを重視しており,その点での合意は社会的な広がりをもっていること。第3に,賃金交渉あるいは妥結の順番は必ずしもパターン・セッターを意味しないことなどである。
 また,フェルス教授はこのパターン・セッターについてこう語った-「いま最も大きな影響力をもっているのはスタインキューラー(注37)率いるIG Metall,それに次いで穏健で協調的なラッパーを戴くIG Chemieでしょう。しかし歴史的にはパターン・セッターはかなり変わってきた。50年代には建設労組が大きな発言力をもっていた。しかし60年代になるとIG Metallがリーダーシップをとるようになった。70年代初頭までマルク安を背景にしてこのセクターの国際競争力は強く,利潤も大きかった。70年代中期以降になって公共部門〔OTV〕の影響力が強まった。社会民主党は公共部門の拡大に力を入れた。輸出産業は試練にさらされ再編されねばならなかった。80年代になると,もう一度情勢が変化した。レーガノミックスのドル高政策のなかでマルク安になり,IG Metallがパターン・セッターに返り咲いた。90年代初めの1-2年,またまた公共部門が力を回復したように見えた。92年の賃金ラウンドについていうと,最初に妥結したのは銀行,その後に公共部門が続いた。賃上げパターン・セッターの将来という意味でいえばIG Metallがリーダーシップを握ることが望ましいと思っている」。このようにフェルスによれば,第1に60年代以降の賃上げパターン・セッターであったのはIG MetallかOTVのいずれかであって,時代とともに交互に入れ替わってきたということになる。第2に,妥結の順番は必ずしもパターン・セッターを意味しないという点は先のGesamtmetallで聞いたことと一致する。端的にいって,「協約の有効期間が切れたところから新たな交渉に入る」ことになると考えればよいだろう。たとえば93-94年の賃金交渉ラウンドをとってみると,その協約期限切れの最も早いのが化学(10月あるいは11月末:地域差もある),保険(10月末),金属(12月末),公共部門(12月末),銀行(94年1月末),繊維(3月末),建設(3月末),卸売(3月末),印刷(3月末),鉄鋼(4月末),フォルスクワーゲン(7月末),石炭鉱業(8月末)などとなっている(IDS 1993:12-13)。第3に,望ましいパターン・セッターという点でもこれまたIG Metallと見なされている。ヴァンゲンハイムとフェルスの話は以上のようにほとんど変わらない。しかし,それをすでに触れたソスキスやコックあるいはロビンソンの分析と比べてみると,何よりもパターン・セッターをめぐる両者の見解に微妙な違いがある。IG Metallがどれほど強力な賃上げパターン・セッターであるかという点で後3者の見方は揺るぎない。けれども,前者の観察とりわけGesamtmetallは公共部門労組(OTV)がIG Metallのリーダーシップを切り崩してしまう「脅威」に対して神経をとがらせている。
 ちなみに,92年度(91-92年賃金ラウンド)の産業別賃上げ率を見たのが表2である。これらの数値は協約賃上げ率そのものではなく,前年(91暦年)の平均月例賃金に対する92年の平均月例賃金上昇率(基本賃金)を示したものである。金属製造業(Metallverarbeitende Industrie)が5.1%,鉄鋼業は5.4%,また公務員が5.1%,連邦郵政が5.3%,連邦鉄道が5.4%,そして化学が6.0%などとなっている。IG MetallとOTVの賃上げ率がほぼ同じになっている点が興味深い。
 なお,産業間の賃金調整はDGB内部で行われるが,インタビュー記録によれば,それがどれほど強力なものであるかについて意見が分かれた。しかしはっきりしていることのひとつは,小売業セクターでは一定額プラス・パーセンテージという形で時に連帯主義的な賃金政策が主張されることもあるが,DGBやIG Metall,他の有力産別もスウェーデンのLOのような連帯主義的賃金政策を提唱してはいない。
 もうひとつ,たとえばIG Metallをとった場合,その交渉はどの地域から始まるのか。この問いに対する回答は簡単明瞭であって,シュトゥットガルト周辺の北ヴュルテンベルク・北バーデンからスタートするといってよい。その結果がいわゆる「パイロット協約」と呼ばれるもので,他の地域の交渉・妥結水準にきわめて大きな影響を及ぼす。それだけにこのパイロット協約は,「バーデン・ヴュルテンベルクの大企業〔Daimler-BenzやBosch〕は親・組合的であるという理由で特に小さな金属企業からしばしば批判の的にされてきた」(IDS 1993:12)。そうであり得ることについては,前節でASUによるGesamtmetallに対する批判的提言を取り上げたとき,すでに示唆しておいた。もう少し立ち入っていえば,金属産業にはすでに見たように3つの産業別協約単位がある。すなわち鉄鋼業,それ以外の金属製造業,それに大括りにした手工業(Handwerk)の3つである。このうち,鉄鋼業は旧西ドイツで2つの協約地区に立地するだけであり(もうひとつは旧東ドイツ地区),かつその企業規模も小さい。そのため,自動車や電機,機械工業など金属製造業の協約内容が零細な手工業にそのまま波及することになりやすい(注38)。そのため,大企業労使による「交渉カルテル」に対するスモール・ビジネスからの批判がいつもくすぶっていて,それが時に噴出する-というように事態を理解することができる。
表2 1992年の産業別賃上げ率
 ところで,こういった賃上げ率とはそもそも何を意味しているのか。この点を詰めてみる必要がある。というのも,企業レベルの「第2ラウンド」ともそれは関係しているからである。Gesamtmetallのヴァンゲンハイムはこの点を次のように説明してくれた-〔金属製造業のマニュアル・ワーカーについていえば〕基準となるのは「中間賃金」(Ecklohn)と呼ばれる賃金である。一般的には経験年数10年,30歳の熟練労働者といったものになる。そこに格づけされた労働者の賃金が時間給で16.25マルクだとする(といって,彼は表3と同じようなデータを見せてくれた)。それは最低の協約地区でも16.20マルクであってどこにいってもほとんど変わらない〔表3によれば,もう少し格差がある〕。賃金グループ〔表3では,「中間賃金」は地域によって異なり賃金グループ5から8(注39)までに格づけされている〕は地域によるが全体で10前後に分かれている。もしこの「中間賃金」が3%引き上げられるということになれば,それにならってほぼ同じ比率で他の賃金グループの時間給も引き上げられる。さらに,この「3%という数字はホワイトカラーの賃金引き上げの基準ともなる」(この点についてのみ,DGB経済社会研究所でのインタビュー記録)。
表3 金属産業における時間賃率-賃金グループ別・1992年4月1日以降
 このように,「賃金グループ」(Lohngruppen)のヒエラルキーのうち,ほぼその中間に位置する「中間賃金」(一般的な属性に翻案すると,経験年数10年で30歳の熟練労働者)が賃上げの準拠点とされ,その賃上げ率が決まれば他の賃金グループ(基本的にはホワイトカラーまでも含む)の賃上げもほぼこれにならなって行われるという方式になっている。一職務一賃金率(シングル・レート)であること(ホワイトカラー(注40)は異なる),職種間の賃率格差(注41)は中間賃金(=100)から見て下方に15%程度,上方に32-33%ほど広がっていること,そしてこのマニュアル・ワーカーの賃率が自動車であれ電機であれ機械工作であれ,これらの産業横断的に一律に適用されているということにも改めて注目しておこう。

(注36) OTVでのインタビューでは,「OTVの場合にはインフレ率,GDP成長率そして民間格差〔是正〕という3つがその賃上げ要求づくりの基準である」と聞かされた。

(注37) 彼は賃金パリティ協約の見直し交渉が妥結した直後に「インサイダー取引」(ドイツの現行法では法的に禁止されていない)のスキャンダルに巻き込まれてIG Metall会長職を辞任した。職場から叩き上げた「世界でも最も有力かつ知的で構想力に富んだユニオン・リーダーの1人」(EIRR, no. 233〔June 1993〕:8)と目されていた。

(注38) Vgl.,IG Metall, Daten Fakten Information 1992,S.76f.

(注39) それぞれの賃金グループについて一般的な定義づけが与えられている。たとえば,ニーダーザクセンの労働協約によれば,その「中間賃金」に相当する「賃金グループVII」を「専門的で計画的なカリキュラムによる養成訓練を通じて得られる技術を前提とする専門的労働。またはそれと同程度の特殊な技能あるいは知識を必要とする労働」(IG Metall 1992:23)と定義されている。

(注40) 一般的にいって,ホワイトカラーの場合には「バンド(等級制)給与」となっており,かつ給与グループ格差も地域差もマニュアル・ワーカーよりかなり大きい。Vgl., IG Metall 1992:44f.

(注41) 歴史的にはマニュアル・ワーカーの賃金格差は「底辺」が引き上げられる形で縮小してきたいる。Vgl., IG Metall 1992:36.

 「第2ラウンド」の理解のために-従業員代表組織と賃金体系

 ここで「第2ラウンド」というのは企業あるいは事業所レベルで行われる実質上の追加的賃金引き上げのための協議を意味している。ということは,フォルクスワーゲン社(注42)やShell, BP, Texacoなど外資系石油企業のほか,新しい事例としてはGruner&Jahrなど出版業で制度化されている企業別交渉(Shonfield 1993:167f.)はここでの第2ラウンドではない。そこでは最初から企業レベルで賃金交渉が行われているからである。第2に,管理職や専門職などの「交渉外職員」(AuBertarifliche Angestellten)-民間企業従業員の2%,化学で3%,金属産業で1.7%を構成し,協約賃金の最高額よりも平均15-20%は高い給与をもらっている(Gesamtmetall 1992:32, IDS 1993:20,およびDGBでのインタビュー記録)-に関する賃金決定も一方でその権限が88年の管理職代表委員会法(Gesetz uber Sprecherausschusse der Ieitenden Angestellten)によって拡大されたという点を見落としてはならないが,基本的には個別交渉によっており,これもまたここでいう第2ラウンドとは異なる。第3に,企業内で積み上げ協議が行われるということは,産業・地域別賃金協約はいわば産業内での(それを「下回れない」という意味で)最低賃金を決めていると理解して差し支えない。第4に,協議といって交渉と表現しないのは,すでに見たようなドイツ労使関係の二重構造という法的枠組みを踏まえてのことである。企業内での賃金交渉は,産業別労使が「オープン協約」を締結してその交渉と決定権限を企業レベルの労使に委譲しない限り行われないというのがその原則になっている。第5に,企業内協議における労働者側の担い手は主として従業員代表組織(Betriebsrat)である。ただし,「オープン協約」締結権限が委譲された場合はその限りでない。
 したがって第2ラウンドの正確な理解には,ひとつには従業員代表組織のもつ権限を,もうひとつには企業レベルにおける賃金体系のプロフィールについてもう少し立ち入って見ておく必要がある。
 現行の88年改正経営組織法によれば,従業員代表組織には情報開示権,協議権そして共同決定権の3つの権利が与えられている。従業員代表組織の一般的な義務としては,法律や命令,労働協約や企業協定(Betriebsvereinbarungen)の履行に関する監視,企業や事業所あるいは従業員の利益となる事項に関する経営への勧告などがある。そのうえで,共同決定権が及ぶ事項には始業・終業時間や残業,休暇取得,金銭的報酬支払いの方法,従業員の勤務実態に関するモニタリング,配置転換や解雇,安全衛生管理,社会保険管理,法定外企業福祉,報酬原則の変更や導入などが含まれる。また,情報開示権と協議権に関連する事項には人員計画に関する協議,事業所の改廃や移転に関する協議,従業員の配置や格づけに関する情報開示と協議,そのほか従業員代表組織の経済委員会を通じた一般的な経営実態等に関する情報開示と協議などがある。この経営組織法とりわけ情報開示と協議権規定に基づいて,多くの大企業では事実上の上乗せ協議が行われている。したがって,そこに賃金ドリフト(後述の「マイナスの賃金ドリフト」と呼ばれる「ボッシュ効果」も含めて)が発生する。特に,産業別「最賃」の一定割合を毎年企業レベルで追加的に支給しているような事例については,それは企業の賃金支払い慣行(betriebliche Ubung)と見なされ,会社都合によって一方的に破棄できない。少なくとも法的な係争になる(注43)。
 この「第2ラウンド」による賃金ドリフトについて理解するためには,もうひとつ,企業レベルでの賃金体系に触れておく必要がある。再びGesamtmetallでの聴き取りによれば-企業や職種による違いがあるから一様にはいえないが,ふつう賃金は次の4つの要素から成り立っている。まず第1に協約地区内での金属産業横断的に同一である基本賃金[産業別最賃]。第2に「産業別最賃の16%に相当するもので,個人別に与えられる」業績給的な部分(メリット・コンポネント)。これは「産業別協約によって16%という大枠を決め,それを企業レベルで個人の技能や業績に見合った配分をする」。第3にダーティー・ワークなどに対する特殊職務手当,家族手当,残業手当といった種類。第4に任意的付加給与(Voluntary Supplement)というものがある。このうち,最後の任意的付加給付は「賃金総額の20%ほどになる。具体的には,たとえばDaimler-Senzが『業績がいいのでさらに3%の賃上げ上乗せをしよう』とか,『クリスマス手当などの特別賞与をもっと出そう』とかいったもの」が基本である。広くは「もっといい社員食堂とか,いい車〔社用車〕とかいった企業福祉的な部分」まで含まれる。したがって諸手当の部分をカッコに入れると,<1>基本賃金+<2>業績給+<3>任意的付加給付といった3つの要素が残る。このうち,<1>は産業横断的に一律の「最賃」,<2>はその総額(対基本賃金比率)こそ産業別に協約されるが,具体的には企業レベルで個人の技能や業績に見合って配分される部分(注44),<3>は文字どおりの任意的付加給付である。こう見てみると,D.ションフィールドもそう記しているように,「ドイツの賃金決定システムは見掛けほど硬直的なものでもまた集権的なものでもない」(Shonfild 1993:167)といってよいように思われる。
 この任意的付加給付については,さらに2つのことを補う必要がある。ひとつは,「もし企業の業績がよいならば,たとえば従業員代表組織はごく自然に,慣行があればなおさらのこと,『もう少し賃金の上積みができないものか』といった要望をするのではないか」という質問に対して,ヴァンゲンハイムは「確かにそうなりがちである。しかし原則はあくまでも企業の自発的な意思と判断によるものである。(中略)実態はといえば,共同決定事項になっている事柄を引っぱり出してきて,たとえば『残業に協力しない』といった形で従業員代表組織が会社側にプレッシャーをかけ,実質上交渉しなければならないといった場合が少なくないでしょう。さらに〔下記のボッシュ社の事例に触れながら〕業績が悪くなったとき,これまで慣行化してきた任意的付加給付を会社が一方的にカットできるかどうかについては法的にもなかなか厄介な問題である」とも付け加えた。もうひとつは,「ボーナスやキャンティーン改造,社用車といったものは現金給付さない。ボーナスは小切手で渡されるのがふつうである」。したがって「厳密にいえば,20%のすべてが賃金ドリフトということにはならない」とヴァンゲンハイムは答えた。もちろん,<2>の業績給的な部分は産業別に協定されるから賃金ドリフトにはならない。ということなると,産業別賃金決定という方法によってドイツの場合にも賃金ドリフト(注45)は生じているが,その比率をあまり大きく見積もってはならないように思われる。

(注42) 企業別交渉は一方では現在のルフトハンザ航空やかつてのフォルクスワーゲンのような国営企業あるいは外資系大企業において,他方では小零細企業で制度化されている場合が少なくない。もっとも80年代の現象としてはコンピューター産業や出版印刷業などにも似通った動きは見られた。cf., Jacobi et al. 1990:146f.

(注43) cf., IDS 1993:33.

(注44) この「個人別」という表現は少なくともマニュアル・ワーカーに関してはミスリーディングであるかもしれない。ションフィールドはこの点に触れて,「個人別というよりも多くは集団的な業績給(Leistungszulagen:Payment-by-Results)が広く普及している。IG Metallの89年自動車産業調査によれば,マニュアル・ワーカーの約6割がこの業績給をもらっていた。Gesamtmetallによれば,この制度は『減少しておらず,それによって個人の仕事ぶりを賃金に結びつけることができる』と語った」(Shonfield 1993:168)。ションフィールドは「西ドイツに少ない賃金要求」として,1つは個人別のメリット・ペイ,もう1つは利益分配制(75年の財政形成法の影響もある)を挙げている。cf., Shonfield ibid.

(注45) A.マーシュらは,「特に60年代になって地域的に協約される賃率と実際の所得との差額〔賃金ドリフト〕が広がった。経営者による一方的な付加給付か,あるいは従業員代表組織との話し合いによる生計費補填という形で生じた」(Marsh et al. 1981:71.)と書いている。調査時点(70年代後半)でのより立ち入った実態については,Marsh et al. 1981:112f.が詳しい。また,K.ウィリアムズは,「60年代後半になって大手製造業で賃金ドリフトが発生した。とはいっても〔業種によって〕3.3-30%という大きな幅があった。しかし70年代になると鎮静化した」(Williams 1988:38)と記している。さらに,W.ストリークは自動車産業において他産業に比べて賃金ドリフトが目立つという趣旨のことを書いている(cf., Streeck 1984b:35)。80年代の賃金ドリフトが安定的であったことは文中で触れた。

 ボッシュ効果-「マイナスの賃金ドリフト」

 産業別最賃である基本賃金と上記の業績給的部分に加えて,いつでも企業レベルでその上乗せが行われるのかといえばそうではない。賃金の特別な上乗せやボーナス等はあくまでも経営側の「自発的」な行為だからである。
 その格好の例証がいまドイツで大きな注目を集めている「ボッシュ効果」といわれている現象である。92-93年にかけて,多くの大企業がその労働コスト削減のため企業レベルでの任意的付加給付のカットに乗り出した。その最も顕著な事例が大企業Robert Sosch GmbHのケースである。クリスマス手当と企業年金の大幅な切り下げが行われた(IDS 1993:32)。「任期的付加給付は行われなかった。その結果,賃上げは産業別協約の水準にまで低落してしまった。実質賃金がダウンした。そういうことは実行可能だということです」と力説していたのはGesamtmetallのヴァンゲンハイムであった。フェルス教授はこの事例に触れて,「いまドイツでは〔賃金決定の〕フレキシビリティが強まっている」と語り,DGB経済社会研究所のエコノミストはその「効果」に強い懸念を表明した。確かにその効果は小さなものではない。というのは,このボッシュの企ては単に不況と業績悪化のためそれまで第2ラウンドによって上乗せしていた賃金等をカットしたというにとどまらないからである。2つの新鋭半導体工場の立地をめぐって外国投資の可能性がいわばマヌーバーのようにして取り沙汰され,そのひとつは93年2月にドイツ国内(Reutlingenサイト内)に決定されたが,その1カ月後に会社側は,「外国の競争企業に比べていくつかの製品の労働コストは3割以上も高い。4月1日からの支給を約束していた賃金上乗せはカットし,3%の〔協約賃金の引き上げ〕だけにしたい。すべての『伝統的』な金銭的付加給付やボーナスは停止する。それによって年間2億5千万マルクを人件費〔組合員分は1.8億マルク〕を節約することができる」と従業員に通告した。世界中に15万人の従業員を擁するボッシュがこの機会に打破したいと考えていたのは,「とどまるところを知らない賃金スパイラルと硬直的な労働慣行の2つであった」(Financial Times, 20 December 1993)。この「衝撃的」な会社提案をめぐって8カ月にも及ぶ交渉がもたれ,最終的には9月30日従業員代表組織との間に協約が結ばれた。その内容は会社側の「全面勝利」に近いものであった。任意的付加給付のカット(これまでは産業別ミニマム賃上げ率〔93年ラウンドは3%〕を賃金総額に乗じていたが,それを産業別ミニマム賃金の引き上げのみとした)に加えて,交代勤務プレミアムやキャンティーン〔食事〕手当,無利子の住宅ローン,会社費用による温泉保養なども廃止するというものである。興味深いことのひとつは,こうした実質的な賃金カットをめぐる交渉に先立って,93年4月から年額7千万マルクにのぼる役員や非組の管理職などに対する給与カットも行われていたという点である(Financial Times, 1 October 1993)。
 このボッシュ効果の大きさは,同じ自動車産業のMercedesが93年12月,まったく同様な手法(外国立地か労働条件の譲歩か,もっといえば雇用か賃金か)によって2億マルクほどの企業レベルでの金銭的付加給付のカットに成功,さらに労働慣行の柔軟化まで含めていえば類似の試みは他にもフォルクスワーゲンやGMで行われたということからも十分うかがい知ることができる。
 このように,マイナスの賃金ドリフト現象の背景にはドイツ金属製造業の国際競争サバイバルへの強い意欲,そのための国際立地戦略,ドイツ国内での賃金抑制と硬直的労働慣行の見直しといった再工業化のための構造的革新の意思を見て取ることができるに違いない。これがひとつ。もうひとつは,それは確かに賃金総額に占める第2ラウンドによる賃金ドリフトの比重低下を意味しているが,その側面と併せて国際化と競争激化,技術変化と労働慣行の柔軟化といった構造的文脈のなかで従業員代表組織が会社側提案をそのままほとんど受け入れた(あるいは受け入れざるを得なかった)という従業員代表組織の行動様式に注目する必要がある。単純に賃金ドリフトの縮小ばかりでなく,従業員側の譲歩とともに「フレキシビリティ」に対する受容を,さらにいえば従業員(代表組織)と会社との新たな利益共有の深まりをさえそこに見て取ることができるだろうからである。

 第2ラウンドと経営エゴイズム

 企業内における業績給的部分の配分といい,いくつもの項目にわたる任意的付加給付に関する実質な交渉といい,また技術変化に伴う職務再編やその格づけといい昇格人事の運用といい,従業員代表組織をその担い手とする第2ラウンドの意義は決して小さなものとは思われない。それにしても,金銭的な付加給付に狭く限定したとして,いったいそれはどれほどの比重をもっているのか。もしそれが大きなウェイトをもつならば,産業別賃金交渉は空洞化する。別な言い方をすれば,「経営エゴイズム」の拡張ということにもなる。
 もっともこの点に直截に答えることは必ずしも容易でない。それでもいくつかの感触を得ることはできた。インタビュー記録や関連文献の記述を拾い集めてみよう。まず第1に,先のGesamtmetallのヴァンゲンハイムの証言である。彼によれば,任意的付加給付が占める割合は賃金総額に対して2割である。ただし,その2割の内訳までは分からない。第2に,DGB経済社会研究所のビスピンク-ヘルミッヒは賃金ドリフトの比重に触れた際,「賃金ドリフトはこの10年間安定的に推移した。しかもそれはさして大きなものではない。産業別交渉でかなりの部分が決まってしまうからだ。その比重はおよそ[賃金総額の]80-90%ぐらいだろう」と語った。第3に,IDSの叙述によれば,「産業別に協約されるミニマム賃率と企業での上乗せ部分の割合は産業セクターによってかなり違っている。金属や化学産業ではその比重は個々人の賃金総額の25-30%になるだろうが,銀行や商業では産業別ミニマム賃金の5-7%程度が上積みされるにすぎない」(IDS 1993:12)。第4に,ションフィールドは,「Gesamtmetallによれば,金属産業全体をとった場合,大手企業では産業・地域別賃率よりも15-20%も高い賃金を払っている。しかし[同じ金属産業のなかでも国際]競争力に劣るたとえば造船業をとると,合意された産業別最賃にわずか2-3%の上乗せが行われているにすぎない。〔他方〕自動車産業の主要企業になると,同じ職種でも職務の格づけや企業での付加給付などによって産業別最賃の3分の1までの上積みが行われる」(Shonfield 1993:168)と記している。
 要するに,ひとつには,第2ラウンドによる賃金上乗せ部分が賃金総額に対してどれほどの比重を占めるか。端的にいって,それは企業規模はもちろんのこと(小さな企業では上乗せはほとんど行われない),産業によってかなり異なったものであるらしい。もともとこの賃金上乗せが経営側の任意的付加給付という性格をもっており,それだけに業績や経済環境の変動に見合って弾力的に変化していくものと考えるのが自然なことかもしれない。それでもなお,金属産業をイメージしてその一般的な比重あるいは割合をいうとすれば,上のいくつかの数字から推しておよそ2割といった水準になるように思われる。もっと小幅なドリフトしか生じていない産業も少なくない。では,そうした賃金ドリフトが最近より大きなもっになっているのか。DGBでのヒアリングによる限り,どうもそうとはいえそうにない。以上,この賃金決定という素材に沿っていう限り,10年ほど前にG.ストリークなどによって提起さた経営エゴイズムの進展と労使関係の「日本化」という「挑発的な」展望はいままでのところ基本的に足踏み状態にあるのではないかといった印象を免れない。

 小 括

 現代ドイツにおける賃上げ行動の規範とその実態について検討した。いくつかの要約を書き留めておくのがよいだろう。
 第1に,ドイツ賃金交渉のいわば第1ステップは,毎秋公表される準公的なしかし政府から自立した第3者機関による経済情勢分析と賃上げ勧告といったものから始まる。10月の6大研の共同経済報告,それを踏まえて11月中旬に公表される5賢人委員会の『経済鑑定書』がそれを代表する。経済の現状と次年度見通しのみならず,後者は望ましい賃上げ水準についても勧告する慣行が出来上がっている。これが重要な契機となってある種の情報共有とフォーラムが構築され,広範な社会的合意形成と調整行動が始動する。
5賢人委員会鑑定書は基本的にはインフレ抑制「競争セクター」であるドイツ製造業の国際競争力維持のため,技術的には企業レベルにおける「第2ラウンド」の存在をにらんで多少とも低めの賃上げ勧告を行ってきた。
 第2に,政府から自立した連邦銀行もまた,ドイツの賃金決定に大きな役割を果たしてきた。その「伝統的」な目標は通貨の安定とインフレ抑制であった。いまヨーロッパ連合(EU)の生成に向けてそのヨーロッパ中央銀行的役割に対する期待が高まりつつあり,実際それに配慮した金利緩和政策も動きはじめているが,なおそれによって伝統が揺らいだわけではない。
 第3に,上記フォーラムの中心メンバーである労働組合の賃金要求づくりは,3つの尺度に基づいて行われている。インフレ率,生産性上昇率(いずれも実績と予測値)そして労働分配率である。このうち,前2者なかでも生産性上昇率に準拠した賃上げが行われている限り,ドイツ金属産業(競争セクター)の国際競争力確保という意味での脅威はないとIG Metallは考えている。しかしIG Metallが5賢人委員会や使用者団体,さらには政府や連邦銀行とさえ基本的にはその見方を等しくしているのは何もこの点に限らない。これまでいくつもの「逸脱」行動があったが,「保護セクター」である公共部門の組合(OTV)が賃上げ水準のリーダーシップを握ることは望ましくないという点でもまた,IG Metall,Gesamtmetall,5賢人委員会さらには政府や連邦銀行の間に事実上幅広い社会的合意が形成されている。EFOモデルの制度化と呼んでよいだろう。それほどに,ドイツ労働組合の行動様式は「包括的」である。
 第4に,賃上げパターン・セッターはいま現在はIG Metallに落ち着いている。しかし歴史的にはOTVとの間に確執もあった。特に経済環境が激変してインフレが急進したような局面では,これまでにもしばしば公共部門(それも現業マニュアル・ワーカー)からの不満が吹き出した。
 IG Metallの産業別協約単位は鉄鋼,金属製造業そして手工業の3つから成り立っている。このうち圧倒的な影響力をもっているのは大手自動車メーカーをはじめとする金属製造業である。残りの鉄鋼は協約地区が3つのみ,また手工業は文字どおりのアントレプレヌア的スモール・ビジネスであるから,それもうなずけよう。しかし別の意味では,それがまた大企業労使による賃金「交渉カルテル」といった小さな企業からの批判の誘い水ともなっている。なお地域的な意味では,シュトゥットガルト(OTVの本部もある)を中心に自動車関連工業が群集している北ヴュルテンベルク・北バーデン協約地区がパターン・セッターとして「パイロット協約」を締結してきた。
 第5に,産業別賃上げ率(ミニマム賃上げ率)は標準労働力銘柄(たとえば経験10年,30歳の熟練労働者)の賃率が決まれば,他はホワイトカラーまで含めてそれにならうというのが一般的である。
 第6に,こうした産業・地域別交渉によって決まる賃金とは,使用者がそれを下回って支払うことができないという意味で産業別ミニマム賃金を意味している。中小企業では企業内での第2ラウンドによってそれに上乗せされることはまずないから結果としてそれが基本賃金になる。その限りで賃金は産業・地域別に決定される。しかし大企業では,これまでにも第2ラウンドが広く制度化されている。従業員代表組織がその任意的付加給付の「交渉」主体となっており,その付加給付には,たとえば特別の賃金上乗せやボーナスといった金銭的要素のみならず,さらに各種の社員施設や企業年金といったフリンジ・ベネフィットまで含まれる。
 いったい,その任意的付加給付は賃金総額に対してどれほどの比重を占めているのか。もちろん任意的給付という性格からして,産業や企業規模あるいは景気動向や企業業績等によってその比率はかなり異なり,変動もする。それでも,金属製造業についていえば,賃金総額のおよそ2割内外といった水準であるように推察される。ちなみに,この2割という数値はオーストリアのそれとよく見合っている。
 この賃金ドリフト的要素は過去10年ほどのうちに安定的に推移してきたが,最近では実質的な賃下げにつながる「マイナスの賃金ドリフト」まで生じている。「ボッシュ効果」と言われるものがそれである。その背景には,ドイツ金属製造業(狭くは自動車工業)の抱える構造的問題(少なくとも使用者側から見れば,国際競争力の衰退,止めどのない賃上げスパイラルと硬直的労働慣行,さらには国際立地戦略の模索)が見え隠れしている。今後の動向が注目される。
 第7に,以上のように,スカンジナビアで開発されたEFOモデルに準拠したといってよい高度に調整的でマクロ・コーポラティズム的な現代ドイツの賃金決定メカニズムを確認することができる。国家(政府)の賃金交渉への不介入,政府から自立した準公的機関を中心とする広く深い情報共有と社会的合意形成,競争セクターを代表する金属製造業の国際競争力の維持,生産性上昇率に見合った賃上げ・賃上げ後衛と位置づけられた「保護セクター」としての公共部門,さらに通貨安定とインフレ抑制に専念する連邦銀行などといった諸要素が構成される,この精妙な社会的結晶体はいまも基本的に健在であるといってよい。
 ということはまた,かつて問題提起された「経営エゴイズム」の浸透と成熟という将来展望はこの賃金決定メカニズムをめぐる経験に即してみる限り,いまもなおひとつの可能性のシナリオにとどまっている-まずはそういってよいように思われる。けれども持続性の強調のみでよいのか,そう問う人には上記のボッシュ効果とその構造的背景のほかにも語るべきいくつかの大切な点が残されている。

2.3 賃金パリティ交渉と連帯協定

 冒頭にも書いたように,ベルリンの壁が崩れて1年足らず,1990年10月3日,ドイツは旧東ドイツが旧西ドイツに「併合」される形で再統一された。この悲願の成就が怒濤のような政治的熱狂を巻き起こした。しかしその興奮が冷めた後に残されたのは慄然とするような経済的困難であった。その高い壁は東ドイツ地域の経済再建とそのための途方もなく膨大な資金調達の必要のみならず,労働市場パフォーマンスや賃金交渉のアリーナにも大きな陰を落とすことになった。そのプロセスでたとえば連帯協定(Solidarpakt)が締結され,またIG Metallによる旧東ドイツでの労働争議が発生した。東西ドイツの賃金格差を均一化するための既存協約の破棄とその再交渉に関するGesamtmetallの政策に対してIG Metallが強く反発したためであった。すぐ後に述べるように,この賃金パリティ交渉と連帯協定の間には実に深い結びつきがあった。その点を理解するためにも,まず連帯協定から始めよう。
 包括的な連帯協定
 連帯協定とは,狭くは連邦政府と16の各州政府,野党の社会民主党(16のうち9つの地方政府の長を占めている)との間で,92年秋以降6カ月にもわたる協議の末ようやく93年3月に締結された東ドイツ経済再建とそのための費用負担に関する協定のことである。したがって労使団体はその直後の交渉(調印)主体ではない。「オブザーバー参加」というにとどまる。しかし実質的にはそれ以上の存在であった。というのは,コールが92年9月7日に連帯協定のための円卓会議を呼びかけたとき,そこには労使団体のトップが当然ながら含まれていた。広義の連帯協定には,その当初から単に財政的負担といった問題にとどまらず,たとえば東ドイツにおける賃金抑制(91年3月のIG MetallとGesamtmetallのパリティ協定の見直しのみならず,「オープン協約」の時限的導入など賃金決定方式までも含む)や高額所得者や企業に対する増税といった案件が含まれていたからである。もともと連帯協定にはそういう包括的性格があった。
 実際,たとえばIG Metallのスタインキューラー会長は,一定の条件つきながらヴァイツゼッカー大統領の提案を入れ,「東ドイツ経済再建のため,今後5年間は実質賃金の維持という以上の要求は行わず,賃上げ自粛を行う用意がある」(Financial Times, 13 October 1992)と語ったほどである。
 協議プロセスと協定内容-「合意政治」の例証
 もっともすべての人々がこの連帯協定を歓迎していたわけではないし,費用調達の方法という点になればなおさらのこと多くの異論があった。コールは10月のキリスト教民主同盟の党大会において,うなぎ登りの東ドイツ経済再建費用(予測)の細目に立ち入りながら,もし連帯協定が年末までに合意されないならば増税もやむを得ないと警告した。それにもかかわらず,たとえば92-93年版の『経済鑑定書』はこの連帯協定に言及して-それに対する過大な期待はそれが意図した成果に結びつかなかった場合の反動を考えると,かえって「危険」でさえある。経済不況から脱出して経済成長の軌道に回帰するためには,政府支出の削減と財政赤字の縮小,厳しい賃金抑制が2つの喫緊の前提条件である。その後に連邦銀行の金利引き下げが続くべきだという処方箋を書き,そのうえで,政府は経済見通しと税収予測についてあまりにも楽観的にすぎると批判した。使用者団体は,この連帯協定の主たる目的は東ドイツ企業の立て直しと雇用創出にあるが,それに照らして現状の生産性水準は過度に低くかつ賃金は法外に高い。その落差を是正するためには賃上げ抑制が欠かせない。具体的には「オープン協約」(Offnungsklauseln)の導入と併せて賃金パリティ協約の見直し(後述の「修正条項」Revisionsklauselnの発動)が必要であることを強調した。この点での政府と使用者団体の見解はかなり近いものであった。IG Metallをはじめ労働側がそれに猛反発したのは言うまでもない。Gesamtmetallの賃金パリティ協約再交渉の申し入れをIG Metallは原則拒否,連帯協定に前途に大きな暗雲が垂れ込めた。92年11月にかけての動きである。
 新たな展開は93年1月に起こった。メレーマン経済相の辞職に続く内閣改造と同時に1月19日,コールは連帯協定(狭義:財政再建計画〔FKP〕)の第1次案を発表した。95年からの連帯特別課税(所得税と法人税),94年からの通行税と石油税導入(鉄道再建と負債償却の目的税),投資所得に対する30%課税上乗せ,住宅取得に伴う特別税控除の見直し,連邦政府公務員関係給与の1%削減(94,95年度),失業手当の減額,防衛費の追加削減,農民所得保護および石炭鉱業補助金の漸進的削減,造船業補助金カット,児童手当等の支給に関するミーンズ・テストの導入,難民救済費用の削減,社会的環境保護政策実施の先送りなどがその主要な内容であった(Financial Times, 20 January 1993)。これを皮切りにして連邦政府と16地方政府を中心とする連帯協定締結に関する協議が再び動きはじめた。1月下旬には,この第1次案に対して6大研のうちのDIWが,「連邦銀行の金利引き下げ,労働組合による賃金パリティ再交渉の受け入れ,そして旧東ドイツの非民間セクターへの補助金追加支出という3つの条件が連帯協定に盛り込まれない限り,東ドイツ経済はスタグフレーションから脱出できないだろう」との批判的見解を発表した。他方2月末には,連邦銀行ティートメイヤー副総裁(当時)はOTVが2月初めに93年賃金交渉ラウンドで3%の賃上げを抵抗せず受け入れたことに歓迎の意を表したうえで,「早急に連帯協定が締結される必要がある」という緊急声明を出した。6大研のひとつであるIFOも,「連帯協定が早急に結ばれれば,93年末までに現下の不況は底を打つだろう」と協議の進展を促した。なお交渉当事者間(連邦政府,地方政府そして野党)に協定さるべき内容をめぐって意見の隔たりはあったが,可及的速やかに連帯協定の調印にこぎつける必要があるという点では認識は一致していた。コールは3月12日,連邦政府閣僚,16の各州政府の首長と大蔵大臣,社会民主党をはじめとする野党各党首を集めて「2日間の非公開」コンファレンスを開き,一挙に連帯協定の締結に向けた詰めに入った。そして3月15日,6カ月の難産の末に連帯協定が成立した(Financial Times, 26 February, 11-15 March 1993)。
 その内容は端的にいえば,コール首相とエルグホルム社会民主党党首(兼シュレシュウィヒホルシュタイン州首相:2カ月後の5月に両職を辞任)との妥協につぐ妥協,「合意政治」の産物であった。それを合意政治の例証とでも呼び得るのは,この連帯協定の協議プロセスにはちょうど賃金交渉メカニズムがそうであったように労使団体,5賢人委員会,6大研,連邦銀行などすべての重要な「役者」が登場し,それぞれの立場から自由闊達に意見を言い合った末に,最終局面では互いに妥協と譲歩を重ねて連帯協定の締結にまでこぎつけているからである。連邦銀行は連帯協定に伴う政府債務の拡大に対して懸念を隠そうとはしなっかったが,「偉大な成功」であったとその締結を歓迎した。
 旧東ドイツ政府あるいは準政府機関の負債償却,連邦政府と地方政府間での租税配分,増税と支出抑制といった大項目からなるこの連帯協定(詳細については,OECD 1993b:85-1)は,連邦政府が次の3つの点で「第1次案」「最終政府案」から譲歩することによって成立した。第1に租税配分に関して地方政府により大きなパイを与えること,第2に95年からの政府案よりもかなり高い連帯課税の導入,第3に政府案よりもかなり抑制された社会支出の削減という3つである。
 しかし,ここで広義の連帯協定を思い起こしてみる必要がある。とりわけ,そこには賃金パリティ協約の見直しや「オープン協約」といったまことに厄介な問題が含まれていた。これはいま見た狭義の連帯協定以上の難題であった。

 賃金パリティ協約の見直し

 IG MetallとGesamtmetallをはじめとして多くの産業労使は91年の賃金交渉ラウンドにおいて,東西ドイツ労働者の賃金格差を90年代中期までに是正することをめざして賃金均一化(パリティ)協約を結んでいた。図2はそのいくつかの例示である。たとえば金属産業(金属製造・電子)の場合,他産業とは途中までのテンポに多少の違いはあるが,94年4月には同一にするという労使間の約束である。もしそれを遅らせて賃金格差を放置しておけば,東西ドイツの労働市場がひとつになった以上,東ドイツの熟練労働力が大挙して西ドイツに押し寄せることになるだろう。それは東ドイツ地域の経済再建の足枷となるばかりでなく,西ドイツの賃金水準を押し下げることにもなりかねない。そういった現実的判断もあれば,東西ドイツ労働者の生活水準は西に東が「併合」された以上,できるだけ早く「西」の水準に均一化されねばならないといったたぐいの理想主義的な考え方も働いていた。そして何よりも,それがボン政府の進めていた東西ドイツの生活水準の早期平準化政策の中心に位置するものであった。
図2 賃金パリティの段階約実現
 もちろん,「有給休暇,ボーナスやその他のフリンジ・ベネフィットといったものまで含めていえば,たとえ94年4月に東ドイツ労働者が100%のパリティを手に入れたとしても,それは実質的には西ドイツ労働者の69%の水準にすぎない。現在の物価水準はむしろ東ドイツのほうが高い。たとえばガソリンでも10-15%も高い,したがって実質賃金ベースでの均一化にはさらに数年を要するだろう」という大事な側面は見落とせない。(IG Metallでのインタビュー記録。OECD 1992:75f.参照)。それにしても,わずか3年間のうちに名目賃金水準を均一化するという協約であった。
 では,肝心の東ドイツ経済の実態はといえば,相次ぐ企業倒産であり急激な「産業空洞化」(Deindustrialization)の進行であり,民間投資「不足」であり民営化の遅滞であり,失業者の加速度的な累積であり西ドイツへの通勤者や早期引退者の激増であり,そしてインフレの昂進であった。1989=100とした旧東ドイツのGDPは91年第2四半期にはおよそ半分の54%にまで落ち込んだ。91年の雇用者1人当たりGDPによって東西ドイツの生産性格差を見てみると,西ドイツ=100としたとき,東ドイツの水準はわずか28.6%であった。東ドイツ製造業の生産性もまた西ドイツ製造業水準の3割にとどまっていた(OECD 1992:20f.;Financial Times, 16 March 1993)。そういう条件下での賃金パリティであった。だからこそGesamtmetallのヴァンゲンハイムは「あれ〔賃金パリティ協約〕は誤りだった。91年時点では東ドイツ経済についても企業経営の実態についてもあれほどひどいものだとは思ってもみなかった。東ドイツからの輸出シェアの8-9割を占めていたロシア経済がガタガタになっても,それに代わって東ヨーロッパに対する輸出競争力はまだかなりあるのだろうと勘違いしていた。(中略)あれはまったく政治的な協約だった。現状にも目を覆うものがある。すべてではないが,グリーンフィールド〔新規立地〕はうまく行っている。しかし東ドイツの雇用の8割はいまも民営化機構のTreuhand(注46)によるものであり,その賃金は税金によって賄われている」と慨嘆していた。賃金パリティ協約は「政治的」な協約であり誤りであったと断言していたのが印象深い。
 Gesamtmetallとしては,こうした事実認識に立って92年秋以降繰り返し賃金パリティ協約の再交渉をIG Metallに申し入れてきた。というのも,91年3月の賃金パリティ協約には「経済社会情勢に照らして賃金調整が必要になった場合には,労使は協議しなければならない」という「修正条項」(93年1月以降適用)が盛り込まれていたからである。
 IG Metallのクールマンもまた,「東ドイツのほとんどの企業はいまも従業員に賃金を払えない状態にある。Treuhandからその資金を供与されている」と東ドイツ企業の窮状について同様な事実に触れていた。しかし他方では,「どうにかして東ドイツの産業空洞化に歯止めをかけねばならない。その点で政府もまた使用者団体もマーケット・イデオロギー〔市場至上主義〕に取りつかれている。急激な市場経済への移行は雇用ではなく失業の創出を結果するだけだ。特に失業が未熟練の若年労働者を直撃していることもあって,それが極右台頭の契機にもなり,さらに忌むべき人種差別やエスニックな対立激化の見逃せない誘い水となっている。中略)もちろん,われわれIG Metallにとってもまったく経験のないことに対処しなければならないのだから,簡単にこうすればうまくいくといった処方箋があるわけではない。しかし競争市場にさらせば済むということではない。民営化といっても少なくとも10年の時間が必要だろう。まず政府がイニシアティブをとって投資をし,並行して人にも投資していくこと,そして時間をかけることが何よりも大切だ」と述べた。
 では,肝心の賃金パリティ協約についてIG Metallはどう考えてきたのか。92年11月2日のGesamtmetallの見直し(再交渉)正式決定に対して,IG Metallのスタインキューラーは協議には応じてもよいが,パリティ協約そのものを変更する意思はまったくないと表明した。急激な賃上げが東ドイツ経済再建を妨げ,雇用機会を縮小させているという使用者側の主張は根拠薄弱であると反論した。
 交渉・争議・妥結
 決定的な動きが93年3月に起こった。Gesamtmetallが賃金パリティ協約から導き出される93年4月からの「26%の賃上げ」(それで東西ドイツの賃金格差が82%まで縮まる)は,東ドイツの経済混乱と低劣な生産性(西ドイツ水準の3割),西ドイツ不況などを考えれば到底実施不可能である。そんなことをすれば,東ドイツへの投資はますます減り失業の増大に結びつくだけである。93年度の物価上昇率(予測)の9%だけの賃上げに抑えたいという決定を下したからである。鉄鋼連盟(Arbeitgeberverband Stahl)もまた,これにならって93年4月からの「21%のパリティ賃上げ」を破棄するという決定を3月31日に行った。
 翌4月1日,ブランデンブルグ,ザクソニー,東ベルリンで大規模な職場放棄が起こった。IG Metallの発表によれば,それは東ドイツの220工場を巻き込み,10万人の規模にのぼった。IG Metallのスポークスマンは,「こうした使用者の決定は団体交渉制度の伝統を切り崩そうという狙いをもったものだ」と厳しく非難した。使用者団体による賃金パリティ協約の「一方的」な破棄通告と9%賃上げの再提案,それに続く大掛かりな職場放棄によって事態はまったく新たな局面を迎えた。その直後に生じた動きのなかで見落とせないものの1つは,この職場放棄によってたちまち一部大企業がGesamtmetallの方針とは異なって「暫定的に26%あるいは9%以上の賃上げを行う用意がある」という行動に出たことである。オペル,フォルクスワーゲン,ダイムラーといった自動車メーカーのほか,BICC(ケーブル・メーカー),それにルフトハンザ航空などであった。そこに顔をのぞかせているのは,前節で取り上げた使用者団体の「鉄の団結」を揺さぶるような大企業(多国籍企業や企業別労使関係を重視する企業,国営企業などが含まれている)からの挑戦であり,また使用者リーダーシップによる「経営エゴイズム」の主張であるといってもよいだろう。これがひとつ。
 もう1つは,ザクソニー州首相K.ビーデンコプフ(キリスト教民主同盟の有力指導者の1人),IG Metallザクソニー地区議長H.デューベル,そしてザクソニー使用者団体連合会会長E.ヘインというザクソニー州の政労使トップによる(もしそういってよければ,まさにメゾ・コーポラティズム的な)共同調停案の登場である。93年4月の賃上げはパリティ協約に従って26%とすること,しかしその後の均一化テンポは当初予定よりも9カ月遅らせて,94年4月のパリティ率は91%にとどめるというのがその提案の骨子であった。この共同提案そのものは使用者団体内部(中央と地方組織)の対立,Gesamtmetallの強硬な反対によって現実のものとはならなかった(Financial Times, 2-6, 29 April, 4 May 1993)。いよいよ賃金パリティ協約をめぐる労使紛争は泥沼化の様相を呈しはじめた。IG Metallは5月3日から2週間にわたって東ドイツの金属産業を巻き込んだストライキ行動に立ち上がった。争議が終息したのはようやく5月下旬のことである。上記のザクソニー州で「パイロット協約」が締結され,それが東ドイツの他の協約地区にもそのまま適用されることになったからである。
 その妥結内容の骨子は,第1に東西ドイツの賃金パリティ完了の期限を96年7月1日とすること(したがって91年3月協約からすれば2年3カ月の遅延),第2に93年賃金ラウンドによる賃上げは7月1日から15%引き上げること(パリティ率75%),ただし9月1日から追加的賃上げを行って18%,さらに12月1日からは改定前に比べて21.7%にまで賃上げを行うこと,第3に94年7月1日時点でのパリティ率は87%,また95年7月1日では94%とすること(ただし再協議の可能性を残すこと),第4に「オープン協約」(注47)は経営の悪化した企業が雇用を維持しつつ企業再建に取り組むという限りにおいて,また労使団体が承諾した場合に限って認めるというものであった。総じていえば,均一化の時期は遅れるにせよパリティ協約が再締結され,93年賃金ラウンドでもGesamtmetallの9%という主張を退け,さらに「オープン協約」にも厳しい制約を課すことができたという意味でIG Metallの「善戦」という評価が多い(cf., EIRR, no. 233:8-9, OECD 1993b;61)。

(注46) このTreuhandについては,cf., OECD 1992:52f.

(注47) もちろん,東ドイツに限ってのことである。

 小 括

 コールが92年9月に提起した広い意味での連帯協定-ひとつには東ドイツ経済再建のための費用負担に関連する連邦政府と州政府,社会民主党等による狭義の連帯協定,もうひとつは東西ドイツの賃金パリティ協約をめぐる紛争と新協定の締結-について事態の展開を追った。
 第1に,これら2つの協定と協約(改定)は内在的な関連をもっていた。東ドイツ経済をどう再建するか(社会主義経済の資本主義化,あるいは民営化・市場経済化),それに必要となる社会的費用(増税や租税配分方式の改定,公共支出削減,公債発行,賃金抑制など)を誰がどう負担するかという点で両者は深く結びついていた。89年から91年にかけての「統一」経済ブームが過ぎ去ったあと,次第にはっきりしてきたのは東ドイツ経済の再建に必要とされる資金が当初の予想をはるかに超えるものであるらしいこと,東ドイツ企業の技術水準と生産性は目を覆うばかりの低さであって,その国際競争力は期待の水準を大きく下回るものであるらしいことなどであった。「こんなはずではなかった」という声が東西ドイツの随所から挙がり,併せてスタグフレーションの大きな歯車が回りはじめた。
 これら狭義の連帯協定といい,賃金パリティ協約をめぐる紛争といい,いずれも冷戦崩壊という政治的熱狂が過ぎ去ったあと,東ドイツ(社会主義)経済再建の道筋をどう設計することができるか,その費用をどう分担すべきかに関する協議交渉でありまた争いであった。こうして政治の春が去り,一挙に経済の冬を迎えた。多くの無知が白日の下にむき出しになった。果たしてこの広義の連帯協定がよくその効を奏するか,いまはまだ誰もしらない。
 第2に,しかし狭義の連帯協定締結へのプロセスを見てみると,ひとつにはそこに登場する主体が直接の当事者である連邦政府と地方政府,野党のほか,社会的パートナー(労使頂上団体)であり5賢人委員会であり,6大研であり連邦銀行であって,いずれも現代ドイツの賃金決定メカニズムを語るうえで欠かすことのできない公的あるいは準公的機関であることに気づく。
 もうひとつ,それと同時に興味をそそられるのは,その最終局面においてもかなりの意見の対立と隔たりがあったにもかかわらず,それが互いの調整と妥協を重ねることによって克服され協定調印にまでこぎつけたという事実である。そこにある種の理想主義の香りと併せて「合意政治」の健在ぶりを見て取ることができるだろう。
 第3に,賃金パリティ協約(91年3月締結)の見直しと再交渉はさらに多くの困難を伴った。より多くの時間を要したばかりではない。妥結に至る最終場面で2波にわたるストライキを経験しなければならなかった。IG MetallのIG Chemieなどに比べればややかたくなとも見える対応もさることながら,パリティ協約の「修正条項」に基づいてGesamtmetallは同協約を破棄,93年4月からの賃上げを9%にすると再提案した。これが紛争行動の引き金となった。
 このパリティ協約の再交渉問題で問われていたのは,少なくともIG Metallにとって経済問題のみではなかった。むしろ「修正条項」はあったにせよ使用者団体が一方的に労働協約を破棄するという「かつてない」出来事が起こったこと(「憲法的正義」の蹂躪とIG Metallは受け止めた),したがって東ドイツでの「オープン協約」の導入も含めて団体交渉制度の改革が使用者団体の基本的な狙いではないかという猜疑心をIG Metallは募らせていた。東ドイツのみでなく(92年6月の政府方針),「西ドイツにもオープン協約を導入すべきだ」(メレーマン経済相・93年1月辞職)という政府方針や閣僚の言動もまた,「この点で政府と使用者団体の見解はかなり近い」という見方を強めさせ,上記の危惧を増幅させた。
 それでも,Gesamtmetallの独自調査によれば,「東ドイツの金属産業労働者の4分の3は企業存続のためならば9%の賃上げも仕方がない」と考えていたし,さらにIG Chemieなどいくつかの「穏健な」労働組合は9%という再提案を受け入れはじめた。
 第4に,一方「賃着パリティ協約は政治的なものであり,誤りであった」という使用者団体のほうにも小さな乱れが生じていた。Gesamtmetallに続いて鉄鋼連盟が同じような破棄行動に出た直後,いくつかの大企業は26%あるいは9%以上の賃上げ回答を行った。そこに垣間見られたのはドイツ使用者団体が誇る鉄の団結のほころびであり,またある種の経営エゴイズムの動きであった。
第5に,もうひとつ,この賃金パリティ見直し交渉が泥沼化しはじめたとき,ザクソニー州の政労使トップが調停案を提出した。ひとつのメゾ・コーポラティズム的現象として注目に値する。
 なお,「パイロット協約」を締結して紛争解決のリーダーシップをとったのも-ちょうど北ヴュルテンブルク・バーデンが西ドイツの賃上げパターン・セッターであったと同じような意味で-このザクソニー州の労使であった。
 第6に,再締結された賃金パリティ協約の内要は,どちらかといえばIG Metallなど組合側に有利なものであった。2年3カ月ほど賃金均一化の時点が先に延ばされたが,93年の東ドイツ金属産業労働者の名目賃上げ率は2割を超えた。東ドイツにおける「オープン協約」の導入にも厳しい条件づけが施されたからである。
 奇妙なしかし単なる偶然かもしれないが,86年以降IG Metallに「君臨してきた」スタインキューラー会長がDaimler-Benz株のインサイダー取引に関連するスキャンダルに巻き込まれて辞任したのはその直後のことであった。
 第7に,それにしても,この広義の連帯協定は2つの異なった顔をもっているように思われてならない。ひとつは名高い「合意政治」の健在ぶりを伝え,またザクソニー(東ドイツ)と北ヴュルテンブルク・バーデン(西ドイツ)とを重ね合わせてみれば分かるように,早くも東ドイツの賃金交渉が西ドイツ方式に「統合」あるいは「併合」されていく光景である。それは確かにドイツ・モデルの伝統と持続力を物語る。
 他方,広義の連帯協定の中身を見てみると,財政再建といい,また東ドイツ経済の再建といい,その前途はまことに多難であるように思われる。一方におけるドイツ・モデルの健在ぶり,しかし,他方における2つの再建問題というアポリア-,ベルリンを発つ日,その新雪の上に深々と刻印されていたのはこの印象的な落差であった。

 まとめ

 それぞれの箇所でその都度,小さなまとめを書き留めた。したがってここでは,ごく簡単な要約をしながら,いくつかの結論に触れることにしたい。

1 マクロ政治経済モデルとしてのドイツ・モデル,そして労使関係のドイツ・モデルという2つのドイツ・モデルの彫刻から始めた。このうち前者は必ずしも一義的に明瞭な内容を備えているとはいえない。それでも,準公的制度による広範な合意形成と「緩やかなコーポラティズム」に基づいて,社会的次元と両立し得る経済的効率を達成しようとする「社会的市場経済」に準拠した政治経済モデルと表現することができる。そこには,「合意+コーポラティズム=経済達成」といった図式ばかりでなく,旺盛な企業家精神と手工業によって象徴される裾野の広い「中産階級」と強い労働倫理・人的資源開発,さらに競争セクターの国際競争力確保といった内容までが幅広く封入されている。
 もうひとつの労使関係のドイツ・モデルとは,労使関係の二重構造(産業別団体交渉と企業内協議・共同決定の2層性),憲法的法定主義(労働協約の一般的な法的拘束力と「憲法的正義」としての協約遵守),「包括的」な利益表明行動に基づく集権的かつ協調的あるいは共同決定的な労使関係という3つの要素から構成されている。このモデルに内在的な困難があるとすれば,その水準は「協調的あるいは共同決定的な労使関係」がどの場面(レベル)でどの程度に成熟するかにかかっている。それが企業レベルで成長するということになれば,それは「経営エゴイズム」の発達を促し,それだけ労使関係の集権性を弱めることになる。そのときには,労使関係の二重構造が予定する2層の相互補完性は傷つけられる。W.ストリークはかつてこの経営エゴイズムの成熟を労使関係の「日本化」と呼んだ。その成熟の担い手は従業員あるいは従業員代表組織であり得るが,また個別企業の経営者でもあり得る。
 これら2つのドイツ・モデルの相互依存関係と適応力を検証するため,ここでは現代ドイツの賃金決定メカニズムという素材を選んだ。
2 その検討に先立って,まず労使団体のそれぞれがその組織運営という意味でこの10年ほどのうちにいかなる経験を積んできたかという問題を取り上げた。ひと言でいえば,それぞれにその「伝統的」なあり方に対して内部から重要な挑戦状が突きつけられたといってよい。
 製造業からサービス業へ,ブルーカラーからプロフェッショナルを含むホワイトカラーへといった産業職業構造の変貌マイクロエレクトロニクス技術の目ざましい発展と「新型の知的熟練労働者」の登場,女性やーパートタイム労働者の増加と柔軟な働き方の探索,国際経済化と国際競争力への関心の高まり,伝統的な労働者文化と社会主義イデオロギーの内面的風化,エコロジーやフェミニズムなどの「新しい社会運動」の台頭,労働の人間化と経営参加ニーズの高まり,ポスト・モダニズム的価値意識の生成,さらには福祉国家の見直しと個人主義の浸透-こういった時代のうりねは一方において組織労働者の類型を多様化し,そのニーズを異質化させた。他方では,企業や職場で柔軟に対応すべき「質的」問題の幅を広げて企業内協議の比重を相対的に高めることになった。これは,「共通規則」と集権的な交渉によって一括大衆的に対処しようという「伝統的」な労働組合のありようとは基本的に馴染まないこと,したがってまた新たな「ユニオン・アイデンティティ」構築とその必要を示唆していた。
 こうした地殻変動はまさに構造的といってよいものであって,今後ともその力は弱まらないように思われる。
3 こうした時代の挑戦状は使用者団体にも届いていた。ドイツの労使関係の集権的な安定性を支えてきたもののひとつは明らかに使用者団体の高い組織率と強い団結力であった。しかし80年代の時短や賃上げ交渉を契機にして,産業別協約は中小企業の実情を無視した大企業労使による「交渉カルテル」の産物ではないかといった批判が群小のアントレプレヌアや中小企業団体から寄せられるようになった。80年代にGesamtmetallはその中心的な委員会として調整交渉委員会を新設したが,その背景のひとつがこうした内部批判であった。北部ドイツの中小企業団体(ASU)による最近の一文書が提唱していたのは,端的にいって企業別交渉の充実と制度化(中長期的には法制度の改定を含む)ということであり,したがってまた「オープン協約」の一般化ともよく共鳴する構想であった。
 この企業別労使関係の重視という考え方は一部の大企業労使のものでもある。上記の経営エゴイズムの進展と労使関係の「日本化」というストリーク仮説はその動きを見据えてのものであった。企業レベルでの協議・共同決定の比重が高まれば-その可能性は労働市場の内部化や労働組織の革新と人的資源管理,企業行動の国際化,さらには「第2ラウンド」の発展などにかかっている-,否応なく企業別労使関係の成熟ということになるだろう。IG Metallの『労働協約改革2000』(1991)から読み取れる展望は,これまでよりも企業別労使関係の比重が高まっていくというシナリオであるように思われる。とはいえ,現時点ではGesamtmetallもIG Metallも上記ASUの提言には批判的であって,これまでどおりの集権的な労使関係を維持していこうとしている。しかしただ頑迷固陋であるだけであれば,ASUも「予告」しているように,それは中小企業のGesamtmetallなど使用者団体からの「大量脱退」の格好の誘い水になるかもしれない。
 ここで強調しておいてよいだろう点は,ドイツ使用者団体の内的な凝集力が一方では中小零細企業とその団体から,他方では多国籍企業を含む大企業から揺さぶりをかけられているという構図である。その揺れによって生じるだろう亀裂がいま触れたような方向に向かって走るとすれば,それは明らかに労使関係のドイツ・モデルの崩壊を導くことになるだろう。

4 マクロ政治経済モデルとしてのドイツ・モデルに引きつけていえば,これまでドイツ製造業の強い国際競争力を下支えしてきた無数の小零細企業・アントレプレヌア(彼らは時に「冒険者」あるいは「中産階級」と別称される)がいま大きな困難に直面しているという点も見落とせない。それが循環的な不況に伴うものなのか,それとも深刻な構造的困難であるのかについてにわかに断定することはできない。しかしもし後者であれば-ドイツ自動車産業の再編と外国投資の増加,労働慣行の見直しと人的資源管理の変化,マルク高,高労働コストと国際競争の激化,ロシア・東欧経済の混迷などを考えればその可能性は小さなものとは思われない-,それはマクロ政治経済モデルとしてのドイツ・モデルの内的腐食を促すことになるだろう。もしアントレプレヌアの選択淘汰と「産業のピラミッド化」に拍車がかかれば,その先に見えてくるのは「もうひとつの『日本化』」であるように思われる。
 以上,この10年ほどを振り返ってみると,一方において労使関係のドイツ・モデルに基本的な変化は生じなかった。しかし他方では,労働組合もまた使用者団体もさらに労使関係のありようも等しく構造的な時代のうねりにさらされており,その内部から厳しい挑戦状を突きつけられた。これからその問題提起にどう答えていけるか,労使関係のドイツ・モデルの力量が試されている。
5 「協調行動」の一時代を除けば,戦後ドイツの賃金決定は現在に至るまで国家不介入の原則を高々と掲げ,それを遵守してきた。このドイツの賃金決定メカニズムには,いくつかの重要な特色が認められる。
 第1に,政府から自律(自立)した5賢人委員会や6大研といった準公的研究機関あるいは連邦銀行のような強力な公的機関が,賃金ラウンドの「第1ステップ」においてきわめて重要な役割を担って登場する。6大研の共同経済報告(10月下旬),5賢人委員会の『経済鑑定書』(11月15日),連邦銀行の随時コメントなどによってマクロ経済情勢と賃上げ環境に関する広い情報共有,突っ込んだフォーラム構築,社会的合意形成が促されるといった慣行が出来上がっている。
 5賢人委員会はインフレ抑制と製造業の国際競争力確保といったことをそのベイシック・コンサーンとしており,企業レベルでの「第2ラウンド」を見越していつも低めの賃上げ勧告を行ってきた。また,ドイツ連邦銀行はいま「ヨーロッパ中央銀行」としての役割期待が高まりつつあるものの(そのため役割葛藤にも直面しはじめているが),「伝統的」にインフレ抑制と通貨「安定政策」をその根本規範としてきた。その点はいまも揺るがない。
 第2に,労働組合の賃上げ規範という点でいえば,まずその要求づくりの準拠枠となっているのはインフレ率,生産性上昇率,そして労働分配率(いわば「生活向上分」)の3つである。なかでも前2者が重視されている。これがひとつ。もうひとつは,パターン・セッターとして重要な役割を演じてきたIG Metallはドイツ金属産業の国際競争力の維持向上に強い内在的な関心をもっている。そのために,生産性上昇率からかけ離れた賃金上昇はかえって国際競争力を弱め,雇用機会や賃金等の労働条件にも悪影響を及ぼすと見ている。この点ではIG MetallとGesamtmetall,そして5賢人委員会や連邦銀行の間に基本的な合意が成り立っているといってもよい。
 この賃上げ要求づくりに関する基本的な考え方は,他の産業の労働組合によっても共有されている。したがって,それに見合った産業間の賃金格差が生じても不思議はない。
 第3に,過去を振り返ってみると,賃上げパターン・セッターは必ずしも固定的ではなかった。特にインフレが急進したような場面では公共部門(OTV)が大きく前に出るといったことがあった。しかし,規範的に望ましい賃上げパターン・セッターはこれからも「競争セクター」の先頭に立つIG MetallとGesamtmetallの金属産業労使(もっと突っ込んでいえば,シュトゥットガルトを中心とする北ヴュルテンブルク・バーデン地区)であるべきだという点で広い社会的合意が形成されている。
 このように,競争セクターの金属産業の国際競争力を維持すべく,賃上げ率は金属産業の生産性上昇率を基本的な準拠枠とすること,したがって「保護セクター」である公共部門がパターン・セッターとなることがあってはならないこと-こうした意味で,ドイツ賃金交渉の主体はスカンジナビアのEFOモデルを広く共有している。
 第4に,この産業別交渉によって決まるのは産業(地域)別ミニマム賃金であって,いかなる使用者もこの水準を下回って賃金を支払うことはできない。賃上げ率は自動車や電機等の金属製造業のマニュアル・ワーカーのうち,まずその標準労働者(たとえば30歳・経験10年)の賃金率(「中間賃金」)を決め,他はホワイトカラーまで含めてそれと同率の賃上げを行うというやり方になっている。
 第5に,多くの中小零細企業ではこの産業別ミニマム賃金がその基本賃金となる。しかし多くの大企業では従業員代表組織との「第2ラウンド」によってその上乗せ協議が行われている。事実上の交渉といった性格さえもっている。任意的付加給付と呼ばれる部分がその上乗せに相当する。この付加給付には企業の業績や労働市場情勢をにらんだ特別給与加算やボーナス(ドイツではふつう「13カ月目の給与」と呼ばれ,その年収比率は日本とは比べものにならない),企業年金やキャンテーン改造,カンパニー・カーなど企業福祉にかかわる内容までが広く含まれる。この部分がすべて賃金ドリフトになるわけではないが,その賃金総額に占める比重は-それは同じ金属産業においても業種や企業などによってかなり異なる-自動車産業を念頭に浮かべていえば,およそ2割程度であるらしい。
 もっとも,この上乗せは法的には協議であっても団体交渉ではない。あくまでも企業の任意的給付という基本的な性格をもっている。したがって,通常の賃金ドリフトは産業別ミニマム賃金に対する上乗せを意味するけれども,それとは逆の賃金の実質的カット,つまり「マイナスの賃金ドリフト」も生じる可能性がある。実際,厳しい構造問題をさらされている自動車産業をその震源地とする「ボッシュ効果」をその最近の実例として挙げることができる。80年代を通じて賃金ドリフトは安定的に推移してきたが,このボッシュ効果は賃金ドリフトの拡大ではなく縮小を意味している。
 以上,現在の賃金決定メカニズムに関する観察結果による限り,いまもドイツの労働組合と使用者団体はEFOモデルをその基本的な準拠枠としながら集権的で「包括的」な利益代表行動の担い手となっており,その労使関係は基本的に協調的で共同決定的な性格を失っていない。また賃金決定そのものも,賃金ドリフトを過大に見積もって「分権化」したなどということはできない。その意味で,上記のような構造的プレッシャーにさらされながらもなお労使関係のドイツ・モデルはよく機能しているといってよい。それはまた,マクロ政治経済モデルとしてのドイツ・モデルの健在ぶりを示唆している。
 したがって今後の展望として有力なのは2つ-ひとつは構造的プレッシャーが強まって企業別労使関係の比重が高まる。しかし賃金決定メカニズムは現状を維持して容易に分権化しないというシナリオ(企業別労使関係の発展と集権的に高度な調整された賃金決定機構:日本モデル),もうひとつはケルン=セーベルの見方(Kern and Sabel 1991)に親和的であるが,構造的プレッシャーは労使関係の二重構造のパラレルな成熟を促し,かつ賃金決定も現状を維持していくというシナリオ(ドイツ・モデルの持続性仮説)が考えられる。したがって,見通される将来において労使関係と賃金決定がともに分権化するという仮説には,これまでの検討を踏まえていう限り推論の無理があるように思われる。
6 しかし先の構造的プレッシャーに加えて,2つの意味でのドイツ・モデルはもうひとつのもっと大きな困難に直面している。歴史的な冷戦構造の崩壊と政治的熱狂,その後に訪れた東西ドイツの経済社会的な統一(内容的には東の西への「統一」)という想像を絶するような難事業がそれであった。ここで取り上げたのは広義の連帯協定(狭義の連帯協定と賃金パリティ協約の見直し交渉)についてである。もちろん,両者には内在的な結びつきがある。
 このうち,東ドイツ経済再建の費用分担に関する中央政府と地方政府等による狭義の連帯協定は93年3月,6カ月間にわたる協議の末にようやく調印に漕ぎつけた。コール政権は増税や租税配分方式の変更,公債発行,公共支出の削減など当初の政府案からかなり譲歩する形で地方政府と野党の合意を取りつけた。財政再建などの懸案が将来に先送りされる形になった。しかしこの協議プロセスを追っていくと,そこに「合意政治」の軌跡がくっきりと浮かび上がる。政府を除けば,登場した主体は賃金交渉のときと基本的に変わらない。互いの調整と妥結,ひとくちでいって互譲の協議がそこに見事に例証されていた。
 もうひとつの賃金パリティ協約の見直し交渉もまた,東ドイツ産業経済の再建とその費用分担にかかわる事柄であった。東西ドイツの「生活水準の早期平準化」という政治的公約に基づいて,91年3月に多くの産業労使が賃金パリティ協約を締結した。3年ほどの間に当該産業における東西ドイツの賃金格差をなくすという約束であった。しかしその協約後に明らかになってきたのは,東ドイツの脆弱な産業基盤と疲弊した企業,低劣な生産性と国際競争力,低迷する投資行動,激しいインフレ,急増する大量失業と西ドイツへの通勤者(ペンドラー),そして膨大な外国人労働者の流入とネオ・ナチ的な排外紛争-こういった重苦しい現実であった。使用者団体は「あの政治的な協約は間違いだった」とほぞをかんだ。「修正条項」に訴えて労働組合にその見直し交渉を迫ったが,組合はその変更を認めるわけにはいかなかった。経済再建の手法について使用者団体とは異なった道筋を考えていたこともあるが,政府も使用者もこれを機にこれまでの団体交渉制度を変えようとしているのではないかという猜疑心もあった。賃金パリティ協約の一方的な破棄通告(93年3月)はそれを実証するもののように映った。労使双方の足並みの乱れにもかかわらず,2波のストライキを経て5月下旬,ザクソニーで「パイロット協約」が結ばれて紛争は終息した。再締結されたパリティ協約には,均一化のテンポを前協約よりも2年以上遅らせること,しかし93年賃上げ率は2割を超えること,さらに東ドイツに関するオープン協約の導入にも厳しい制約が加えられることになった。総じていえば,この紛争には構造変化のバネが装着されていたように思われるが,結果は労使関係のドイツ・モデルが東ドイツに拡張適用されただけではないか,と見ることができる。
 しかし別の角度から見れば,この広義の連帯協定をめぐる協議と交渉を通じて,ドイツの合意政治も労使関係のドイツ・モデルも生き延びたが(健在であることが確認されたが),それは問題の解決を意味しない。むしろ,問題を先送りしただけではないかという疑問が脳裏をかすめる。東ドイツ経済再建の展望といい,財政再建の遅延といい,かえって困難な課題を抱え込むことになったからである。それに,すでに触れたような時代の構造的プレッシャーや冒頭に引いたコールの「嘆きの呼びかけ」まで加えていれば-,果たして「合意+コーポラティズム=経済達成」といった楽観的な図式がこれからも成り立つのかどうか(そう安易に仮定してしまってよいのかどうか),大きな疑問が膨らんでいた。いずれのドイツ・モデルもいま重大な岐路に立っているのではないか。変化の水準をカッコにくくっていえば,変化のベクトルは明らかにネオ・リベラリズムに親和的な方向に向いているのではないかといった仮説がどうしても頭をもたげる。

7 最後に,スウェーデン・モデルやオーストリア・モデルを取り上げた箇所で言及しておいた利益代表管理,分配公正管理,そして国際競争力管理という3つの観点に沿ってドイツ・モデルを見たとき,いったい何がいえるだろう。
 第1に利益代表管理という点でいえば,他の諸国の場合と同様に,ひとつにはマイノリティや群小の小零細企業の存在,難民等エスニシティの異質化,個人主義化しポスト・モダニズムに傾斜していく価値志向,そういった現代マクロ趨勢と大衆的な凝集力に依存してきた労働組合の組織行動ルールの調整をめぐって,今後とも組合の自己革新が要請されることになるだろう。IG Metall『労働協約改革2000』はそのひとつの試みであった。
 もうひとつ,ドイツの労働組合の産業別という組織原理がスウェーデンのようなクラフトあるいは職業別でも,また日本のような企業別の編成とも異なっている点に改めて注目する必要がある。利益共有ユニットの大きさにおいて,まさにドイツはスウェーデンと日本の中間に位置している。それによってスウェーデンのようなユニオン・ライバルリーを回避することができた。しかしこのユニットが上記のような現代マクロ趨勢を考えるとき,たとえ「日本化」しないまでも細分化されることがないのかどうか,今後の動向が注目される。
 第2に,分配公正管理という点に絡めて,ひとつにはEFOモデルの制度化ということが見逃せない。競争セクターと保護セクター,民間部門と公共部門,大企業と中小企業といった「セクター間クラッシュ」の可能性をそれは一定の仕方で制御しようとしているからである。もうすとつは,ドイツにおける賃金決定の柔軟性についてである。その水準を過大に見積もってはならないが(OECD 1989:42f.),逆にそうかといって過少評価してもならないだろう(Shonfield 1993)。労働組合の賃上げ要求づくりにおける生産性上昇率重視という考え方とそこから派生する産業間賃金格差,産業別ミニマム賃金と第2ラウンドによる賃金ドリフト(つまり,同一産業内での大企業と中小企業の賃金格差),さらには文脈上触れ得なかった企業内における業績給の浸透といったとは,すべて賃金決定の伸縮性あるいは柔軟性を示唆している。
 さらに,80年代の所得分配に関する最近の国際比較研究によれば,アメリカやイギリスでは貧富の差は拡大したのに比べて,ドイツでは低所得層が底上げされる形で格差が縮小したという事実(OECD 1993c:158f.)にも目を止めておく必要がある。
 第3に,国際競争力管理という点でいえることのひとつは,ドイツの賃金決定においてもまたマクロ政治経済モデルの運営という意味においても,金属製造業の国際競争力の維持向上ということがきわめて重視されてきたという点である。それは日本の場合と変わらない。しかしその一方で,東ドイツ経済再建という喫緊の課題が突きつけている問題もまた,この国際競争力管理に深く結びついている。社会主義経済の資本主義化(民営化と市場経済化),それがいかに難問であるかは連帯協定の締結や賃金パリティ協約の見直し交渉からさえ容易にうかがうことができる。
 こう見てくると,詰まるところ,いまマクロ政治経済モデルとしてのドイツ・モデルは,一方では利益代表管理によって,他方では国際競争力管理から挟撃されているといったひとつの構図が浮かび上がる。果たして労使関係のドイツ・モデルの修正なくしてその双璧の傷みによく耐えられるのかどうか-まさにこれが問題である。



第4章 現代日本のマクロ・コーポラティズム

 -賃金決定と政策参加-

 はじめに

 日本が不透明で欧米とはルールが異なる異質な毛国だという批判が再び欧米から高まっている。オランダのジャーナリスト,カレル・ヴァン・ウォルフレンはその著書『日本/権力構造の謎』のなかで,日本は権力システムのなかに反対勢力が組み込まれてしまっていて,労働組合もそのなかに取り込まれていると断定している。ウォルフレンは,春闘に関しては鳴かず飛ばずの状態で「50年代にキバとツメを抜かれた労働運動は,ついに声まで失った感をまぬかれない」としたうえで,「新聞の社説では労働者の“要求"や“戦略"が論評されるので,労働運動が活発だとの印象を受ける。だが,その陰で見落とされているのは,日本の労働者が国の政策決定に参加していないという事実である」と指摘する(ウォルフレン 1990:第3章)。
 労使間の情報の共有を基盤として,労働生産性の向上とその成果配分を主目的としたわが国の協調的労使関係については,これまでにもさまざまな評価が与えられてきた。そのプラスの評価は,日本の労使関係が経済変動に柔軟に対応してきたことによって日本経済の良好なパフォーマンスの維持に寄与してきたというものであり,マイナスの評価は,日本の労働組合の相対的弱さが政治の「保守化」や「企業主義化」を進めているというものである(注1)。
 その他多くの評価にもプラス,マイナス両方がつきまとうが,わが国労働運動が第1次石油危機を契機として政策参加を媒介としたネオ・コーポラティズム化の動きを強めてきたことは事実である。そして,日本労働組合総連合会(連合)の結成が,こうした動きをより確実なものとしたと言える。しかし,それは労組サイドの沈黙でも消極的選択でもなく,逆に労組側の積極的発言と参加によって実現してきたものである。それはウォルフレンが言うような「手なずけられた」ものではないと筆者は考える。
 本稿では,政策参加と賃金決定についての労働組合の行動を追うことによって,今日のわが国における労働組合の参加によるネオ・コーポラティズム化の形成と現状についてひとつの視点を示すことにしたい。

(注1) プラスの評価として,たとえば白井泰四郎は「賃金決定や配置転換等において労働組合が柔軟な姿勢を採り得る背景としては,年功賃金制度が労働者のライフサイクルに応じた生計費に対応していること等から企業の発展が重要な関心事項であることや,日常的な労使協議システムのなかで企業の経営方針や経営状況について豊富な知識・情報を共有していることから企業との一体感が醸成されていることが寄与している」と指摘する(白井 1991:p.14)。
 他方,田畑博邦は80年代の労使関係について「石油危機後に『組合主義』は顕著に後退し,個別企業内に封じ込められた『企業主義』は,企業の生産性や収益力を大きく高めたが労働条件(労働時間をみよ)の改善や社会資本の整備は相対的に大きく立ち遅れた」(田畑 1991:p.268)と批判している。

1 70年代-石油危機を契機とした労働組合の行動変化

 わが国の労働運動が政策参加を媒体として政労使の合意形成を図りながら運動を推進するように軸足を変えてきたのは,1975年にそのルーツをたどることができる。
 1973年から74年にかけて,わが国経済は激しいインフレに見舞われた。この急激なインフレの原因は,71年から73年にかけて過大な貨幣供給が行われ,さらに72年後半からの為替政策の失敗が加わり,73年10月以降の石油危機がこれに追い打ちをかけたことであった(小宮 1976)。政府はこの石油危機への対応策として,大幅な総需要抑制策を打ち出した。通産省は設備投資の新規着工のストップを産業界に指導するとともに,74年度予算では公共投資を極力抑制するとともに,公定歩合を2%引き上げて9%とした。
 こうした政策の激変を受けて,民間では資材の買い急ぎが出るようになり,企業も個人も手当たり次第に買いあさる行動が見られるようになった。有名なトイレットペーパー騒ぎがあったのもこの頃であったし,買い占め,売り惜しみ,便乗値上げなどの企業行動も至るところに見られた。
 労働組合は74年の賃上げ闘争では,インフレで圧迫された家計を大幅賃上げで回復しようとした。企業も前年末のインフレ,物価高騰で大儲けしたために支払い余力があり,平均32%の大幅賃上げとなった。しかし,その後のコストアップと総需要引き締め策によって企業収益は大きく圧迫されることになった。他方,労働者サイドも物価が高くなりすぎて家計が圧迫され,買い控え行動が見られるようになり,この年は消費性向が4ポイントも下落した。石油値上げ,政府・日銀による需要の引き締め政策,消費の萎縮などが複合して総需要は大きく落ち込み,日本経済は深刻な不況に陥った。
 こうしたなかで,賃金コストの上昇がインフレの元凶であるという主張が財界やエコノミストから出されるようになり,さらに所得政策論も登場して賃金をめぐる論議が盛んになっていった。インフレと不況が同時に起こるという経済情勢は日本に限ったことではなく,欧米の先進諸国も同じような問題に直面した。そのときに,労働組合がとった行動は欧米と日本では異なるものとなった。このとき,日本の労働組合が選択した行動は,その後のわが国の労働運動の方向を決定づけるものとなった。

 75年賃金交渉における労働組合の転換

 75年の賃上げをめぐって学者やエコノミストの間で,所得政策をめぐる論争が活発化した。政府が経済運営を安定化させるために所得政策をとるべきであると主張したのは金森久雄氏であった。金森氏は「あくまで補助手段としてではあるが,ゆるい形のガイドライン方式をとるべきである」として政府の介入を求めた。村上泰亮氏は「先進国型インフレは政治的問題であり,政治的対策のひとつである所得政策は『有資格者』である」と述べた。これに対し竹中一雄氏は,わが国の賃金決定は市場メカニズムのなかで決定されており,「所得政策をとる必要はない」と主張した。また,「日本経済はゼロ成長に入っており,こうした環境下では賃上げはストップすべきだ」という下村治氏のような主張もあって75年の賃上げをめぐる議論は激しいものとなった(注2)。
 賃金交渉の当事者である。,経営側と労働側はいずれも政府が所得政策をとって,労使の賃金交渉に介入することには反発した。日経連は「大幅賃上げの行方研究委員会」を発足させ,同委員会報告として「15%ガイドライン」を設定して,75年の賃金交渉は前年の半分以下の15%以下にすべきだとして,各企業の賃金抑制を呼びかけた。
 これに対し労働組合は,総評,中立労連で構成する「春闘共闘会議」が「30%以上」を,同盟が「27%以上」を要求基準として決定した。この数字の開きを見ると労使には大きな隔たりがあったように思えるが,同盟の75年「賃金白書」は賃上げの要求とその基本姿勢を次のように述べた。「従来通りの考え方に基づいて,労働者の実質賃金水準を維持し,若干でも向上させようとすれば,われわれは74年度と同率ないし,それ以上の大幅賃上げを要求せざるを得ない。しかし,現段階における一定の範囲を超える賃金の引き上げは,インフレの収束を遅らせて,結局は逆に実質賃金の上昇を停滞させるばかりでなく,年金生活者等めぐまれない階層の生活を一層の困窮に追いやり,さらには生活福祉環境の整備・充実を一層遅らせることにならざるを得ない」として,27%賃上げ要求基準がこれらの要素を総合的に勘案して設定されたものであることを表明した。白書の文脈からは従来どおりの発想ではなく,インフレ抑制をも考慮した労働組合の姿勢がにじみ出ていた。同盟はこうした立場から75年1月の年次大会で「インフレ抑制と福祉政策の積極的推進」に関する政策要求をとりまとめ,賃金闘争と一体のものとして対政府交渉を強化することを決定した(吉川 1977)。これは,労働組合がその社会的責任に対する自覚からとった姿勢であって,政府の所得政策がここに介入したものではなかった。
 さて,実際の賃金交渉でこうした「賃金白書」を背景にインフレ抑制に取り組んだのは民間の賃金決定に大きな影響力をもつ鉄鋼労連であった。宮田義二鉄鋼労連委員長は75春闘を前にして「前年度プラス・アルファといった要求はもう成り立たない」と言明し,要求を下げてでも物価の安定を最優先する姿勢を示した。この年の賃金決定では,鉄鋼と造船が同時同額決定を行って15%ラインを世間に示し,これがこの年の賃金相場となった(注3)。鉄鋼の経営側もこの時期,鋼材値上げを見送ってインフレ抑制に協力する姿勢を示した。
 こうした対応について,「左派」の組合からは賃金自粛であるとか,春闘敗北などの批判が相次いで出された(注4)。

(注2) 大蔵省官房企画調査課〔1978〕での所得政策論争の要約による。

(注3) 当時鉄鋼労連で賃金要求を作成する立場にあった千葉利雄鉄鋼労連顧問は「賃金決定を通じて,インフレを抑制する」という戦略をもって,同時同額決着という方式をとったこと,また賃金決定をリードする立場にある労働組合がそうした行動をとることをバーゲニングパワーとして使いながら,政府や財界に物価の安定を迫っていったことを後に明らかにしている。山田・小林(1982)における,座談会pp.248-250.

(注4) 戦後労働運動リーダーの1一であった太田薫合化労連委員長は,75年春闘の結果について,「春闘の終焉」だと語った。太田(1975)

 わが国における社会契約論の登場

 この賃金決定の流れは76年の賃金交渉でも踏襲された。春闘共闘会議は76春闘を「日本的所得政策突破をめざす長期の闘い」と位置づけ,「国民春闘路線の再構築をはかる」闘いとした。そこでは賃上げと制度要求を結合させて国民生活を守るという方針が示された。一方,同盟は「実質生活向上,雇用安定,インフレ抑制をめざす」考えを明らかにし,定昇別13%の賃上げ方針を決定した。この年には金属労協の鉄鋼,電機,造船,自動車の4単産が同日一発回答を行い,以後金属労協(IMF-JC)主導型の賃上げ決定が定着することとなった。
 宇佐美忠信ゼンセン同盟会長は76年9月のゼンセン同盟定期大会で「組合員の生活を守るためには少なくとも消費者物価を上回る賃上げを勝ち取り,物価安定,社会保障充実,雇用の安定,社会的不公正の是正を達成しなければならない。そのためには“社会契約的発想"を大切にしつつ労組の力と政策を強め,効果的な闘いを展開したい」と社会契約的賃上げの発想を提起した。
 また宮田義二鉄鋼労連委員長も新聞紙上で次のような意見を述べた。「新しい経済運営について労働組合もその社会的責任を自覚するなら,雇用安定の基本方向を無視しない限り協力体制で局面打開をはかるべきだと考える。(中略)特に構造改革となれば,必ず雇用問題が生まれることは明らかだから,雇用保障との関連において,政・労・使の合意を必要とする」(朝日新聞「論壇」77年6月1日)。
 この時期に宇佐美,宮田という2人の有力な労組リーダーから,期せずして社会契約的,あるいは3者合意的な発想が芽生えてきたことに注目すべきであろう。

 労働組合による政策・制度要求の推進

 75年から76年にかけて,労働組合による政策・制度要求が活発化した。これは同盟,金属労協が労組の社会的責任として,政策・制度の問題に積極的に取り組む方針をとったことにほかならない。そのポイントは雇用問題であった。75年には総評,同盟,中立労連,新産別による労働4団体共闘が成立し,政府に対し,雇用保険制度の改善,解雇規制,雇用安定施策の充実,未払い労働債権の建て替え払い制度の確立などの統一要求所が提出された。76年2月には改めて労働大臣と会見し,雇用保険制度による失業給付の広域延長,全国延長の発動基準の緩和,失業給付日数の延長(一律180日),雇用調整給付金の最高給付期間75日の延長の実現を要請した。これらについては,労働4団体と労働省の間で話し合いが続けられ,不況業種の雇用調整給付金を25日延長することと,定年退職や事業主都合による退職者55歳以上65歳未満の者に対する雇用保険の個別延長措置を行うことが政府側から示された。労働4団体はこれを受けて「一定の成果を上げた」として4団体共闘に一応の区切りをつけた。
 雇用保障以外にも,労働団体はそれそれの特徴を生かした政策要求を行った。春闘共闘会議はインフレ抑制,全国一律最低賃金制,スト処分の撤回などを要請した。一方,同盟は当面の経済政策(景気浮揚策),厚生年金制度の改善などについて要請した。金属労協は個人消費の拡大,物価安定などについて要請した。
 さらに民間労組共同行動会議も76年2月に雇用安定,物価対策,社会保障などについて政府に要請した。また,全国主要民間労組委員会懇話会(全民懇),地方民間労組協議会全国協議会(全国民労協)が中心となって,大阪から歩いて国会請願に向かう「減税大行進」を行い,大衆行動を伴うユニークな政策要求行動がとられた(高畑 1982)。この労働組合による減税要求は,77,78年に「キャッシュバック(戻し税)方式」による減税として一応の成果が見られた。
 労働組合による政策・制度要求は,これまでにも行われていたが,激しいインフレと構造的な不況のなかで実質生活向上,雇用安定という視点で労働組合が本格的に取り組み出したのは,75-76年頃からであったと思われる。特徴的だったのは,労働界全体の合意を得たものではなかったものの,社会契約的発想がそこにあったことである。しかし,この社会契約的発想は,その後,労組幹部の口からは発せられなくなってしまう。その理由は社会契約は政府と組合との双務的契約であって,労働組合だけが一方的に主張しても,これを実行させる「力」がなくては片思いに終わってしまうという懸念があったことである。労働組合の「力と政策」(注5)の強化がまず先だという発想に変わっていったのは当然の帰結であったと言える。

(注5) 労働組合が「力と政策」をもたねばならないことを最初に強調したのは,滝田実元同盟会長であった。この「力と政策」という言葉は「民間先行による労働戦線統一の基本構想」(1981年)に受け継がれ,全民労協,そして連合の運動理念のなかに生かされている。

 政策推進労働組議の結成と4団体共闘の解消

 時期は前後するが,労働組合の政策・制度要求を見るうえで見落とすことなできない出来事がこの時期に2つ起こっている。1つは政策推進労組会議(以下,政推会議と略称する)の結成であり,もう1つは4団体共闘の解消である。
 政推会議は,76年10月7日に結成された。この母体となったのは民間労組共同行動会議であった。民間労組共同行動会議は,73年に労働戦線統一をめぐって路線問題で挫折した22単産会議から,有志組織10単産が政策・制度課題への取り組み組織として発足したものである(注6)。76年になると,この年の賃金交渉で金属4単産による集中決着を軸とした民間主導型賃金決定方式が成功したこと,政策・制度要求の必要性についての民間単産の認識が強まったことなどが背景となって,民間労組共同行動会議をさらに拡大,発展させるべきだという機運が高まり,10月7日には,16単産1組織で政推会議が結成された。これに参加したのは総評から鉄鋼労連,合化労連,同盟からゼンセン同盟,電力労連,造船重機労連,全金同盟,全化同盟,海員組合,中立労連から電機労連,全石油,全国ガス,新産別から全機金,新化学,ナショナルセンターに所属しない純中立から自動車総連,商業労連,ゴム労連の16単産と全国民労協の1組織であった。政推会議は当面,経済政策,雇用,物価,税制の4つに重点項目を絞って対政府交渉,大衆行動,関係各界への働きかけなどで共同行動をとることでスタートしたが,やがて,年金・医療,土地・住宅,資源エネルギー,婦人,行政改革や産業政策など政策要求の分野を次第に広げていった(注7)。
 一方,4団体共闘は総評,同盟,中立労連,新産別の労働4団体が政策問題などで共通の認識,要求がある場合に,それぞれの団体の主体性を維持しつつ,限定的に行われていたものであった。4団体共闘は74年に一度凍結され,その後,75年11月に雇用と年金問題に関して4団体共闘が行われていたが,77年12月に,4団体が成立を期した「特定不況業種離職者臨時措置法案」が衆議院を通過し,参議院でも一部修正のうえ衆議院に回付され成立の手はずになっていたものが,国鉄運賃法案と健康保険法改正案とのからみで,総評の態度変化,これを受けた社会党の国会での態度変化があって,12月に廃案という事態に陥り,総評不信が爆発,総評を除く労働3団体は書記長・事務局長談話で4団体共闘を凍結する方針を打ち出した。その後同盟は,労働4団体共闘の解消を正式に決定した。
 民間労組の総評不信は,74年の雇用保険法成立の時点からあった。当時,石油危機後の不況のなかで一時帰休などが行われたときに,失業保険では救済できないので,企業在籍のままで景気の悪化に伴う一定期間の休業が対応できる措置として雇用調整給付金制度の導入などを盛り込んだ雇用保険法案が国会に上程されたが,総評はこれを「大企業の首切り援助法」であるとして反対し,社会党は国会での成立を妨害した。民間労組は雇用不安におののく民間産業の気持ちがわかっていないとして,このときの総評の態度を厳しく批判したが,また「離職者法」の問題で同様のことが起き,4団体共闘が解消されることになった。その後,団体間の関係修復が図られたが,時短,最低賃金など限定的な共闘はあったものの,政策・制度要求については共同歩調という言葉は使われても,共闘という言葉が使われることはなかった。
 この政推会議の結成,4団体共闘の解消によって,既存のナショナルセンターの枠を超えて民間労組を中心とした政策・制度要求,さらにこれを軸とした民間先行による労働戦線統一の動きが加速されることとなった。

(注6) 戦後,労働戦線統一をめぐる動きはいくどかあったが,1972年になると労働戦線統一民間単産連絡会議の発足を見るに至った。これを22単産会議と称している。しかし,せっかくできた統一連絡会議も「議会制民主主義の尊重」「政治スト」などをめぐる運動路線をめぐって総評,同盟の意見が鋭く対立し,翌73年に22単産会議は解散のやむなきに至る。この解散は民間単産に失望感を与えたが,そのなかで,インフレ対策など国民生活課題を中心に単産レベルの横断的行動機関として全国民労協がかねて連携を維持してきた民間10単産で73年11月1日に民間労組共同行動会議が結成された。これは石油危機が起こる4日前のタイムリーな結成であった。これに参加したのは電労連,ゼンセン同盟,全金同盟,造船重機労連,全化同盟,海員組合,鉄鋼労連,合化労連,自動車総連,商業労連の10単産と全国民労協である。

(注7) 政推会議結成総会で経過報告を行った宇佐美忠信ゼンセン同盟会長は「(昭和)48年暮れには石油危機が起き,49,50年,そして本年にかけて,総需要抑制策により,ますます不況になった。雇用不安が増大,労働条件の改善も思うにまかせない。民間産業では共通の大きな悩みを抱え,私どもの生活周辺の解決すべき政策課題も山積をする。こういう状況で,さらに多くの民間組織が共同の運動を行う拠点をつくろうではないかということになった」と当時の状況を端的に語っている(政推会議運動史p.17)。なお,政推会議は77年10月事務局長を選任し,事務局体制を強化した。初代事務局長には高橋正男造船重機労連書記長が選任されたが,同盟副書記長就任により,78年3月からは山田精吾ゼンセン同盟書記長が就任した。以後,山田は93年11月まで政推会議,全民労協,連合で事務局長を歴任し,運動の中心的役割を果たした。

 政府との対話

 一方,政府側にも変化が出てきた。76年暮れの総選挙ではロッキード事件への国民の批判が厳しく示され,自民党は大敗を喫して与野党伯仲の状況を生み出した。選挙後に成立した福田内閣は,その政治姿勢を「連帯と協調」におき,各界との対話を通じて政局運営を図ろうとした。
 労働組合との対話もこの流れを受けて,77年1月12日には労働4団体と政推会議が別個に首相と会談することとなった。組合側は減税,物価,雇用をはじめとする政策要求について労組の主張を述べ,首相も取り入れられるものは予算,政策で消化したいとこれに答えた。
 福田首相と労働組合代表との政策問題についての会談は,首相としてはこのときがはじめてであったが(注8),福田赴夫氏は三木内閣の時代にも副総理として総需要抑制,インフレ抑制の政府の責任者として,労組代表と懇談する機会を多くもっていた。また,労働大臣が主宰して政府と労使の代表で構成する産業労働懇話会にも副総理時代に数多く出席し,労働組合の意見を聴く機会を多くもっていた。この積み重ねが首相と労働組合の会談を実現させた背景にあったことは見逃せない事実である。
 政策・制度要求に関する労働組合と首相との会談は,これを契機に今日まで継続的に行われている。ここで注目しておきたいのは,労働4団体と発足間もない政推会議が別個に首相と会談をもったことである。労働4団体はナショナルセンターとして野党にも影響力をもつ団体であるが,政推会議は民間労組のいわばカンパニア組織というべきものである。政府が政推会議を労働4団体と対等の扱いをしたことは,過去の慣行,慣例を重視するところとしては異例のことであった。この背景には,従来のイデオロギーに捉われない政策・制度要求をもつ労働団体が政府サイドから新鮮味をもって迎えられたことと,対話重視の政府の姿勢とが一致したことによるものと考えられる。
 この経過について宮田義二氏は次のように述懐している。「(前年度プラスアルファ方式は通用しないという)私の提唱は,76春闘では経済整合性論になるのだが,福田さんはこれに強い関心をもったようで,長谷川労相を通じて私にアプローチしてきた。私としても,労働組合が政策・制度闘争を展開していくためには,政府の理解と協力が不可欠であると判断し,そのアプローチに積極的に応えた。これをきっかけとして,政推会議を政府との正式の交渉の場に持ち出し,社会的にも広く認知させることに成功した。政府はそれまで前例になることを恐れ,労働組合の代表との話合いは4団体共闘に限定していたが,このときはじめて,それ以外の組織と正式に話し合ったわけである。福田さんは,それにあまりこだわらなかった様子で,その後JCが単独で物価問題について対政府申し入れを行ったときも対応してくれた。実はこれら一連の根回しは私がしていたのである」(宮田 1982)。
 労働4団体と政推会議が首相と同日,別個に政策問題について会談するというパターンは全民労協になってからも引き継がれ,労働4団体が解散するまで続いた。

(注8) 政推会議は結成直後の76年10月21日に首相官邸で政策要請を行っているが,この時は三木首相は出席せず,井出官房長官,浦野労相,鯨岡官房副長官が対応した。

 経済団体との対話

 政推会議は対政府交渉だけではなく,経済団体のトップとも定期的な協議の場をもつようになった。総じて,経済団体の反応は政推会議の結成を歓迎し,今後の対話を継続していくといったものであった。
 まず,日経連とは77年1月14日に第1回の会合をもった。これには政推会議側からは,堅山利文(電機労連),橋本孝一郎(電力労連)両代表世話人ほか各運営委員,日経連からは桜田武会長,稲山嘉寛,永田敬生副会長ほか関係役員が出席した。席上,政推会議側は政府に対する要望事項を説明して,日経連の理解と協力を呼びかけた。さらに賃金問題にも言及し,日経連が75年のときのようなガイドゾーンなどの方法をとらないよう要請した。これに対し日経連の桜田会長は「こういうときにこそ,本日のようなチャンスを作ることが必要である。昨年暮れの総選挙では与野党の勢力が伯仲したが,この状態は3-5年は続くだろう。このような状況のなかではいままでのように自民党が決めれば,政策が決定するわけにはいかないだろうし,野党も反対のための反対は許されない。とするならば,これからは与野党とも合理的に物事を判断し,それをオープンに発表して,国民に判断してもらい,その結論を議会で決定するだけでなく,決まったことには全体が従うという全員参加方式で政治を動かすべきである。(政推会議の)政策要求については私どもと大体同じ考えであると思うが,賃金問題については企業が自主的に決定すべきであると考えている」(政推会議運動史編纂委員会,1987)と答えた。また,この席で政推会議と日経連との定期協議の場をもつことが了承された。この定期協議は全民労協を経て,現在の連合にも引き継がれている。
 経団連とも2月7日,協議の場をもち減税,経済政策,雇用,銀行問題,国際協調のあり方などについて意見交換し,今後も時期を見て協議を続けることになった。また,経済同友会,健保連とも同様の協議を行い,今後も継続して意見交換の場をもつことが了承された。健保連とは,78年12月に政推会議との共催で医療問題シンポジウムを開催し,医療費総点検運動の実施を確認するなどの共同行動をとるところまで発展した。

 産労懇における政労使の対話

 労働組合の政策参加をバックアップするものとして産業労働懇話会の存在がある。これについては,稲上毅(1980),藤田至孝(1981),辻中豊(1986b)などのすぐれた分析があるので,ここでは詳述しないが,75年から77年の時期に産労懇が内容的にも,質的にも充実したことを指摘しておく必要がある。75年2月の産労懇(座長・中山伊知郎一橋大名誉教授)では,宮田義二氏から「経済運営についての政労使協議の場」を作ることが提案され,労使をはじめ政府もこれに賛同したことから,産労懇がその場に代わるものとなり,首相ないし副総理の出席が増えた。経済企画庁長官の出席頻度もきわめて高くなった。また,77年1月26日の会議において宮田義二氏は産労懇での合意事項を閣議で尊重するよう要請し,それを受けて,以後合意事項は閣議報告されるようになった。

 政党との対話

 政推会議が結成された直後の76年11月に福田副総理が三木首相に辞表を提出したことから,党内が混乱し,12月5日に総選挙が行われた。その結果,与野党伯仲状態が起こったわけであるが,政推会議は社会,公明,民社,新自由クラブの野党4党と連携を図ることとして,12月28日には各党に対する正式な申し入れを行った。社,公,民,新自由クラブ各党代表とも政推会議の申し入れに対し協力の意向を表明した。野党各党とはその後,定期的な協議の場をもつこととなり,政推会議の政策・制度要求はその都度,野党各党との協議の場に持ち込まれることとなった。
 政推会議の活動で特記しておかねばならないのは,社会党,公明党,民社党の野党各党と個別に協議の場をもつとともに,政権党である自民党とも協議の場をもったことである。当時,労働組合は総評=社会党ブロック,同盟=民社党ブロックという政党支持関係があり,自民党と政策問題について協議することはタブー視されていたきらいがあったが,政推会議は自民党とも協議の場をもった。
 もっともこれは,当初は協議でなく要請型のものであり,政府申し入れと同内容のものを77年1月12日に福田総裁下での河本政調会長に,翌78年10月31日には,江崎政調会長に,次いで12月20日には同様の申し入れを大平総裁下の河本政調会長に行った。
 また,政推会議は「重点政策アピール」のための新年パーティを開催したが,79年のパーティには武藤社会党政審会長,矢野公明党書記長,佐々木民社党委員長,西岡新自由クラブ幹事長,江田社民連副代表らとともに,自民党からも斉藤幹事長が出席し挨拶を行った。こうした積み重ねのもとで,翌79年からは自民党とは要請方式から,協議方式に切り替え,意見交換も行うようになった。
 さらに80年2月22日には,物価対策,国際経済問題など幅広く経済運営全般について,政推会議は大平正芳首相をはじめとする自民党首脳と懇談する場をもった。当日,大平首相は自民党総裁として出席,ほかに伊東官房長官,加藤官房副長官,海部広報委員長らが出席した。席上,大平首相はこれからも随時,政推会議の意見,提言を聴かせてほしいと述べた。以後,自民党ともセレモニーではない意見交換が行われるようになった。

2 80年代-行革をめぐる労働組合の対応と全民労協の結成

 70年代後半に日本の労働運動のなかに芽生えた政策参加志向は,80年代を通じてより深まりを見せるようになった。1976年に結成された政推会議は,82年12月には41単産425万人の全日本民間労働組合協議会(以下,全民労協と略称する)に引き継がれ,政策・制度要求の「受け皿」としての機能をはさらに強化されていった。
 政策・制度面では,減税,税制改革をはじめ,円高不況による雇用対策としての構造改善法(特定産業構造改善臨時措置法),新城下町法(特定業種関連地域中小企業対策臨時措置法)および新離職者法(特定不況業種・特定不況地域関係労働者の雇用安定特別措置法)の制定,60歳定年制の確立などの取り組みを進めていった。
 しかし,他方で労働団体間のイデオロギー対立は残っており,労組間の対立点と協調点がせめぎ合いながら,全民労協を中心に合意が形成されていった。ここでは,70年代半ばの石油危機を契機として始まった,労働組合の政策参加と協調行動が80年代にどのように展開されてきたかを見ることにする。

 臨調の発足と労働組合の対応

 80年代の労働組合の政策参加で重要なポイントとなったのは,81年3月に発足した第2次臨時行政調査会(第2臨調)への参加である。
 行政改革は政推会議が1977年度の政策要求から取り上げてきたものである。政推会議が,政策制度要求のなかで行政改革を重要な柱として取り上げたのは,民間労使が低成長時代に合わせて,いち早く対応しようと懸命の努力をしているのに対して,政府部門は財政赤字になっているにもかかわらず,これといった対策をとっていないことからきていた。
 政推会議は発足直後の77年9月5日の対政府交渉で,いち早く行政改革を取り上げた。政推会議の要求内容は,<1>行政機構の改革及び廃止統合,定員の削減,<2>補助金の廃止及び再検討,<3>許認可の整理合理化,<4>特殊法人の整理合理化及び役員,退職金の見直し,<5>審議会の整理統合,<6>地方事務官制度の廃止,<7>地方公共団体における行政改革の推進などであり,廃止すべき例などを具体的に示したものとなっている。
 これに対して政府は毎年の閣議において,機構改革や定員管理,補助金の統合・メニュー化を実施していると回答したが,総体としては行革に熱心とは言えなかった。さらに79年度税制改正において,赤字財政建て直しの財源として一般消費税にその財源を求める姿勢を示したため,政推会議は79-80年度政策・制度要求で「国会内に行政改革推進のための特別委員会並びに,独立した第三者機関としての行政観察委員会を設置すること」を求めた。
 一方,79年と80年に相次いで行われた衆議院選挙も行政改革の断行を政府に求めるものとなった。大平内閣の下で79年10月7日に投票が行われた第35回衆議院総選挙では,自民党は公認候補だけでは過半数を維持することができず,追加公認を含めてかろうじて過半数を確保するという三木内閣の与野党伯仲時代を継続することになった。
 この原因は大平首相が選挙前に一般消費税の導入に積極的姿勢をとっていたことによるものと言われているが,選挙中に日本鉄道建設公団の汚職問題が明るみに出て,さらに諸官庁や特殊法人のカラ出張,ヤミ手当など政府関係機関の綱紀弛緩が次々と報道されたことから,政府機関の腐敗体質に対する反発が自民党批判となって現れたことも大きな要因であったと考えられる。この選挙結果を受けて大平首相の辞任を求める反主流派と主流派との,いわゆる「40日抗争」があり,ようやく成立した第2次大平内閣は79年12月に特殊法人の削減を盛り込んだ「中期行政改革計画」を閣議決定した。
 翌80年5月には,社会党が提案していた大平内閣不信任案が自民党反主流派の本会議欠席により成立し,前回総選挙から7カ月で総選挙が行われるいことになった。いわゆるハプニング解散である。6月22日に行われた第36回総選挙では自民党が分裂状態でスタートしたものの,選挙中に大平首相が急逝したことから,争点のない「弔い合戦」選挙となり,自民党が大勝する結果となった。
 この選挙結果を受けて行われた後継総裁選びでは,当初有力な総裁候補と言われていた中曽根康弘,河本敏夫両氏がはずれて,党内融和を第1として鈴木善幸内閣が成立,鈴木首相は行政改革の断行を内閣の重要な政治課題と位置づけて,総裁有力候補の中曽根康弘氏を行政管理庁長官に指名した。この中曽根長官就任の頃から臨時行政調査会の構想が政府内部からも検討されることとなった。もちろんこれには,行政改革の徹底を求める世論が背景にあったことは言うまでもない。
 第2臨調(注9)は81年3月に経団連名誉会長の土光敏夫氏を会長として9名の委員でスタートすることとなった。この臨調に労働組合から委員の参加を求められのだが,この参加をめぐって労働組合の対応は大きく2分された。
 政推会議は政府が第2臨調を発足させることを決定したのを受けて,そのメンバーに民間労組の代表を起用することを求めるとともに,その委員をバックアップすることによって,より積極的に臨調に参加し,簡素にして効率的な政府の実現のため意見を反映させていくという方針を決定した。これを受け同盟,金属労協,化学エネルギー労協と共同して「行革推進国民運動会議」(行革推進会議)(注10)を発足させ,第2臨調への意見反映と行革を推進する国民運動を進める態勢をとった。
 これに対し,総評内部にはこれが公務員の合理化,人減らしになることを警戒し,政府・自民党サイドからの「攻撃」となることへの反発が強かった。しかし行政改革を模組める国民世論は大きく,「反行革」運動では国民世論の支持が得られないと判断し,「政財界,官界の連合軍の暴走をおさえるための“試行的参加"」という結論で委員を出すこととなった(丸山 1984)。結果的には,民間労組からは同盟,政推会議が推す形で金杉秀信同盟副会長(造船重機労連委員長)が,官公労部門からは総評が推薦する形で丸山康雄総評副議長(自治労委員長)の2名が参加することになった。
 臨調は4つの分科会で討議が進められた。このうち第1部会「行政の果たすべき役割と重要行政施策の在り方,行政改革推進体制の在り方」と第3部会「国と地方の機能分担等及び保護助成・規制監督行政の在り方」には専門委員として山田精吾政推会議事務局長が,第2部会「行政組織及び基本的行政制度の在り方」,第4部会「三公社五現業特殊法人等の在り方」の専門委員には鶴園哲夫元全農林委員長が参加した。また参与として,第1部会には宝田善総評経済局長,第2部会には岡村恵中立労連事務局長,第4部会には高橋正男同盟副書記長が討議に参加した(臨調・行革審OB会 1987)。

(注9) 臨時行政調査会いという名称を付された調査審議機関は,1961年から64年9月までの間,佐藤喜一郎氏を会長として設置されていたことから,土光敏夫氏を会長とする臨時行政調査会は第2臨調と略称された。

(注10) 行革推進会議は民間労組を代表して臨調委員に就任した金杉秀信同盟副会長をバックアップし,併せて民間労組の立場から行革運動を推進するために1981年に同盟,金属労協,化学エネルギー労協,政推会議で発足したもので,その後,政推会議の解散,同盟の解散と友愛会議の活動の継承などがあったが,1993年まで3次にわたる行革審の委員の活動をバックアップしてきた。他方,総評グループは国民的立場からの行革を推進するという趣旨で,第1次行革審から国民行革会議を総評内に設置した。この組織は1989年の総評解散とともに解散した。

 「増税なき財政再建」と国民負担率をめぐる論争

 臨調での検討項目は大別すると,理念や基本的考え方を示す部分と,具体的な政策や解決策を提示して政府にその実行を求める部分とがあった。このうち前者の理念や基本的考え方に関する部分では,臨調は「増税なき財政再建」の堅持と併せて,行政サービスの増加と国民負担の関係については「国民負担率は現状(35%程度)よりは上昇することとならざるを得ないが,徹底的な制度改革の推進により現在のヨーロッパ諸国の水準(50%前後)よりはかなり低位にとどめる」という考え方を提示した。
 「増税なき財政再建」については土光敏夫氏が臨調会長を引き受けるに当たって鈴木首相に提示した4条件の1つであったことが明らかになっている。ちなみに4条件とは,<1>増税なき財政再建,<2>答申の実行,<3>中央・地方を通じての行革,<4>国鉄など三公社の改革である(注11)。この「増税なき財政再建」については,労働組合選出の委員もこの路線を基本的に支持した。しかし「増税なし」の意味は「官」選出委員と「民」選出委員とでは意見の違いがあった。これが端的に表れたのは82年度予算編成に関する「増税」問題である。鈴木首相は81年11月30日の内閣改造後の閣議において,「税負担の公平確保の見地と厳しい財政事情を勘案して,増税なき財政再建の趣旨に反しない程度の税制上の措置を講ぜざるを得ない」と述べ,租税特別措置の見直しや,退職給与引当金など各種引当金の見直しなどの構想を示した。
 これに対し,経済会は企業課税の強化によって,「増税なし」の路線がなし崩しになるのを恐れ一斉に反撃を行った。民間選出の労働組合委員も同様の立場をとった。しかし,「官」選出の労働組合委員は租税特別措置や各種引当金は企業内留保の優遇措置であるとして,不公平税制の是正であるから増税ではないと主張した。この問題は退職給与引当金などの増収案を政府が撤回することで落着したが,企業税制をめぐる考え方については政府(大蔵省),経済界,民間労組,官公労組間の違いが,その後も露呈することになった(神原 1986:第V章)。
 国民負担率の歯止めについては,「21世紀においても50%を下回る」という考え方は,臨調関係者の共通した理解となった。労働組合代表も,国民負担率の歯止めについては積極的に発言した。臨調関係者の座談会では,第1部会関係者がそろって,国民負担率の上限を打ち出したことを評価しており,梅本部会長は「われわれが国民の負担率でフワット抑えたことはジワジワと効いていくだろうし,あれさえ守っておけば相当の改革になるだろう」(臨調行政調査会OB会 1983:p.121)と述べていることは重要である。この論議には労働組合選出委員も積極的に参加し,その合意を形成してきたが,この考え方は第2次行革審,第3次行革審でも踏襲されており,答申後10年余を経過した今日でも大きな意味をもっている。今後,21世紀に向けた高齢化をめぐる政策論議が本格化するときに,臨調が提起した国民負担率の上限は大きな意味をもつことになろう。

(注11) 神原勝 1986:p.20参照。

 国鉄改革と労組の対応

 臨調のもうひとつの重要な役割である具体的政策,解決策の提示については,最大の目玉となったのは国鉄等三公社の民営化であった。国鉄に関して言えば,国鉄の経営状態が相当程度悪化しており,その抜本的改革が必要であることは,一般的情報として誰もが共有するところとなっていた。しかし,どのような改革をすべきかということについて関係者の合意ができていないところに問題があった。
 また,国鉄いについては労使関係の問題もあったために,労働組合との関係がうまくいくかどうかが改革のカギとも言われていた。当時,国鉄には国労,動労,鉄労,全施労,全動労などの複数組合が存在しており,このうち国労,動労は総評に,鉄労は同盟に加盟していた。国鉄労組のなかの最大組織は国労であるが,当時の国労は社会党系が主導権をもちながらも,内部には社会党社会主義協会系と共産党系を抱える構造となっていた。また国鉄当局は,マル生問題以降,国労とは融和的態度で接するという基本姿勢であった。
 こうしたなかで,臨調第4部会の中心メンバーであった加藤寛氏は雑誌『現代』1982年4月号で「国鉄解体すべし」という主張を展開,また同じくメンバーであった屋山太郎氏も『文藝春秋』同4月号に「国鉄労使国賊論」を発表し,国鉄の労働現場の乱脈ぶりを指摘した。
 国鉄改革は,方法を誤れば激しい労働争議を引き起こしかねない問題であった。だがこれが,分割・民営化まで到達できたのは,国鉄の経営問題の危機感を労働組合も共有したことである。国鉄改革論が具体化していくなかで,国鉄内部の労組のうち鉄労,動労,全施労が改革賛成に回り,国労も86年頃から大量の脱退者が出て,真国労が結成されるなど,組織分裂が起こって,やがて総評も分割民営化反対を全面的に押し出せない状態になっていった(注12)。

(注12) 国鉄改革については,谷藤(1988),草野(1989),並河(1991),飯尾(1993),田畑(1993)を参照。

 臨調をめぐる評価と行革審の発足

 臨調は83年3月14日に「第5次答申」を政府に提出して,翌日解散した。この臨調最終答申に対する労働団体の反応は次のようなものであった。まず総評は「第2臨調がこの2年間にやってきたことは,行政改革と言いながら,財政削減策しかなかった。財界,大蔵の要求が実現した形となり,軍事費を聖域化している」として強く批判した。これに対し同盟は「われわれの主張が必ずしも十分に反映れていないとしながらも,「『増税なき財政再建』の基本方針の堅持,補助金総額の抑制,地方出先機関の大幅整理,立法府の役割への言及など注目に値する点も多い」と評価し,「政府・与党とも臨調答申を積極的かつ真剣に受け止め,速やかに実行を期すことを強く求める」として総評とは異なる対応を示した。
 また今後の行革運動についても総評は,臨調路線を反国民的行革と受け止め,「国民行革を推進するための国民臨調の運動を進める」との考えを示したのに対し,同盟,政推会議,金属労協,化学エネルギー労協で構成する行革推進国民運動会議は,社会経済国民会議,行革推進全国フォーラム,日本青年会議所との4団体で「行革推進連絡協議会」を設置して,臨調答申の実行を監視していくこととした。この「行革推進連絡協議会」はやがて「行革国民会議」として継続し,活動することとなった(注13)。
 さて,臨調解散後,臨調答申について,政府の対応状況を監視するとともに,その具体的推進のための方策を調査審議する機関として,総理府のもとに臨時行政改革推進審議会(第1次行革審)(注14)が設置されることとなった。第1次行革審には,労働組合代表として槙枝元文総評議長,宇佐美忠信同盟会長が,また参与としては宝田善総評常任幹事,鈴木治同盟副会長,河口博行電機労連副委員長(役職はいずれも就任当時)が参加した。委員選出に当たって,同盟は宇佐美会長を委員として出すことをいち早く決定したが,総評は最初は「反国民的行革推進に手を貸す」ことになるとして,委員を出さないことを決定,その後「委員を出さなければ総評の行革に対する意見を反映させる機会もなくなる」との懸念もあって,再度協議した結果,槙枝議長を委員として送り込むことになった。このため,行革審の発足は「行革審設置法」が5月20日に成立したものの,7月1日にずれ込む結果となった(臨調・行革審OB会 1987)。
 このように労働側の対応が分かれたのは,国鉄再建監理委員会の設置など国鉄改革が具体的になってきたこと,公務員の総人件費抑制など公務員定数,給与などにも踏み込んだ行革審の姿勢が明らかになってきたことにより,官と民の行革の受け止め方のずれが出てきたものと言える。
 第1次行革審は臨調答申のフォローアップを中心として,地方公共団体に対する国の関与・必置規制の整理合理化,民間活力の発揮推進,今後の行政改革の基本方向などについての答申をまとめ,86年6月27日に解散した。第1次行革審のなかで労働組合に直接的影響があった問題は国有林野事業についてであった。政府事業のなかでは国有林野事業は累積赤字が約1兆円にのぼり,その経営改善は急務であった。第1次行革審は86年6月10日の答申において,国有林野事業の抜本的改革の必要性を指摘し,組織・要員についても徹底した合理化を求めた。これと並行して林政審議会(林政審)は86年8月に,<1>93年度までに要員規模2万人体制,<2>直用(直接雇用)事業の業務の特化,<3>組織機構の徹底的な簡素化等を内容とした「中間報告」をし,さらに,同年12月には答申を行った。これを受けて政府は93年度までに2万人規模の要員体制実現を図ること等を閣議決定し,林野庁は営林署の統廃合などを含む,「新改善計画」の改定,強化作業に着手した(行革審事務室 1990)。
 これに対する労働組合の反発は強く,全林野,日林労とも抗議,統廃合反対を求める声明発表し,全林野は一部拠点ストを行った。林野庁は営林署の統廃合については既定方針を貫いたが要員調整については,事実上の1年先送りを行い,組合側もこの提案で収拾することとした。しかし,その後も国有林野事業は2兆円を超す累積赤字になり,90年12月に林政審は<1>累積債務を経営部門から切り離して別経理とする,<2>職員を現行計画の2万人規模(93年度末)達成後もさらに削減し,必要最小限とする等により,2000年までに経常事業の収支均衡を達成,2010年までに累積債務も解消することを内容とした「今後の林政の展開方向と国有林野事業の経営改善」に関する最終答申をまとめた。これを受けて政府は「国有林野事業経営改善大綱」を閣議了承したが,特に実施に当たって「国有林野事業の経営改善を円滑に進め,その実効を期するため,労使一体となって取り組む」ことを大綱のなかに明記した。これは,林野事業の経営改善に当たって労働組合の理解と協力が不可欠であることの「学習効果」であったと言える。

(注13) 行革国民会議は,民間の立場から政府の行革推進の実行状況を監視するとともに,臨調,行革審での議論を発展させることを目的として,1983年に結成,89年に社団法人化したもので,83年結成の時点で行革推進会議も参加,法人化の時点で主要民間単産も,これに団体加盟した。ここでは経済界,労働界の主要なメンバーが参加して行革監視と委員のバックアップなどの活動を行ってきた。

(注14) 臨調答申をフォローし,行革を具体化するための行革審は3月にわたって設置された。第1次行革審(土光敏夫会長)は1983年6月から86年6月まで,第2次行革審(大槻文平会長)は1987年4月から90年4月まで,第3次行革審(鈴木永二会長)は90年11月から93年11月まで設置された。

 第2次,第3次行革審と労組の対応

 第1次行革審解散後,引き続き行革推進のための審議機関の設置が必要との最終答申に基づき,第2次行革審が87年4月20日に発足した。この時期,労働界は全民労協の連合体移行がすでに確定していた時期であり,連合設立に伴って,同盟は解散することが決まっていた。しかし,行革問題は連合に直ちに引き継げない問題であるとして継承組織である「友愛会議」がこの運動を引き継ぐことになった。一方,総評は連合結成後もナショナルセンターとして存続する方針であったので,行革問題も総評として取り組むこととなった。こうした過渡的な状況であったが,第2次行革審の参加については,総評のなかでも以前のような「参加すべきかどうか」といった議論もなく,江田虎臣総評副議長が委員として参加,同盟からは鈴木治同盟副会長が参加し,参与として柿沼靖紀同盟政策室長,片桐洵自治労特別中執,小島良一総評常任幹事,高木剛ゼンセン同盟産業政策局長,真柄栄吉総評事務局長らが参加した。また,第2次行革審のなかに設置された土地対策検討委員会に労働組合推薦枠(総評)のなかで毎日新聞編集委員の本間義人氏が自治労地方自治研究活動助言者として参加した。
 第2次行革審では,土地対策,規制緩和,国と地方の関係などが小委員会方式で論議された。このうち土地対策については,土地対策の基本的考え方として,公共性,社会性をもった財であること,したがってその所有には利用の責務が伴い,利用に当たっては公共の福祉が優先することなど,連合の主張が取り入れられ,具体的土地政策についても,市街化区域内農地の宅地化推進や土地取引の適正化,土地保有課税の適正化など労働組合のこれまでの主張が取り入れられたものとなった。これらの内容は88年6月に「地価等土地対策に関する答申」として提出された。このうち,土地対策の基本的考え方については,89年12月に第116臨時国会で土地基本法として成立した,この土地基本法は連合が政策制度要求のなかで成立を強く求めてきたものであった(臨調・行革審OB会 1991)。
 第2次行革審解散の後,1990年10月から第3次行革審(鈴木永二会長)が発足した。第3次行革審からは労働組合選出委員は,連合が推薦することになり,芦田甚之助連合副会長(ゼンセン同盟会長)と真柄栄吉自治労特別中執が委員として,得本輝人自動車総連会長,伊藤基隆全逓委員長,千葉利雄鉄鋼労連顧問,柴田守商業労連会長が専門委員として就任した。第3次行革審は,前半は国際化対応・国民生活重視の行政改革,後半は規制緩和,地方分権,縦割り行政の是正,公務員制度のあり方等について検討した。第3次行革審の段階からは,連合は審議の節目ごとに構成組織とも連携をとって委員間の意見調整を行ってきた。過去の臨調,行革審の際に見られたような,官民の労組間の対立もあまりなく,基本的にはお互いの立場を理解するなかで,連合としての意見反映に努めてきた。1993年10月の第3次行革審の解散で,行革は実効とその監視の段階になり,臨調以来12年間にわたって行われてきた行革の審議は終了した。第3次行革の最終答申に対して,連合は「『日本の進路(93年9月6日第13回中央委員会決定)』において,権限・財源の中央への過度の集中と省庁ごとの縦割り行政という現在のシステムが,行政の効率性と新たな行政ニーズへの的確・柔軟な対応を阻害しており,この抜本的な改革が国民生活向上のためには不可欠であると指摘した。行革審はこの問題を認識しながらも,最終答申においてその改革方策と具体的手段を大胆に描き出すことができなかった」と指摘し,「連合はこれからも,国民生活向上のための行革推進の立場から,継続的に取り組みを進めていく」という見解を表明した(WEEKLY れんごう,No.167)。臨調発足当初の頃の労働組合の対応と,第3次行革審終了時点の対応では,まさに隔世の感があった。

 全民労協の結成と政策・制度要求の強化

 80年代の労働組合の政策・制度要求に重要な役割を果たしたのが,全民労協の存在である。70年代後半から労働戦線統一が重要な課題として再浮上しており,80年1月の同盟大会で宇佐美会長,田中書記長が選出されたことを受けて,総評,同盟,中立労連,新産別の了解の下で,民間単産レベル6人の代表による話し合いが開始されることとなった。これが統一推進階である(注15)。この背景には,前述した70年代の石油危機以降,民間労組を中心として政策・制度課題での共同行動の積み重ねのなかから相互の信頼関係が醸成され,労働側が分裂状態のままでは力を発揮することができないという認識から,まず民間部門が先行して体制の強化を図ろうという機運が盛り上がってきたことがあった。
 統一推進会は81年6月に「民間先行による統一に向けての基本構想」を発表し,同時に統一準備会への参加要請文を公表した。この「基本構想」をめぐっては左派の反発などもあって,団体間の協議に持ち込まれた問題もあったが,最終的には81年12月に統一準備会が発足し,翌82年にその統一体の受け皿となることを期待して結成されたのが全民労協であった。全民労協は,それまでの政推会議の活動をさらに,充実,発展させる形で,その組織の性格と目的を次のように規定した。「全民労協は,共同行動を推進するためのゆるやかな協議体である。この協議会は,統一準備会での討議経過をふまえ,相互信頼のうえに立って,民間労働組合に共通する要求の実現と課題の改善に努めるとともに,労働戦線統一の拡大,充実を促進して労働者の経済,社会,政治各面における地位の向上をはかる」(全民労協結成総会「活動のすすめ方について」 1982)。
 このように全民労協は民間先行による労働戦線統一を展望しながら,民間部門に共通する政策・制度課題の改善を図ることが使命とされた。全民労協の政策・制度課題は,当初は<1>経済政策全般,<2>雇用・労働政策,<3>税制改革・減税,<4>物価対策,<5>年金制度改革,<6>医療制度改革,<7>土地・住宅政策の7本でスタートしたが,その後,<8>総合産業政策,<9>婦人政策,<10>食料政策,<11>資源・エネルギー政策,<12>行政改革,<3>交通政策,<14>中小企業政策を加え14本の政策・制度要求を柱に取り組んできた。
 全民労協の政策策定にあたっての手法は政推会議時代のものを踏襲しており,個別政策の積み上げによって成り立っている。したがって政策のグランドデザインを描くよりも,当面何を実施するかというものが中心で,総論より各論に軸足を置いたものといえる。これは,既存の労働団体がこれまであまり手をつけてこなかった政策分野に労働組合としての発言領域を求めていったことと,毎年の政策・制度要求のなかで具体的成果を得られることをねらいとしたことによるものと思われる。
 政策実現については,総評,同盟はそれぞれ社会党,民社党という支持政党があり,この支持政党を通じて政策要求を実現するというパターンが中心であったが,全民労協は各省庁との政策協議をまずはじめに行い,次に政府(首相,官房長官)への政策要請,そして社会,公明,民社,社民連への要請,さらに自民党(政調会長)への政策要請を行うという行動パターンをとっていた。
 全民労協がまず重視したのは全民労協の政策要求を官僚との協議のなかで,これを理解してもらい,実現していくことであった。全民労協は1983年に労働省との定期協議「新労働政策会議」を設置したのを手始めとして,通産省「労働関係産業政策会議」,経済企画庁物価局「物価問題定期会合」など各省庁との定期協議の場を設置して,全民労協の「要求と提言」について協議する足場を作った。また,経団連,日経連,経済同友会など経済団体とも定期的に意見交換の場をもつようになった。
 全民労協は,政策・制度要求の策定時期を5月と設定しており,毎年1-2月頃からその年の「政策・制度要求と提言」の策定作業を政策委員会と各政策部会で開始する。これを4月頃までに仕上げ,5月に開催する「討論集会」にかけて,その後の中央委員会で正式に機関決定して,各省庁との協議に入ることになる。このスケジュールは政府の予算編成の日程に関係する。政府予算は基本的には8月末までに各省庁が次年度予算の概算要求を行い,その後大蔵省がこれを査定して,政治折衝などを経て12月末までには政府案をまとめることになっている。新しい政策を実行しようとすれば,その多くは予算措置を必要とするものであり,概算要求に盛り込まないと翌年の政策として上がってこないことになる。労働組合の政策・制度要求を実現させようとするためには,概算要求に盛り込ませることが必要であり,こうしたねらいから6月に政策・制度要求を策定することにしたのであった。
 全民労協が官僚との協議を重視したもうひとつの背景には,わが国の政治機構の問題もある。わが国の場合,議員の立法機能が弱く,国会への法案提出のほとんどは政府提案である。政府といっても,実際の作業はそれぞれの主務省庁が行っており,さらに法律の解釈や具体的運用を定める政省令は官僚の手の内にある。したがって労働組合がそこに意見を反映しようとすれば,法案の作成段階から,政令,省令,告示,通達まで積極的に関与しなければならないことになる。
 そうしたこともあって,全民労協はこれまでの野党要求による政策実現という手段から,政府との協議による政策実現に重点を置くようになった。しかし,これは政党との関係が希薄になったということではなく,霞が関(官僚)との協議で実現できるものと,永田町(政党,議員)で実現するものとの組み合わせや使い分けをしながら実現を図ってきたというべきであろう。実際,所得減税など野党議員による質疑や予算組み替え要求などによって実現を求めてきたものもあるし,育児休業法など,全民労協も参加して作成した野党の共同法案が立法化への大きな原動力となったものである。
 全民労協は87年11月にその使命を終え,より強固な全国的労働団体(ナショナルセンター)である全日本民間労働組合連合会(いわゆる民間連合)にバトンタッチした。さらにその2年後には,民間連合は官公労部門も加わって官民統一体としての日本労働組合総連合会(連合)となった。
 連合の政策・制度要求は全民労協時代の手法,内容をほぼ踏襲したものであり,80年代に全民労協が政策参加志向を高めた活動を行ってきたことは大きな意味をもつものであった。

(注15) 統一推進会のメンバーは塩路一郎自動車総連会長,宇佐美忠信ゼンセン同盟会長,竪山利文電機労連委員長,橋本孝一郎電力労連会長,中村卓彦鉄鋼労連委員長,中川豊全日通委員長であった。


3 90年代-景気後退局面での賃金決定

 70年代後半から80年代う通じて成熟化の度合いを増してきたわが国の労使関係は,賃金決定についても,利害を異にする使用者と労働者の「パワーゲーム」としてよりも,労使双方が納得点を得られる「落ち着きどころ」を求める交渉となっていった。
 ここでは,92年春における賃金決定のプロセスを新聞報道などを追いかけながら,どのように労使が行動し,結論を見いだしていったかを見ることとしたい。

 賃金闘争における連合と産別の役割

 全民労協が連合体に移行するに当たって賃金闘争で論点となったことは,ナショナルセンターと産別の役割をどのように整理するかであった。それは,とりもなおさず賃金闘争は産別自決でいくのか,ナショナルセンターの指導・統制の下で産別が行動するのかという問題であった。全民労協は連合体への移行に当たって,これまでの活動と今後の課題を次のように整理した(芦村 1992)。
 (全民労協は)「労働条件の維持・向上」では,とくに賃金闘争を「中経済成長の達成」「総合生活闘争の一環」として位置づけ,「産別組織の自力・自決,全民労協の調整」の基本に立って,要求内容の設定,加盟組織の闘い方の配置,ヤマ場へ向けての日程調整,情報交換と提供,大衆行動さらには財・経済団体との対応などを責任をもって進め,民間労組の調整役としての役割を果たしてきた。
 また戦後,各労働団体は,賃金引き上げを中心にそれぞれの闘争(いわゆる春闘,賃闘など)を展開し,労働者の雇用と生活の維持・向上をはかってきたが,その結果・実績を踏まえて,全民労協は労働四団体と「賃金闘争連絡会」(84年85年)を設置し,要求の考え方の段階から労働側が一本化して取り組める体制づくりにも努力してきた。さらに全民労協は,民間労組の立場から人勧・仲裁の完全実施の方針を掲げ,対政府交渉を実施するなど,賃金闘争全体の前進に取り組んできた。
 しかしながら,「顔合わせ」の賃金闘争は,結成初年度から推進しえたが,内外からの期待が大きかった「力合わせ」の賃金闘争という面では,一歩踏み込んだものの十分とはいえず,「ゆるやかな協議体」の限界を示したものと言える。連合組織移行とあわせ,産別組織の自力・自決体制の一層の強化が必要である。
 その結果,働く者の実質生活水準という点からみれば,各産別組織の努力にも拘わらず,物価上昇分をはじめ税金,社会保険料の負担増により実質可処分所得の伸びは鈍く,生活の向上に結びついていない。
 また労働時間短縮,連休問題の取り組みについても,労働四団体と連携し,一定の成果をあげたものの,日本の長時間労働の現状は改善されていない。
 (全民労協「連合組織への進路」 1985)(注16)
 ここで確認された基本原則は「賃金闘争を中経済成長の達成と総合生活改善の一環として位置づける」ことと,闘争は「産別組織の自力・自決,全民労協の調整」というものであり,連合移行にあたっても「運動領域と活動のあり方」のなかで次のように確認された。

(注16) 全民労協運動史(1992),資料編p.617

 賃金・労働時間など労働条件の維持・向上について

1.(基本的考え方)
 賃金改善をはじめ,労働時間短縮,定年延長など労働諸条件の維持・向上に向けて,中長期的視点に立ち,方針の立案と活動の推進をはかる。
2.(賃金闘争)
(1) 賃金闘争を中経済成長の定着,総合生活闘争の一環として位置づけ,労働者の実質生活水準の向上をめざした活動を展開する。すなわち,調整機能を高めつつ構成組織の交渉力・ストライキなど闘争体制と力の強化を背景に効果的な闘争体制の確立に努める。
 そのために,「構成組織の自立・自決,『連合』の調整」を基本とし,連合は-
 <1> 要求の考え方の設定
 <2> 効果的な共闘体制の確立
 <3> 政府,自治体,経済団体などへの対応
 <4> 政策・制度闘争と結合した総合生活闘争の推進
 <5> 情報連絡活動
 <6> 大衆行動
 -を中心に活動を進める。
 あわせて,政策を中心とした賃金闘争の環境づくりを推進する。

(2) 企業規模による労働条件の格差は依然として大きい。中小・零細企業で働く労働者およびパートタイム労働者の賃金・労働時間など労働諸条件の改善をめざし強力な取り組みを進めるとともに,社会的平準化を促進するため,最低賃金制を含め,その仕組みの改善を求めていく。あわせて,人事院勧告・仲裁裁定の完全実施に向けて積極的に取り組む
 (連合「運動領域と活動のあり方」 1987)(注17)
 ここでいう「中長期視点」とは,賃金については年々の景気変動や物価の動向のなかで毎年改定していくものではあるが,それだけに左右されるのではなく,労働組合としてのあるべき中成長の姿を描きながら,労働者の実質生活向上を基本として決定していくことを意味するものである。また,「構成組織の自力・自決,『連合』の調整」とは,賃金決定の最終責任はナショナルセンターとしての連合にあるのではなく,産別にあるということを確認したものである。

(注17) 連合統一大会(1989年11月20日)議案。

 物価後追い型要求からシミュレーション型要求へ

 さて賃上げ交渉は,労働組合が要求方針を決定するところからスタートする。要求の考え方については,これまではいわゆる「後追い型要求」というものを基本にしていた。これは賃金は前年の物価上昇で目減りした分と賃金体系を維持するのに必要な原資を確保したうえで,その年の実質生活向上分を上乗せして要求するというもので,具体的には過年度物価上昇率プラス定昇(ないし定昇相当分)プラス実質生活向上分で要求の率を構成するという考え方である。物価については過年度ではなく,当年度物価をとるべきであるという主張もなかったわけではないが,当年度物価をとると物価の見方について労使で見解が分かれてしまって,交渉になじみにくいということもあって,過年度物価という考え方が定着してきた。実質生活向上分は過年度ではなく,当年度のGNPの実質成長率のうちから雇用の増加分をマイナスしたマクロの生産性向上分をとるという考え方を基本としていた。
 この要求方式は経済の因果関係から見れば,理論的には問題があった。賃上げは国民経済的には,雇用者所得の伸びであり,その年の消費動向に大きな影響を与えるし,物価とも相互依存関係にある。すなわちマクロの消費を予想しようとすれば,賃上げの動向(いわゆる春闘相場)が最も重要な説明変数となる。また需要面でも消費の動向は設備投資や生産動向に大きな影響を与える。このように賃金は消費や生産,設備投資などの指標と相互依存関係にあるのであって,独立変数ではない。ところが「後追い型要求」は賃金を他の諸変数とは相互依存関係のない独立変数として見なすものであるので,賃上げで消費拡大とか,景気回復といった主張をする場合には論理的に矛盾するところが出てくる。そこで,望ましい経済成長率,望ましい物価上昇の範囲,そしてそのなかで望ましい賃上げ率シミュレートしながら検討する必要があるのではないかという議論が労働組合のなかでも80年代初め頃から出てくるようになった(注18)。
 1981年から,元経済企画庁研究所長の佐々木孝男氏を同盟が政策顧問として迎え入れ,佐々木氏が主宰する経済・社会政策研究会で,計量モデルを使った賃金シミュレーションを行うようになり,賃金要求の際にもシミュレーション結果が参考にされるようになった。この経済・社会政策研究会が母体となって87年に連合のシンクタンクとして連合総合生活開発研究所(連合総研)が設立された(注19)。連合総研はマクロ計量モデルを使ったシミュレーションという作業を引き継いでおり,毎年11月に経済情報報告書を発表して,いくつかのケースによるシミュレーション結果を示している(注20)。連合はこれに基づいて,次年度の賃上げ要求を検討することになっている。
 さて,92年の春季生活闘争であるが,91年秋時点の国内経済は,91年春から景気が調整局面に入り,その年の暮れには本格的な景気後退過程に入っていた。ところが,政府は景気の情勢判断を誤り,景気の後退を大きなものとさせていった。政府の月例経済報告では長期にわたり景気は「拡大」を続けているというものであり,この判断を「移行する過程」に変更したのは91年11月,「調整過程」に変更したのが92年1月であった。また,3月には「緊急経済対策」を決定したものの,それは公共事業の追加を含まず,予算成立後も大型の補正予算の必要性については公式には否定し続けてきた。ところが,鉱工業生産指数は91年10月,11月,12月とすでに▲1.2%,▲3.1%,▲2.4%を記録していた。政府は明らかに景気の判断を誤っていたのである。
 連合総研は91年11月に発表した年次経済報告のなかで,景気の現状が調整局面に入ったことを認めたうえで,政策主体,経済主体の積極的な活動展開がなされさえすれば,次の局面を安定的に切り開いていく条件が十分に存在すると指摘した(連合総研 1991b)。
 そして,A:低賃上げ(5%)・緊縮型と,B:中間(賃上げ7%,時短促進)型,C:高賃上げ(9%)積極拡大型の3ケースを想定してシミュレーションを行った。その結果,ケースAでは92年度は1人当たりの雇用者所得の伸びは2.8%に低下して民間最終消費の落ち込みにつながり,成長率は2.7%と円高不況並に下落してしまう。ケースBの中間(賃上げ7%,時短促進)型のケースは,公的固定資本形成は7%の伸び,所定内労働時間は年率2%減,時間外割増率を現行の125%から150%に引き上げることを想定したものである。この場合は民間最終消費支出(実質)は3.8%,内需の伸びは実質4.4%となり,景気の減速を食い止め,経常黒字も抑制することができるというものである。ケースCは,公的固定資本形成(名目)を9%,賃上げ9%,ただし時短は進まない姿としたもので,こうしたケースでは消費者物価が3.6%,卸売り物価も3.1%とインフレ基調に移っていく(表1参照)。
表1 連合総研のシミュレーション結果による92年度経済の姿

(注18) これは経済論としての考え方であり,運動論的な「賃金は経済から独立変数であるべきだ」という考え方を否定するものではない。

(注19) 佐々木孝男氏は,経済企画庁時代から所得政策や賃金格差,インフレなき福祉など勤労者サイドの観点から,賃金,労働経済問題に積極的な提言を行い,「経済・社会政策研究会」代表就任後は,労働組合の賃金闘争,および政策・制度闘争の理論的支柱として活躍,「逆生産性基準原理」などを提唱した。1987年連合総研設立とともに初代所長に就任されたが,1991年逝去された。佐々木孝男氏の業績については,連合総研/佐々木孝男追悼録刊行委員会編『佐々木孝男追悼録』(1992)を参照。

(注20) 労働組合の行動がマクロ経済に与える影響については,吉川(1993)を参照。


 連合の要求方針決定と産別の要求決定

 連合は,連合総研が提示したシミュレーション結果などを踏まえながら,92年の春季生活闘争を「賃上げ,時短,政策制度改善の三位一体の取り組みにより,われわれの労働条件の向上をめざす」ものと位置づけた。マクロ経済との関係については,日本経済は調整局面に入っており,これまでの4年続きの5%成長から,91年度は3%台半ば(結果は3.5%)に下がるものと見込まれるが,個人消費の伸びは堅調さを保ち,設備投資意欲も底堅いとして,92年度には,勤労者の所得増や時短によって個人消費を持続させ,政策面では,適切な金融政策と生活関連型公共投資を拡大すれば,実質4%程度の経済成長を維持し,生活の質の向上によってリードされる第2段階の成長軌道に移ることができるという判断であった(連合『連合白書』 1992)。
 そして,要求目標は「8%を中心とし,2万円以上」とすることを決定した。この方針は,91年10月17日の中央執行委員会で「基本構想」を提示して,11月21・22日の連合第2回定期大会で決定された。
 この8%中心という考え方は,連合総研のシミュレーションからすれば,高賃上げ型(9%)と中間型(7%プラス時短)の間をとったものとなっているが,連合総研のシミュレーションは賃上げ要求率を誘導するといった性質のものではなく,いくつかのケースのなかで望ましい経済の姿と,その際とられるべき政策と賃上げの姿を提示して,連合の要求の判断材料とするものである。
 連合は,この年の方針で,これまで主要単産が4月上旬を闘争のヤマ場としていたものを変更し,労働協約の一環として新賃金協約の前年度内解決(4月賃金の3月中決定)という考え方を確認した。その後の日程調整によって金属労協など主要単産の集中回答指定日は3月25日と設定され,全体として10日ほど解決時期が早まることとなった。
 前述したようにナショナルセンターとしての連合の方針は,要求の考え方を設定するものであって,連合の方針でも「各構成組織は,連合の目標を参考にし,産業の実態(環境,条件の違い)や組合員の実感の反映に努め,自主的に要求を決定する」ことが確認されている。したがって,これを受けて各産別がそれぞれの要求設定作業に入る。
 ところで,わが国の賃金決定に大きな影響力をもっているのは鉄鋼,自動車,電機などの金属産業であり,これらが加盟する金属労協の賃金要求方針も各産別の要求決定に大きな影響力をもつ。この年は金属労協は91年12月2日に「8%を基準」とする方針を決定した。また所定外割増率についても,平日35%以上,休日45%以上,深夜45%以上を基準とし,各単産の実態を考慮して取り組むことを確認した。
 92年春季生活闘争での金属関係の各産別の賃上げ要求基準は表2のとおりである。自動車総連は8%基準,電機労連(現,電機連合)は8%程度を基調,鉄鋼労連はベア18,000円,定昇3,500円の計21,500円 7.8%の要求,造船重機労連はベア17,000円,定昇5,000円で8%の要求となった。
表2 92春季生活闘争での金属4単産の賃上げ要求基準
 各産別台での要求の機関決定は1月下旬から2月中旬にかけてであり,これとやや遅れて各企業別組合での要求策定作業が行われる。要求書の提出は2月末までのところが多いが,労使交渉の前哨戦は1月から始まっている。

 事実上の交渉-92年1月

 日経連は毎年1月に「労働問題研究委員会報告」を発表するとともに,年次総会において会長が賃金問題について論及し,経営側としての考え方を示すことにしている。92年の「労働問題研究委員会報告」では「景気が減速の様相を強め,今後の景気動向はきわめて厳しい段階にさしかかっている」としたうえで,労働時間短縮については労使の最重要課題と位置づけ,その推進を提起している。賃金問題に関しては具体的な数字は挙げていないが,労働分配率論争についての客観的基準が必要であるとしており,また生産性基準原理は安定した経済成長の基礎であるとの主張を展開している。
 この労働問題研究委員会報告が発表されたのが,1月21日であり,翌日の新聞は「春闘」始まるとして,今年の賃上げをめぐって取材した記事を掲載した。1月22日の日本経済新聞は「今年の春闘賃上げ率が5%の攻防になる」との予測記事を早くも掲げている。これは賃上げ相場に影響力をもつ鉄鋼,自動車,電機,造船の,それもそれぞれの業界でも賃金決定に影響力をもつ経営側のキーパーソンへの取材から得たものである。その記事によれば,日立製作所の社長が「景気の回復は秋以降にずれ込む」と景気の先行きに悲観的な見方を示し,日産自動車の労務担当取締役は「マクロ経済への影響を心配している余裕はない」とマクロより自社の懐が大事という発言を行い,トヨタの専務は「労務費を含めて固定費負担は年々重くなっているので,昨年みたいなわけにはいかない」と発言している。日立製作所の専務は「92年度が戦後初めて3期連続の減益となる恐れがあること」を強調している。新日鉄社長は鉄鋼業界が4年余り続いた好況と別れ,大幅な減産体制に追い込まれている実情を訴えている。造船業界は人手不足が深刻化していたところから「賃上げはきちんとすべきだ」という発言を行っている。
 同日の日経産業新聞は組合側である電機労連(現電機連合)書記長のインタビューを掲載している。電機労連書記長は「電機各社は日を追って業績を下方修正しており,大変厳しい」として経営実態の厳しさを認めたうえで,「景気が減速している点では労使とも認識が一致している。今年は交渉のなかで日本経済どう持ち直すのか,話し合う必要がある」と語っている。
 経営側がマクロの議論をしている余裕はないというのに対し,組合側はマクロの問題として日本経済をどうするかという議論をやりたいと言っているわけである。これは,賃金が景気回復の重要な役割を果たすという観点からの発言で,パターン・セッターを意識したものと受け止めることができる。これらの取材を通じて日経記者は「5%の攻防」という予測を立て,記事を掲載した。
 1月29日の日経産業新聞はトヨタ労使の取材記事を載せている。組合は<1>労働時間の短縮,<2>賃金の8%の引き上げ,<3>年間一時金の昨年並み水準の支給,<4>時間外・休日労働の割増率の引き上げを要求することを決定した。しかし,91年は自動車の国内販売が前年を下回っており,30%の減益となる見通しであった。組合の委員長は「決められたパイのなかで優先順位をどこに置くか」が焦点だと語っている。これに対し経営側は「総労働時間の短縮を優先し,割増賃金引き上げに応じるのは難しい」との見通しを示し,賃金についても「一部には『4%台の賃上げで決着』と見る声も出ている」という間接話法的な言い回しの観測記事を掲げている。組合側はこれに対し,「4%台とは論外だ」と強く反発している。
 92年の交渉がこれまでと違っていたのは,組合側が,時短推進や収益構造改善のために全面改良期間いわゆるモデルチェンジの延長や車種整理などの必要性を提起したことである。これは自動車総連が打ち立てた産業政策からきているものであり,経営側は「全面改良の期間は環境問題や安全技術の装備などの問題もあり,いちがいに短くはできない」と突っぱねているが,こうした問題も交渉の論点に上がってきた。
 これらはいずれも,組合が要求書を提出する以前の,労使双方からの取材記事であるが,経営の実情認識についての隔たりはほとんどといっていいほどなく,マクロの視点からミクロか,優先順位をどうするか,企業体力をどう見るか,収益構造をどう改善するかなどが攻防のポイントとなっている。
 92年の賃上げをめぐって,盛田昭夫ソニー会長の論文「『日本的経営』が危ない」(文藝春秋92年2月号)が労使の論争を巻き起こした。盛田論文の要旨は,<1>「良いものをどんどん安く」というこれまでの日本企業のやり方に対する欧米の我慢は限界に近づいており,欧米企業と整合性のあるルールのうえでフェアな競争をしていく可能性があること,<2>したがって日本企業は市場シェアを高める価格競争や,効率追求主義を改め,欧米と整合性をもったフェアなルールを確立すべきであること,<3>具体的には,労働時間の短縮,社会貢献の推進,環境・省資源対策などを考えていかねばならないというものであった。この盛田論文をめぐっては,組合側はおおむね同感するところが多かったが,日経連は春闘を前にした賃上げ許容論であるとして,これに対する反論を出したほか,多くの議論が起こった。盛田論文の提起した問題は重要であったにもかかわらず,春闘時期の論争の材料提供で終わってしまったことは残念であった。

 5%をめぐる攻防-92年2月-3月

 労働組合が賃上げの要求を正式に経営側に提出するのは2月である。最も早いのが鉄鋼労連で,大手5社労組が一斉に1月31日に要求書を提出,自動車総連と造船重機労連は2月19日に要求書を提出した。
 正式な交渉に入った2月26日付の日本経済新聞はトヨタ労使の攻防を取り上げている。ここで経営側が「景気回復には個人消費拡大よりも設備投資の果たす役割のほうが大きく,企業収益の確保のほうが先だ」として,「賃上げ率は5%にいくはずがない」という見解を示している。マスコミを通じて経営側から具体的数字が示されたのは,このときがはじめてで,組合側はこれに強く反発しているが,いよいよ5%が攻防ラインになっことがわかる。
 3月4日付の日経産業新聞は電機と鉄鋼の交渉状況を伝えている。電機については「各社とも業績の悪化が激しく,昨年実績(5.55%)を下回る見通し。5%を割り込むのは確実で,場合によっては昨年を1ポイント程度下回る可能性もある」との見通しを立てている。これは経営側からの取材であり,経営側から4%台半ばという線が示されていることが推測される。鉄鋼については,昨年実績が1万1,500円であったが,大手労組幹部から「今年は1万円がひとつの壁」という談が記事として掲載されている。この時点で昨年マイナスアルファはほぼ確定したと見るべきであろう。
 翌3月5日の日経産業新聞は得本自動車総連会長へのインタビュー記事を掲載している。「自動車総連の8%基準要求に沿って,各組合は要求を出したが,トヨタはすでに5%未満という回答を出したが」という記者の問いに対して,得本氏は「昨年より収益状況が悪いのは事実だが,組合員がさぼって悪くなったわけではない。我々は生活の論理であくまでも押す。5%は譲るわけにはいかない。支払い能力が無いとは思えない」と答えている。自動車では5%の攻防が本格化していることがうかがえる。
 3月8日の日本経済新聞は,具体的な数字を挙げた予測記事を掲載した。その内容は「リード役の自動車大手の賃上げ率は4.9%前後の攻防が進む見通しで,電機は4.7-4.9%の幅に絞られてきた。鉄鋼は1万円台乗せが濃厚で,造船重機は前年同額の1万4千円が確実視されている」というもので,自動車については「トヨタでは組合が5%台の賃上げを主張。経営側は大幅な減益を理由に4%台に抑えたいとして,せめぎあいが続いている」としたなかで,「4.9%前後に落ちつく公算が大きくなってきた」という記者の見通しが書かれている。
 これに対し電機は「経営側は当初4%前半を主張していた。しかしトヨタとの格差拡大を懸念,4.7-4.9%の線までせり上がろうとしている。組合側は5%へ向けた上積みをねらおうとしている」というもので,鉄鋼については「昨年実績を下回るものの,1万円乗せの線は有力だ」として「最終的には自動車,電機との差をみらんで1万-1万500円の線での攻防になるとみられる」と書かれている。
 この時点ではトヨタ自動車がパターン・セッターの役割を果たしており,電機,鉄鋼ともそれをみらみながらすり合わせを行いつつ,落ちつきどころを探っている様子がうかがえる。このあたりまでが,春闘の前半戦で,3月中旬からは後半戦に突入する。

 5%届かず-3月-回答日

 3月中旬の新聞報道は景気後退,バブル崩壊による企業業績悪化によって,労働側が守勢に立たされているというものが多く,金属産業については5%割れがほぼ確実となったことが伝えられている。この年は3月25日が集中回答日であったが,交渉が大詰めとなるときに,3月20日が春分の日,21,22日が土日となって連休と重なってしまい,本来なら連休に入る前に大筋の労使合意を取り付けたい気持ちは労使双方にあっただろうが,連休前にはまだとても合意に至るところまでいっていなかった。特に厳しかったのは電機である。3月22日の日本経済新聞は「電機の労使が賃上げ率4.7%をはさみ,厳しい攻防を続けている」として労使の隔たりが大きく「組合側はストライキの行使もちらつかせ始めた」と報じている。3月中旬時点では4.7-4.9%であったものが,その後の交渉で4.7%にも届かない線で経営側が動かず,組合側がイライラしてきたのである。
 翌23日の日本経済新聞は,鉄鋼大手5社が「33歳17年の標準労働者で1万円,3.63%を回答することを決めた」として,「これで鉄鋼の春闘は事実上決着する」と報じた。また自動車ではトヨタ自動車が「1万3,500円,4.80%をめぐって最終調整に入った」と伝えている。鉄鋼が1万円を決めたことで,自動車も収束に入りかかったのだが,電機の交渉がもつれ,自動車の交渉も24日午前までかかることとなった。
 電機は労使の攻防が続いており,23日午前に開催した電機労連の中央闘争委員会で,岩山委員長は,(1)組合が求める5%の賃上げにこだわりきれる状況ではない。(2)経営側が主張する4%台半ばでは円満解決はできないと指摘し,円満解決に向けて努力するとしながらも「ストの可能性がきわめて大きくなった」と強調した。この時点でも経営側は4.6%を譲らず,4.8%を主張する組合側と0.2%の開きがあったのである。電機労使で0.2%の差を詰める作業が始まったのはスト不可避との危機感が出てきた24日の未明で,結局4.7%に落ち着いた。
 3月25日,金属を中心とする主要単産に回答が示された。その結果は表3のとおりである。
表3 金属労協4単産(主要組合)の賃上げ結果

 結果をめぐる労使の評価

 3月25日に示された回答に対する,労使トップの反応は次のようなものであった。まず,得本金属労協議長(自動車総連会長)は「今回は高まる景気後退感と金属産業の業績悪化がすすむなかで,終盤まできわめて困難な交渉だった。回答内容は組合員の生活向上にかける期待などから十分なものとは言えないが,総合的に見ると実質生活の維持につながるものであると判断できる」と述べている。日経連の永野会長は「鉄鋼,自動車,電機が昨年を下回る回答となったが,これは予想を超えて景気が減速,企業業績も低下していることを,組合に理解してもらった結果と考えている。昨年を下回ったとはいえ,景気の後退や企業の支払い能力を考えると,労使関係を配慮したかなり高めの回答だ」(日経産業新聞 92.3.26)と発言している。総合的に評価すれば,経営側は昨年水準を下回り5%以下に抑えたいという意味でメンツを立て,組合側は賃金面では不満が残るものの,実質生活の維持は確保でき時短などの面を加えてトータルで判断すれば評価できる内容というもので,ほぼ労使双方が納得できる線であった。
 しかし,個別産別では,若干ニュアンスの差が出てくる。自動車総連は,トヨタが1万3,600円,4.83%という結果であったが,トヨタ労組の小田切委員長は「賃上げが4%台にとどまったのは残念だが,相場が低いなか,各組合員のがんばりが経営側を動かし,ここまでもってこれた」と組合員の努力を強調し,豊田章一郎社長は「会社の業績は思ったよりも悪いが,組合員の収益改善の努力を聞き,理屈抜きで判断した」と語った。トヨタにとっては労使ともに納得できる水準であった。鉄鋼は,経営側は9,500-9,700円を主張し,組合側が1万500円を主張したなかでの1万円回答であり,組合にはやや不満も残るものの,双方「痛み分け」というところであった。新日鉄労連の岡田書記長は「今次回答は,とりまく情勢が当初の予測を上回って厳しさを増すなかで,割増率を除くすべての項目で具体的回答を引き出し得たことから,要求趣旨や組合員の期待から言っても今一歩の感が残るものの,総合的に見れば評価できるものと受け止めている」(労働レーダー92年5月号)とコメントしている。
 電機労連にとっては4.7%という結果は不満の残るものであった。松下電器労組の久保田書記長は「『業績悪化は円高不況以上』と強い危機感を抱く経営側のミクロ視点とのギャップはきわめて大きく,最終局面まで難航した闘争となりました。16年ぶりのストライキ突入かという,まさにギリギリの段階まで闘ったなかでの賃上げ回答4.7%であったことは事実であり,要求との乖離,他産業との比較,職場の期待感等からすればモノ足らなさが残るとはいうものの,現時点では電機労連統一闘争としての主体的力量の課題として,冷静に分析,総括していく必要があると考えております」(同上)とコメントしている。
 造船重機労連は25日の回答で大手7社に対し,賃上げについては1万4,000円が示され,組合側も納得したが,一時金50万円プラス3.5カ月という回答(三菱重工は72万円プラス3.5カ月)が,組合側が歯止めとした線と2万円の差があったため,組合側は三菱重工を除いて,態度を保留し,3月31日になってようやく妥結(NKKは4月1日妥結)するという結果となった。
 これを受けて金属グループ以外の単産も一斉に交渉を追い込んだが,ほとんどの単産が前年実績を割り込むこととなり,全電通,私鉄総連などではストライキに突入するところも出た。
 労働省がまとめた,この年の賃金相場は4.95%で5%を割り込む結果となった。5%の攻防と言われた92年の賃金闘争は結果的には労働組合側の敗北に終わった。その後,日本経済は,バブル崩壊の影響が顕在化して,不況の側面が強くなっていった。連合総研が描いた悪いほうのシナリオを歩んでいったわけである。賃金の伸びも鈍化したが,所定内給与よりも,実際には所定外給与のマイナスのほうが大きく残業カットが給与総額の伸びをダウンさせており,実質賃金はほぼ横ばいという状態となった。ただし,春闘相場で決定する所定内給与については,伸びはやや鈍っているものの実質賃金でもプラスを維持している(連合総研 1992)。

 成熟化時代の賃金決定

 わが国の賃金相場に大きな影響力をもつ金属産業の賃金決定は,次のような特徴をもっている。まず第1は金属産業グループとして同時期交渉,同時期決着を図っていることである。92年は労組側の方針で,年度内いわゆる3月決着が図られたが,これは経営側にも受け入れられ,3月25日の同時期決着となった。賃上げ相場形成が期待され,どこかがそのパターン・セッターの役割を果たさねばならないとすれば,波及効果を高める意味で同時期決着もひとつの方法として取り得る選択であろう。これは労使の戦略,戦術にもかかわる問題であるが,金属産業グループとしてパターン・セッターの役割を労使とも自負していることが,こうした対応となって現れていると言える。
 第2は,交渉がいわゆる一発回答方式であることである。この一発回答方式についてはその過程が不透明であるという批判があるが,実際には,新聞記事などによって経営側の見解,労組側の反応などは,かなりの部分オープンになっていることがわかる。一発回答は,回答したら組合がこれを受け入れることを前提に提示するものであり,その間に労使のすり合わせが行われている。92年の場合は造船重機で組合側が会社回答を不満として妥結を保留したが,これは最終の場面で労使のすり合わせがうまくいかなかっこことを示すものであり,労使双方に反省点を残した。また,一発回答のためには,労使双方が納得できる点を求めることが重要であり,交渉は要求提出から始まるのではなく,実際には1月頃から労使の「ハラの探り合い」が始まっているのである。
 第3は,交渉は個別企業単位ではあるが,実際には同一産業内の企業間,また産業間のすり合わせが行われていることである。経営側の調整機関として8社懇というのがある。これは鉄鋼,自動車,電機,造船の4業界からそれぞれ2社ずつ労務担当責任者が出席して調整する機関のことである。新日鉄で長く労務担当役員を勤め,鉄鋼産業の賃金交渉に携わっていた小松廣氏(元新日本製鐵副社長)は8社懇について「鉄鋼,造船と自動車で格差回答が出るときに,やむを得ないと了解をとったり,その場合についあいは一緒にやれないといった牽制を兼ねたようなことを当然やります」と発言している(注21)。調整機関であると同時に牽制を行うと述べているわけだが,92年の金属産業の回答について解説した記者座談会で,「トヨタは3月18日の経営側8社懇で4.7%台を示唆したようだが,ある電機の労担が「高すぎる」と反発。「自動車とは離婚する」と発言したとも伝えられる」(日本経済新聞92年3月25日夕刊),というくだりがあるが,こうした牽制も含むすり合わせによって,それぞれの落ちつきどころを探っているように思われる。

(注21) 春闘研究会でのヒアリングによる。春闘研究会 1989:p.111.

4 「連合」時代におけるネオ・コーポラティズムの進展

 連合結成の意味

 1987年の民間連合の結成,その2年後の官民統一体としての連合の結成は,政推会議,全民労協と続いてきた政策参加志向型運動の結実であった。
 連合が結成されたことの意味は次の点にあるといえる。まず第1は連合がイデオロギー対立を克服し,市場経済を前提とした基本政策をもったことである。わが国労働運動はイデオロギーの違いからくる運動理念の対立がもとで,2つの勢力に分立されたままできていた。ソ連邦の崩壊によって市場経済の優位性が明らかになったと言われているが,冷戦構造が終焉する前に,わが国労働組合が自らの意思で,過去のイデオロギー対立からくる争点に決着をつけたことは評価されてよい。もちろん市場経済を前提とするといっても,それは競争原理にすべてを任せるということではなく,社会的連帯を重視し,社会的弱者に政策的配慮を求める立場であることは言うまでもない。
 第2は労働組合の全国組織が果たすべき役割のなかで政策・制度要求の実現を,優先順位の高いものとして位置づけたことである。全民労協が連合組織に移行するに当たって,その基本原則として確認されていたことは,統一推進会が1981年6月に発表した「民間先行による労働戦線統一の基本構想」を堅持することであった。その「基本構想」には統一の必要性と目的の第1として「政策制度課題の重要性が高まっていること」を指摘し,「労働組合が労働者の生活全般の向上を実現するには,企業内だけの運動では不十分であり,政府に対する物価対策,不公平税制の是正,雇用の安定などの政策制度闘争が展開されなければならない。しかし,これら政治にかかわる取り組みについては,労働側が分裂状態のままでは力を発揮することは不可能である」として統一の必要性を強調している(藁科 1991)。
 連合はこれを実践するため,綱領,基本目標などを定めた「連合の進路」のなかで,基本目標の第3項に「われわれは「力と政策」を強化し,目的と政策,要求を同じくする政党,団体と協力して,完全雇用,物価安定,総合生活の改善・向上をはかり,活力ある福祉社会を実現する」ことをうたっている。
 もちろんそれまでのナショナルセンターでも政策・制度問題への取り組みはあったことは事実である。完全雇用の達成や福祉の充実などはこれまでにも取り組んできたものである。しかし,経済政策,物価や税制,土地・住宅,食料,エネルギーなど総合生活向上に代わる政策制度全般について,これをナショナルセンターの重要な役割として位置づけたことは,これまでになかったことである。
 また,連合は自らの政策立案能力を高めるため,シンクタンクとして連合総研を87年に設立(88年12月に財団法人化)した。連合総研は,連合および連合傘下の加盟労働組合が主要な闘争,政策・制度要求活動を推進するうえで必要とする国内外の経済・社会・産業・労働問題に関する調査,分析等の活動を行うとともに,新たな時代を先取りする政策研究を通じて提言などを行っている。
 第3は連合が民間主導によって結成されたことであり,政策立案に当たっても民間部門が中心的役割を果たしていることである。これは,政推会議,全民労協の活動を通じて,政策・制度課題に関しては,共通の理解と基盤が形成されてきたことにもよるが,景気や雇用の問題は民間産業に直接的影響を与える問題であり,経済政策全般,とりわけ景気対策,通商政策,産業政策,雇用政策などについて民間部門が積極的に発言していかなければ,自らの産業に大きな影響を与える問題となりかねないとの認識による。
 賃金その他の労働条件決定にしても,経済政策についても,労働組合が政府に説得力をもつ発言ができるのは,民間産業が国民経済のなかで重要な位置を占め,そこにある労使が完全雇用の達成と国民生活の安定という基本目標を果たすうえで大きな役割と責任を担っていることに基づくもきであろう。その意味で,民間部門が連合のなかで中心的役割を果たすことは当然といえる(逢見 1989)。

 連合の政策・制度要求の考え方

 連合は発足に当たって綱領,基本目標を定めた「連合の進路」と併せて,それを具体化するための「運動領域と活動のあり方」を定めた。このなかで政策・制度課題については次のように考え方をまとめている。

 政策・制度課題の改善について

1.(基本的考え方)
 公平・公正な社会の建設をめざし,労働者の総合生活を改善するとともに,広く国民生活の安定・向上をはかるため,政策・制度課題の改善を進める。そのため,企業・作業・地域レベルでの活動を強化しつつ,国民生活に関連の深い諸課題に対する政策立案と合意形成および立法化に向けての運動を強化する。
 また,取り組みに当たっては,次の5項目を基本とする。
 <1> 総合的な生活の安定と向上をはかる立場から取り組む。
 <2> 通年的な活動として,節々を設けながら推進する。
 <3> 政策・制度課題は組織内の討議を尽くし,合意のできたものから積極的に取り上げていく。
 <4> 政策の内容と運動の大衆化を進める。
 <5> 取り組みの経過と結論を明らかにしていく。
2.(政策・制度課題)
 技術革新,高齢化,情報化,国際化の進展などを先取りした政策の立案とその実現に努める。すなわち,「経済政策全般」「総合産業政策」「物価対策」「税制改革」「雇用・労働政策」「福祉・社会保障制度改革」「土地・住宅,環境政策」「婦人政策」「食料政策」「資源・エネルギー政策」「政治・行政改革」「交通政策」「中小企業政策」「教育問題対策」さらには「都市開発」「地方政策」を含めて,政策の総合化と専門的研究を深めるとともに,必要に応じ新たな課題を追加するなど政策課題の拡充に努める。
3.(立案能力の向上)
 「連合」の政策立案能力と調査力を高めるために,その基礎的研究を担う財団法人・連合総合生活開発研究所(連合総研)の充実をはかり,連携を強める。
4.(地方への展開)
 地方においては,それぞれが固有の課題を抱えている実態を考慮し,中央における活動と合わせて政策・制度課題の改善の地方レベルでの展開に努める。
5.(実現に向けての対応,体制づくり)
 <1> 政策・制度「要求と提言」の作成に当たっては,次年度の政府予算概算要求の策定に対応しうるよう,遅くとも毎年6月末迄には機関決定する。
 <2> 実現に向けては,政府,関係省庁,自治体,政党,および関係諸団体に対する要求活動を積極的に展開する。併せて,政府,省庁,自治体,の各種審議会での活動を強化するとともに,政党,関係省庁,関係団体との間に定期協議の場を設け,有効に活用する。
 <3> 政府,政党に対する政策・制度闘争の充実・強化に努め,立法化に向けての運動の前進をはかるとともに,キャンペーン,シンポジウムなどを実施し,政策課題に対する世論喚起・形成のための活動を推進する。
 (連合「運動領域と活動のあり方」 1987)
 これらの考え方は政推会議,全民労協から受け継がれてきたものであり,70年代後半からの運動の積み重ねによって形成されてきたものと言えよう。

 連合の政策・制度要求の実現手法

 連合の政策・制度要求の手法は次のようなものである。まず第1は政党との定期協議である。これは社会,公明,民社,社民連各党と従来から個別に定期協議の場をもっており,連合の政策・制度要求については定期協議の場を通じて各党に理解と協力を求めている。93年の細川連立内閣の成立によって社,公,民,社民連の各党はこれまでの野党から与党に代わり政策実現の距離は近くなった。
 細川連立内閣に対して,連合は「連立政権に関する基本政策4項目,重要政策8項目について基本的に賛成し,連立政権に大いに期待・歓迎する」ことを表明しており,政党との関係については,「社会,公明,民社,社民連とは協力・協調,民主改革連合とは協力・支持の関係。新生党,日本新党,新党さきがけとは政策を中心に話し合いを進めていく」(注22)というものである。また,連立与党政策幹事とは必要に応じて,随時話し合いの場をもっている。これとは別に,連合は国会開会中に,テーマに応じて国会連絡会を随時開催し,連立与党の代表を招き,連合の考え方への理解と協力を求めている。
 自民党とは,政権与党の時代は必要に応じて政調会長等への申し入れを行っており,93年2月5日には梶山幹事長ら三役に対し,予算案の年度内成立や4兆円以上の大型減税の実施について申し入れているが,細川連立政権成立後は自民党に対する公式的な要請行動は行っていない。
 第2は政府,各省庁への申し入れである。政府の最高責任者である首相に対しては予算編成の時期である12月と,民間の賃金相場がほぼ出そろい,公務員などに問題が移される時期また通常国会で予算以外の法案審議が具体化する4月頃に必要に応じて申し入れを行っている。89年12月以降の首相への要請行動,政労会見などの内容は表4のとおりである。
表4 連合と首相への要請,政労会見等(1989年12月-1993年)
表4 連合と首相への要請,政労会見等(1989年12月-1993年)(つづき)
 また省庁申し入れについても,大蔵,外務,通産,厚生,労働など15の省庁に対して行っている。また通産,労働,大蔵などいくつかの省庁とは定期協議の場をもって,連合の政策,制度要求を中心として当面する政策課題についての意見交換を行っている。省庁に対する要請行動は,連合の政策・制度要求に理解を求めるなかで,各省庁の概算要求に盛り込ませることをねらいとしているものであるが,92年度予算の概算要求のなかで盛り込まれた内容(91年8月)を一覧にすると表5のとおりである。
表5 連合の申し入れにより92年度概算要求に盛り込まれた各省庁の主な内容(91年9月)
表5 連合の申し入れにより92年度概算要求に盛り込まれた各省庁の主な内容(91年9月)(つづき)
表5 連合の申し入れにより92年度概算要求に盛り込まれた各省庁の主な内容(91年9月)(つづき)
 第3は政府の審議会に労働組合代表を送り,そこでの意見反映を通じて政策要求の実現を図っていることである。93年9月現在で連合本部ないし,連合構成組織から審議会に委員を出しているのは,労働,運輸,厚生,総務,外務,大蔵,文部,建設,経済企画,環境,国土,農水,科学技術,通産の14省庁になる。具体的には表6を参照されたい。
 審議会ではないが,首相の私的懇談会として政府の政策の方向づけに大きな影響を与えた1986年の「国際協調のための経済構造調整研究会(前川研究会)」や1993年の「経済改革研究会(平岩研究会)」にも,労働組合代表が参加し,意見反映に努めてきた(注23)。また,これは連合の政策や意見を反映させるということではないが,政策参加のひとつとして,1982年からタイの日本大使館に,さらに1992年からはアメリカの日本大使館に外務省を通じて,一等書記官として労働組合から出向者を出している(注24)。
表6 連合が参加する政府審議会等
 第4は日経連,経団連,日本商工会議所(東京商工会議所)などの経営者団体との政策協議を随時行っている。とりわけ労働問題を専管事項とする日経連とは意見が一致するものについては共同行動も行っている。たとえば<1>首都圏で低廉で良質な共同賃金住宅供給を実現するため,連合と日経連で「財団法人勤労者共同賃貸住宅事業協会(NR事業協会)」を設立,この事業には,全国農業共同組合中央会(全中)も協力して,農住組合が宅地を提供し,NR事業協会が住宅を建設する手法で住宅供給を行う事業(1990年),<2>連合・日経連物価共同プロジェクトによる「内外価格差解消・物価引き下げ」についての共同作業(1990年),<3>老人保健制度改正のための連合・日経連・健保連による共同提言の発表と合同キャンペーンの実施(1900年),<4>5兆円以上の大型所得税減税の政府への共同要請(1993年)などの行動をとっている。
 経団連とはマクロの経済問題をはじめとして,政治改革,減税,証券金融問題,企業と個人の共生など多岐にわたる議論を行っている。東商とは中小企業問題を中心に時短,福祉などについて意見交換を行っている。こうした団体との協議では労働組合と経営者という立場の違いがあるわけだから,意見が違うところが出てくるのは当然である。賃金問題,時短問題,土地税制の問題などではかなりの見解の相違もあった。しかし,こうした問題についも議論を避けるものではなく,それぞれの意見を出し合って違いは違いとして率直に認め合ってきた。90年以降の経済団体との協議内容は表7のとおりである。
表7 連合と経済団体との協議(1990年-1993年)
表7 連合と経済団体との協議(1990年-1993年)(つづき)
 第5は職域,職場における運動である。政策・制度要求を職場に根づいたものとするために,要求づくりには「職場からの生の声」が反映できるようアンケート調査を実施したり,地方連合からの要望もできるだけ組み入れるようにしている。また,連合が策定した政策・制度要求を職場に理解してもらうよう,各種討論集会,フォーラムなどを開催したり,リーフレットを作成したり,署名運動を展開するなどの活動を行っている。
 連合の政策・制度要求をチャート化したものを示すと表8のようになる。
表8 連合の政策・制度要求取り組みチャート

(注22) 連合「新政権の発足にあたって(声明)」(WEEKLY れんごう,No.159)

(注23) 労働組合代表として,前川研究会には宇佐美忠信同盟会長が,平岩研究会には山田精吾連合事務局長が参加した。

(注24) 労働組合運動の経験者を外交官に登用すべきだという労働組合の要求は,欧米の諸国やオーストラリアの国々の先例に根ざしたもので,政推会議の政策・制度要求のなかに盛り込まれ,大平内閣の時代に実現することが確認されたものである。1982年から在タイ国大使館一等書記官としてゼンセン同盟,自動車総連,電力総連,鉄鋼労連,商業労連から派遣,さらに1992年からは在アメリカ大使館一等書記官として電機連合から派遣して現在に至っている。労組出身外交官第1号の体験記,高木(1985)を参照。

 連合の政策・制度要求の成果

 連合の政策・制度要求の成果を詳細に取り上げるのは困難な作業である。なぜなら,連合が要求し,それがそのままストレートに実現したものもあるし,連合がはじめに提起したけれども,その後審議会や国会でいろいろな意見が加わって実現したものもあるし,国会で政党間の意見調整がつかなかったものを,連合でまとめて修正をかけ実現したものもある。それらについて細かく捉われずに連合が直接,間接に影響力を行使したものについて,主な成果を1989年11月以降の分で拾い上げると,次のようなものがある。
 まず第1は育児休業法の成立である。育児休業法は全民労協時代から立法化に取り組んできたもので,1987年に社会,公明,民社,社民連4党に共同で法案を国会提出するよう要請し,同年8月に参議院に提出して以来,4年がかりで取り組んできたものである。与党である自民党にも働きかけ,90年12月に法案提出が政府の手にゆだねられ,婦人少年問題審議会での答申を経て,91年5月8日に成立,92年4月から施行された(注25)。
 第2は労働基準法の改正をはじめとする労働時間短縮のための制度的改善である。これは,1987年の前川リポートのなかで,労働組合としての意見反映に努め,ゆとり豊かさを実現することを政府の重要な政策課題として位置づけさせたのをはじめ,法定労働時間を46時間から44時間,さらに40時間制へ移行させるとともに,年次有給休暇制度の改善(勤続1年以上付与要件を6カ月に短縮),休日割増率の引き上げ(25%を35%以上に)など着実な改善に組合の力を発揮してきた。また,時短促進法の制定,土曜閉庁制など公務部門の週休2日制,学校5日制の導入などを実現させてきた。
 第3は地価税の制定である。これは連合が土地神話を打破し,土地基本法の趣旨に沿った土地政策を実行させるため,大土地保有税を提起し,その趣旨を政府税調の90年12月答申に盛り込ませ,91年に成立させることができた。この地価税の税収部分は所得税減税に充当するよう連合は求めていたが,これが一般財源化されるなど問題点もあったが地価引き下げの効果を発揮したことは間違いない。
 第4は短時間労働者雇用管理改善法(パート労働法)の制定である。これも全民労協が88年に「パートタイム労働者対策基本指針」のなかで,フルタイム型パートタイム労働の差別と,第3次産業における基幹労働力としての短時間労働者の増加を問題として捉えて「パート労働法」の制定を求めて以来,5年がかりの課題であった。この間政府は時期尚早として法制化に消極的姿勢を取り続けてきたが,93年に成立を見た。その内容については均等待遇と差別禁止について具体的に触れられておらず,連合が求めてきたものからは後退したものとなっているが,今後さらに強化することとして,成立させてきたものである。
 第5は所得税減税である。税制改革は政推会議以来,重点的に取り組んできたものである。その当時から,現行所得税制が名目賃金が上昇すると,実質増税になる制度を改め,物価調整減税制度(インデクセーション)を導入するよう求めてきたが,政府はこの要求を拒み続けてきたので,物価調整分を取り返す減税要求を行ってきた。所得税は89年の税制改正以来,本格的な減税が行われておらず,92年から連合は「2兆円規模の減税」を求めてきた。政府はこれについて,減税は困難との姿勢を変えておらず,その後,景気がさらに悪化し,景気対策も含めて,93年2月には社・公・民3党による4兆円規模の減税を柱とした予算修正要求をしたが,これも自民党が拒み続けたことから,次の細川連立内閣に持ち越された。連合は93年秋の時点で「5兆円規模」に要求規模を拡大するともに,政府税調のなかで所得税減税の必要性について強く主張した。
 93年11月の政府税調の中期答申には,所得税減税の必要について問題提起は盛り込まれたが,実施時期や規模については,政府・連立与党の手にゆだねられた。連立与党のなかでも減税の方法や財源について意見をまとめることが難しかったが,94年2月に94年度分の減税についての成案をまとめることができた(注26)。
 その他,土地基本法の制定(1989年),ゆとり宣言の国会採択(1990年),高齢者雇用安定法の改正(1990年),消費税見直し法案の成立(1991年),老人保健法の改正(1991年),看護婦等人材確保法の制定(1992年),社会福祉事業法の改正(1992年),拠点都市法の成立(1992年),ILO159号条約(障害者雇用)批准(1992年),バーゼル条約批准(1992年),環境基本法の制定(1993年),子供の権利条約の批准(1993年),雇用保険法改正(1994年)など連合の要求や修正要求を取り入れて成立した法律,条約批准は少なくない。もちろん,連合が要求しながらまだ実現できていない法案も残っている。しかし全体としてみれば,連合の政策・制度要求の実現の度合いは低いものではないことは,事実が示している。

(注25) 育児休業法制定の時点で,休業機関中の経済保障の問題が残り,これについては継続して検討することとなった。これについては,雇用保険法のなかで,95年から休業前賃金の25%を給付することが決められた。また,休業期間中の厚生年金保険料についても免除することとなり,経済保障の問題もかなり前進した。これらについても連合の要求が実現したものと言える。

(注26) 95年以降の税制改革に関しては,連合与党は93年2月8日に連合与党内に「福祉社会に対応する税制改革協議会」を発足させた。その後,羽田内閣の成立の段階で社会党の政権離脱などがあり,与党の構成変化があったが,94年6月に連立与党は税制改革についての報告を発表した。

 まとめ

 これまで見てきたように,75年以降のわが国の政推会議,全民労協,民間連合,そして現在の連合の行動,またこの活動を支えてきた単産の行動には,一貫した流れがある。それは,「圧力パワーゲーム」の行動から「参加と協議」を基本とした行動に移行してきたことである。こうした組合行動については,最初に引用したような,労働組合の体制への「組み込まれ」とか「労働なきコーポラティズム」(ペンペル=恒川 1984)という批判がある。
 労働組合が自民党体制に組み込まれたとする見方は,1993年の非自民政権の樹立によって否定することができた。この政権交代は東西冷戦構造を背景にした自社2党による55年体制の崩壊を意味するものであり,また,政・官・業による協調体制-悪くいえば癒着体質,いわゆる鉄のトライアングルがきしみはじめたことを示すものであった。
 これまでは財界が自民党,労組が社会党や民社党を支援して,財界は「万年与党」,労働組合は「万年野党」の側におり,そこには逆転の余地はないように思われていた。今回の政権交代で自民党が野党に回ったことによって,労組側が与党の側に入れ替わったこととなった。しかし,それによって労働組合の政策参加の度合いが強まったとか,影響力が強くなったというものではない。労働組合の政策参加志向は70年代後半から徐々に深まってきたものであり,自民党政権下でも受け入れられてきたのである。それは政権(自民党政権,あるいは非自民党政権)に組み込まれた関係を意味しているものではない。そのときの政権あるいは官僚に対し,説得力をもち,世論を味方にして実行力のある内容の政策を提示することにより要求を実現させてきたのである。
 経営者との関係も同様である。カー,ダンロップらによって提起されたインダストリアリズムモデルは,労使関係は利害を異にする使用者と労働組合の「圧力ゲーム」であると想定され,労使自治によってこの「ゲーム」は貫徹されると考えられた。日本の労働組合がとった行動は,こうしたインダストリアリズムモデルとは異なるものである。賃金交渉においても,マクロ経済との整合性を考慮し,労使双方の満足点-落ちつきどころを求める交渉であるといえる。
 これが,労働組合の一方的譲歩であるのか,すぐれた選択であるのかは歴史の評価を待つこととしたい。



第5章 いままたコーポラティズムの時代なのか

 -メゾ・コーポラティズムとその日本的展開-

 はじめに

 いまなぜメゾ・コーポラティズムなのか,そして日本なのか。
 周知のように,1960年代後半からの戦後資本主義経済の深刻な動揺に始まり,70年代以降顕著となった国際分業制度の変容は,先進諸国をかつてない規模での構造調整の渦に巻き込んだ。これに対して当初各国は,マクロの需給調整を行うべく「国家的対応」(Streeck and Schmitter 1991)としての政労使協調へと向かった。70年代中頃から先進各国で同時発見されるマクロ・レベルでのネオ・コーポラティズムの動きがそれである。
 しかしこの試みは,悪化する財政状況,進展する経済の国際化,政労使それぞれの内部緊張といった諸種の圧力の下でその限界を露呈する。その後,市場構造の変化に伴ういわゆる「柔軟な生産体制」(ピオリ=セーブル 1993)への移行と国家の経済社会の諸領域からの選択的撤退は,進行する国際分業体制の変容を一層加速させ,産業セクターや地域における構造変動を激化させる。こうして先進諸国では80年代以降,新たな国際分業体制に対する個々の産業調整,地域調整が主要な課題となっていく。
 こうした現実趨勢は,当然コーポラティズム研究の方向性に大きな影響を与えた。それはメゾ・コーポラティズムという形での焦点レベルの下方修正と,「セクター間クラッシュ」(Schmitter 1990)などの表現に現れる対抗枠組みの軸移動を呼び起こした。さらにこれらの変化は,単に事態の変化に合わせた分析レベルの機械的な転移にとどまらず,国家を中心とするマクロ・レベルを基軸とした既存社会科学の諸モデルに対し,セクターや地域によって代表されるメゾ・レベルの位置価値の再評価に対する含意を強くにじませた。
 この後者の点はメゾ・コーポラティズム理解において重要である。なぜならそれは,このメゾ・コーポラティズムへの流れが時の偶然なのかどうかという問題に帰着する。そこではひとつの考え方として,特定の発展段階に到達した先進諸国の工業化が必然的に遭遇した新たな秩序問題という歴史的認識を想定することができよう。だとした場合,われわれは「メゾ」なる言葉で総称される新たな意味空間の時代を迎えているともいえる。本稿の課題は,この点を日本の事例とも照らしながら検討してみようということにある。
 とはいえここで日本の事例を検討することは,特に特定国での確認に終わらぬ含意をもつ。実際,前述の現実趨勢の文脈において日本はこの間「成功者」としての軌跡をたどってきたと同時に,他国を相対的に劣位に追い込むことで全体状況を駆動する鍵的立場を占めてきた。そのことはまた国内外において日本社会への関心を高めるとともに,既存の欧米モデルでは捉え切れない日本の特製にこそ競争優位の秘訣があるとする認識をも広めた。
 しかし皮肉なことに現実はこの「日本問題」を,それを声高に叫ぶ欧米自身の「日本化」と日本自身の「脱企業中心社会」への趨勢変化という両極からの接近現象によって,特殊性論議を超えた普遍的地平へと押し出した。もちろんこのことですぐさま新たな収斂を展望することは,なお留保を必要としよう。当面はむしろ,この普遍的趨勢下での諸類型の並存といった構図を描くことのほうが重要ではなかろうか。日本の事例検討とはこの点で有為な試みといえよう。
 以下第1節では,メゾ・コーポラティズムの系譜をネオ・コーポラティズム研究や隣接諸研究の変遷のなかでたどる。第2節では,メゾ・コーポラティズムの運命性についてその背景となる現実趨勢と併せ検討する。第3節では,上述したメゾ・コーポラティズムの可能性を日本の労働をめぐるネオ・コーポラティズム論議から探る。第4節では,このメゾ・コーポラティズムの日本的展開の特性を整理する。そして最後に,メゾ・コーポラティズムの新たな意味空間に言及する。

1 メゾ・コーポラティズムの系譜-旋回するコーポラティズム

 メゾ・コーポラティズムとは,これまでどのように議論されてきたのだろうか。そこでは,いかなる問題関心の下でどのような現象が注目されてきたのだろうか。ここではその過程を,ネオ・コーポラティズム研究の変遷のなかでたどってみることにしよう。
 マクロ・バイアスとメゾ・コーポラティズム
 ネオ・コーポラティズム研究の変遷を1980年代までの時点でサーベイしたウィリアムソンは,その過程を3つの世代に分けている(Williamson 1989)。その世代区分に従えば,ネオ・コーポラティズムについてメゾ・レベルへの言及を明確に行ったのは,コーポラティズムについての見解や主張が百家争鳴に噴出した第1世代の後で,議論の焦点を絞りはじめた第2世代に属するヴァッセンベルクがはじめてであろう。
 彼はオランダの産業政策を題材にコーポラティズムを論じるなかで,そのメゾ・レベルへの適用の有効性を主張するとともに,既存のコーポラティズム分析における国レベルへの偏りを取り上げ,マクロ的な叙述や一般化がなされたこれまでの研究の少なからざるものはメゾないしミクロ・レベルでの経験的証拠から導き出されているとして,コーポラティズム議論の「マクロ・バイアス」を指摘した。そして彼は今後の研究方向として,議会,内閣,頂上団体組織などにかかわるマクロ,産業分野の制度的機関,地域の公共機関,業種別・地域別の各種団体組織にかかわるメゾ,個別企業,団体支部,政治行政機関の末端単位にかかわるミクロの3つのレベルに分けた分析手法を提唱する(Wassenberg 1982)。
 このヴァッセンベルクの議論は,マクロ・レベルのコーポラティズムのより詳細な特徴分析と同時に,分析の焦点をメゾ・レベルへと明確に移行させていったコーポラティズム研究の第3世代を台頭させる導火線となった。そしてこのコーポラティズムのメゾ・レベル研究に,はじめて本格的な実証分析のメスを入れたのがコーソンである。
 彼は先進諸国において公共政策がいかなる政治過程のなかで形成されているかを,さまざまな産業セクターの事例を題材にした各国比較により検討した研究書を編むなかで,業界団体をはじめとする特定産業の利益を代表する諸組織がその関連する政策形成において国家機関と相互に作用し合っているケースを明らかにした。そして彼は,従来のマクロ・コーポラティズムにおいて広く見られた「階級利益」ではなく,「セクター」という範疇に特化した利益をめぐる政治過程のニュー・モデルの存在を示すことで,ネオ・コーポラティズム研究にメゾ・コーポラティズムの新たなフロンティアを切り開く(Cawson 1985)。

 PIG

 このコーソンが明らかにしたメゾ・コーポラティズムの理論的含意における可能性をさらに開化させ,同時にネオ・コーポラティズムの現実的含意にも新次元の問題を付与したのが,ストリーク=シュミッターの「プライベート・インタレスト・ガヴァメント(Private Interest Gavernment:以下PIG)」の議論である。
 PIG論は私的な利益団体への公共政策機能の委譲という状況に注意を向ける。つまり経済のある部分は,市場や国家によって規制されているだけでなく,公共機能を果たす私的な団体によっても規制されており,この団体システムは共同体,市場,国家とともに,それ自体社会秩序を構成するというものである(Streeck and Schmitter 1985b)。
 このPIG論を生み出す母体となったのは,1980年に西欧の先進10カ国を対象に始まったビジネス利益組織(Organization of Business Interests:以下OBI)研究プロジェクトであった。それは社会において集団の利益がどのように組織され,それが利益紛争のよりよき調整のためにいかなる方法で政策過程へ統合されていくかを問題意識に,コーポラティズム・パラダイムを下敷きにしたビジネス利益団体の比較組織構造研究であった。
 ここでの組織構造分析とは,集合的アクターとしてのビジネスが対内的に強固な統制を行い,対外的に利益を強力に代表するための階統的,独占的あるいは包括的な組織をいかなる条件下で作っていくことができるかを直接のテーマとした。またこうした関心は,80年代初頭に市場機能の強化と政府介入の縮小をめぐって現れた規制緩和の議論によって強められることともなった。PIG論が内包したこの規制緩和哲学との親和性は,新保守主義の到来とともに臨終の宣告を予期されたコーポラティズムに新たな行く手を照らし出すこととなり,そこにまたPIG論がネオ・コーポラティズムに与えた重要な現実的含意があった(Williamson 1989)。

 経済統治

 他方でこのPIGは,その組織構造分析アプローチがもつ「超コーポラティズム的」な射程によって,メゾ・コーポラティズムの理論的含意を大きく発展させた。それは,先のOBI研究にアメリカから参加したホリングスワースとリンドバーグが,オリバー・ウィリアムソンが発展させた「トランザクション・コスト・エコノミクス(Trasaction Cost Economics:以下TCE)」における「統治」(Governance)概念を用い,アメリカの各産業セクターを「市場」「血族集団」「階統制」「団体」の4モデルによって分析を試み,コーポラティズムをより大きな理論的枠組みへと導いたことで始まった(Hollingsworth and Lindberg 1985)。
 ニリバー・ウィリアムソンは,経済諸制度はそこでの交換関係を規制するその能力について説明されねばならないとする立場から,取引行為(トランザクション)に焦点を合わせ,そこから経済アクターが自らの行動や他との相互作用において従う諸慣行を作り出すさまざまな「統治構造」(Governance Structure)をめぐる諸条件について興味深い理論を提供し,資本主義社会において経済活動がどのように統治されるかについて新たな関心を呼び起こした(Williamson 1979)。ホリングスワースとリンドバーグは,ミクロ経済を対象にしたこのウィリアムソンの統治概念をセクター・レベルに適用させ,従来「市場」と「階統制」に限定されていた統治モデルに,ウィルアムソンの共同研究者でもあるオオウチが日本の企業間関係の分析から考案した,PIG論の「共同体」とほぼ同義の「血族集団」(Clan)の概念(オオウチ 1984)と,PIG論のそれとイメージを共有する「団体」(Association)の概念を加えた。

 セクター資本主義

 こうした統治概念を通じたコーポラティズム研究の新たな飛躍を踏まえて,シュミッターは「セクター統治」を鍵概念とした資本主義をめぐる新たなシナリオを提起した。
 彼はまず,「組織資本主義」から「脱組織資本主義」への移行論(Lash and Urry 1987, Offe 1985)をコーポラティズムの展開と絡めながら吟味し,もはや資本主義の実際は国内的に産業間・地域間で一層跛行的となると同時にそうした現象が国際的に同調化するとの見方を示し,特にこれから技術革新,市場構造,公共政策の諸動向がミクロの企業行動とのマクロの国内経済を媒介するメゾ・レベルの重要性を高めるとの予測から,今後は「セクター」に注目して資本主義の国際比較研究を行うことを提起する。
 そしてシュミッターは,先のホリングスワースとリンドバーグの統治概念をも念頭に置きながら,「セクター統治」の様式について合理的選択に基づく経済学的な観点と集団的交渉に基づく社会学的な観点から類型化を試み,具体的には市場や共同体に代表される「自然発生的な均衡」と企業内垂直統合や規制機関に代表される「外部からの強制」を両極に置いて,その中間に最もあり得るべき類型として企業間協定や業界団体などに代表される「自己規制」に依存した「同盟」や「ネットワーク」の様式を捉えた。
 そして彼は最後に西欧社会をめぐるこれからのシナリオとして,これまでの「階級闘争」に代わって,製造業vs.サービス業,国内保護産業vs.国際競争産業,ハイテク産業vs.ローテク産業などの形で現れる「セクター間クラッシュ」の台頭を予測し(注1),また資本主義は「脱組織」ではなく「再組織」の方向に向かい,国内市場やそれにまつわる統治機構が超国家的あるいは地域的な諸機構に取って代わられると展望する(Schmitter 1990)。

(注1) このアイディアは中南米の経済発展と政労使関係のダイナミズムに関するママラ
キスの「セクター間クラッシュ」論に基づいている(Mamalakis 1969)。ネオ・コーポラティズムを含めシュミッターの西欧政治分析には自身の中南米研究についての経験が色濃く影響しているが,この点は西欧新教系の北米と西欧旧教系の中南米という構図やシュミッターが英米型民主主義論に対するオルタナティブとしての大陸型民主主義論の系譜に位置づけられることをも考えると興味深い。

 ポスト・ナショナル・コーポラティズム

 続いてシュミッターは,ストリークとともにこの考え方をEC統一という文脈において展開する。彼らによれば,70年代のネオ・コーポラティズムは60年代後半に始まったブレトン・ウッズ体制の崩壊とそれに続く国内外の混乱に対する国を挙げた対応であり,それは特にヨーロッパではこれに先立つECを含めた国際的対応に対する代替策だった。そして80年代前半にこのナショナル・コーポラティズムが衰退しはじめるのと入れ替わりに,EC統合が再び息を吹き返すことになるが,それは決して「ヨーロッパ・コーポラティズム」の形においてではないという。
 そして彼らは,将来のヨーロッパの政体は諸国内部の伝統的な国内関係,諸国間の伝統的な国際関係,国境を超えた諸個人や諸組織による伝統的な超国家的関係,そしてヨーロッパ・レベルの公共諸機関とヨーロッパ市民社会における国内・国際・超国家的諸勢力の多様な組み合わせによる新しい超国家的関係によって多元的に構成されると考え,なかでも地域的な利益政治と超国家的な利益政治に大きな関心を向ける。
 とりわけ前者,すなわち今後のヨーロッパ政治において地域レベルの重要性が高まることは,すでにピオリやセーブルらをはじめとする「産業地域」(Industrial District)の台頭に注目する議論において多く指摘されている(ピオリ=セーブル 1993)。そこでは地域経済の活力にとって特定の社会的基盤が不可欠とされ,中でも利益団体は,分配をめぐる妥協交渉,官民の接触,革新的な小企業の生存に有利な諸制度,職場やそれを超えた労使間の互酬的な協力を促す枠組みの提供などに関してきわめて重要な役割を果たす。
 スープラ・ナショナル・プルーラリズム
 ただ彼らによれば,それぞれの地域は相互依存の世界のなかで不可避的に外部依存性をもち,しかもEC統合で国の枠組みが弛緩することによってそれが一層高まる情勢のなかでは,その外部依存性の統御に大きな困難を伴う。そして本来この外部依存性の重要部分を内部化するために,各レベル間の利益調整が可能な包括的で階統的な組織を必要としてきたコーポラティズムの本質から考えて,前述した地域でのさまざまな協調関係はたとえそこに安定した3者協議システムがあったとしても,これをすぐさま「地域コーポラティズム」(Regional Corporatism)と見なすのは早計であるとする。
 しかも,こうした地域協調が優先されることにより諸組織で重心の下方移動が起こった場合,それぞれの組織は地域間で生じる外部依存性の矛盾を政治的に管理しようとする意欲を急速に減退させるだろう。そしてこの傾向が最も深刻な意味をもってくるのが,どこよりも国レベルでの規制の枠組みにその行動基盤を依拠してきた労組であり,今後各地の労組が地域協調に埋没し,国レベルでの組織の力量低下を顧みなくなれば,それは労組の存在意義を少なからしめると同時に,各地の労組の活動範囲を著しく狭める恐れもある。
 そしてこうした地域的な利益政治の状況は,当然超国家的な利益政治の態様とも相関関係にある。その結果ヨーロッパ・レベルでの政体は,地位の異なるさまざまなアクターが,上下関係や独占関係が薄いなかでしのぎを削る競争的で相当混乱したプルーラリズムの様相を呈するだろう。そのなかで利益団体は,EC中枢に至るルートへの広範な選択肢をもち,したがって望み適わぬ場合には脱退もあり得るとの姿勢をちらつかせながら自らの利益表出を強く期待する構成員を抱えながら,国,地域,大企業,あるいはこれらの代理人と競い合うことになるだろう(Streeck and Schmitter 1991)。
 メゾ・ポリティクス
 こうして地域レベルの政治状況が,国際環境の変化によって新たな含意をもって議論の俎上に載せられてくるなかで,前述のシュミッターとストリークの指摘とも交差する形で,これをあえてメゾ・コーポラティズムの観点から取り上げようとする志向も目立ってくる。
 たとえば西独における地方政府とその経済政策の文脈においてサービス論を検証したアレンは,西独の地方政府が連邦政府以上に産業調整と国際競争力の強化に努めている実態を踏まえ,セクターならびに地域特有の構造転換のあり様を把握するうえでメゾ・コーポラティズム論の理論的有用性を指摘する。ただ彼は,既存のメゾ・コーポラティズム論が私的利益にのみ目を奪われ,地域における産業調整政策の影響を考慮してこなかったことを批判し,メゾ・コーポラティズム論の理論的有用性を一層高めるためにも,今後地方政府の役割を十分検討することを提唱している(Allen 1989)。
 また国際分業の再編期における先進諸国での地域経済の盛衰を題材にメゾ・レベルでの比較政治経済分析を試みたアンダーソンは,これに利益形成や資源配分,あるいは特定の政治行動を引き出す誘因構造の設定など「制度」の多角的な側面に強い関心を向けてきた「新制度論」(New Institutionalism)の議論を重ね合わせ,政治現象に対する諸制度の意味やその独自の影響についての理解を深めるうえで,地域レベルは格好の材料を提供するとしている(Anderson 1992)。
 いずれにせよこれらの論者が,マクロ趨勢の発端やダイナミズムを理解するのに不可欠な意味空間として「メゾ・ポリティクス」に着目し,なかでもいまや独自の価値をもつ「地域」に重きを置いていることは間違いなく,ここにもまたメゾ・コーポラティズムがその含意を培養させるフィールドが見いだされたといえよう。

2 いまなぜメゾ・コーポラティズムなのか-「運命」としての「メゾ」

 前節で見たようにメゾ・コーポラティズムをめぐる議論は,そこに分析レベルにおける累積的な事実発見の指摘にとどまらぬ,いわば歴史的認識としての含意をもつことにその今日的な特徴と意義があった。
 ここではその論を一歩進め,メゾ・コーポラティズムへの潮流を歴史的趨勢として認識しようとする場合,そこにいかなる背景が考えられるかについて考察する。具体的にはその手掛かりとして,従来の社会理論,とりわけ産業社会の変遷をめぐる諸理論を取り上げ,メゾ・コーポラティズムに注目する時代が到来する一定の筋道を考えてみたい。

 工業化

 稲上毅は,産業社会における3つのパラダイムを取り上げ,それらを構成する諸理論からその特徴を以下のように再構成している(稲上 1986)。
 まず第1のパラダイムとして「工業化論」が挙げられる。稲上はこれをその登場した時期に合わせて「60年代パラダイム」と呼び,その理論的担い手たちの当時の研究意図を踏まえ,このパラダイムにそれまで隆盛を誇ったマルクス主義的社会理論への対抗理論としての位置づけを与えている。
 他方この工業化論に共通した性格としては,イ)歴史変動の東西図式から南北図式への転換,ロ)収斂理論の提示(東西先進社会における社会構造の均質化と西側先進国におけるブルーカラー労働者の中産階級化の二重の意味で),ハ)社会変動の起動力としての工業化の位置づけ,ニ)工業化に伴う伝統的・非公式セクターの衰退図式の想定,ホ)国家の不滅性の提示と福祉国家化への成熟の展望,ヘ)中流大衆の豊かな大衆消費社会への収束の予想,ト)中流大衆と産業民主主義の成熟や活発な社会移動などによる「階級闘争の制度化」図式の提示,チ)「イデオロギーの終焉」の提唱,リ)人口動態,家族,教育,地理的・社会的移動等への言及が指摘される。

 脱工業化

 第2のパラダイムは,稲上が「73年パラダイム」と呼ぶところの「脱工業化論」であり,その大枠の特徴として工業化の限界に対する認識とその修正・制度の意思が指摘される。
 この脱工業化論に現れるモチーフとしては,イ)資源・エネルギー多消費型の大量生産技術への反省と「適正技術」開発への主張,ロ)「規模の問題」への注目,ハ)「生態系への視点」の浮上,ニ)「量から質へ」の思考の浸透,ホ)企業行動に関する目標の多元化と社会的責任の重視,ヘ)「参加革命」的動きへの注目,ト)工業化論に濃厚な進化主義的観点に代えての「地球社会化」と「国際的相互依存関係」的観点の前面化,チ)収斂への関心に比しての拡散と多様化への関心の強まり,リ)多国籍企業の簇生,地域主義の台頭,国際機関の機能拡充等を背景とした「国家の相対化」現象への注目,ヌ)性,年齢,人種,身体障害等の「生得的」属性による差別問題の解決の強調と「結果の平等主義」的思想の強まり,ル)産業および職業における「サービス経済化」の動向と将来展望への関心が並ぶ。

 再工業化

 第3のパラダイムは,稲上が「再工業化論」と総称する70年代末に登場した一群の諸理論であり,これら議論を理解する手掛かりとして欧米先進諸国における「国内工業の衰退」とそれと表裏一体の関係にある「日本の挑戦」がある。
 この再工業化論は,イ)技術革新の積極的促進,ロ)企業家精神の発揚,ハ)市場競争の活性化,ニ)「大きな政府」・福祉国家への批判と非公式経済の拡大,ホ)ネオ・コーポラティズムの進展,ヘ)「日本的経営」への注目,ト)労働倫理の再構築を構成要素とし,特に注目すべきポイントとして,<1>「活力ある経済社会」の再建,<2>「担い手」の設定,<3>工業化の提唱,<4>「日本的経営」への関心の高まりが挙げられる。
 まず<1>では,「資本主義の精神」やそれに類する経済倫理の再構築と技術革新の積極促進が不可欠な要件となる。そこには経済は中小の企業家層が担い,政治は「公衆」が支え,社会は柔やかで勤勉と自助の文化的風土が支配していたとされる19世紀資本主義は,大企業による独占・寡占の経済と「大衆」が幅を利かす政治,硬直的で脱勤勉な,また快楽主義と公助の精神が横行する社会が覆う20世紀資本主義に取って代わられたのであり,社会に活力を取り戻すにはかつての「ブルジョア社会」が再生されねばならぬという歴史観が横たわる。
 <2>は前後の文脈から中小企業であることは間違いなく,この中小企業にこそ健全なコミュニティーの形成,「地方の時代」の下支え,新たな雇用の受け皿,旺盛な研究開発意欲,輸出拡大とインフレ抑制,社会的な雇用弱者への就業機会の提供,仕事での自主性・自律性への機会提供といった今日の社会的諸課題の解決について大きな期待が寄せられ,それはまた脱工業化論での主張点と重複し,両論の連続的側面が浮き彫りになる。
 <3>に関して,ア)「国内工業の衰退」を止め高付加価値工業の再生を期す,イ)「福祉国家」に代表される「大きな政府」をも抑止することでセルフ・サービス化を進め,結果として非公式セクターの役割を増大させる,ウ)セルフ・サービス経済は耐久消費財や情報通信機器等の需要を喚起し工業の成長を促すなど,サービス部門を媒介とした製造業の発展というシナリオが想定され,脱工業化論での単純なサービス経済化の議論は修正される。
 最後に<4>では,それを取り囲む状況として一連の貿易摩擦があり,それゆえこの問題は,「日本的経営」を支える日本の産業組織や産業政策のあり方に対する関心を含んでいる。
 工業化の弁証法
 稲上が提起した産業社会に関するこの3つのパラダイムは,何よりもまず先に見たメゾ・コーポラティズムをめぐる理論的変遷に事実関係における幾多の裏付けを与えている点で重要である。しかしそれと同時に,それが歴史的認識とされていくことにも有為な示唆を与えているように思われる。以下この点に絞って議論を進めよう。
 まずこの3つのパラダイムは,工業化に関するそれぞれ別個の並立的な状況規定というよりも,むしろそのひとつの発展経路を示す段階的規定と見なすべきであろう。それは稲上の指摘にもあるように,それぞれのパラダイムが先行理論に対する修正を意識した当然の結果ともいえる。ただこの発展経路は,後2者のパラダイムに冠せられた「脱」「再」という接頭語が示すように,直線的な構図よりもいわば「正・反・合」の弁証法的な関係においてこそ跡づけられる。
 そしてこのことはまたひとつのアナロジーとして,メゾ・コーポラティズムをめぐる議論が当初のマクロ・メゾ・ミクロの単なる並立的存在ないしはその発見についての指摘から,先の各パラダイムでそれぞれに指摘されたような諸趨勢を踏まえて次第に時系列的な連関や相互のダイナミズムへと関心が移行し,ついにはシュミッターがコーポラティズムをまさしく「脱」「再」の接頭語を付して提起したような資本主義の歴史的変遷の文脈で論じるに至った推移に妥当性を与える。
 その意味で,メゾ・コーポラティズム現象あるいはそれへの関心の増大を歴史的発展,とりわけ工業化といった産業社会の変容過程の特定段階に固有のものと見なすパースペクティブもあながち的外れではなかろう。
 普遍の多元化
 工業化から再工業化への道程がひとつの弁証法的な発展の軌跡だったとして,ではそれは先進諸国という内的世界のなかの出来事として片つけられるだろうか。
 工業化から再工業化に至る変化において最も重要な論点のひとつは,脱工業化論で指摘された「地球社会化」と「国際的相互依存」の言葉に象徴される空間の膨張と位相の拡大であろう。周知のように工業化は,地球全体を包み込むと同時にそこへ未知の諸資源・諸要素をも巻き込んでいくことで,地域横断ないし地域内部に「異なる時代」が交錯する状況を現出させていった。そして当初一国大で時系列的に移植されていった工業化の種は,やがて成長する過程で相互に交配や変異を繰り返し,質的に異なる地球大の工業化の地下茎を作り出していった。
 しかも非西欧世界を中心とする後発諸国における工業化は,過去の常識では不向きとされる社会土壌をより急速な発展のための培養器へ転化させることで,新種の工業国家を登場させたばかりでなく,これらの諸国は先発諸国が理解に苦しむ行動様式をもちながら,しばしば先発諸国に多大な衝撃を与え,先発諸国の工業化の軌跡をも変じさせた(Gershenkron 1962)。
 こうして世界は工業化について先の工業化論の段階でいわば楽天的に思い描かれた「収斂」図式とは異なる「多元的な普遍」の交錯によって,より大きな工業化のダイナミズムをもつこととなる。脱工業化論以降の議論の展開とはまさにそうした歴史過程への注目を示してもいたし,それがまた一定のマクロ実績と多様なミクロ要素を媒介するメゾ機構の調整様式への関心を,メゾ・コーポラティズムをはじめとするさまざまな分野でかき立てていった遠景であったともいえる(注2)。

(注2) 前述のシュミッターの「セクター資本主義論」には同方向の文脈でレギュラシオン学派の議論も登場する。

 「成長の限界」と社会再組織

 工業化をめぐるこうした新たなダイナミズムを考える場合,脱工業化論の出発点となった「成長の限界」もまた大きな含意をもつ。「成長の限界」は単に量的拡大の終焉を示唆するだけでなく,成長の継続から派生する多方面での莫大な負荷の重みを指摘するとともに社会に対して新たな行動様式の創出をも迫った。ダーレンドルフはその状況を歴史主題の転換として「量的拡大から質的改良へ」と表現し,この成長の限界を契機とした社会の再組織に関しては興味深い提言を行う(ダーレンドルフ 1988)。
 彼は前述の歴史課題を現実に担う枠組みとして拡大志向社会と改良志向社会の2つを措定し,両者の中心セクターとして前者に経済,後者に政治を挙げる。ここで彼が政治にイメージするのは,公的でかつ一般的そして開かれたものとしてのそれである。ここには硬直化した現代政治社会に対する彼の批判的認識がある。それによれば今日の政治過程は過剰な参加傾向に硬直的な圧力政治の進行が重なり,政府を麻痺状態に追い込んでいる。この状況は社会変動を円滑にする社会革新を困難にさせ,政治社会を危険な状況に追い込むもので,その処方箋は巷に流布する秩序維持のための権威復活による統治能力の回復ではなく,「政治的公衆」の創出によるそれでなければならない。この政治的公衆の創出とは,同一人物が幾重にも帯びる部分益ごとの利害表出ではなく,この複雑な利害の錯綜を超克し諸個人の全人的向上をめざす市民の再組織化を指す。
 彼の言説は工業化から再工業化に至る政治社会の行方を論じるとともに,その変化に経済社会的要因からくる必然性を示唆する点で興味深い。また政治的公衆のアイデアにおいても,利害関係者の自己規制を議論するメゾ・コーポラティズム論との類縁性を指摘することができよう。いずれにせよ「成長の限界」に象徴される工業化の特定段階が,メゾ・コーポラティズムとも共鳴する方向での調整様式の変更に強い規定要因をもたらしている状況は理解されよう。
 「環境」の発見
 「成長の限界」とともに脱工業化論が提供した重要な論点に「環境」の発見がある。それは人類世界に対する自然界の存在を強調する直接的な意味だけでなく,派生してそれまで支配的であったあるいは近代に固有ともいえる自己中心的な思考様式に代わる相互依存的なそれを導き出した点で,科学パラダイムのうえでも画期的な意味をもった。
 とりわけそれは,前項「普遍の多元化」でも触れたように工業化を中心とする従来の収斂的な社会発展観に対して多大なインパクトを与えた。すなわち経済発展は所与の資源配置に基づくいく通りかの方法に従った最適選択による結果というよりも,諸種の条件下で現れる人々の行動様式が織りなす社会的諸関係に基づいた多様な選択によるものであるというピオリやセーブルらに代表される見解がそれである(ピオリ=セーブル 1993)。
 とりわけ彼らはそこで,工業化過程での諸選択に影響を与える人々のさまざまな行動様式を組み合わせる「政治」に着目し,立法や行政の諸活動という従来の通俗的な解釈を超え正義や適切な行動,社会での諸権利などに対する人々の基本的志向にまで政治の意味を広げることで,生産現場での日常のいさかいや下請関係などでの取引をめぐる駆け引きなど,巷にあふれる諸現象のなかに埋め込まれた無数の政治選択の蓄積が一定の経済秩序のあり方を規定していくことに注目する(フリードマン 1992)。
 この問題意識がメゾ・コーポラティズム論議の中で芽生えたそれと強い相関をもつことは言うまでもない。またこの議論の延長に,国別を超え産業や地域での広範な分析射程による比較とその類型化をめざす作業の意義も示されている。さらにこの期間までに現実において工業化への多様な道が存在することが自明となるという背景があったことも重要である。そして何よりこれらの議論の底に,工業化をめぐる趨勢が新たな分水嶺に差しかかっているという歴史認識が横たわっていることに注目したい。

 「関係性」としてのメゾ

 以上の論点を踏まえ最後に指摘するならば,これまで言及した工業化パラダイムの変遷はその過程で「関係性」とでも総称できる対象への着目点を浮上させることで,大きく言えば社会科学方法論の機軸にかかわる問題を提起している。
 そのことは極論すれば,工業化をある計画意思に従って構築された「合理的システム」の所産と考え,それを構成するそれぞれの部分は全体計画の下で与えられた唯一の使命を果たす無機的な存在として位置づけてきた認識態度から,社会はこうした合目的な関係から非合目的な関係までを含んだ多様な相互作用の総体であり,工業化とてそうした諸関係が一定の歴史環境下で遭遇する社会の制約から逃れられないという分析姿勢への変化とも表現できる。それはたとえば,自我や個人主義の行方をめぐって工業化のとば口に立った1800年代の末に将来への憂いを含んで提起されながら,その後急速に進展する工業化の波間に消え去り,その工業化がようやくひとつの壁に突き当たった1970年代以降再び芽生えてきた相関的な社会認識の潮流を背景にしていることは言うまでもない(注3)。
 その意味でこれまでの内容的な言及に加え,まさに関係性にこそレゾンデートルがある「中間(meso)」と,そのつながり方において部分であると同時にそれ自体またひとつの全体でもあるという有機的な関係を示す「肢体(corp)」の双方の名を併せもったメゾ・コーポラティズムの歴史性をこれほど象徴する方法論的含意はないだろう。
 そしてここにこれまで工業化において後発ながら欧米先進国をしのぐ成功を遂げただけでなく,そのモデルにおいて近代西欧の論理とは異質で対照的とも言える日本がこうした含意を有したメゾ・コーポラティズムにとっての興味深い素材として浮上する。

(注3) ここでは,たとえばジンメルの「形式社会学」(ジンメル 1979)やデュルケームの「中間団体論」(デュルケーム 1985)といった理論系譜を想定している。

3 日本における労働のコーポラティズム化-謎の日本?

 以上のような問題関心を踏まえて,ここではメゾ・コーポラティズムを日本の文脈,とりわけ労働とのかかわりにおいて論じる。まずは問題整理をしておこう。

 日本化

 本稿冒頭で述べたように,あるいは前節の工業化をめぐるパラダイム論議で言及されたように,現代世代において日本を論じることは単なる特定国の事例研究に終わらない含意をもつ。とりわけネオ・コーポラティズムの行方を考える場合,その意味は大きい。
 1980年代以降の欧米において,いわゆる「日本化」と呼ばれたミクロ協調への潮流が噴出したことはよく知られている。それは再論すれば,前節までの議論で逐次指摘したように,従来の一国主義的な国際競争力の管理様式に打撃を与える国際化,大量生産を基軸としたこれまでの分配公正や利益代表の枠組みを侵食する個人主義化,組織の弛緩や戦略の変更による集団的・集権的労使関係システムの変容,新保守主義や小さな政府,あるいは地域統合に現れた国家の位相といったこの間のマクロ趨勢変化がもたらしたマクロ・コーポラティズムの衰退についのて裏返しの表現でもあった。
 しかしわれわれは,その一方でメゾ・コーポラティズムという言葉が照らし出してきた新たな問題関心が台頭していることを,これまでの言説のなかで論じてきたところである。
 他方,日本においてもこの間情勢は変化している。それはまさに前節で見た工業化から再工業化に至る展開によって生み出されたユニ・ジェンダー化,高齢化,国内産業の空胴化,個人主義化といった前節で指摘された現代マクロ趨勢に,貿易摩擦からの外圧を契機に始まり,前川リポートによって政策目標とされ,バブル以降の経済低迷のなかで本格化していった構造調整問題がかぶさる形で現出している「脱企業中心社会」への動きである。つまり日本は,欧米において自らの経験が甲論乙駁のなかで受容されていこうとするそのときに,これまでの日本的なミクロ協調を軸とした独自の企業社会モデルの修正を余儀なくされるという皮肉な事態に陥っている(稲上 1992b,1993)。
 もっともこうした問題関心への兆しは,すでに石油危機以降徐々に醸成されていたのであり,それをいち早く体現したのが労働運動の変化であり,またそれを議論の俎上に載せたのが日本でのネオ・コーポラティズム論争の展開であった。
 日本におけるネオ・コーポラティズム論争
 日本におけるネオ・コーポラティズム論争の嚆矢となったのは,ネオ・コーポラティズムの第1世代に属するペンペルと恒川の日本の政治体制に対する「労働なきコーポラティズム」(Pempel and Tsunekawa 1979)規定であり,その後の論争の展開もこの規定に対する反論ないし修正を軸に展開されていく。
 その後80年代前半は,現実の政治・社会過程における労働運動の動向を受けての問題提起が続く。具体的には,本書,逢見論文で詳述されている労働戦線統一を背景にした労組の政策参加の進展に着目し,ペンペルと恒川の提起に対し政治過程における労働の存在を一定程度評価する見解が現れ,そこから日本における労働のコーポラティズム化への問題提起が生まれていく(稲上 1980,清水 1982,辻中 1983)。
 そして80年代後半以降は,この「労働のコーポラティズム化」をめぐる賛否両論の論争が,代替モデルを含めて本格展開される時期となる。そこでは大別して,労戦統一,政策参加,政労使協調の動きに着目するコーポラティズム(稲上 1988,逢見 1989,Kume 1988,篠田 1988,辻中 1986b),これらの現象の前提となる多元的な政治過程に着目する多元主義(村松・伊藤・辻中 1986,伊藤 1988),これらの動きと同時進行する組織率低下,組織・未組織労働者間の格差拡大等に着目するデュアリズム(石田 1989,新川 1989)という3つの潮流が明らかとなる。ただこの論争を通じて,労働の変化についての事実認識はこれら諸潮流に共有化され,問題はむしろその政治的含意をめぐる評価へと絞られていき,それは相互の批判にもかかわらず,なお解明が必要な課題の存在を前提として,各論者が自らの規定に一定の留保を付したことともかかわって,日本の労働の構造的特性に対する注目へと議論を導いていくこととなる。
 日本型ネオ・コーポラティズム
 ではこの論争は根本において何を問題にしていたのか。久米郁男はこの間の論争を「労働組合の政治的影響力の弱さを主張するもの」と「その政策的達成物の高さを主張するもの」との「2つの相異なる論調」の「並存」として整理し,「客観的な権力資源を必ずしも潤沢にもっていなかった日本の労働組合が,いかにして高い政策的達成物を享受するに至ったのか」という命題を,「日本労働政治のパズル」として提示する(久米 1992b)。久米が提起したこの命題は,前述したこの間の労働の変化をめぐる評価の乖離を表しており,また先に3潮流の根拠として並列された事実認識にもあるように,実際評価の分かれる「ねじれ」現象を探すことはさほど困難ではない。
 こうした「ねじれ」の構図は,実は日本の位置づけをめぐる戸惑いとして,国際コーポラティズム論争の当初から意識されていた。実際コーポラティズム研究者が多く試みた一定尺度による先進諸国のコーポラティズム度分類において,日本の位置づけは他の先進諸国に比べ研究者によって大きな違いを見せた。それは辻中豊が指摘するように,コーポラティズムの条件面を重視するか,結果面を重視するかで分かれ,前者に重きを置けば日本の順位は下位になるが,パフォーマンスまでを射程に入れれば日本は強度のコーポラティズムに肉薄し,その場合条件面での類似を見つけにくいことから,コーポラティズムと異なるメカニズムの存在を強調するか,将来類似に向かう過渡期とするか,変種のコーポラティズムとするかというように評価が分かれる(辻中 1986b)。
 この点は日本の研究者が自ら分析を手掛けることになっても強く意識され,だからこそ先の諸潮流を含めほとんどの論者が,こうした謎を解くカギを探して,前述のように適用を試みる諸モデルにさまざまな形容詞を付して理論上の再解釈に挑んだ。とりわけコーポラティズムによる論者の場合,こうした問題関心は当初から強く,それだけに規定に際してはさまざまな留保を付しつつ,その限定性にこそ日本の事情の特徴を見いだし,関心の置き所も次第に論争の決着を急ぐよりもむしろ先の条件面について,一見相反する要素を含め,幾多の部分的特徴を並存させている構造特性とその全体との関係の解明へと傾いていった。
 今日の段階で具体的に言えば,この日本の構造特性の解明に向けた焦点領域は,コーポラティズム的なフレームワークをもちながら,内容的には新自由主義・新保守主義・新個人主義的な諸要素を一定程度含み込み得る緩やかな性格をもった全体状況の把握およびその新たな性格規定の問題と,それがミクロ・レベルの状況,それもより論争に即して言えば民間大企業レベルでのミクロ協調の上に形成され,ここでの特性がマクロ・レベルの状況に構造的に媒介されるメカニズムの解明,そしてそこからの特定の政治体制モデル下での日本の類型化の模索へと移りつつある(井戸 1990,稲上 1992b,Inagami 1992,大嶽 1992,久米 1992a,篠田 1989a,Tsujinaka 1990,ドーア 1989,樋渡 1991,村松・伊藤・辻中 1992)。
 ここに至って,日本の労働を前述した意味をもつメゾ・コーポラティズムの観点,とりわけその統治構造の視覚から取り上げようとする本稿の意図も理解されよう。同時にこのように問題設定された場合の関心の矛先は,単なる組織類型を超え日本の労働の構造特性を包括的に表現する存在としての企業別組合に向かわざるを得ない。
 産業別賃金決定機構
 メゾ・コーポラティズムの観点から,日本の労働,とりわけ企業別組合というその構造特性のダイナミズムに焦点を当てて論じようとする場合,実はすでに部分的にはその手掛かりとなる先行研究がある。そのひとつが戦後の労使関係論における産業別賃金決定機構研究の系譜である。
 この系譜については,70年代後半に氏原正治郎が産業別統一賃金闘争の研究としてこれを整理した文献がある(氏原 1977)。氏原によれば,産業別統一賃金闘争の研究は「春闘」の始まりとともに開始され,当時まで大河内一男らの『産業別賃金決定の機構』(大河内編 1965)や佐野陽子らの『賃金交渉の行動科学』(佐野・小池・石田 1969)をはじめとして幾多の業績が蓄積されてきた。そこでの関心は,第1に産業別統一賃金闘争という場合の産業とはどの範囲を指し,何を根拠とするのか,第2にその場合の労組の内部運営はいかになされるのか,第3にいかなる事項が交渉の対象になるのか,第4にこの賃金闘争の経済的・社会的性格は何かという諸点に集まった。
 そしてこれらの論点に対する諸見解を要約すれば,まず産業別統一闘争といっても,結局製品市場に類似性があり,労働力の面からいっても大差はなく,しかも寡占企業間で統一闘争が行われやすいことから,大企業主導型の統一闘争にならざるを得ない。また産業別組合といっても,日本の場合事実上企業別組合の連合体であり,それが統一した要求を掲げ,同時期に統一行動をとるとしても,参加する企業別組合の自主性を尊重し,利害の調整に努めなければ統一闘争は難しく,それだけに統一闘争は参加組合の意見調整をあらゆる場面で図るような機関の構成や運営に努力しなければならない。
 他方で春闘とは,産業,業種,企業規模,地域などで,範囲や程度の差こそあれ,複雑に絡み合った準拠の網の目を通して行われており,この過程のなかで産業,業種,規模,地域などの同一性に応じて,「準拠集団」が形成されることになる。したがって,産業別労組や業種別部会などはこれを根拠にした第1次的準拠集団であり,この過程を意識的に追求するのが産業別統一闘争だとも言える。
 これらの見解はまさに春闘から見た労働における組織間関係を表しており,ミクロ・レベルからマクロ・レベルに至る連関のダイナミズムとそこにおけるメゾ・レベルでの鍵的かかわりが指摘されていると同時に,その組織間関係の持ち方に重要な示唆が行われている。この点は後でより広い文脈で再度検討することになろう。
 以上でメゾ・コーポラティズムの観点から日本の企業別組合を論じる意義とその一定の蓄積については,確認することができた。以下では近年の企業別組合をめぐる新たな動向に言及し,メゾ・コーポラティズムに対するそこでの含意を検討することにしよう。

4 メゾ・コーポラティズムの日本的展開-レファレンス・コーポラティズムか

 企業別組合の高度化

 企業別組合をめぐる新動向としてまず指摘すべきは,企業別組合自身における組織および機能の高度化の動きである。その集約としてユニオン・アイデンティティと総称される組合改革の模索がある。その特徴は以下のように要約できる。
 第1がシンボル革新の動きである。この約10年間に,組合用語や組織名称の現代的改革や組合旗や機関紙誌の刷新の動きが怒濤のごとく広がった。
 第2が総合的生涯福祉政策立案の動きである。その背景に従来の賃上げ闘争を中心にした企業内福祉の限界とそこでの小幅賃上げパターンの定着,そして賃上げに限定されない組合員ニーズの多様化があった。また構想の中身においては企業からの自立,ライフスタイルの見直し,政策の労使共有化,組合員の自主設計が強調された。
 第3が経営政策への積極発言である。たとえば全職場対象の経営提言調査から労使共同出資会社設立までその手法は多岐にわたり,そこからまた業界体質への問題意識が強まり後に見る産別組織の産業政策活動の発展へとつながる。
 第4が新たな組織化の動きである。パート・アルバイトなど非正社員,管理職,企業グループなどその方向は企業内外の双方へ向かった。
 ではなぜ企業別組合はこの時期自らのあり方を見直したのか。1つは企業をめぐる環境変化とそれに対する経営戦略の新展開がある。市場と技術が構造変化し,企業は組織構造から行動様式まで経営戦略の根本的見直しを迫られた。この見直しは人事戦略の刷新を根幹とし,雇用慣行の流動化と多様化を促す。組合員の仕事と生活も当然その渦に巻き込まれ翻弄されることになる。
 もう1つは組合員構成や意識・価値観の変化がある。組合員構成ではホワイトカラー化と高学歴化が進み,個人主義的思考が若年層を中心に組合員の組織観や労働観に投影した。組合員はもはや「大衆」としては把握できず,組合の相変わらずの集団主義に違和感が広がるなかで組合員の「組合離れ」が進んだ(稲上・川喜多 1988)。
 労使関係の錯綜
 他方構造転換という場面に転じて見れば,そこには労使関係の複雑化とそれに伴う組合組織力学の変化が見られた。
 前項で第3に指摘した経営政策への積極発言は,構造転換の矢面に立った産業や業種の組合で目立った。経営環境の激変と経営戦略の転換は,そこではしばしば深刻な雇用調整を引き起こした。たとえば構造不況下の鉄鋼産業においては,労使の信頼関係を困難にし双方の組織基盤を揺るがせかねないこの苦境のなかで逆に労使の相互依存性が高まった。つまり組合側は雇用調整の実施をやむなきことと認めつつ,経営政策という長期の枠組みに発言することで,組合員の犠牲を最少限に抑え組織動揺を極力回避する一方,経営側はこの組合側の発言に部分的に対応することで,経営戦略の発動をあえて自己規制しつつ今後の企業再編に向けての組合の協力を確保した(篠田 1989b)。
 その際に組合組織では企業連(複数の事業所をもつ民間大企業で各事業所ごとにある単位組合の連合体組織)への集権化ともいうべき現象が見られた。すなわち,たとえ雇用調整を一定限度にとどめても企業資源の再配分を伴う企業再編は新旧各事業所への異なる対応によってその将来の明暗を分け,それは各事業所単組間の関係にも利害対立という形で直接投影される。企業連体部はこの事業所単組間の利害対立を,たとえ一部事業所に犠牲が生じたとしても企業全体の雇用量を最大限に確保する方向で調整する一方,不利益を被る事業所には企業に代替施策を講じさせることで当該単組を説得し,経営から譲歩を得る絶対条件としての組織の統一対応の維持に努めた。これにより企業連は不可避的に単組との力関係を強め,企業側に対する存在感を高めた(Hiwatari 1993)。
 もっとも事態を長期に考えれば,後に見るように単組はこれを契機に生き残りを賭けて当該事業所や地元との関係を深める一方,企業城下町の有力単組などの場合はこのことが地域活性化への関与を契機とした地方労働戦線統一の進展に結びついていく。

 賃闘高度化(注4)

 一方企業別組合と産業別組織との関係でも,いくつかの特徴が浮かぶ。そのひとつに賃上げ闘争の高度化がある。
 言うまでもなく春闘はミクロ交渉によりつつマクロ調整を実現する賃金決定機構として長く定着してきた。ただ春闘交渉の現実は次第に産別・企業別の2段構えの様相を強めつつある。すなわちその状況は,通常世間から最も注視される3月末の妥結では有力企業名を冠した形で事実上賃金原資の産業別総枠が決まり,個々の金額はその後の個別企業での配分交渉で決まるとも表現できる。そしてこの双方を相場に影響力をもつ有力企業が媒介し,その交渉を産別組織の戦術配置が包み込む。
 たとえば春闘相場に強い影響力をもつ電機では有力6社労使が相互補完的にセットされる個別交渉と産別交渉で前面に立ち,労組側ではこの6社労組首脳と産別幹部で構成する調整機関が産別賃闘での事実上の最高意思決定機関となり,事実上6社労組による相場形成への責任体制が形成されつつある。そこには産業の成熟と企業間関係の錯綜に伴い,支配的企業の決定力への一方的な依存から企業同士の相互の横にらみの度合いが増す「もたれあい」の形へと相場の形成過程が変化した背景がある。
 この個別と産別交渉のアマルガムという春闘の性格は,他方で循環的ともいえる意思決定過程に支えられている。春闘は半年という長い意思決定過程を経て完結するが,その過程はトップダウンやボトムアップといった直線的なそれでなく,漸進的な合意形成を念頭に単組と産別本部間の意見交流を繰り返す循環的なものであり,そのサイクルは有力労組間の調整を駆動輪とし終盤に向かうに従いタイトに巻き上がっていく。
 一方最近の春闘の特徴として,労務費原資の総額を争う従来の平均賃金要求方式から,銘柄別とも言える同一条件下の個人の賃金水準を問題にする個別賃金要求方式への移行がある。それは産業内の企業間格差を縮めようとする産別の意思を示すと同時に水準達成に向けた個別労使の努力に裁量を認める点で,単組間の一定の信頼関係と情報共有に裏打ちされた産別賃闘の成熟を表している。特に近年春闘相場の踏み台にされてきたことで,産業間格差の開きと賃金水準の相対的低下に悩んできた電機,自動車産業の労組でこうした志向が目立つ(電機連合 1993b,自動車総連 1993)。
 またマクロ視点重視の組合主張も最近春闘の特徴である。もともと一発回答を前提にその水面下で行われる個別交渉での感触に基づいた企業別交渉による積み上げ方式は,産別・単組の意思の疎通を基本に置く一方で時に全体目標の足を個別事情が引っ張るという限界をもっていた。これに低成長や産業・企業間の不均衡という環境要因が加わり,最近は業績悪化と賃金抑制の悪循環が続いたことから,産別労組としては賃上げによる内需拡大というマクロ視点重視の主張により事態の打開を意図した。たとえばそれは93春闘での電機の最終局面で労使双方の主張に例年にない開きがあるなかで,産別本部が単組を説得し自身の主張する水準で組合側最終意思としてのスト回避基準を設定し,結果として当該水準を獲得したことによって現実のものとなった(電機連合 1993a)。

(注4) 本項以下「産業政策」「産別強化・再編」の項の内容については,その多くを筆者が参加した国際産業・労働研究センター「民間主要産業における賃金決定機構等労使関係の実証的調査研究」(1991-1993)と日本労働研究機構人事労務研究会「産別ユニオン・アイデンティティ」(1992-1993)での2つの聞き取り調査等からの知見に負うている。なお前者の調査報告については国際産業・労働研究センター(1994)を参照されたい。

 産業政策

 また産業政策をめぐる展開も注目される。周知のように石油危機以降,各産別労組は雇用不安のなかで構成単組の強い意向を受け,産業政策を掲げて産別労使会議の場などを通じ産業レベルでの労使協調を展開,同時に政府の産業調整政策をめぐり所轄官庁や審議会をはじめ各方面に積極的な働きかけを行い政策参加を果たしてきた(篠田 1989b,1991)。
 たとえば高度成長期に世界を制覇した造船業も石油危機以降深刻な不況に見舞われ,その後15年,供給過剰削減をめざし政労使一体による産業調整を進めた結果,設備・人員ともにピーク時の1/3となる思い切ったスリム化が行われた。その間造船各労組は産別を中心に産業政策活動に没頭,雇用確保と産業再建のため設備処理,雇用対策,地域対策,需要喚起,事業転換,国際生産調整に向けた手厚い政策措置を求め,経営参加,産別労使協議,審議会参加,政労協議,自治体要請,各国関係労組による国際協議などの各種パイプを通じてや大衆動員や世論へのキャンペーンによる企業・業界,中央・地方政府,議員・政党,外国政労使への猛烈な働きかけを行う。これと同様な事態は鉄鋼や化学など素材産業を中心とした多くの構造不況業種でも見られた。
 一方産業全体が構造転換の時代に入ると,労組の関心よりも良好な労働条件を確保できる魅力ある産業づくりへと向かう。とりわけ急速な産業の成熟によって転機を迎えた自動車,電機では,貿易摩擦,過当競争,人手不足,高齢化など産業の将来にかかわる問題が短期的に表面化した。そこで自動車の産別労組では時短問題への取り組みを契機に産業体質への問題意識を強め,過当競争体質是正,シェア第一主義脱却,高付加価値産業化を柱に下請関係や販売方式など産業の基本にかかわる部分をも問題にしながら,新たな企業行動を求め企業・業界,政府,消費者を巻き込んだ産業政策活動へと行き着く(自動車総連 1992)。そこには業界レベルでの意思決定や行動の確立をも含めた産業秩序の転換をめざす意味で,従来一般的であった事後救済型の産業政策に代わる新たな流れがある。そして同様の事態は状況を同じくする電機でも生じた(電機連合 1992)。
 また規制緩和も労組の産業政策活動に影響を与えた。従来民間労組一般は行革推進の立場にあったが,規制緩和の対象となる交通・運輸産業の労組でも,この間従来の消極姿勢から社会的規制の強化を前提に経済的規制緩和の支持へと立場を転じた。そこには背景として,構造転換により規制の及ばぬ領域での新規参入者の登場や消費者圧力による場当たり的な規制が加わるなど,従来の産業保護様式での限界と産業自立を促す事態の変化があった。同時にこれら産業の労組は消費者・生活者の利害に着目し,規制緩和の社会的調和を主張することで産業のあり方をめぐる議論において政府への発言権を増していった。
 以上の活動面に加えその労使関係上あるいは組織間関係上の含意に触れるならば,総じてこれら産業政策活動はいわば「場」の論理ともいうべきものに規定される。たとえば所轄官庁への政策要求で産別労組が役割を果たし得る背景として,立場上表立っては個別企業や業界団体との直接接触を避けようとする一方,建前上それとは立場が異なる産別労組に対する安心感とその意見を聴取すれば国民的視点の摂取が果たせると考える官庁側の事情や思惑がある。そこで産別労組は個別企業や業界団体から情報を入手し,逆にアイディアを提供し所轄官庁にこれらが直接言えぬ内容を半ば代弁する。そのため労組は一層政労使以外のたとえば消費者・利用者の立場を考慮し,自身の主張の正統性を高めようとする。そのことは逆に産別・個別労使関係へ反映され労働側の力を強める作用をもつ一方,そのことにおいて単組にとっての産別組織の存在意義を増大させる。
 また産別労組はこれらの活動を通じて政労使間の枠組みを産業レベルに設けることで,その決定をテコに個別労使の行動を誘導し,産業・企業間の力関係に変化をもたらそうとも考える。ただこうした産別労組の行動様式には,企業側の集合行為能力の限界と団体権力の脆弱性を背景にした部分があり,そもそも企業別組合優位という労働側の行動様式もこうした企業側の事情にも起因するものであるとともに,業界としての共同行動や業界団体の活性化を促す産別労組の狙いもそうした問題意識に支えられていると言える(注5)。

(注5) この点に関して間宏は,戦前戦後を通じて日本の使用者団体が政府や地方官庁と強い相互依存性をもち自立性を欠いたことや,企業別労使関係を重視しその結果労務専管団体の希少性を招いたことを指摘している(間 1981)。

 産別強化・再編

 「賃闘高度化」と「産業政策」で見た動きはまた産別労組の強化・再編の動きとも関連する。たとえばこの5年で見ても紙パルプ,石油,電力,化学,ゴム,金属機械,建設などの分野で組織再編の動きがあり,その多くは同一産業・業種下での競合組織間の合併や有力単組の取り込みによるものだった(注6)。
 その背景には80年代以降の労働戦線統一機運の高まりや「連合」結成効果があり,さらにその前提に対立組織間での脱イデオロギー化や行動様式の類似化といった状況の変化がある。また構造不況業種では産業政策活動を皮切りに,そこでの政策実現能力を高める必要から組織合同を促す状況があり,この間実際構造転換や規制緩和は従来の利害対立の構図を変容させる最大要因であった(注7)。さらにこれら要因を契機に,長年無所属の立場にあった有力企業労組が産別加盟に踏み切る場合もある(注8)。このほか経営の多角化や業態変化で新たな政策課題が浮上する場合,関係単組が前述した労使関係効果をも意図し産業政策活動のための協議組織を設けることも多い(注9)。
 経営の多角化に関しては複合産別化の動きも重要である。企業が多角化や業態変化に踏み出した場合,当該単組も加盟する産別労組に対し進出した新規分野での活動を求める。また組織分野の業種が成熟し組織の先細りが予想される場合,産別はその代替分野での組織化に乗り出す。さらに相互の事情や関係の進展から関連異業種間で組織合同も生じる。そこには数が力の労働界で影響力の維持・拡大を狙う産別労組の政治的意思と,活動の拡大と経費の増大から組織運営上一定数以上の組織人員の確保を必要とする経営的事情がある(注10)。
 本来複合産別化は産業連関などをたどって組織拡大を図るに従って,必ず産別間の組織競合の問題に突き当たる。いまのところその紛争はたとえば「連合」が調整に乗り出すほど深刻になってはいないが,潜在的にはその可能性がつきまとっている。今後複合産別化が現実に組織合同を加速させ,また「連合」の意思決定を合理化する必要などから従来の産別組織原理としての「中産別主義」から「大産別主義」への流れが増してくれば,大規模な産別再編の時が訪れることもあろう(注11)。
 その過程では極端な場合消滅の危機に瀕する組織もあり,そのつばぜり合いはすでに始まっているともいえる。たとえば電機,自動車関係の組合と金属機械関係のそれとは従来から組織範囲が重複しており,そこでは近年前者の産別組織が資本系列に基づいたグループ労連方式で関係企業の組織化を進め,系列関係の効果から相当成果を上げている(注12)。中小企業を中心に伝統的にオルグと個別労使の個人的な信頼関係によって地道に組織化を進める後者の産別組織はこれに危機感を抱き,大手労組の行動様式に対する以前からの違和感も重なって,一方ではこの間の系列批判や大企業病に対する世論の高まりを背景に中小企業キャンペーンを展開すると同時に(注13),類似の産別諸組織を集め中小労組の横断組織を結成するなど対抗の構えを見せている(今泉 1993)。

(注6) 具体的には紙パ連合,石油労連,電力総連,全化連合,化学連合,ゴム連合,金属機械,ゼンキン連合,建設連合などの例がある(国際産業・労働研究センター 1993)。

(注7) たとえば百貨店を主たる組織母体とする商業労連とスーパーを主たる組織母体とするゼンセン同盟流通部会は,それぞれの利害の相違から大店法の制定・運用をめぐって長らく対応に微妙な齟齬をきたしていた。それが一方で規制緩和に伴う大店法の事実上の撤廃と他方で両業界の深刻な経営不振やリストラ気運の高まりで,従来の線引きによる組織活動に困難を感じ最近両組織の間で組織合同に向けた話し合いが続けられている。

(注8) この場合産別組織と単組が改めて受け皿組織を設けることが多い。最近では全金同盟とコマツ,ゴム労連とブリジストンの例がある。

(注9) 最近では,食品・化学などからの製薬産業への参入が続く中,厚生行政への産業政策活動を意図して非連合系を含む関係単組が産別横断的に結成した医薬品労協の例が興味深い。

(注10) 最近組織改革に取り組んだゼンセン同盟は,その理由として「不断の見直し」「複合産別化の進展への対応」「運動単位の適正規模化と受益・負担の公平」「運動効率性の追求」「国際産業別組織への対応」「組織拡大戦略をふまえた組織改革」「中小企業の組織・運動力の強化」「運動の成果の極大化とヒト・モノ・カネの有効活用」「現行専従体制の維持」の9点を挙げている(ゼンセン同盟 1992)。

(注11) 「連合」は1993年の第3回定期大会における運動方針の中で産業別組織の大道結集・統合の促進をうたっている(連合 1993)。

(注12) 自動車総連に準じる形で近年電機連合も,従来の企業連,関連企業労組協議会を基礎に資本系列によるグループ労連の形成を促し,組織の強化・拡大を図る戦略に移行した(電機連合 1991)。

(注13) たとえば政府の平成4年版『中小企業白書』は中小企業への新たな社会的ニーズに着目し(中小企業庁 1992),さらに「連合」のシンクタンクである連合総研はその中小企業政策のなかで新たな市場特性への対応における中小企業の優位性を主張した(連合総研 1991a)。

 地方労戦統一と地域活性化

 産業・業種と並ぶ企業別組合の関係軸に地方・地域がある。かつては前者が圧倒的比重を占めたが,高度成長以降の経済社会の成熟と石油危機以降の構造転換により,地方・地域はこの間企業別組合の関係軸として次第に重要になってきた。そしてこれに拍車をかけたのが中央の動きと連動した地方での労戦統一と地域活性化への潮流である。
 地方労戦統一の動きを全国的に俯瞰すると,そこには一定の地域的パターンが存在する。たとえば地方においても労戦統一の震源は,60年代中頃に当時の総評・同盟対立の構図を打破するために独自の行動を起こした金属労協系の民間労組だったが,その事実上の地方組織である民労協は,70年前後に西日本の成熟した先発工業地帯を中心に結成され,総評系と並ぶ勢力をもって地方労政を巻き込んでの華々しい活動を展開したのに対し(篠田 1994b),80年前後に総評・同盟系を含む広範な民間労組を集め結成された地方政推会議は,東日本の発展する後発工業地帯に集中し,またその活動も民労協系に比べればおおむね緩やかだった。
 また組合員数の伸びも60年代前半から一貫して東高西低の傾向を示す一方,なかでも大幅に人員を増やした電機・自動車を中心に中立系組織が全国に広がり,それは各地で労戦統一への橋渡し役を演じていった。さらに80年代後半の地方労戦統一終盤になると,各地でナショナルセンターや官民を代表しかつ地域の主力産業でもある電電,電力,電機,自治の4大労組が表舞台に登場する。
 ここには成熟工業地帯ゆえに企業内労使関係による問題解決の限界に直面し,地域での独自の利益代表活動を必要とした金属労協系の組織事情と,その後全国的に主力産業の地位を確立した電機・自動車が,電電,電力,自治とともに炭鉱・国鉄,郵政や機械・繊維といったかつての地場産業に代わって地域で台頭する様子がうかがわれる(篠田 1992)。
 ではこれらの動きは地域活性化とどう結びつくのか。構造不況以降,とりわけ80年代以降地方政治のポイントは地域活性化と相乗り政治であった。そもそも構造転換は産業再編と同時に地域再編を促すが,それはいわば各地の空間価値の変動を意味し,これに立脚する地域内アクターの関係に動揺を与える。そして地域活性化をめぐり再編下の生残りを賭けこれら地域内アクターによる新たな関係再編の動きが始まる。その結果,特定の地域活性化の方向が定まるにつれ,そこにそれぞれの利害関係を反映した「活性化連合」とも言うべき新たなアクター連合が生まれる。
 そのとき雇用を地域経済の動向に依存する労組は,この間の地域雇用をめぐる地方労政の新たな政策展開を背景に,地域活性化への積極関与をめざし各地でこの新アクター連合に参入する。そしてこの動きは,自らもかかわった既存の保革対立的な政治構造を解体させ,その帰結として多くの場合相乗り政治を生み出す。この過程で重要な役割を果たすのが地域の有力単組群であり,それらは産業政策で見たような労使あるいは政労使の協調行動を示すと同時に,時に所属する全国レベルの企業連・グループ労連や産別中央組織以上に,地方連合や産別地方組織あるいは異なる範疇の地域アクターとの関係を深め,そのことがまた組合自身の内向きな性格を変化させていくことともなる(篠田 1993b,1993c,1994b)。
 政治的能動化
 このほかに以上に見た動き全体のなかで,企業別組合が時に産別組織や地方・地域組織を経由しながら政治的に能動化していったことも注目される。それは旧来の特定のイデオロギーに基づく党派的な「社民・労働ブロック政治」からの労働の離脱ということと,自身の現実的な利害によって選択した政策を実現するため他労組・団体,行政,政党,政治家との政治的関係を自らのイニシアチブで非党派的に構築するということの二重の意味において能動的と言える。言うまでもなくこの間の産業政策活動や政策制度要求活動はその端的な例でもある(篠田 1989b,1991)。
 その背景には,随所で指摘したような企業内福祉の限界あるいは組合員のニーズの高まりに合わせて,組合活動の範囲を政策を中心に産業・業種や地方・地域に広げざるを得ない状況,またこれらの領域で関係筋に独自のパイプをもつことが,しばしば同様の利害関係にある経営側に対しての優位性をもたらす事情,価値観や意識の変化に伴う組合員の政党支持の多様化と,特定政党・議員の支持を組織方針とすることとの齟齬が重大化するのを懸念する動き,さらに政権交代と新政治勢力の形成をうたい,ここにきて急転した現実動向に自らも深く関与する「連合」や主要単産とのかかわりなどがある(篠田 1993a)。
 その結果,従来政治に距離を置いてきた民間労組で,政策課題が山積する成熟産業を中心に,近年地方政治レベルでの積極的な候補者擁立や国政レベルでの選挙協力への動きが目立つ(注14)。またこれまで特定政党と党派的な結びつきが強く,労働条件をはじめとする自身の問題解決での政治利用に長けてきた官公労などの場合,賃上げなどに関して,従来のスト権に象徴される大衆闘争的手法とは異なる労使協議制や経営参加に類似した企業内労使関係的な官庁内政治を追求する動きも見られる(注15)。さらにこの動きと並行して,特定政党に対する影響力の大きさから法案成立への支援を期待して関係労組の取り込みを図る官庁の動きもある。

(注14) たとえば電機連合では1990年からの3年間に地方議員を184名から226名へと急増させた(岩山 1993)。

(注15) 公務員共闘は1992年に加盟単産書記長による賃金問題研究会を発足させ,公務員賃金決定への参加をめざす方向で人事院勧告の決定過程に労使協議の形で関与していく方針を打ち出した(佐藤 1993)

 いくつかの解釈

 企業別組合をめぐるこれらの展開は,メゾ・コーポラティズムの日本的展開という文脈にいかなる含意をもつだろうか。
 <1> 補完的組織間関係
 まず1つに企業別組合をめぐってその活動の方向性に,内部化と外部化の同時進行というべき現象が見られる。その意味ではたとえば「企業別組合の高度化」と「労使関係の錯綜」で見た現象を内部化と理解し,「賃闘高度化」以下の現象は外部化と解すこともできる。その場合とりわけ産業・業種や地方・地域が,以前にまして有力な対象となっている。
 では両者の関係をどのように位置づけるか。確かにこの間の企業別組合は,内外ともに変動の渦中にあった。企業別組合はこれに対処するため,内部での一層の対応と外部への積極的な働きかけを必要とした。ただ後者は前者の不十分な面,あるいは前者では適わぬことを補うためという性格も強かった。企業別組合の側に立てば,それを活動の委任と見なすこともできよう。そこではおそらく企業内福祉や企業内労使関係の限界という指摘が,理解のカギを握ると思われる。そして少なくともここでの企業別組合と産別組織など外部組織との関係は,ゼロ・サム的なものではないだろう。その状況はこれまで労組を含め近代的な組織原理の特徴とされた「階統性」が想定する関係より,むしろ自らできることはすべて行いそのうえで不可能なことを上位者にゆだねるという「補完性」のそれに馴染む。
 <2> 準拠集団の錯綜
 関連して2つめに企業別組合の外部関係の性格である。それは先に見た多くの事例におけるように,産別加盟や政府陳情という行為それ自体の問題を超え,それが企業内労使関係といった内部関係に特定の含意をもつという意味で相互作用的であった。一般に企業別組合がその行動を当該企業の枠内で完結させるならば,その行為は協力を本義とする経営対従業員の関係に埋没し,労使の利害対立において経営に対する論理の優位性に欠ける(藤林 1963)。そのため組合は,その行動論理を組合員と経営に対し正統化するための立脚点を当該企業の外に求めようとする。そのひとつの実例は,賃上げ決定基準である企業業績と世間相場の相剋のなかに見られる。
 すなわち労使交渉では,双方が両者を独自に組み合わせた論理構成の正統性をめぐり争うこととなる。そこではたとえば世間相場の実体としての準拠枠をいかなる形で選択するかが問題となる。この準拠枠には業種,規模,地域,資本系列からイデオロギーや組織関係まで複数の軸が絡み,組合の場合その最高実体が所属する産別の賃上げ基準あるいは額になる。ただ準拠枠の選択はあくまで当該従業員の意思によるものであり,時に有利な準拠枠の選択をめぐり執行部批判や組織分裂あるいはまた上部団体への加盟・脱退など組織内外に変動が生じる(篠田 1989b)。
 逆に言えばこの準拠枠は組合にとって,闘争や活動の行方にプラス・マイナスの双方に転嫁し得る重要な組織資源でもある。その意味でおそらく賃闘高度化,産業政策,地域活性化をめぐって現れた組合行動は賃闘の場面を超えた準拠枠の拡大であり,それは経済社会の成熟化と複雑化により自己の行動の正統化により多くの準拠枠が求められるようになったためとも考えられる。それはまた前述した組合の内部化と外部化の同時進行の問題とも結びついていよう(注16)。
 ここでひとつの仮説を提示すれば,現代の企業別組合は組織環境の複雑化と構成員属性の多元化によって自らのアイデンティティが揺らぐなかで,以前に増してさまざまな準拠枠を使いこなすことを余儀なくされている。これを新たなアイデンティティ獲得への模索過程と捉えるか,それともそうした複数のアイデンティティの柔軟な使い分けを今後常態とする始まりと見なすかは即断できない。ただこの状況は基本的には経済社会の構造転換に起因するとはいえ,より直接的にはそれまで準拠枠を安定的に提供してきたたとえば総評・社会党ブロックに代表される陣営文化の動揺とともに始まったことは間違いないであろう。いずれにせよ今後は,産別組織や地方組織というものを企業別組合の単なる加盟対象としてのみならず,その準拠集団としてのありようにも十分に目を配る必要があろう。

(注16) 「人間はその行動や評価を決定するに当たって,自分の所属する集団以外の集団に自己を方向づける」(マートン 1969:p.229)事実に着目した準拠集団理論はその登場後いち早くアメリカで賃金波及理論に応用され,前述したように日本でも熱心に実証研究が取り組まれた(佐藤・小池・石田 1969)が,ここでは賃金波及以外の分野にも準拠集団の存在の可能性を広げ,また準拠行為と組織内部のダイナミズムにも目を配ろうとする。

 <3> セクター準拠
 これとさらに関連して,この準拠枠の選択過程でのセクター優位の可能性が見られる。先に挙げた準拠枠は,産業や地域または成熟産業と新興産業,競争産業と保護産業,大企業と中小企業,成熟地域と発展地域といったようにすべてセクターにかかわる指標でもある。これを歴史的に見た場合,大胆に言えば労組の準拠枠における階級からセクターへの移行と表現することもできよう。もちろんここから即座に準拠枠としての階級の消滅を指摘することは拙速であるが,今後セクターに規定された階層に注目することが必要であろう。
 このことは利害対立を抱えた多様なセクターを含む労組集団が,今後いかにして統合を図るかという問題を浮上させる。それはたとえばナショナルセンターとしての連合の行方に直接ふりかかる事柄であるとともに,労働運動のアイデンティティそのものにもかかわってくる論点である。

 <4> 官僚制
 続いて4つめに,同じく準拠枠の選択に関して行政の影響というものが挙げられる。欧米の徹底した労使自治とは対照的に,日本の場合日常的には労使自治が機能していたとしても現実に行政の存在は労使双方に相当意識されている。それはマクロな社会特性としての官僚主導を基盤とし,そのうえに戦後労政として定着してきた相互依存的な官労関係が加わり,さらに低成長下の利益再編の過程で生じた労働政策以外での相互依存的な官労関係の形成が重なるなかで次第に強化されてきたともいえる。それはまた自己の社会的規制を正統化し得る準拠集団を常に模索する行政と,そこへの相乗りを図る労働との共生関係をも写し出す。
 その意味で日本のこの「行政コーポラティズム」的な特徴は,単に政労使関係における行政の影響力の大きさにとどまらず,社会にその行動様式の雛型を提供する権威的心象を与え,またその温情主義的な組織性向から時には護民官的な行動も辞さないという点なども考慮した場合,ツァイグラーが「儒教主義(confucianism)」と指摘したアジア独特の「官僚制的コーポラティズム」の特性をも含むものであろう(Zeigler 1988)。
 <5> 企業別組合圏
 以上企業別組合をめぐる近年の動向についてメゾ・コーポラティズムの日本的展開という視点から着目した結果,ひとつの特徴として企業別組合にとっての準拠という行動様式およびその対象である準拠集団としての産業・業種別組織や地方・地域組織の存在が浮かび上がった。それは組合をはじめ団体組織の関係様式を論ずるに当たって,たとえば「所属」の有無や量的な組織資源の配分のみでは把握し切れない側面があることを明らかにしている。
 それは同時に準拠する企業別組合の側にも,たとえば他者の態度を組織的に内面化し得る「社会的自我」とでもいうべき用意が備わっていることを前提とする(ミード 1973)。そのことはまさに企業別組合を企業内に遮蔽され外部と対峙する存在と見なすことへの疑問を提示するとともに,ミクロ協調といった現象に対する複眼的なアプローチが必要であることを示す。またこの点は,たとえば単産加盟の有力企業別組合を中核とし,そこから無組合ながら一定の従業員組織を有する企業までの企業別組合圏とでもいうべき世界を想定した場合,そのなかでの内容的差異を説明する手掛かりともなろう。
 <6> レファレンス・コーポラティズム
 最後にこの節を終えるに当たって,日本の現実に対するひとつの仮説として「レファレンス・コーポラティズム」というアイディアを提起しておこう。それはある状況が特定の組織主体の力量によって左右されるよりも,そこでの諸関係のコンテキストに規定されることを内容としている。そこでは「横並び組織」や日本的な秩序形成のあり方が念頭に置かれていると同時に,メゾ・コーポラティズム論の中心にあった「自己規制」のひとつの有力な手法と解せられる。同時にそれはたとえば個々の企業組合の準拠行為に当たって影響を及ぼす要素として,当該企業の社会的関係をはじめとする環境としての諸制度が考えられる。そして同じ企業別組合といっても,そうした準拠行為の網の目のなかでのそれぞれの位置によって,その内外関係におけるダイナミズムは大きく異なることなどが考えられる。その意味で今後はそうしたいわゆる有力労組や産業別組織へのこうした観点からの吟味が期待される(注17)。

(注17) このアイデアは前述の日本労働政治をめぐる「謎解き」の鍵概念として,たとえば辻中が提起した「半浸透的コーポラティズム」(Tsujinaka 1990)や井戸の「分権的コーポラティズム」(井戸 1990),あるいは久米が着目した「機会構造」(久米1992b)と機能的に類縁性をもつ。

5 おわりに

 以上がメゾ・コーポラティズムとその日本的展開に関する筆者の考察であるが,ここでは最後にメゾ・コーポラティズムを議論することの本質的な意味について改めて確認しておきたい。
 本稿冒頭に示したように,メゾ・コーポラティズムの提起は単なる分析レベルの移行にとどまらない,いわば歴史的認識の転換にかかわる含意をもつものとしてなされた。その意味ではやはりこれも第2節の最後で指摘したように,「メゾ」や「コーポラティズム」の本義が再度見直されるべきであろう。そこでいま少しこの点の議論を深めてみよう。
 ひとつの手掛かりは近代合理主義の限界という視点である。難波田春夫は近代という時代の本質を,元来は人間理性がものごとを考える場合の思惟の論理をそのまま実在の論理にしてしまった点にあるとする。しかし実在するものは,相互に矛盾しているものが矛盾しながらも相互に他を要請し合うというあり方においてはじめて実在し得る。それはたとえて言えば社会的存在である人間が,一方で自由に生きようとするが他方で他者との間に不公平があることに我慢できない,つまり人間にとって本来相互に矛盾し両立し得ない自由と平等をどちらも欠くことができないことに示される(経済学研究会 1992)。
 また野尻武敏はこの近代合理主義の限界を一元体制の限界として論じる。すなわち近代の社会体制は極端から極端へ動く傾向があり,それは中間諸団体が消え個人と国家が全面に立ち,あるときは個,またあるときは全体原理が支配する両極の一元体制が展開されたことに現れ,やがてそれは自由主義と社会主義の対立に凝縮された。しかしその後自由主義と社会主義が相互に社会化と自由化を深めてきた動向を受け,1970年代以降両極の一元体制の主張に変わり,両体制が一方の没落と他方の支配という道ではなく相互に諸要因を組み入れ自己変容しつつ中間の混合体制へ移行するという体制収斂説が登場しはじめる。しかしそれはただ1つの混合体制への収斂ではなく,構成原理では接近を示しながら現実形態では多様化を増していくという姿がふさわしい。そしてそこにこそ一元体制の時代の終焉がある(野尻 1983)。
 これらの議論は,共同体的な観点に立ち存立における相互性を本義とするコーポラティズムと,中間を機軸とした全体構成に価値を置くメゾのパースペクティブに積極的な根拠を与える。またそれは一元体制の20世紀的な表現である冷戦体制の崩壊後という時代的な要請にも応えている。その意味でメゾ・コーポラティズムは何よりも認識の枠組みとして意義をもとう。またそこにこそ,今日のメゾ・コーポラティズムをめぐる議論の本質的な意味空間があるのだろう(注18)。

(注18) 本稿と内容は部分的に重なるが,論旨としてはより労働政治に力点を置いた論稿として篠田(1994a)がある。



第6章 コーポラティズムと経済パフォーマンス

 はじめに

 「いまもなおコーポラティズムの世紀なのか」フィリップ・シュミッターがそのように問題を提起してからすでに20年の歳月が過ぎた。以来,コーポラティズムをめぐってさまざまな論争が繰り広げられるとともに,数多くの実証研究が積み重ねられてきた。なかでも,「コーポラティズムと経済パフォーマンス」というテーマは,計量的な国際比較研究の中心的な主題であったといってよい。
 このテーマが研究者の間で大きな関心を呼んだのは,おそらく次のような理由によろう。すなわち,70年代の二度のオイル・ショックを契機に先進資本主義国の経済は悪化した。が同時に,これらの国同士の経済パフォーマンスには大きな開きがあることも見逃せない。そして,その理由を経済理論だけで説明することは難しく,この点をさらに詳しく解明するためには,各国の労使関係制度や政治制度の違いを視野に入れた体系的な比較分析が必要であるとの認識が高まったことである。
 コーポラティズム現象に注目する研究者は,各国の労使関係制度や政治制度の違いが公共政策の形成過程に大きな影響を及ぼし,またそれが経済パフォーマンスに大きな差を生むとみる。ことに集権的な労使関係を維持し,それを前提に政労使の3者間で協調主義的な政策協議を重ねてきた国において,良好な経済パフォーマンスが達成されてきたことを重視する。
 しかし一方で,コーポラティズムと経済パフォーマンスとの間にはそのような直接の因果関係はなく,労使関係制度や政治制度の違いが経済パフォーマンスに及ぼす影響はコーポラティズム仮説が想定するものよりも複雑である,とする説もある。また,80年代を通じて「経済の国際化」が急速に進み,その結果公共政策の決定過程が一段と複雑化したことに加え,公共政策の主題が「所得政策」のようなマクロ・レベルの問題から,「産業政策」のようなメゾあるいはミクロ・レベルの問題に変わったことで,「マクロ・コーポラティズムの終焉」をそこにみる者もある。
 この小論の目的は,先進資本主義国の経済パフォーマンスがなぜ70年代の中盤以降に大きく開いたのか,その理由をコーポラティズム仮説を再検討するなかで明らかにすることにある。以下ではまず,<1>「コーポラティズム」の概念を定義した後,<2>さまざまなコーポラティズム指標を使って,経済パフォーマンスとコーポラティズムとの関係を実証的に解明した代表的な先行研究を紹介する。<3>そして,先進資本主義国の労使関係制度をいくつかのタイプに分け,これらのタイプごとに経済パフォーマンスにはどのような差があるのか,<4>また,70年代の後半から80年代にかけて,コーポラティズムと経済パフォーマンスとの関係はどのように変化したのか,を検証したい。

1 コーポラティズムの定義

 本題に先立ち,コーポラティズムとは何かを定義しておこう。というのも,「多くの異なる事柄が『コーポラティズム』と呼ばれ」(Streeck 1984b),冒頭で述べた論争を混乱させてきたからである(注1)。

(注1) またTherborn(1992)は,「誰もがその重要性を認識しつつも,その実態を知らない」という意味で,「コーポラティズム」とは「神」のような概念であると述べている。

 コーポラティズムに関する代表的な2つの定義

 コーポラティズムの定義には,その代表的なものとして,次の2つがある。
 ひとつは,P.シュミッターによるものであり,利益媒介の構造から「コーポラティズム」を捉える見方である(Schmitter 1979)。彼は,高度に集権的な労使関係制度を有する国において顕著な次のような利益媒介構造に注目する。すなわち,それらの国では,労使の利益代表組織がごく少数の単位から構成され,組織への義務的な加入,セクター間での競争の排除,そして組織内部の階統的な秩序を特徴としている。また,それらの国では,労使の利益代表組織が国家によって認可・承認されるとともに,指導者の選出や利益表明について国家から一定の統制を受けることと交換に,その職能に関し独占的な代表権が与えられている。そこで,P.シュミッターは,これらの特徴をもつ利益媒介システムのことを「コーポラティズム」と名づけた。
 一方これに対して,もうひとつの代表的な定義は,G.レーンブルッフによるものである。彼は,「コーポラティズム」を単なる利益媒介のシステムとみるだけでなく,公共政策の形成・実施に関するひとつのパターンとしてそれを捉えている(Lehmbruch 1979)。ことに,労使の利益代表組織が,独占的な代表権を与えられて公共政策の形成・実施過程に参画し,その際,政府との間に協調的関係(Concertation)を結んでいる事実を重視し,それを「コーポラティズム」の大きな特徴とみなした。
 この2つの定義はいずれも,「コーポラティズム」を「多元主義」と対置させている点に大きな特色がある。シュミッターがコーポラティズムを特殊な利益媒介システムとして捉える際にその対極に置いたのは,不特定多数の利益集団から構成される利益代表システムとしての多元主義であった。また,レーンブルッフは協調主義的な政策形成のパターンとしてコーポラティズムを定義したが,それは多元主義における圧力政治による政策形成のパターンを念頭に置いてのことであった。
 だが,両者の違いは,レーンブルッフが協調主義的な政策形成過程それ自体を問題としているのに対し,シュミッターはむしろ協調主義的な政策形成が生み出される前提条件を問題としていることにある。

 さまざまなコーポラティズム指標

 この2つの定義に従ってさまざまなコーポラティズム指標が開発されている。そのいくつかをここに紹介しておこう(表1)。
表1 さまざまなコーポラティズム指標
 まず,利益媒介の構造に注目したコーポラティズム指標としては,Schmitter(1981),Bryth(1979),Cameron(1984),Calmfors and Driffill(1988)のものがある。
 Schmitter(1981)は,「資本と労働との間の組織には,構造上の対称性があり,労働者の団体が高度に集権化され独占的な代表権を行使しているところでは,資本の団体も同様の方向で構造化されている」という仮定を置いて,<1>「労働組織の集権性」および<2>「労組団体の独占性」という2つの指標から各国を順位づけている(注2)。またCameron(1984)も,これと同じ仮定を置いて,<1>「労働運動の組織的統合度」,<2>「労組のナショナルセンターの団体交渉力」,<3>「労組組織率」の3つから,労働運動の組織力を測り,それをコーポラティズム指標としている(注3)。
 一方,Bryth(1979)とCalmfors and Driffill(1988)は,労使の組織に構造上の対称性があるという仮定を置かずに両組織を等しく評価し,<1>「労使の中央組織の集権度」と<2>「団体交渉の水準」の2つから,各国のコーポラティズムの強度を測定している(注4)。
 これらに対し,政策形成の協調度を基準にしたコーポラティズム指標としては,Schmidt(1983),Lehmbruch(1984),Lehner(1988),Soskice(1990a),Dell’Aringa and Lodovici(1992)のものがある。
 まず,Schmidt(1983)は,<1>「政労使の3者がソーシャルパートナーシップの考えを共有する程度」,また<2>「政労使の3者が特定の政策領域で交わす協力関係」の2つから,コーポラティズムの強さを測り,各国を「強」「中」「弱」の3つのタイプに分類している(注5)。また,Lehmbruch(1984)も同じく,<1>労使の組織が政策形成過程にどの程度参加しているのか,さらに<2>所得政策をめぐって政労使の3者間で包括的で持続的な協力関係が維持されているのかを基準に,ヨーロッパ諸国のコーポラティズムの程度を「強」「中」「弱」の3つに分けている。彼はまた,このいずれの基準にも合致しないイギリスを除いたアングロ・サクソンの国々を「多元主義」とし,さらに政策形成をめぐって政府と財界との緊密な協力関係がみとめられるものの,政策形成に当たって労働者団体の参加が欠ける国々(フランスと日本)を「労働なきコーポラティズム」と命名した(注6)。
 Lehmbruch(1984)のこの分類は,Lehner(1988),Dell’Aringa and Lodovici(1992)でもほぼ同じように踏襲されている。ただし,Lehner(1988)は,政策形成をめぐる政府と財界との緊密な協力関係はアングロ・サクソンの国々でもみとめられることを理由に,フランスを「多元主義」の一角に位置づけるとともに,広範な政策分野にわたって公私両部門の間で緊密な協力関係が維持されている日本とスイスを「合意形成の強力な国々」(Concordance)として,「強力なコーポラティズム」の国々よりもさらに上位に位置づけた(注7)。
 また,Dell’Aringa and Lodovici(1992)は,以下で述べるTarantelli(1983)の分類も参考にしながら,このLehner(1988)の分類にさらに修正を加えている。すなわち,彼らは,オランダを「強力なコーポラティズム」から「中程度のコーポラティズム」に変更するとともに,フランスを「多元主義」から切り離して「弱いコーポラティズム」のグループの一角に加えている。
 Soskice(1990a)の考案したコーポラティズム指標も,政策形成の協調度を基準にしたひとつの指標と見ることができる。彼は,労使の直接的な賃金交渉のレベルとは別に,賃金相場が形成されていく過程をつぶさに調べ,国によっては政労使間で経済全体への影響を勘案した賃金決定が行われていることを指摘し,この「エコノミー・ワイドな労使の協力関係」(Economy-wide Employer and Union Co-ordination)を中心に,独自のコーポラティズム指標を作成している。それによれば,日本とスイスは,先のLehner(1988)指標と同様に,政策形成の協調度が最も高いグループのなかに位置づけられる。
 最後に,政策形成の協調度とともに,利益媒介の構造をも考慮に入れたコーポラティズム指標を開発しているのは,Tarantelli(1983)とCrouch(1985)である。まず,Tarantelli(1983)は,<1>「労組が政府の政策形成過程に組み込まれる程度」,<2>「労使関係の集権度」,<3>「労働争議の調停システム」の3つの点から,コーポラティズム指標を作成した(注8)。また,Crouch(1985)は,<1>「労働運動の集権度」,<2>「職場レベルでの自律性の低さ」,<3>「使用者団体の協力関係」,<4>「従業員代表組織の有無」の4点から,コーポラティズムの強度を測っている。

(注2) Schmitter(1981)は,労組のナショナルセンターが<1>団体交渉に参加するか,<2>自己資金を使ってストライキを支援するか,<3>たくさんの専従スタッフを擁しているか,<4>傘下の組合員から組合費を徴収しているかを基準に「労組組織の集権性」を測り,また<1>単一のナショナルセンターが存在するか,<2>ホワイトカラーとブルーカラーの統一組織が存在するか,<3>ナショナルセンターの内部に安定的な派閥が存在するかを基準に「労組団体の独占性」を測っている。

(注3) Cameron(1984)は,「労働運動の組織的統合度」と「労組のナショナルセンターの交渉力」との和に,「労組組織率」をかけて,この「労働運動の組織力」を測定している。

(注4) Calmfors and Driffill(1988)は,労使の中央組織にそれぞれ単一のナショナルセンターが存在する場合にポイント「3」,2つから5つのナショナルセンターが存在する場合にポイント「2」,まったくそれらが存在しない場合にポイント「1」とし,また団体交渉が全国レベルで行われている場合にポイント「3」,産業レベルの場合にポイント「2」,企業レベルの場合にポイント「1」,職場レベルの場合にポイント「0」をそれぞれ割り当て,彼のコーポラティズム指標を作成している。

(注5) Schmidt(1983)は,この2つの点を測る客観的な指標として,<1>ストライキ活動の大きさ,<2>上からの強権的な所得政策が発動されているかどうか,<3>イデオロギー的かつ組織的に統一された労働運動が存在するかどうかを挙げている。そして,ストライキ活動が小さく,強権的な所得政策が発動されることなく,イデオロギー的かつ組織的に統一された労働運動が存在する場合にそれを「階級紛争を規制するコーポラティズム的な調整方法」と呼んでいる。これに対し,労組に敵対する政府と経営者との結託関係がみとめられる場合,それを「階級紛争を規制する権威主義的な調整方法」と呼び,また労使関係への国家の介入がない場合,それを「階級紛争を規制する競争的な調整方法」と命名した。彼によれば,「強力なコーポラティズム」とはこの「コーポラティズム的な調整方法」のことであり,逆に「弱いコーポラティズム」とは「権威主義的な調整方法」と「競争的な調整方法」との混合体を意味する。そして,このいずれにも該当しないケースを,彼は「中程度のコーポラティズム」と定義した。

(注6) 「労働なきコーポラティズム」という命名はもともと,Wilensky(1976)とPempel and Tsunekawa(1979)が「日本」を形容する際に使ったものである。

(注7) ただし,Lehner(1988)は,日本とスイスを決して同一のものとみているわけではない。彼は,スイスを「多極共存型デモクラシー」の典型とみなしている。すなわち,文化的または社会経済的に分裂した国で紛争を回避し,政治秩序を安定させるための意思決定メカニズムとして「多極共存型デモクラシー」を捉え,この点で優れた成果を上げているスイスを「合意形成の強力な国」として位置づけるのである。これに対し日本は,彼によれば,恩情主義的な労使関係を基礎に,労使間で経済発展促進型の協力関係が存在する国として位置づけられている。

(注8) Tarantelli(1983)は,<1>団体交渉のレベル,<2>団体交渉によってカバーされる労働者の割合,<3>労使協約の有効期間,<4>更新される協約内容の数,<5>労使協約を締結するに当たってパターン・セッターが果たす役割の5点から「労使関係の集権度」を測っている。

 コーポラティズム指標間の相関度

 これらの指標のなかでいずれが信頼に足るのかを調べるために,各指標間の相関係数をとってみた。表2がその結果である。
表2 コーポラティズム指標間の相関係数
 当然予想されるように,利益媒介構造に注目したSchmitter(1981)指標,Cameron(1988)指標,Bryth(1979)指標,Calmfors and Driffill(1988)指標の各相互間には+0.8から+0.9という非常に高い正の相関関係がみとめられる。これらの指標は客観的に測定しやすい労使関係の集権度を基準にして作成されているために,その評価に大きなばらつきはない。
 他方,政策形成の協調度に注目したLehmbruch(1984)指標,Schmidt(1983)指標,Lehner(1988)指標,Dell’Aringa and Lodovici(1992)指標,Soskice(1990a)指標の相互間での相関をみると,一部に予想に反した低い相関係数がみとめられる。たとえば,Lehner(1988)指標とLehmbruch(1984)指標との間の相関係数は+0.538と低く,Lehmbruch(1984)指標とSchmidt(1983)指標との間の相関係数の値も+0.522と低い。
 さらに,利益媒介構造と政策形成の協調度との双方を考慮に入れたTarantelli(1983)指標とCrouch(1985)指標との相関係数をみても+0.739と決して高い値ではない。このことは,各国の政策形成の協調度を測る際に,それぞれの研究者の主観が入りやすいことを示唆していよう。

 日本とスイスの特殊な位置

 研究者によって評価が大きく食い違うのはいかなる国であろうか。各コーポラティズム指標を順位スコアに変えて,各国の順位が評者によってどのように変わるのかを調べることでこれを明らかにすることができる。
 表3は各国の順位スコアの変動係数をみたものであるが,これをみると,変動係数が最も大きいのは,日本とスイスであることがわかる。日本のコーポラティズムの順位は最高で第1位,最低で第15位と大きなばらつきがあり,順位スコアの変動係数は実に97に達している。また,スイスのコーポラティズムの順位は最高で第2位,最低で第15位とやはり大きな差があり,順位スコアの変動係数は62と高い(注9)。
表3 コーポラティズムの順位スコアの変動係数
 これに対し,順位スコアの変動係数が低いのは,カナダ(14),アメリカ(14),イタリア(16),イギリス(13)である。これらはいずれもこれまで「多元主義」の国として位置づけられてきた国々である。また,これらのグループに次いで,ニュージーランド,オーストラリア,ベルギーの順位が比較的に安定しており(20台),さらにスウェーデンをはじめとする北欧諸国についてもその変動係数は20台から30台にとどまっている。
 なお,オーストリアの順位のスコアの変動係数が47と多少高いが,これは決してオーストリアの順位が評者によって大きく異なることを意味しているわけではない。オーストリアの順位は最高で第1位,最低で第3位と安定している。むしろこれは,日本とスイスの評価次第でオーストリアの順位が直接に影響を受けやすいためだといえよう。
 ところで,日本とスイスの順位がこのように評者によって大きく食い違うのはなぜだろうか。一般化していえば,利益媒介の構造からコーポラティズムを定義する研究者は,日本とスイスを低く評価する傾向があるのに対し,逆に政策形成の協調度からそれを定義する研究者は,日本とスイスを高く評価する傾向がある。利益媒介の構造としてコーポラティズムを捉える場合,分権的な労使関係をもつ日本とスイスとが低く評価されるのは当然だが,政策形成の協調度からみた場合に,日本とスイスが北欧諸国やオーストリア以上に協調度が高いといえるのだろうか。
 先に述べたように,Lehmbruch(1984)は政策形成をめぐって政府と財界との間で緊密な協力関係が維持されてきた国として日本を位置づけている。また,Lehner(1988)も,公私両部門の間で緊密な強力関係が維持されてきた日本とスイスを「合意形成の強力な国」とし,この両国をオーストリアや北欧諸国よりも上位に位置づけている。さらに,Soskice(1990a)は,日本とスイスを労働運動が弱体にもかかわらず,使用者団体の強力な支援を背景に経営者間での緊密な協力関係がみとめられる国として高く評価している。そして,これらの評価はいずれも,この両国を「労働者の参加なきコーポラティズム」とみている点に共通性がある(注10)。

(注9) ここでの順位スコアは,先に紹介した11人の評者のそれを基礎にしている。しかしながら,欠損値もあるため,厳密にみれば各国の変動係数をそのまま比較することは適当ではない。とはいえ,おおよその評価のばらつきをみるにはこれで十分であろう。

(注10) だが,日本を「労働なきコーポラティズム」とみることは決して異論がないわけではない。まず,稲上(1979,1980,1988)は,1970年代中盤以降の日本の民間労組における「政策参加」の志向のなかにネオ・コーポラティズムの制度化の傾向を発見し,それを「緩やかなコーポラティズム」と捉えている。また,Shimada(1983)も,1975年以降の春闘での賃金決定において,労使が「情報を共有してきた」ことを重視し,それをコーポラティズムと機能的に等価なものとみている。さらに,辻中(1986a)も,民間労組の「政策参加」志向と併せて,保守党政権自体が労働側を取り込む動きをみせていることを指摘し,これを日本の労働政治におけるコーポラティズム化の動きとみている。

2 先行研究のサーベイ

 以上のようなコーポラティズム指標を使ってさまざまな実証研究が行われてきた。ここでは「コーポラティズムと経済パフォーマンス」を主題にした主要な先行研究を紹介し,それらの研究から明らかにされた知見を簡単に整理しておきたい(表4)。
表4 「コーポラティズムと経済パフォーマンス」をめぐるさまざまな実証研究
 年代順に見ると,このテーマのもとに行われた最初の実証研究は,Schmidt(1982)によるものである。上述のように,彼は「政策形成の協調度」を基準にしたコーポラティズム指標を開発し,それと失業率との関係を調べている。それによれば,1974年から78年にかけての平均失業率とコーポラティズム指標との間には-0.67の強い相関関係がみとめられ,<1>経済仮説,<2>労働供給仮説,<3>世界市場統合仮説,<4>政党仮説をそれぞれ上回る説明力を発揮する,としている(注11)。
 また,Cameron(1984)は,先に定義した「労働運動の組織力」が,各国の失業率(1965-82)やストライキ活動(1965-81),また実質賃金の上昇率(1980-82/1965-67)を抑えることに有効なことを実証した(注12)。
 他方,Bruno and Sachs(1985)は,Crouch(1985)が開発したコーポラティズム指標を使って,オーカン指標の伸び率([1973~80]-[1965~73])とコーポラティズム指標との関係を調べている。それによると,両者の間には-0.67という統計的に有意な負の相関関係があり,第1次オイル・ショック以降,コーポラティズムが強力な国ほど,良好な経済パフォーマンスが達成されてきたことが明らかにされている。
 同じく,経済パフォーマンスを測る指標としてオーカン指標を使ったものには,Tarantelli(1986)の研究がある。彼は,<1>1968年から1973年,<2>1974年から1979年,<3>1980年から1983年の3時点について,彼が開発したコーポラティズム指標がオーカン指標と統計的に有意な負の相関関係を示し,その効果は最近になればなるほど強力に働いていることを実証した。
 また,Soskice(1990a)も,「エコノミー・ワイドな労使の協力関係」が強力な国ほど,失業率(1985-89),また失業率と貿易赤字率との和(1985-89)が低くなることを明らかにしている。
 以上の研究は,コーポラティズムが強力な国ほど良好な経済パフォーマンスが達成されることを実証したものであるが,他方で,このような実証結果に異論を唱える研究もある。その代表例は,Lange and Garrett(1985),Calmofors and Driffill(1988),Paloheimo(1990)の研究である。彼らは,Olson(1982)の「集合行為論」に依拠しながら,コーポラティズムが良好な経済パフォーマンスと結びつくには,いくつかの条件がそろわなければならないことを明らかにした(注13)。
 まず,Lange and Garrett(1985)は,強力に組織された労働運動とそれを背後で支える強力な左翼政権が存在する場合にはじめて,コーポラティズム的な合意が成立し,高い経済成長が達成されるという仮説に基づいて,経済成長率(1974-80/1960-73)と,「労組の組織力」(1965-1980)および「労組の政治力」(1960-1980)との関係を調べている(注14)。この仮説を検証するために,彼らは,経済成長率を<1>「労組の組織力」,<2>「労組の政治力」,さらに<3>両変数の交差項に回帰させた誘導関数を推計し,その結果から次のことを明らかにしている。すなわち,<1>,「労組の組織力」が強くかつ「労組の政治力」が強力な国において,高い政治成長が達成される。だが,<2>左翼政党が政権から排除されてきた国では,たとえ「労組の組織力」が高くとも,それは経済成長にマイナスに働く。<3>またこれとは逆に,労働運動が分裂しているような国では,たとえ強力な左翼政権が誕生したとしても,それは経済成長にブレーキをかける,というものであった。
 このLange and Garrett(1985)の研究は,労組がいかなる条件のもとで自己規制的行動をとるのかを明らかにした点に大きな意義があった。ただし,彼らは,労組の集合行為が実際にいかなる政策変数を介して良好な経済パフォーマンスにつながるのかを明らかにしていない。
 そこで,Calmfors and Driffill(1988)は,実質賃金の柔軟性が経済調整を促し,失業率を低く抑えるうえでの前提条件であるとしたうえで,この柔軟な賃金決定がいかなる条件の下で可能となるのかを調べている。それによると,実質賃金は,<1>極端に集権的な賃金交渉制度をもつ国で,また逆に<2>極端に分権的な賃金交渉制度をもつ国で柔軟に決定される。だが,<3>賃金交渉がその中間のレベルで行われるような国ではかえってそれは硬直的になることを実証した(注15)。
 Paloheimo(1990)は,Lange and Garrett(1985)とCalmfors and Driffill(1988)の仮説をさらに精緻なものに発展させている。彼は,<1>労組組織率と<2>左翼政党の政権内での議席占有率という2つの独立変数と,経済パフォーマンスをあらわすいくつかの従属変数(経済成長率,インフレ率,失業率)との関係を,Calmfors and Driffill(1988)指標からみた労使関係の集権度を基準に2つのグループに分けて推計することで,次のことを明らかにした(注16)。まず,<1>労使関係が分権的な国では,上記の独立変数と従属変数との間には負の相関関係がみとめられる。すなわち,労組組織率が低く,左翼政党の政権内での力が弱いほど,市場志向型の経済政策がとられるために,良好な経済パフォーマンスが達成される。またこれとは逆に,<2>労使関係が集権的な国では,労組組織率が高く,左翼政党の政権内での力が強力なほど,労使の合意に基づく成長志向型の経済政策がとられるために良好な経済パフォーマンスが達成される。
 だが,<3>分権的な労使関係の下で,強力な労働運動が存在し,あるいは強力な左翼政権が登場すると,分配志向型の経済政策がしばしばとられやすいために,経済パフォーマンスは悪化し,また<4>集権的な労使関係の下でも,中道右派政権が誕生すると,政府と労組との信頼関係が崩れるためにやはり経済パフォーマンスは悪化するとしている。
 このほかに興味深い研究としては,輸出部門の労組の組織力が経済パフォーマンスを占う重要な要因であることを明らかにしたCrouch(1990a)の研究と,経済パフォーマンスと労働市場パフォーマンスとを区別したうえで,労働市場パフォーマンスと労使関係の集権度との関係を明らかにしたRowthorn(1992)の研究がある。
 Crouch(1990a)は,輸出産業の労組と国内産業の労組との間に賃上げをめぐって行動様式に大きな違いがあることに注目し,全組織労働力に占める輸出部門労働力の割合が高い国ほど,国際競争力の維持を念頭に置いた賃上げ要求が行われるために,良好な経済パフォーマンスが達成されることを明らかにした。また彼は,ヨーロッパの先進資本主義国経済が80年代に入って悪化した原因を,この輸出産業労組のシェアの低下に求めている。すなわち,金属労組が労働運動の主導権をホワイトカラー労組や公務員労組に譲り渡したことが,ヨーロッパ経済が悪化した最大の原因であるとしている。
 他方,Rowthorn(1992)は,各国の就業率から業種間賃金格差の変動係数を差し引いた値を労働市場パフォーマンスを測るひとつの指標とすることで,労使関係の集権度と労働市場パフォーマンスとの関係を調べている。そのなかで彼は,労使関係の集権度が高く,それゆえにこれまで「コーポラティズム」が強力とされてきた国同士においても,この労働市場パフォーマンスに大きな格差があることを突き止めている。すなわち,高い就業率を達成しかつ業種間賃金格差が小さい「北欧型のコーポラティズム」と,就業率が低くかつ業種間賃金格差が大きい「大陸型のコーポラティズム」とでは,たとえ同水準の経済パフォーマンスが達成されていようとも,その労働市場パフォーマンスには大きな差があるというのである(注17)。
 以上の研究は,大別すれば,<1>コーポラティズムと経済パフォーマンスとの間に線形的な因果関係があることを実証しているものと,<2>両者の間に非線形的な因果関係があることを実証しているものとの2つにわけることができる。そして,このような相異なる結論が引き出された要因を探ってみると,それぞれで使われている「コーポラティズム」指標に大きな違いがあることに気づく。すなわち,前者のグループに属する研究(Schmidt 1982;Bruno and Sachs 1985;Tarantelli 1986;Soskice 1990a)は,「政策形成の協調度」から定義したコーポラティズム指標を使っているものが多く,この場合,コーポラティズムが強力な国ほど良好な経済パフォーマンスが達成されるとする結論が引き出されている。他方,後者のグループに属する研究(Lange and Garrett 1985,Calmfors and Driffill 1988,Paloheimo 1990)はいずれも,「労使関係の集権度」から定義したコーポラティズム指標を使っているが,その場合,コーポラティズムと経済パフォーマンスとの間にはU字形の関係があることが実証されている。この意味からも,「コーポラティズム」をどう定義するかは実証結果そのものを左右する重要な争点といえよう。

(注11) ここでいう「経済仮説」とは,「失業率が経済発展水準や賃金上昇と正の相関を示し,またそれが総需要水準の低下,利潤率の低下,インフレ率と負の相関を示す」というものである。また「労働供給仮説」とは,「労働力人口の伸びが大きな国で失業率が高い」とする仮説であり,「世界市場統合仮説」とは,「貿易依存率の高い国で失業率が高い」とする仮説である。そしてさらに,「政党仮説」とは,「失業率が左翼政権の下で低くなる一方,逆に中道右派政権の国で高くなる」とする説である。

(注12) また,Cameron(1984)はそこで,「労働運動の組織力」が強固な場合に安定した社会民主主義政権が登場し,その場合に労働運動は穏健的なものとなり,政労使の緊密な協力関係が築かれるために,良好な経済パフォーマンスが達成されることを明らかにしている。

(注13) Olson(1982)の「集合行為論」とは,集団の合理的選択行動がしばしば,自己集団の相対的な取り分を増やす戦略(Strategy of Redistribution)に走りやすく,集団組織が包括的な(Encompassing)場合に限って,長期的に社会的なパイを増やす戦略(Strategy of Collective Gain)をとるというものである。
(注14) ここでいう「労組の組織力」とは,労組組織率のZスコアと労組ナショナルセンターへの統合度のZスコアとの和であり,それらのデータを彼らはCameron(1984)からとっている。また,Lange and Garrett(1985)は,「労組の政治力」を測る指標として,<1>左翼政党の政権議席占有率(1974-80)と<2>左翼政党の総選挙での得票率(1960-80)との2つを使っている。
(注15) OECD(1989)でも,Calmfors and Driffill(1988)のこのコーポラティズム指標と,短期の実質賃金硬直性との間には逆にU字形の非線形関係があり,実質賃金硬直性の低い国ほど失業率が低いことが実証されている。

(注16) ここでいう労使関係が分権的な国とは,カナダ,アメリカ,スイス,日本,フランス,イタリア,イギリス,アイルランドを,また労使関係が集権的な国とは,オーストリア,ノルウェー,スウェーデン,フィンランド,デンマーク,ドイツ,オランダ,ベルギー,ニュージーランド,オーストラリアをそれぞれ意味する。ただし,サンプルをこのように2つに分割すると,多変量解析を行ううえでサンプル数が不足するため,Paloheimo(1990)は,1974-79年データと1980-85年データをプールして使っている。

(注17) また,Rowthorn(1992)は,第1次オイル・ショック以降,各国の就業率と労使関係の集権度との間にU字形の非線形関係があることを突き止めている。つまり,労使関係が極端に集権的な国(北欧諸国)とのそれが極端に分権的な国(北米諸国)でそれぞれ高い就業率が達成されているというのである。だが,労使関係が分権的な国(北米諸国)では同時に賃金格差も大きく,その結果,その労働市場パフォーマンス(=就業率-業種間賃金格差の変動係数)は,就業率が低くかつ賃金格差が相対的に小さいヨーロッパの大陸諸国のそれと接近している。が,同水準の労働市場パフォーマンスを達成しているにしても,職業をもつ者ともたない者との間で大きな不平等が存在する大陸諸国と,職業をもつ者同士の間での不平等が大きい北米諸国とでは,不平等の構造に大きな差があることに彼は注目している。

3 コーポラティズムの類型化

 ところで,コーポラティズムをどう定義するかという問題は,コーポラティズムをどう理論化するかという問題とも密接につながっている。
 コーポラティズムをめぐる2つのモデル
 いま,コーポラティズムを労使間での産業平和が確立されたひとつのシステムとみるならば,この産業平和を実現する方法には次の2つがある(Therborn 1992)。
 ひとつの方法は,北欧諸国に典型的にみとめられるように,紛争を制度化することで,産業平和を確立する方法である。これらの国では,強力に組織された労働運動が存在し,また労組が労働者政党を政権に送り出すことで,資本側と対抗できるだけの権力資源を手に入れ,その結果,労使の権力資源が均衡することで産業平和が維持されてきたとみることができる。注目すべきことは,これらの国では争議権が決して否定されていないことである。北欧諸国では,公共部門を含めて労組のストライキ権と使用者のロックアウト権が保障されており,労使間での権力バランスがもし崩れるような事態になれば,それは直ちに労使紛争に発展する危険性をはらんでいる。
 これに対し,ドイツ,オランダ,オーストリア,スイスといった大陸諸国では,労使の合意を制度化することで産業平和が確立されてきた。すなわち,「ソーシャルパートナーシップ」の考えに基づいた労使の協議制度が,職場はもとより団体交渉や政府の審議会に至るまで広く普及し,労働争議という最終手段に訴えることが極力回避されてきたことである。また,政治ストライキや協約期間中にストライキ権を行使することが法律によって禁じられており,そのためストライキ活動は戦後一貫して低水準に抑えられてきたという伝統がある(注18)。

(注18) ヨーロッパの大陸諸国(オランダ,オーストリア,スイス)にみられるこの「合意の制度化」を,「多極共存型デモクラシー」(Consocietional Democracy)の特徴のひとつとして捉えることができるかもしれない。Lijphart(1977)は,「多極共存型デモクラシー」の最も重要な要素をあらゆる重大な区画の政治指導者たちの大連合による統治とみる。そして,これを<1>「全会一致の多数」決,<2>比例制原理,<3>各区画の自律的な管理能力によって補完するのが,「多極共存型デモクラシー」であるとしている。だが,Lehner(1984,1988)は,「多極共存型デモクラシー」は,<1>政労使3者の政治的交渉に基づくものではなく,あらゆる主要な利害集団を取り込んだ政治的交渉であること,<2>またその狙いは,「合意」を得ることではなく,「妥協」を成立させることにあり,<3>そこでの議題は,所得政策に限らず広範な政策分野にわたっている点で,「コーポラティズム」とは異なっているとする。


 コーポラティズムの類型化

 したがって,以上のような違いを考慮すれば,これまで「コーポラティズム」と呼ばれてきたものは決してひとつではないとみることもできよう。「コーポラティズム」を「政策形成の協調度」から定義しようとする人々は,ヨーロッパの大陸諸国における「合意の制度化」という事実に注目し,社会経済政策をめぐる労使の協議制度に焦点を当ててコーポラティズムを理論化してきたのであり,また「コーポラティズム」を「労使関係の集権度」から定義しようとする人々は,北欧諸国における「紛争の制度化」という事実に着目し,労使間の権力関係が均衡する条件を明らかにしようとしてきたのである。
 そこで,この2つの点をそれぞれ考慮に入れたモデルを開発するために,<1>「労使関係の集権度」と<2>「労使間のソーシャルパートナーシップ」という2つの軸から,以下で分析対象とする先進17カ国をまず類型化してみた。
 上述したように,「労使関係の集権度」を客観的に測る指標は容易に手に入れることができるが,「労使間のソーシャルパートナーシップの強さ」を測る客観的な指標を入手することは難しい。そこで,ここではそれに代えて,以下のように定義されるストライキ活動の大きさ(strike volume)(1976-90)を基準に,「労使間のソーシャルパートナーシップの強さ」を測ることにする。すなわち,
 ストライキ活動の大きさ(strike volume)(1976-90)
 =頻度(frequency)×長さ(duration)×規模(size)
 =被用者1000人当たりのストライキ件数×ストライキ参加者1人当たりの労働損失日数×ストライキ1件当たりのストライキ参加者数
 =被用者1000人当たりの労働損失日数
である。また,「労使関係の集権度」を測る指標としては,先行研究でしばしば使われてきたCalmfors and Diffill(1988)指標を用いることにする。
 図1は,この2つの軸から各国を4タイプに類型化したものである(注19)。<1>いま,労使関係の集権度が高くかつストライキ活動の大きさが小さい国々を「社会的コンセンサスの高いコーポラティズム」(Corporatism with Social Consensus)と呼ぶと,このグループにはオーストリア,オランダ,ドイツ,ベルギー,ノルウェー,スウェーデンが含まれる。<2>また,労使関係の集権度が高くかつストライキ活動が頻繁な国々を「階級闘争をはらんだコーポラティズム」(Corporatism with Class Conflict)と呼べば,このグループにはデンマーク,フィンランドが含まれる。
図1 コーポラティズムの諸類型
 他方,<3>労使関係の集権度が低い国々を「プルーラリズム」と名づけ,かつストライキ活動が低調な国を「社会的コンセンサスの高いプルーラリズム」(Pluralism with Social Consensus)とすれば,スイス,日本,フランスの3国がここに分類され,<4>また,同じように労使関係の集権度が低くかつストライキ活動が頻繁な国を「階級闘争をはらんだプルーラリズム」(Pluralism with Class Conflict)と呼べば,ここにはアメリカ,イギリス,ニュージーランド,オーストラリア,イタリア,カナダが含まれることになる。

(注19) ここでは,「労使関係の集権度」と「ストライキ活動の大きさ」の2つの指標についてそれぞれ順位スコアをとり,各国の位置を図示している。

4 コーポラティズムの諸類型と経済パフォーマンス

 では,これらの類型ごとにみた経済パフォーマンスにはどのような違いがあるのだろうか。

 分散分析の結果

 その点を調べるためにここでは,経済パフォーマンスを測る指標として失業率とインフレ率との総和であるオーカン指標を用い,<1>1968-73年,<2>1974-79年,<3>1980-85年,<4>1986-90年の4時点について類型ごとにその平均値にどのような差があるのかを比較してみた。表5がその結果である。
表5 コーポラティズムの諸類型と経済パフォーマンス-分散分析(オーカン指標)
 第1次オイル・ショック以前の1968年から73年の時期についてみると,オーカン指標の平均値には各類型ごとに10%未満の水準で統計的に有意な差がある。また,第1次オイル・ショック直後の1974年から79年をみると,オーカン指標の平均値には1%未満の水準で統計的に有意な差がみとめられる。
 だが,第1次オイル・ショックを境に,良好な経済パフォーマンスを達成している国に次のような変化が起きていることも見逃せない。すなわち,オイル・ショック以前においては,労使関係の集権度が高い国ほど良好な経済パフォーマンスが達成されているのに対し,オイル・ショック以後はストライキ活動の低調な国ほど良好な経済パフォーマンスが達成されていることである。
 70年代の後半に現れたこの関係は,80年代に入っても続いている。オーカン指標の平均値は,80年代前半に10%未満,また80年代後半に1%未満とそれぞれ統計的に有意な差がみとめられるが,いずれについても,良好な経済パフォーマンスを達成できるかどうかは,労使関係の集権度が高いかどうかではなく,ストライキ活動が低調であるかどうかにかかっていることがわかる。したがって,第1次オイル・ショック以降,先進資本主義経済の成否を決めることになった直接の原因は,労使間の協調関係を維持し,ストライキ活動を低く抑えることができたかどうかにあったといえよう。
 表6と表7は,インフレ率と失業率についても同じ作業をそれぞれ繰り返したものである。
表6 コーポラティズムの諸類型と経済パフォーマンス-分散分析(インフレ率)
表7 コーポラティズムの諸類型と経済パフォーマンス-分散分析(失業率)
 まず,表6から,インフレ率の群別平均値は,<1>1974-79年と<2>1986-90年の2つの時期について統計的に有意な差があることがわかる(それぞれ有意水準5%未満)。だが,80年代の前半についてはそのような有意な差はみとめられない。また本表から,インフレ率は労使関係の集権度にかかわりなくストライキ活動が低調であった国で低くなることもわかる。
 一方,失業率の平均値には,<1>1974-79年,<2>1980-85年,<3>1986-90年のいずれの時期をとっても統計的に有意な差はない。したがって,失業率に格差が生じた原因をこの類型から説明することは難しいといわざるをえない。

 パス・モデル

 そこで,この点をさらに掘り下げて調べるために,労使関係の集権度,ストライキ活動,経済パフォーマンス(オーカン指標,インフレ率,失業率)の3者の関係を,<1>1974-79年,<2>1980-85年,<3>1986-90年の3時点に分けてそれぞれパス・モデルにまとめてみた。図2から図4がその結果である。なお,ここでは,強力な労働運動が存在し,かつ左翼政党の力が強力なほど,政労使の3者間での話し合いが行われるチャンスが増大するという仮定に立って,<1>労組組織率と<2>左翼政党の平均得票率の2変数をこれらのモデルに加えている。
図2 労使関係の集権度・ストライキ活動・経済パフォーマンス-パス・モデル(1970年代後半)
図3 労使関係の集権度・ストライキ活動・経済パフォーマンス-パス・モデル(1980年代前半)
図4 労使関係の集権度・ストライキ活動・経済パフォーマンス-パス・モデル(1980年代後半)
 まず,1970年代後半の関係を示した図2のパス・モデルから,次のことが明らかとなる。すなわち,強力に組織された労働運動が存在し,またそれによって左翼政党の平均得票率が高まると,集権的な労使関係が登場する。そして,そのような条件がそろった国ではストライキ活動が静まり,その結果良好な経済パフォーマンスが達成される。この関係は,経済パフォーマンスをオーカン指標によって測っても,またインフレ率と失業率からそれぞれ測ってもはっきりとしている。したがって,70年代後半については,コーポラティズム仮説が各国の経済パフォーマンスを説明するうえでかなりの説得力をもっていたとみることができよう。
 この関係は1980年代の前半と後半をみてもほぼ同じように確認できる(図3,図4)。だが,70年代後半と大きく異なる点は,ストライキ活動によって失業率を説明することが次第に難しくなっていることである。特に,80年代後半をみると,ストライキ活動が失業率に与える影響力は統計的に有意でなくなり,ストライキ活動に代わって,労使関係が集権的であるかどうかが失業率を直接に決定づける要因となっている。

5 失業率とインフレ率との関係-フィリップス曲線からの乖離現象

 経済パフォーマンスに関する類型化

 新古典派経済理論は,第2次世界大戦以降,先進資本主義諸国の失業率とインフレ率との間にひとつのトレード・オフの関係があることを明らかにしてきた。この関係は第1次オイル・ショック以降も引き続き維持されているのだろうか。
 図5は,<1>1960-67年,<2>1968-73年,<3>1974-79年,<4>1980-85年,<5>1986-90年の各時点について,失業率とインフレ率との関係を示した相関散布図である。これらをみると,そのようなトレード・オフの関係が時間を追うに従って崩れていることがわかる。
図5 失業率とインフレ率との関係-相関散布図
図5 失業率とインフレ率との関係-相関散布図(つづき)
 また,各時点での平均失業率と平均インフレ率との相関係数をとると,その値は1960-67年で-0.321,1986-73年で-0.445,1974-79年で+0.291,1980-85年で+0.192,1986-90年で-0.024となっており,少なくとも第1次オイル・ショック以降に限っていえば,失業率とインフレ率との間にあったトレード・オフの関係は消滅したとみることができる。そして,この第1次オイル・ショックを境に,各国は次の4タイプにわかれるようになった。すなわち,<1>「スタグフレーション」に陥った国,<2>「物価優先・雇用犠牲」の国,<3>「良好な経済パフォーマンス」を達成している国,<4>「雇用優先・物価犠牲」の国である(図6)。
図6 経済パフォーマンスの諸類型

 経済パフォーマンスの類型に関する時系列比較-クロス表分析

 これらのタイプのいずれに各国は分類されるのだろうか。ここではクロス表を使ってそのパターンを調べてみた。
 まず,表8は1974-79年の類型を1980-85年の類型とクロスさせたものである。この2時点において類型間を移動した国もあるが,X二乗値をみる限り,このクロス表は1%未満の水準で有意な結果を示している。すなわち,このことは,1980-85年のパターンが1974-79年のパターンによってほぼ決定されることを意味している。
表8 経済パフォーマンスの諸類型-クロス表(1)(1970年代後半×1980年代前半)
 また,表9は1980-85年の類型を1986-90年の類型にクロスさせたものであるが,ここでもクロス表分析の結果は非常に高い有意水準を示し(有意水準1%未満),1986-90年のパターンも1980-85年のパターンによってほぼ決まることがわかる。
表9 経済パフォーマンスの諸類型-クロス表(2)(1980年代前半×1980年代後半)

 経済パフォーマンスの類型とコーポラティズムの類型との比較

 では,経済パフォーマンスをめぐるこの類型は,上述のコーポラティズムの類型とどのように重なるのであろうか。同じく,クロス表を作成してその点を調べてみた。
 表10は,1974-79年の経済パフォーマンスの4類型に,コーポラティズムの類型をクロスさせたものである。これをみると,次のことが明らかとなる。すなわち,「社会的コンセンサスの高いコーポラティズム」と「社会的コンセンサスの高いプルーラリズム」の国において「良好な経済パフォーマンス」が達成される率が高いのに対し,「階級闘争をはらんだコーポラティズム」と「階級闘争をはらんだプルーラリズム」の国では,「タスグフレーション」に陥る可能性が非常に高いことである。
表10 経済パフォーマンスの諸類型とコーポラティズムの諸類型-クロス表(1970年代後半)
 だが,1980年代の前半になると(表11),このパターンは消滅する。「階級闘争をはらんだプルーラリズム」の国で「スタグフレーション」が発生しやすく,「社会的コンセンサスの高いプルーラリズム」の国で「良好な経済パフォーマンス」が達成されやすいという事実は変わりないが,「コーポラティズム」の国についてはそのようなはっきりとしたパターンをみとめることはできない。「社会的コンセンサスの高いコーポラティズム」の国が「スタグフレーション」に陥ることはまったくないが,それらの国々は「物価重視」「雇用重視」「良好な経済パフォーマンス」の3つに分散する傾向をみせている。また,「階級闘争をはらんだコーポラティズム」の国においても,「スタグフレーション」から脱し,「雇用重視」に政策を変更する国が現れている。
表11 経済パフォーマンスの諸類型とコーポラティズムの諸類型-クロス表(1980年代前半)
 そして,1980年代の後半になると(表12),次のようなパターンが明確となる。すなわち,「社会的コンセンサスの高いコーポラティズム」の国々において「物価重視」の国が目立つようになり,また「階級闘争をはらんだコーポラティズム」の国が「物価重視」と「雇用重視」の2つに分極化する。これに対し,「プルーラリズム」の国では,社会的コンセンサスが高い場合に「良好な経済パフォーマンス」が達成され,逆に内部に深刻な階級対立を抱えていると「スタグフレーション」に陥る,というこれまでのパターンが1980年代の後半に至っても維持されている。
表12 経済パフォーマンスの諸類型とコーポラティズムの諸類型-クロス表(1980年代後半)
 これらの一連の変化のなかで特に注目すべきことは,「コーポラティズム」が強力と考えてきた国においても,雇用を犠牲にし物価を優先する国が増えていることである。そこで節を改め,この原因を探ってみたい。

6 なぜ完全雇用政策は放棄されるようになったのか

 強力に組織された労働運動が存在し,それを背後で社会民主主義政権が支えている国で,これまで完全雇用が維持されると考えられてきた。というのも,もしそのような条件がそろえば,政労使の話し合いのなかで,労働側は優位を保つことができ,その結果雇用を優先した社会経済政策を勝ち取ることができると考えられてきたからである。
 だが,この前提は1980年代に起きた次のような社会経済変化のなかで崩れたとみることができよう。
 ひとつの変化とは,1980年代に入って「金融の国際化」が急速に進んだことである。ことに,双子の赤字を抱えてアメリカが1980年代初頭に高金利政策を採用し,そのことに端を発して,国境を越えた「カネ」の移動が激化したことである。これによって各国は自由に金融政策を操作することが難しくなり,そのことはひいては,雇用を犠牲にし物価を優先する政策への転換を促した(Scharpf 1987,Kurzer 1988)。
 また,「カネ」の国際化に加えてこの時期,「モノ」「サービス」をめぐる国際間での競争も,途上国からの激しい追い上げもあって,熾烈なものとなっている。その結果,先進資本主義経済はリストラに直面し,新技術を積極的に導入する必要に迫られた。この変化は,コーポラティズムの強力な国においてさえ,政策協議の主題を「所得政策」から,産業間での利害が衝突しやすい「産業政策」に切り替えざるをえなかったため,政労使の話し合いはこれまで以上に難航することになった(Kenworthy 1990,Landesmann 1992)。
 さらに,このリストラの過程で,先進国の労使関係が急速に分権化するとともに,組織率の低下に拍車がかかったため,労働運動は弱体化し,その影響を受けて雇用よりも物価を重視する政策への転換が始まったと考えることもできる。
 以下では,これらの変化がコーポラティズム的な政策協議に与えた影響をひとつひとつ検証しておきたい。

 金融の国際化が与えた影響

 まず,「金融の国際化」がコーポラティズム的な政策協議に与えた影響を調べるために,先に示したパス・モデルに長期実質金利を加えたモデルを作ってみた。図7と図8がその結果である。
図7 コーポラティズムと金融の国際化-パス・モデル(1980年代前半)
図8 コーポラティズムと金融の国際化-パス・モデル(1980年代後半)
 1980年代前半の失業率を被説明変数とした図7のパス・モデルから,次のことが明らかである。すなわち,強力に組織された労働運動が存在し,またその支持を受けて左翼政党の得票率が高まると,集権的な労使関係が登場する。そして,そのもとでストライキ活動が抑制されると,失業率は低くなる傾向がある。が,失業率はこの時期,それ以上に長期実質金利という外生的な要因によって強く規定されていたことがわかる。このことは,アメリカが金利政策をとり,その結果,資本の海外流出を恐れる各国政府が緊縮的な金融政策をとらざるをえなかったことを如実に物語っていよう。
 また,図8は1980年代後半における失業率の決定メカニズムを示したものであるが,この時期になると,ストライキ活動が失業率に及ぼす直接の影響は消えている。むしろ,失業率は労使関係の集権度と長期実質金利という2つの要因によって決まり,ストライキ活動が失業率に与える影響は長期実質金利を介した間接的な影響にとどまっている。この間接的な影響とはおそらく,ストライキ活動が低調になることでインフレが抑制され,その結果,拡張的な金融政策をとる余裕ができることを意味していよう。
 この2つのパス・モデルはいずれも,「金融の国際化」という外生的要因によってコーポラティズム的な政策協議が複雑化したことを示唆している。「コーポラティズム」を政労使の3者による頂上レベルでの政策協議と理解するならば,「金融の国際化」はこの政策協議の場にもうひとつのポリティカル・アクターを付け加えたとみることができる。それは言うまでもなく,政府とは独立に金融政策に大きな影響力を行使できる中央銀行である。中央銀行が政策決定過程に新たに加わったことで,コーポラティズム的な政策協議から